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「家に、家に帰してください……」
セーラー服を着た高校生ほどの年頃の娘が、床に座り込んで泣いている。
玉座に腰掛けている、青いグラデーションの入った鱗模様の着物を着た美青年が、片肘で頬を支え、そんな娘を見下ろしていた。男の頭には珊瑚のように枝分かれした赤い角が生えており、人間ではないことを示している。その傍らには、宮仕えのように魚たちが静かに控えていた。
その男の金色の目は人間への憎悪と恨みにまみれていた。
「家に帰りたいなら自分で泳いで帰ったらどうだ。まあ、お前が泳げないことも、こちらは調査済みだがな」
そもそも、ここは海の底にあると言われている伝説の城――竜宮城である。
深海何メートルにあるのかも定かではないが、潜水具も持っていないただの人間の娘が城の結界を出た途端、水圧に耐えられるわけがないのは明白であった。
この美青年の名は海竜王という。
竜宮城の主にして、かの『浦島太郎伝説』に名高い乙姫という女の兄である。
乙姫は浦島太郎を陸に帰した後、寂しさから心を病んで、そのまま衰弱して亡くなってしまった。
竜宮城と地上では時間の流れが違う。浦島太郎が竜宮城から陸に戻ったということは、陸では千年は経っているだろう。そして、乙姫が彼に渡した玉手箱も、きっと開けられたことだろう。もう浦島太郎には二度と会えないと分かっていて、陸に帰してしまったのだ。それを悔いたまま、乙姫は死んでいった。
兄である海竜王は、そんな浦島太郎が許せなかった。
彼の家系を調べ上げて、目の前で泣きじゃくっているこの小娘が奴の子孫であることを突き止めたのである。
そうして海竜王は、娘を竜宮城に攫ってきたのであった。
さて。
海竜王は乙姫の恨みを晴らすため、浦島太郎の子孫である娘を拉致してきたのはいいものの、具体的にどう復讐したらいいものか悩んでいた。
このままこの小娘を八つ裂きにするだけでは自らの怒りは収まらないだろう。
なるべく苦しませて苛んで、自分が浦島太郎の子孫に生まれてきてしまったことを後悔させてやりたい。
「娘、お前の名を聞かせてもらおうか」
「はえっ……あ、あ……」
海竜王が一声かけただけで、娘はオドオドとせわしなく視線を泳がせる。
その様子がなんとも――苛立たしい。
「名前を、言え」
つい強い口調になり、娘はビクッと体を震わせて悲鳴のように自らの名を叫ぶ。
「お、乙女……っ、浦島乙女です……っ!」
「――」
おとめ、だと?
海龍王は耳を疑った。
その名前は、乙姫から「ひ」の字を抜いただけの……乙姫の面影が残った名前だった。
よく見てみればその女の顔もどこか亡き妹に似ている気がする。
「……そうか」
浦島太郎は、乙姫を置き去りにしたあと、すっかり彼女のことを忘れたわけでもないらしい。
ひとりで納得する海竜王に、乙女は怯えながらも怪訝な目を向けていた。
しかしそうなると、海竜王はこの乙女という娘にどういう扱いをしたものか、更に悩んでしまう結果となったのである。
乙姫と似た名前を持つ娘に、乱暴を働く気持ちがすっかり削がれてしまったのだ。
しばらく長考したが、ひとまず、海の底にある竜宮城から人間が単独で脱出することは不可能だろう。
このままこの娘を城に閉じ込めて、のちのち処遇を決めれば良い。この竜宮城では悠久の時が流れているのだから、時間はいくらでもあるのだ。
「家に帰りたい、家に帰りたい」とメソメソ泣いてうるさい乙女を、海竜王はうんざりしながら自らの眷属である臣下の魚たちに任せた、というか押し付けた。
「乙女様、お部屋にご案内いたしますね」
「おうちに帰してくださいぃぃ……」
魚たちがべしょべしょと泣く乙女を無理やり引きずって連れて行った後、海竜王は再び玉座で肘をついて「うーむ……」と悩む羽目になったのである。
その後、数日間、海竜王は乙女の様子を遠目に観察していた。
彼女は最初のうちは部屋から出たがらなかったし、海竜王も無理に引きずり出すことはしない。
しかしやがて、彼女は竜宮城での生活に慣れてくると、徐々に部屋から出て城の中を歩き回り、探検するようになった。
それでも海竜王は乙女に不用意に近づかないように慎重に様子を見ていたのである。
その理由は、彼女が自分に怯えているのを自覚していたからでもあったし、未だ人間に対する憎悪や不信感が消えたわけでもないからだ。
乙女の傍に侍らせている臣下の魚たちの報告では、彼女には妙なことをする仕草は一切なかった。竜宮城になにか細工をしようものなら即座に八つ裂きにしてやろうと思っていたが、その心配はないらしい。
引き続き魚たちに乙女の世話と監視をさせながら、海竜王は独自に乙女に関して調査を始めた。
その結果、わかったことがある。
(――なるほど、これが乙姫の面影を感じる正体か)
調べてみると、乙姫は浦島太郎を竜宮城に招待した際、二人が子供を作っていたことが明らかになったのだ。
乙姫は玉手箱の中にその子供を入れ、浦島太郎に託したらしい。
浦島太郎伝説ではその後、彼は玉手箱を開けて老人になり、その後は鶴になって飛んでいったという結末であったが、二人の間に生まれた子供はその後、浦島太郎の姉の子孫に預けられて育ったという。
そういった経緯で、乙姫の血を継いだ子孫がこの時代でも生きていたようだ。
妹の血はまだあの娘の中で脈々と流れ生きているのだ。そう思うと、途端に乙女に憐憫の情と愛しさを感じた。
その日から、海竜王は少しだけ、乙女に優しく接するようになったのである。
「乙女、不足していることはないか。欲しいものはあるか?」
「えっ……い、いや、大丈夫、ですけど……」
「何かあったら遠慮なく僕に言うといい。必要なものはすぐに用意させる」
「あ、ありがとうございます……?」
乙女の態度には動揺、困惑、それから少し怯えが混ざっていた。
当然の反応であろう。今まで敵意を剥き出しにしていた恐ろしい海竜王が突然態度を軟化させたのだから。
しかし、海竜王が繰り返し親切な対応をしているうちに、乙女も徐々に彼に心を開くようになった。
「海竜王さんと最初出会ったときはびっくりしちゃった。海を眺めていたら、突然着物を着た男の人が海から上がってきたから」
「そのあと、僕に海の中に攫われたときもさぞかし驚いただろうな」
「それはもう! 私、海を眺めたり砂浜を散歩するのは好きだけど、泳げないから……。息ができなくなって溺れると思っていたのに、海竜王さんと一緒にいたら、海の中でも呼吸ができたからそれもびっくり」
「竜宮城の住人には、竜宮城を出入りする時に水中でも呼吸ができる加護がかかっているんだ。浦島太郎の話を知っているだろう? アレも亀がその加護を持っていたから浦島太郎を無事に竜宮城から送り迎えできたんだ」
「そうなんだ? よくわからないけど、すごいんだね」
乙女は、海竜王に慣れてくるとすっかり打ち解けていた。もちろん、竜宮城に仕えている臣下の魚たちも、乙女とは仲良くしていた。海竜王の眷属たちは、乙女に赤いグラデーションの入った美しい鱗模様の着物を着せ、魚のヒレのような形のかんざしを挿した。
乙女は、自分に着物や装飾品を与えられたことを喜びつつ、何故だろうと疑問に思っているようだった。
そんな乙女に、海竜王は一世一代の告白をする。
「乙女、このまま竜宮城に暮らす気はないか」
乙女は「え……」と戸惑いの表情を浮かべた。
それは、海竜王にとっては好ましくない反応だ。
「なにか不満があるなら言ってほしい。僕ができる限り障害を取り除くと約束しよう」
「え、と……あの……障害っていうか……海竜王さんの気持ちは嬉しいんだけど、私、まずは地上の家族に会いたくて……」
「なぜだ? 竜宮城ではどんな贅沢も許される。お前の心も僕が埋めてみせる。あの浦島太郎のように、たくさんのご馳走や魚たちの舞い踊りを見て、毎日を楽しく暮らせれば、それで良いではないか」
「でも、地上の家族も私のこと、心配してると思うから……」
――ああ、またか。
我が妹は、こうやって愛する者を失ったのか。
海竜王は、臣下の魚から、乙女の家族の話を聞き出させていた。
乙女には両親と弟、そして――婚約者がいるのだ、と彼女が魚に語ったらしい。
突然飛び出してきた婚約者の存在は、海竜王の心を動揺させ、乙女への恋情を自覚させるには充分だった。
手放したくない。
一緒に過ごしていて楽しい相手を、安らぎを得られる存在を、自分に向けられた屈託のない笑顔を。
せっかくここまで乙女を慣れさせて、手懐けてきたのに、それが一瞬にして水の泡と消えてしまうことに、海竜王は我慢がならなかった。
海竜王は人間ではない。それゆえに、乙女という人間の心理を理解することが至難であった。
地上の家族などという泡のようにすぐに弾けて消える定命の者たちのために、永遠に近い時間を生きられる竜宮城を出ていこうとする人間の思考回路が、理解できない。
それこそ、人間の求める酒池肉林、欲望の果てを追求することだって、この竜宮城でなら実現できるのに。
乙姫は、我が妹はどういう気持ちで浦島太郎を見送ったのだろうと、想像することすら困難であった。いや、考えたくもなかった。
どうして。
どうして。
どうして。
それ以降、海竜王は乙女に執着をあらわにするようになる。
乙女を部屋に閉じ込めて、竜宮城の中を徘徊させることすら許さなかった。
突然の海竜王の豹変に、乙女はまた困惑と怯えを隠さなくなった。
乙女が側仕えの魚に尋ねるが、魚は「海竜王様がサプライズを練ってくださっているのです。準備が整うまでしばしお待ちを」とニコニコと微笑むばかりであった。
乙女は、もしかしたらサプライズというのはお別れ会で、海竜王は盛大にお祝いや宴会を開いて自分を送り出してくれるのかもしれない、と考えていた。
彼女は一度地上に帰って、家族に事情を説明して、もう一度竜宮城に戻るつもりだった。
家族には竜宮城や海竜王のことを言っても信じてもらえないかもしれないが、とにかく遠くへ行くので、もう会うこともないと説明するつもりだ。
婚約者との縁談も断って、話がまとまったらすぐに竜宮城に戻って、海竜王と幸せに暮らしたい。
乙女もまた、海竜王の美貌に心を奪われ、一緒にいたいと思うようになっていた。
――しかし、この二人の思考のすれ違いが悲劇を引き起こすことになるなど、このとき誰ひとりとして気付いていなかったのだ。
やがて、海竜王の「サプライズ」の準備が整い、乙女は再び海竜王の前に謁見した。
そこには美味しそうなご馳走が並び、部屋はきらびやかに飾り付けられ、臣下の魚たちが忙しそうに立ち働いている。
まるで何かの祝宴のようだ、と乙女は思った。
乙女を送り出す会にしては、少々豪華すぎる感じがする。
やがて、乙女の前に現れた海竜王は、いつもの鱗模様の着物ではなかった。
そこで乙女は異変に気づくのである。
海竜王の服装は、紋付袴であった。
「乙女、僕と結婚して、悠久を生きてほしい」
「え、……え? 一度断ったよね?」
「僕にここまでさせておいて、また拒絶するつもりか?」
「いや……まずは地上に戻って家族に説明してからっていうか……」
「なんだと……? やはり、お前は地上に戻る気なんだな! そのまま僕から逃げるつもりか!」
「待って! 話を聞いて――」
しかし、海竜王の怒りは彼の変身を解くに充分なものであった。
海竜王の着物から露出している首から顔にかけて青い鱗が体を覆っていき、金色に輝く目は爛々と乙女を映している。
口はグググとサメのように突き出し、ズラリと鋭い牙が並ぶ。
「い、いやっ……! ――化け物!」
血の気が引いた乙女は、祝言の会場から背を向けて逃げ出した。
化け物。
その悲鳴は、海竜王の心に深く突き刺さり、更に怒りを倍増させる。
「待て、乙女ェ!」
海竜王の体はすでに龍となっており、蛇のような長い体は紋付袴から抜け出してしまった。
その姿のまま、愛していた乙女を、宙を蛇行しながら追いかける。
「お願い、助けて!」
乙女は亀の甲羅に飛び乗った。
その亀は乙女が臣下の魚たちと仲良くなった折に特に親交が深く、要するに彼女が竜宮城を脱出するために懐柔したものであった。
亀は尻から水流を勢いよく噴き出し、竜宮城を猛スピードで飛び出した。乙女は振り落とされないように必死に甲羅に指をかけ、掴まっている。
海竜王は自分の臣下であるはずの亀にすら裏切られていたショックと、乙女の心は最初から最後まで地上にしか向いていないことへの絶望で狂わんばかりであった。
「待て……! この僕から逃げられると思うな!」
海竜王は海の中では最強の部類に当たる、まさに王者である。
龍の姿で乙女と亀を追いかけ、すぐに追いついてしまった。
そのまま亀に体当たりを食らわせて、乙女と亀を引き離す。
竜宮城の加護を受けた亀から振り落とされれば、人間は水中で息ができない。
泣き叫び、ゴボゴボと溺れた乙女が気を失う前、最後に見た光景は、海竜王がその鋭い牙と頑丈な顎で亀を甲羅ごと噛み砕く、身の毛もよだつほど恐ろしい姿であった。
そうして、乙女は再び、竜宮城に連れ戻された。
「家に、家に帰してください……」
ぐすっ、ぐすっと泣きじゃくる人間の女がいる。
海竜王はそんな乙女を後ろから抱きしめて、優しく語りかけていた。
「泣くな、乙女。かわいい僕の乙女。ほら、お前のご先祖様も美しいと見惚れた鯛やヒラメの舞い踊りを見るといい」
笛や鼓を鳴らし、軽快な音楽が流れる中で、臣下の魚たちがヒレを動かして舞う姿はまさに天女が踊っているかのような美しさ。
それでも、乙女は泣き止まない。
「家に……帰して……」
乙女の手足は拘束されているわけでもなければ、足の腱を切られているわけでもない。そもそも彼女は海竜王に一切危害を加えられていない。
しかし、体は自由でありながら、彼女は竜宮城という水中の巨大な鳥かごに囚われている。
海竜王の眷属たちは亀が噛み砕かれて殺されたことに恐れをなし、もう乙女の脱走に手を貸すことはないだろう。
水圧に耐えられる体を持たず、また泳ぐことも出来ない乙女には、もはや地上に帰るすべは永久に失われたのだ。
海竜王は乙女を手に入れたことに満足し、この二人は悠久の時を夫婦として過ごすことになるのだろう。地上では何千年が経っても、海竜王の寵愛は永遠である。竜宮城にいる間に、乙女の家族も婚約者もすでに寿命で死に絶えているに違いない。
乙女はある意味では浦島太郎の子孫として生まれてしまった自分の身の上を死ぬほど、いや死ぬことも出来ないことすらも悔やんでいた。
「これで、ずっと一緒だ。僕の乙女……」
海竜王は涙を流しながら震えている人間の娘を、愛おしそうに抱きしめ、慈しむように優しく撫でていた。
彼は自分の行いが、乙女にとって彼女を苦しめ責め苛んでいる一番の罰だとは気付いていなかったのである。
そうして、海の底の竜宮城からはいつまでもいつまでも、楽しそうな歌や踊りの音が響いているそうな。
〈了〉
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