序章

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序章

 試験開始前の教室内にはピリピリした空気が漂っていた。時計の秒針が進む音だけが妙にうるさく聞こえる。決して寒くはないはずなのに、なぜだか身体が小刻みに震え出し、奥歯がかちかちと鳴った。大丈夫。大丈夫。いつも通りやれば、大丈夫。  始めてください、という教師の合図で裏側にしていた問題用紙をぱらりと表に返し、シャープペンシルを握った。  去年の誕生日に一華(いちか)からもらったシャープペンシル。色はモスグリーン。シンプルなデザインがとても気に入っている。孤独な試験時の心強い味方だった。だが震えは止まらなかった。いつもだったらこれを握れば自然と心が落ち着くはずなのに。震えのせいで、生まれてから今までに何万と書いてきた自分の名前すらうまく書き出すことができない。  問題文に目を落とすと、さらにその絶望は加速した。あれだけ周到に用意したはずなのに。あれだけ勉強したのに。幾度となく似たような設問を目にしてきたはずなのに、今、目の前に立ちはだかる文章はどういうわけか異国の言語で書かれた呪文のようで、まったく理解が及ばないのだ。  どうにもならない現状に頭を抱えていたそのとき、真後ろの席でスマホの着信音がけたたましく鳴り響いた。はやりのアニメ映画の主題歌が厳かな雰囲気をぶち壊す。教卓の前で仁王立ちしていた教師がすっとんできて、ぎろりとにらみつけてくる。違う、誤解だ。後ろの席だ。  ぶんぶんと首を横に振って全力で無罪をアピールしていると、音源の主が対処したのかメロディが止んだ。教師はその動きで真犯人に気付いたようで、背後の生徒に向かって「テスト中は電源切っとけ!」と怒鳴った。冤罪もいいところだがなぜか自分が怒られている気になり、全身が委縮する。  五分が経ち、十分が経った。周りのクラスメートがかりかりとシャープペンシルを走らせる音だけがやたらと焦燥感をあおってくる。相変わらず手の震えはかたかたと止まらない。なすすべもなく時間だけが過ぎていく。次第に目から涙があふれてきて、そのしずくが白紙の解答用紙に一滴二滴と滴った。  さすがにこらえきれなくなって手を挙げると、教師が傍らに寄ってきて様子を聞いてきたが、何か言葉を発しようとしても口から音が出てこない。次第に呼吸は荒くなり、口元と両手がぴりぴりとしびれてくる。  目の前が、真っ暗になる。
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