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婚約者が死んだ。あの時の彼女の死に顔を、あの時、何が起きたのかを、全部まだ覚えている。
一緒に行った雪山登山で、二人して遭難して彼女だけ死んで俺が助かった。今思えば、不思議なことだらけではあるが、世間一般では遭難した先で雪崩に合い彼女だけが運悪くなくなったことになっている。
でも、実際は違う。
雪崩に巻き込まれたからじゃない。
確かに、俺たちは滑落して、落ちた先で雪崩に巻き込まれた。
けど、順番が違う。
彼女は、雪崩に巻き込まれたとき、すでに死んでいた。雪崩に巻き込まれようとそうでなかろうと、彼女はすでに手遅れだった。
じゃあ、何故死んだのか。信じてもらえないとは思うが、この目で確かに見た。
真っ白な視界の中で、倒れた彼女にのしかかる白い影。長く垂れた黒い髪。彼女に触れる白い指先と、白く凍てつく身体。恐怖に染まったまま、固まった白い顔。
悲し気に涙を流して、俺に『 』と告げた赤い唇。
昔話に出てくる、いや、そうじゃないな。間違いなくあれは、雪女だった。
色々なショックで、その後の記憶はないけれど、その光景だけは頭から離れなかった。葬式の時、ぼんやりしていたのもこれが原因でさ。
なんで、婚約者だけが死んで、俺だけが生き残ったんだろうって。
葬式が終わった後、表面上だけは取り繕った。ほら、婚約者が死んだからって、はれ物に触るようにされるのだけは嫌だったからさ。それに、変に見合い話とか持ってこられてもな。
表面上はそれなりにとりつくろえた。誰かといる時は強がれたけど、裏ではボロボロさ。酒におぼれて、彼女の幻覚を見て、現実に帰って泣いて。そんなことを繰り返してた。
ちょうど、葬式から一年ぐらいたった時かな、酒におぼれる日々になれたころ、一人のソイツに出会ったんだ。あの子たちの母親となる人に。
すんごいドカ雪だったんだけど、家にいたくなくてバーで飲んでたらさ、いつの間にか隣にいたわけ。
綺麗な黒髪と白いコートがよく似合っててさ。
ちょっと冷たい指先が俺に触れて、悲しそうに止めてくる。やけ酒はよくないですよ、ってさ。
なんだろうね、俺、その言葉でちょっと泣けてきてさ。
全然知らない人なのに、その言葉が心にしみた。
全然知らない相手なのにだよ? 不思議に思いながらも、話を聞いてくれるならやめる、なんて最低なこと言ったら笑わずに聞いてくれて。
最初は仕事の愚痴だったんだけど、段々酔いが回ってうっかり婚約者の話をしてた。
何故か、泣きそうで、つらそうな顔をしながら聞いていた。それを見ていたら、俺もつらくなってきて。
乾いた傷跡から血が滲み出たみたいに痛くて、泣いた。二人して、抱きしめながら泣いたんだ。
少し落ち着いて、そろそろ帰るかってなったときに、女の子のほうが誘ってきてさ。連れてった、素性をよく知らない子を。
酔っていたのもあるけど、婚約者と住んでた家に、一人で帰るのもつらかった。
結局、その後色々あって一緒に暮らすことになったんだ。
暮らし始めて一年くらいで子どもができた。責任を取るって言ったら、それはいらないけど、一緒に子どもを育ててほしいって言われて。
まあ、事実婚てやつだな。
子どもが生まれてから数年間は幸せだった。可愛い双子に美人な奥さんみたいな人。子供のために酒もやめた。婚約者を失った傷跡もどんどん癒えていった。
でもな、奥さん見てると時々思い出すんだよ。
自分の婚約者を殺した雪女のこと。
雪山の中、すべてが凍てつく中で、小声で俺に何かを呟いていた女を。
雪がたくさん降り積もった日の夜に、とうとうその話を切り出したわけ。
「お前を見ていると、昔自分の婚約者を殺した雪女みたいな人を思い出す」
そしたら、奥さん洗い物をしながら、根掘り葉掘り聞いてくるから全部喋ったんだ。どうせなら、自分も殺してほしかったって。
泣いてたよ。奥さん。そして自白した。自分があの時の雪女だって。
「ごめんなさい、本当はあの時あなたたちを助けたかった。でも、私は凍てつかせることしかできないから。雪の中から生まれた私だから。死なせてしまった」
そう言って、俯いてしまった。いつの間にか、あの白い着物に、あの時の姿に戻っていた。
俺は驚いたよ。姿が変わったのもそうだけど、昔話の雪女は、人をわざと殺めたうえで一人見逃すだろ?
なのに、彼女は俺たち二人を助けようとした。
でも、助けられなかった。
あの時の言葉は、『ごめんなさい』で、意味は助けられなくてごめんなさいだったんだろう。
俺は、自分の勘違いで相手を散々憎んできた。
今更になって、そのことが恥ずかしくなって、すごく愛しくなって。抱きしめようとして、出来なかった。
彼女が、雪のように溶けかかっていたから。
「雪女は、正体を知られれば殺さなければなりません。けど、子どもがいる以上殺しません。だから、私の代わりにあの子たちを守って。あの子たちを不幸にしたら、あの女と同じところに送って差し上げますから」
そう言って消えた。いや、溶けたのか。
それ以来、彼女は、雪女は、姿を消した。子どもたちを俺の手元に置いたまま。
けどな、彼女は確かにそこにいた。双子の子どもとがその証拠だ。だれが信じなくても、俺は信じられる、そんな気がするんだ。
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