第1章 大将

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第1章 大将

 香川県は日本で最も小さな都道府県だ。古くから四国の玄関口として栄えてきた香川県には、様々な魅力がある。その1つに、讃岐うどんだ。香川県はうどんの消費量が飛びぬけて高く、麺と言えば断然うどん派だ。  ここは讃岐うどん発祥の地、綾川町。香川県の中部に位置する町だ。県庁所在地の高松からは少し離れたのどかな町だ。しかし、県内外から多くの人が讃岐うどんを食べにやってくる。人気店には行列ができ、大型連休ともなれば渋滞が起き、交通整理が来るぐらいだ。  そんな中、1件のうどん屋が営業を始めようとしていた。すでに10人ぐらいの人が開店を待っている。この店、『池辺(いけべ)うどん』は県内でもトップクラスの知名度を誇り、ここの讃岐うどんは県内一だとも言われている。 「さて、今日も始めるか」  そう言って背伸びをしたのは、ここの主人、池辺栄作(いけべえいさく)だ。香川県一のうどん職人だと言われ、従業員からは『大将』と言われている。頑固だけど、昔ながらの味を守り続けるその精神は、多くのうどん職人があこがれているという。  店員の荒谷俊介(あらたにしゅんすけ)が閉店の札を取り、入り口を開けた。すると、待ってましたと言わんばかりに入ってきた。池辺うどんはセルフ式で、先にうどんを注文、その先で天ぷらやごはんなどを自分で取る。その先で会計を済ませ、食べ終わるとトレーや食器などは返却する。県内ではよくあるシステムだ。 「ひやあつのかけの小!」  最初に来た人は近所の主婦で、家事がひと段落したので、ここに来たようだ。 「はーい!」  俊介はすぐにかけうどんを出した。次々とうどんを出していく、このスピードが重要だ。 「どうぞ」  主婦はその先で四角い皿を取り、えび天とちくわ天を取った。 「釜玉の小!」  その後にやって来たのは、観光客のようで、キャリーケースを持っている。1988年に瀬戸大橋ができて以降、観光目的で来る人がより多くなった。四国がより身近になった証拠だ。  俊介は釜揚げうどんと生卵を出した。 「どうぞ。生卵は自分で割って、しょうゆをかけて食べてくださいね」  釜玉うどんは釜揚げうどんに生卵を入れ、しょうゆを垂らしてかき混ぜて食べる。この町にある山越(やまごえ)うどんが発祥だと言われている。 「ひやひやのぶっかけ小!」  その後に来たのはこの近くに住む老人だ。この店の常連で、栄作もこの老人の事を知っている。 「どうぞ」  俊介はすぐにぶっかけうどんを出した。老人は何も取らずに会計に向かった。 「ざるの小!」  その次に来たのは、老婆だ。もう何十年もこのうどん屋に通っているそうだ。 「どうぞ」  俊介はざるうどんを出した。この老婆も何も取らずに会計に向かった。 「全く、薫(かおる)がいればいいんだけどなー」  天ぷらを揚げている俊介の妻、安奈(あんな)は薫の事を思い浮かべた。薫は栄作の息子で、この店の跡を継ぐつもりだったそうだ。だが、東京の大学に進学し、うどん屋で修業を積んでいた頃に婦女暴行の疑いで逮捕され、今は塀の中だ。それ以来、栄作とは絶縁状態で、面会のチャンスがあっても全て断っている。 「あんな馬鹿たれ知らん! もう会いたくないわ!」  栄作は怒っている。あんな奴、もう二度とこの店に、俺の家に、綾川町に、香川県に来るなと言いたい。薫の事を考えるたび、栄作は腹が立ってしまう。その時の栄作の様子は、近寄りがたいものがあると言う。 「ですよね。婦女に暴行を加えて逮捕でしたよね」 「ああ。もう思い出すと腹が立つわ!」  栄作は生地を足で踏みながら、不機嫌な表情になった。 「もう言わないようにしますね」  安奈は笑みを浮かべた。いつもこうなんだから。俊介や安奈は薫を許してやろう、またここでやってほしいと思っていた。だが、栄作が許さない。 「二度と口に出すんじゃないぞ!」 「わかりました!」  安奈は真剣な表情になった。もう言わないようにしよう。これ以上怒らせると、うどんのでき具合に影響してくるだろう。 「もう口に出さないでおこう」 「うん。そうしようそうしよう」  俊介もそう思っているようだ。これ以上怒らせないようにしよう。 「やっぱ、池辺さんちのうどんはおいしいな。香川で一番!」  老人は喜んでいる。やはりここのうどんは一番おいしい。いろんな所に行っているけど、やっぱりここが一番だ。 「ありがとよ、って一番って言われると照れるなー」  栄作は少し笑みを浮かべた。おいしいと言われると嬉しくなる。薫の事なんか忘れる事ができる。 「ハハハ・・・」 「きつね小!」  次にやって来たのは、近くで農業をしている若い男性だ。 「どうぞ」  と、老人が食べ終わり、店を出ていこうとしていた。 「ごちそうさま! うまかった!」 「すいません、天ぷらうどんってないんですか?」  その次にやって来た人は、若い観光客だ。有休を使って、ここに来ているんだろうか? 「あのー、当店はセルフ式で、天ぷらやごはんはうどんを注文した先であの棚から自分で取るんですよ」 「そうですか、すいません。じゃあ、ひやあつのかけの小で!」  俊介は笑みを浮かべた。どうやらこの人は、セルフうどんの注文の仕方を知らないようだ。 「どうぞー」  俊介はかけうどんを注文した。観光客は四角い皿を取り、イカ天とかき揚げを取っていった。 「いらっしゃい!」 「ひやあつの肉の特で!」  次にやって来たのは高校生だ。野球部のユニフォームを着ている。今日は土曜日だが、朝から練習をしているようだ。注文したのは肉うどんの特盛だ。並こと並盛は1玉、大こと大盛は2玉、特こと特盛は3玉だ。 「どうぞ。県大会、頑張ってね!」  もうすぐ県大会が始まる。県大会で優勝すれば、甲子園で行われる全国大会に行ける。 「うん。そのためにはおじちゃんのうどんでスタミナつけんとね!」 「せやね」  それを聞いて、栄作はハッとなった。もうそんな時期か。今年の香川県の高校はどこまで進めるんだろう。とても気になるな。栄作は毎年、高校野球を気にしていた。野球部だったからではない。単に好きだからだ。 「いよいよもうすぐ県大会か」 「今年こそは甲子園に行ってほしいね」  安奈も彼らを応援しているようだ。いつもお世話になっているのだから、応援したくなる。 「もし、行く事になったら、池辺さんのうどん、ふるさと紹介で映してほしいわい!」 「ですよねー。やっぱり香川と言えばうどんだもん」 「ハンバーガーよりも、そばよりも、ラーメンよりもうどん!」  栄作はうどんに命を懸けていた。先祖から受け継いだこのうどんを守るのが、自分の使命だと思っていた。 「ひやあつの肉の特!」  次の人も高校生で、同じユニフォームを着ている。どうやら野球部の仲間のようだ。 「どうぞ。あんたも県大会、頑張ってね!」 「頑張るから、応援してね!」 「もちろんよ!」  高校生は肉うどんを取ると、その先で生卵を取って会計に向かった。 「いやー、大将、高校球児っていいと思いません?」 「どこが?」  栄作は笑みを浮かべている。栄作は頑固だが、子供が好きで、子供の前では優しい表情になるらしい。 「元気がよくて、食べ盛りで」 「確かに。だけど、薫は大嫌いだ!」  だが、またしても薫の事を思い出してしまった。薫の事を思い浮かべるだけで、腹が立ってしまう。 「大将、あれ以来怖くなってしまって」 「もっと笑ってほしいのに」  俊介と安奈は心配していた。元の優しい栄作になってほしいのに。もう戻らないんだろうか? 「いいじゃないの。大将のうどんって、おいしいんだから」 「そ、そうだよね。気にしないでおこう」 「うん」  だが、うどんがうまいんだから、それでいいだろう。ここのうどんは、香川一だ。自信を持って言える。ふと、俊介は栄作の後姿を見た。真剣に生地を踏んでいる。いつかこんな人になりたいな。
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