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それから陽が沈むころまで話すことができた。
クルトが頑張って時間を稼いでくれていたの。
あの白い子が天に召されたことを言うべきかも、考えた。
でも、お姉様の様子と、ずっと腹部にある手……それが私にこのことを言うべきか悩ませたわ。
「あのこ、元気にしている?」
「……しているわ。でも庭の暖かな場所で寝てばかりよ」
咄嗟にそう嘘をついた。お姉様に死の穢れを寄せたくなかったから。
するとお姉様は、ほっとしたように微笑まれたわ。
「良かった……長く返事が返らなかったから、気になっていたの。ちゃんと持ち直したのね。ありがとうセクスティリア。貴女があのこを大切にしてくれていることが、嬉しいわ」
お姉様の言葉の矛盾には気づいていたけれど、それも伏せると決めた。
きっと私の手紙もお姉様のそれも、手元に届くまでに、色々なところを巡るのでしょう。
そこでまた、アラタが咳払いしたものだから、時間が来たのだと理解できたわ。
見ればクルトたちが、こちらに戻ってきていたの。
「……また、手紙を書くわ。お姉様はどうか、お身体を大切になさって」
「あら。気づいていたの?」
「私はまだ何も知らないわ。また次の手紙で……きっと、教えていただけるはずよ」
そう言うと、お姉様は自身の腹部をゆっくりと撫で、そうね。また手紙でね。と、そうおっしゃったわ。
「楽しい散策でした。ありがとう存じます」
「私もです。ではごきげんよう」
帰ってきた護衛に、お姉様と他人のような素振りで別れの挨拶をしたわ。
そしてクルトと合流して、庭園を後にした。
庭を出るまでは気を張っていたのだけど、外に出てしまうと途端に気持ちが弱くなってしまったわ。
「ありがとう……。本当に、嬉しかった。楽しかったわ」
外套があって良かった。
少しこぼしてしまった涙の滴を、ごまかすことができたから。
「お姉様、身籠られて忙しかったのね。それで手紙の返事が遅れてしまったのよ。本当は何か大変なのじゃないかって心配だったの。ホッとした……良かったわ……」
そう話す私の手をクルトが引いて歩いてくれて、アラタは後ろをついてきた。
二人とも無言だったけれど、私の涙に気づかないふりをしてくれているのだって、分かっていた。
だけど問題は、もうひとつ残っていたの。
「……嘘」
上層民地区に入るための門が、閉じていた。
夕暮れ前には閉ざされてしまうと知らなかったから、お姉様と話すことに必死で全く気づかなかったの。
「ど、どうしましょう……帰れない……明日まで、開かないのよね⁉︎」
あまりのことに混乱して、当たり前のことを何度も聞いてしまった。
だけど慌てる私に対し、二人は落ち着いたもので……。
「まぁ、しょうがねぇって」
「うん。サクラは知らないだろうと思ってたのに、急かさなかったのは僕らだし」
平気な顔でそう話しながら、あっさり門の前を離れたわ。
「まぁ任せろ。ちゃんと帰れっから」
そう言うアラタが私たちを連れて行ったのは、なぜか水道橋……。
非常用階段は、板が外されていたけれど、出たままの石の突起をアラタは平気な顔をしてひょいひょい登ってしまった。立ち入り禁止のはずよ⁉︎
「アラタはたまにここの掃除で雇われるんだって。だから点検って名目でここを通れるんだ」
そう言いつつ手を差し伸べてくれたクルト。やっぱりここを登るのね……。でも私っ。
「ご、ごめんなさい……。高い場所は、得意じゃ、ないの……」
怖い。これを上まで登るなんて無理よ。あんなに小さな足場、踏み外してしまうわ!
そう言ったら、クルトは少しだけ逡巡してから、私を背中に負うてくれた。
「お、重いでしょう⁉︎」
「サクラは全然軽いから平気だよ。でもしっかり掴まっていて。怖いなら、目を閉じていたらいいよ」
言われる通りにしたわ。
そして揺られながら、必死で今日のことを思い返していた。
朝から沢山、初めての体験ばかりだったから、いくらだって時間を潰せたわ。
そうしてしばらくすると、息を切らせたクルトが「もう降りていいよ」と私に言った。
「水道橋の上は、道路くらい広いから怖くないよ」
恐る恐る薄目を開くと、確かに歩道くらいの広さがある石の連なり。アラタが先の方にある鉄の柵を開いて待っていた。
水道橋は二段になっているのだけど、一段目は下層民地区まで。そこから上に登った私たちは、上層民地区を囲む壁よりも高い場所に来ていたわ。
ずっと遠くまで続く水の道。その先は山の中に消えていて、その山の向こうに夕陽が沈もうとしていた。
高い場所は怖かったけれど、それでもクルトが手を握ってくれていたから、なんとか耐えられたわ。
だけど震えばかりはどうにもできなくて、怖さを押し殺し足を進めていたのだけど――。
「……この水道橋もね、グライキュアールの技術なくしては完成しなかったんだよ」
私の気を紛らわせようとしたのか、クルトがそんな話を始めたの。
柵を閉めたアラタもやって来て、まだ空いていた私の左手をキュッと握ってくれた。
それで恐怖は、もう少し和らいだわ。
「このムルスはグライキュアールの都市の上に造られたし、下水施設もそのまま再利用された。この地にも当然水脈は通ってる。だから水道橋がなくても、人は生きられたと思う……。だのに、莫大な資金を投入して水道橋を作ることを決めたのは、君の先祖、セクスティリウス家だったんだ」
静かな口調で淡々と語られる歴史は、私の知らないものだったわ。
「当時はその強引さに反対の声も大きかったそうだけどね、僕は凄い決断だと思ってるんだ。この大きな事業のおかげで、グライキュアールの職人と技術は守られた。戦で勝ち取った土地は奪われ、国民は皆奴隷にするのがそれまでの習わしだったのに、例外を作ったのも君の先つ祖なんだよ」
私が習い知っている歴史というものが、ほんの小さな欠片でしかないのだと、知ることができた。
「僕はね、そのグライキュアールの血を引くらしい。昔そう教えてくれた人がいたんだ。だから、彼らの文化、とりわけ文字や歴史が好きになった。サクラは……それを笑わないでくれたから嬉しかったよ……ありがとう」
そう言ったクルトの頬は、夕日で赤く染まっていた。
細められた目が、ずいぶんと大人びて見えたわ。
水道橋の上は風が強くて、クルトの金髪も風で大きく乱されていたけれど……。
「ニュンペー像、大きかったでしょう? グライキュアールの者は、色が薄くて大柄だったのだって」
それでも彼は、凛々しくて美しかった。
「奴隷にも大柄な者がいるよね。彼らもきっと、僕と祖は同じだ」
どこか遠くの方を見てクルトはそう言ったわ。
「この水道橋にもね、たまに文字が落書きされているんだよ。本当にただの落書きだったりもするけど、神への祈りや、感謝の言葉だったりもするんだ」
無言のアラタと、喋り続けるクルトに手を引かれて、私たちは歩いた。
「僕はまだそれらがちゃんと読めないんだけどね。もっと学んで、いつかそれを読めるようになりたいんだ」
そんな話をしている間に、恐怖は無くなっていたの。
上層民区域にある非常用階段は板が外されておらず、私も歩いて降りることができた。
するとそこは、クルトの家からもさほど遠くない場所だったわ。
「とりあえず急いで帰って、着替えねぇとな」
「でも着替えは僕の研究所だよ……。取りに行ってたら凄い時間になる」
「汚したとか何とか言って適当なもん貸すとかできんだろ」
「そうだね、そうしようか」
もう陽は沈み切って真っ暗だったけれど、二人は平気で歩き、クルトの家の裏口に滑り込んだわ。
中にはソワソワ待っていたアウレンティウスの奴隷たちがいて、私は強引に部屋のひとつへと引き込まれ、そこで身を整えられてしまった。
気づかなかったけれど、水道橋の強風で私も相当乱れていたのね。二人とも酷いわ! 教えてくれたら良かったのに!
そうして結局、来た時以上に飾り立てられ、化粧も直され、さらに手土産と謝罪の書簡まで持たされて、私はまた輿に乗り、家路についた。
私の奴隷は度の過ぎた高待遇に疑問すら抱いていない様子で良かったけれど……。
家に戻ると、恐ろしいことにお父様が先に帰っていたの……。
出かけた時と違う服装、違う化粧で戻った私に奴隷たちがそれを報告しないはずがなく、お父様の眉がピクリと動いたけれど、謝罪の書簡と贈り物を先に受け取って確認したわ。
「……今日は何をしていた」
「……ムルスの歴史について、語り合っておりました」
書簡の内容は教えられていた。
奴隷の粗相により私の衣服を葡萄酒で汚してしまったとし、そのための謝罪と、近日中に寸分違わぬものを作り、届けると記したそう。
だけどお父様はその内容には触れず、私がどう過ごしたのかを確認してきた……。
焦ったけれど、今日知ったことを何とか伝えるしかない。学んだわ、ちゃんと……沢山、聞いたもの。
「ムルスの興りからの、歴史についてです。各所に、グライキュアールの技術が使われ、柱廊庭園や闘技場、水道橋にもその技が見受けられると聞きました」
私の説明の途中から、お父様の鋭い視線が突き刺さっていた。
「セクスティリウス家が、その水道橋の建設に多大な貢献をした……と。そのような話でしたわ」
けれど、何とか絞り出した言葉で、視線はまた私を離れたわ。
「……下がって良い」
「はい……おやすみなさいませ」
震えそうになる唇を必死で引き結び、一礼して部屋を出た。
お父様……凄く不機嫌そうだったの。なのに私に下がるよう言った意味が、理解できていなかったわ。
でも……お姉様のことは、秘密のままにできたよう。
特に何も言われなかったものね。
とりあえずはそのことに、ほっと胸を撫で下ろしたの。
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