四話 もうひとりの淑女

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「ようこそサクラ。ここに招くのは、本当にごく一部の近しい者たちだけなんだ」  輿が下ろされ、クルトが帳を開いて、先に外に出たわ。  そうしてもう一度、私に手を差し伸べてくれた。 「とはいえ、その……女性の君には興味の無いものばかりだと思うから、中のものはあまり気にしないで」  またもや視線を逸らしつつそう言うクルト。  趣味の研究って言ってたわよね……。何を研究しているのかしら?  そう思いながら、クルトの後に続いて屋敷の中に足を踏み入れた。  前庭の無い、一般的な大きさの屋敷。でも子供の持つものではないのは確かよね。これひとつが全部クルトの部屋として与えられただなんて、アウレンティウスの財力は本当に凄いのだわ。  そう思いつつ玄関広間に視線をやると、貯水鉢の奥に座していた石像に目が釘づけになった。  水辺に膝をつき、両手で抱えた甕に水を汲もうとしているような女性像。  いえ、甕から水を注いでいるのだわ。  まるで人が石になったみたい。あまりに艶やかで肉感的だったけれど、作りものだと分かったのは、成人した大人よりもひと回りくらい、その石像が大きかったから。  硬い大理石を緻密に掘った、衣服のひだまでが見事すぎる、繊細な(こしら)え。 「水霊ニュンペー像。八百年くらい前に彫られたものだよ」 「ニュンペー?」 「グライキュアールという国の神話に出てくるんだ」  そう言いながらクルトは奥に足を進めたわ。  グライキュアールというのは確か……四百年ほど前に滅んだ国よね?  その国があったとされるのは……この、ムルス近辺。だけど、ここにも他から移ってきたと聞いた気がする。  けれどそれ以上思考は続かなかった。連れて行かれた部屋の光景に、また意識を取られてしまったから。  足を踏み入れた部屋は、大量の薄い木箱が壁に立てかけられていたの。その箱は全てに硝子の蓋があり、中にはずらりと、貨幣が貼りつけられていた。さながら貨幣の標本のように。  そしてそこには一人の先客が。 「やーっと来たか」  そう言ったのは、言わずと知れたアラタ。部屋の長椅子に、我が物顔で寝転びくつろいでいたのだけど、私たちが来てむくりと身を起こしたわ。 「にしても着飾ってきたなー。まぁそうなるか。でもそれ目立つから、こっちに着替えろ」  アラタはいつも以上にぶっきらぼうな態度でそう言い、布袋に入れられた女物の衣服を差し出してきたわ。 「?」 「あんま時間取れねぇから、急げ」  布袋を私に押しつけたアラタは、クルトを引っ張って部屋を出てしまった。代わりにひとりの年配女奴隷が入ってきて、私の着替えを手伝ってくれた。  髪型はいつも通りに結え直され、化粧はそのまま、衣服は袋に入っていた、普段よりも若干質素なものを纏った。とても手際良く準備されたわ。  支度が終わると、それを知らせに行った奴隷と入れ替わるようにして、また二人が入ってきたのだけど……。 「いくぞ」  と、何の説明もなくアラタは、私の腕を引いて、歩き出してしまった。 「ね、ねぇ! どこにいくの⁉︎」  奴隷も連れずに外に出るの⁉︎ 「言ったろ。お前の姉貴のとこだよ。お前はクルトと逢瀬(デート)中のふりして、俺はお前らの奴隷のふりをすンだ」  どういうこと⁉︎  屋敷を出る直前に、慌てて駆けてきた年配奴隷が、私に毛織物の外套(パルラ)を被せてくれた。  頭からを覆い、肩周りを隠すそれのおかげで顔も半分隠れて見えなくなったわ。  狼狽える私に、クルトがやっと、事情を説明してくれた。 「こっそりいくから、君が君と分からない方が良いと思うんだ。ほら、立場的なことも、相手方の家のこともあるだろう?」  そう言って誤魔化したけれど、きっと私がお父様の叱責を受けないか、配慮してくれたのだと思う。 「カエソニウス夫人は、夕刻に庭園の散策を日課にしているそうだ。だからそこですれ違いざまに話しかける形にする。もう時間が近いから、急ごう」  外に出ると、また例の使者が待っていたわ。  輿に乗せられて運ばれた。風景はまたもや帳で隠されてしまい、どこに向かっているのかは分からなかったけれど。  使者は道中でクルトと謎なやりとりをしていたわ。 「帰りはどうなさいます?」 「お前たちは時間的に無理だよね。そのまま歩いて帰るよ」 「あまり遅くならないでくださいよ。門も閉まってしまいますし」 「分かってる」  少し揺れが酷かったのは、きっと急いで歩いてくれたのね。  そうして到着した庭園は、私の来たことのない場所だったわ。  もともとあまり外は出歩かないけれど、それでも庭園なら、行事等で出向いたことがあるはずなのに。 「それはそうさ。だってここは外だから」  そう言ったクルトが指し示した方向を見て、唖然としてしまった。  高い街壁と、そこに突き刺さるようにある水道橋(アクアエドゥクトゥス)。それでようやっと、自分のいる場所を理解したの。 「ここ……下層民地区なのね?」  私、上層民地区どころか、貴族街の外にだって、ほとんど出たことがなかったのに。 「うん。でもこの辺はまだ上層民地区に近いから、治安も悪くないよ。この庭園は一般公開されているけれど、カエソニウス家の管理下にあるから、ちゃんと手入れも行き届いているしね」  そんなふうに話していた私たちの肩をポンとアラタが叩いたわ。 「ほら、喋ってるうちに時間過ぎちまうぞ。逢瀬らしく歩きながら話せっつの」  そう言われて、慌てて足を進めたわ。  逢瀬だなんて……お父様に知られたら、確かに怒られたかもしれない。 「歩きながら設定話すぞー。お前らはお忍び逢瀬中。親に内緒だからこの下層民地区に来てんの。だからあんま堂々と歩くなよ。サクラは顔晒すとバレるかもだし、姉貴以外のやつには近づくな。姉貴は列柱廊下をぐるっと歩くらしいから、お前らもその近辺歩き回れ」  小声で囁かれたアラタの指示に頷き、私たちは立ち並ぶ石柱の方に足を向けたわ。  石造りの廊下には屋根があり、雨が降っても濡れずに庭を散策できるよう造られているみたい。その風景を、何となしに見ていたのだけど……。 「……この列柱廊下はね、元々グライキュアールのポルチコを真似て作られたんだ」  そう話し出したクルトに視線を向けたわ。 「神殿の入り口を飾る装飾的なものだったのが、参拝者用の長い廊下になったらしい。グライキュアールは元々石の文化で栄えた国でね」 「あの石像も見事だったものね。まるで石ではないみたいな、衣服のひだの柔らかな表現は素晴らしかったわ」  そう相槌を入れると、パッとクルトがこちらを見た。 「そうだろう⁉︎」  今までの落ち着いた笑顔じゃなく、見たことのない、光り輝くような笑顔だった。 「グライキュアールの石彫技術は素晴らしいんだ! この庭園には、その職人技が惜しげもなく使われていてね、至る所にそれが見られる。実は闘技場(コロッセウム)にもその技術が使われている痕跡があるんだよ。パッと見は分からないのだけど、それを見分けるには、石柱の上部を見ればよくて……」  急に饒舌になったクルトに、一瞬びっくりしたのだけど、遠慮なく語られる早口な言葉と、動き回る手と、なにより熱のこもった視線に圧倒されたわ。  そうして、彼の好きで研究しているものが、何かを理解できたと思ったの。 「彼らは見えない場所にこっそり落書きをしているんだよ。解体作業をしていると、それが出てきたりしてね、前に見つけたのには恋人への……っ⁉︎」  でも熱心に語っていたクルトは、私の視線に気づいた途端、言葉を止めてしまった。 「どうしたの?」 「……いや、ごめん…………」  視線を俯け、掠れ声でなぜか謝罪までされてしまったの。  どうしたのか分からなくてアラタを見たけれど、彼は自分で確認しろとばかりに、口を閉ざしてニヤつくばかり……。 「……何が書いてあったの?」  だから、クルトの話の先を促してみたの。  するとクルトは「いや、いいよ……」と、力無い返事。 「こんな話、面白くないよね。ごめん……つい熱中してしまったんだ」 「面白かったわ。私、歴史的なものは自国(シエルストレームス)のことばかりで、異国の話は全然知らないの。そうよね。色んな国があって、色んな文化がある、当然だわ。そしてこのムルスがそのグライキュアールの栄えた地にあるなら、その技術が取り込まれることも必然よね」  我が国だって歴史は長いけれど、元々はもっと東の小さな国で、色んな国を取り込んで広がってきたと習ったわ。きっとそれは土地だけの話ではなく、技術だってそうだったのね。 「凄いと思うわ。何百年も前から引き継がれてきた技術が、こうしてまだここにあることが」  伝えなければ伝わらなかったものが、ちゃんとここにあることが。  だけどそう言った私に、今度はクルトがポカンと口を開き、見入っていたわ。  それでまた私、出しゃばってしまったのだって、気がついた。 「ご、ごめんなさいっ」  結局淑女らしくなんてできない自分に嫌気がさすわ……。  でもそこで、クイと背中側の衣服を引っ張られた。  慌てて顔を向けると、真剣な表情のアラタがしゃがんで私を見上げていて、目が合うと視線が鋭く左を見た。  私に、見ろって、こと……?  指示のままそちらに視線をやり……。 「あっ……!」  そこには、ほぼ一年ぶりに見るお姉様が!  真っ直ぐに視線が合って、お互いが誰かを理解したのだと分かった。  だけど次にお姉様は、引き連れている者たちを気にするそぶりを見せたわ。  開きかけていた口も、途中でキュッと引き結ばれた。  けれどそこで今度は、クルトが。 「そちらのご婦人、もしかしてカエソニウスの方では?」  ピシリと居住まいを正し、私の前に一歩進み出て、そう問うたの。  警戒した奴隷と護衛が前に進み出てくると、礼儀正しく 「失礼、私はクァルトゥス・アウレンティウス・ドゥミヌスと申します。  この石柱庭園の様式をこの目で見たくてお邪魔させていただいたので、お会いできて光栄です」  まだ子供の私たちだったけれど、アウレンティウスの名は絶大だった。  護衛と思っていた方は、カエソニウスの支持者であったのでしょう。慌てて礼を取り、クルトに挨拶を始めたわ。  するとまた外套が引っ張られ、小声で「ほら、今のうち」と、アラタの指示。  クルトは熱心に石柱について話し、支持者の方を引っ張って移動し始めていた。奴隷もどっちに行くかと迷い、クルトの方へと足を向けたわ。  私はそれを確認し、ゆっくりとお姉様の前に。 「お久しぶり……会えて嬉しい、お姉様……」 「やっぱり。見間違いではないのね……貴女、こんなところにまでどうやって!」 「そこは聞かないで。あまり誉められたことじゃないのは分かっているけれど、お姉様にどうしても、お会いしたかったの」  嫁がれた時より、痩せているように思えた。  身だしなみは完璧だったけれど、少し疲れているようにも見受けられたわ。  両手は腹部で重ねられ握られていたけれど、お姉様の瞳は、私とアラタ……向こうに歩いて行ったクルトに向けられた。私が淑女らしくない行いをしたことを、きっと気になさってる……。  けれどお姉様は、それ以上私を怒ることはせず、まずは笑ってくれたの。 「私もよ……ずっと会いたかったわ」  その言葉がどれほど嬉しかったことでしょう。できることなら、お姉様に飛びつきたかった。  けれど、目立つことをしてはいけないから……必死で堪えた。 「でもねセクスティリア。こんなことはもうしては駄目。貴方は立場ある身よ。そして淑女なの」  そう言いながらも、お姉様は心配そうに、私を見つめていたわ。  言葉は世間体について正していたけれど、お姉様が私を案じ、諭してくださっているのは伝わっていた。  だからもうこんなことはしないと、お姉様に約束すべきだった。でも――。 「セクすてぃリア様は、我儘なんか言ってねぇよ。俺たちが無理に連れて来たんだ」  そうアラタが口を挟んだの。 「俺たちの勝手なんだから、こいつは悪くない」  アラタの言葉に、お姉様は目を見開いた。  私は慌ててアラタの手を引っ張って、背中に隠したわ。 「わ、私が、無理を言ったのよ。どうしても、お姉様にお会いしたかったの! あの白い子(ねこ)のことを言い訳にして、何とかお会いしたかったの!」  アラタたちには、言わなかったのよ。  だけど二人は、私の本当の気持ちを、きっと汲み取ってくれたの。  それでこんな無茶なことをしてくれた、私のために、無理を通してくれたの!  だから彼らを怒らないでほしかった。  そしてお姉様はきっと、そんな私の気持ちも、分かってくださった。 「……学び舎は楽しい場所なのね。手紙でも伝わってきたわ。貴女が日々を健やかに過ごせているのなら、それで良いの」  口を挟んだアラタを咎めることはせず、そう、言ってくれた。
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