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内緒の時間を共に過ごすようになってから、ひとつ季節が巡って。
「今日もアラトゥスくん、来なかったわね……」
そう呟いた声は、すぐに白く染まって散った。
ここ何日か学び舎に来ていないアラタは、結局今日も一日姿を現さなくて、私はつい、そうこぼしてしまっていたわ。
数日雪が散らついたし、風邪でも引いてしまったのかしら? それとも、とうとう不眠がたたって体調を崩しているの?
本当はすぐにでもクルトに確認したかったのだけど、お互い元老院議員の子である私たちは、取り巻きのいる場では接触を控えた方が良いと話し合って決めていたから、迂闊に声をかけるわけにもいかなかった。
だけどやはり気になるものだから、うっかりそう口にしてしまったのだけど、耳敏く聞きつけたひとりが、私を玄関間へと促しながら言った言葉で、失敗だったと理解した。
「あのような下賤の者、気にかける必要などございませんよ」
「下賤?」
アラタを蔑むような言葉に、反発を覚えた。
子を学び舎に通わせるのは、基本的に裕福な家。そうでなくても、学ぶことにお金をかける意味を知っている家よ。
ただ平民であることを下賤と言うなら、そんな意識を持っていることの方が恥ずかしいことだわ。
アラタは身分で人の価値を測らないし、口調こそ少々粗暴だけれど、優しいし、親切よ。
あの日だって……っ。
◆
「サクラ、前!」
アラタにサクラと呼ばれ始めた頃、私はまだその呼び名に馴染んでいなかった。
だから呼ばれたことに気づかずいたのだけど――。
「前っつってんだ……ろっ!」
「え……キャア⁉︎」
目の前を、なぜか足先がすごい勢いで掠めていって、巻き起こった風が私の髪をかき乱した。
びっくりして身を縮こまらせて、しばらく固まっていたのだけど……。
「おい、どっかぶつけた?」
そう言われて、ハッと顔を上げたら、アラタが私を覗き込んでいたわ。
「あ、アラトゥス、くん?」
「アラタだっつったろ」
「……でも、貴方のお名前は、アラトゥスでしょう?」
苦笑しつつそう伝えたら、不服そうに表情を歪めるものだから、困ってしまった。
だけど私を困らせても仕方がないと思ったのでしょう、そこで呼び方の言及はやめて、視線を庭に向けたの。
口調のわりにアラタの表情は穏やかで、目下のクマが相変わらず凄くて。でも間近でよく見てみたら、案外整った顔立ちをしていたのねって、初めて気がついた。
確かに造作は、凹凸が少なくて薄いのだけれど、その分女性みたいに柔らかくて、髪が長かったら勘違いしていたかもしれないわって、そう……。
ただ、クマが酷すぎて、あまりにもあまりな感じ。
「……アラトゥスくんは、もう少しきちんと睡眠を取らなければいけないと思う。でないとそのうち倒れてしまうわよ?」
ついそう口が動いてしまってから、ハッとしたの。
いけない。お父様にまた叱られてしまう。私の傍にいつもいる、取り巻きや奴隷から耳にして、またかって私を睨み据えて、お説教の雨を降らせてくるっ。
お父様の声は怖い。私の全てを否定してくるあの重い声。想像するだけで竦み上がってしまう!
「ご、ごめんなさい。出過ぎたことを……」
――出しゃばるなって、怒鳴られる……っ。
女の私にそんなふうに言われたら、この人の面子だって潰してしまうのに私ったら!
なのに。アラトゥスは私の想像しない言葉をまた、返して来たの。
「いやべつに? クマが酷すぎるってのは自分でも自覚してるし、言われて当然ってか、クルトには毎日言われてら」
身分差も、人の視線も眼中にない。とばかりに言われて、呆気にとられてしまった。
いつもなら侮辱に対して過敏に反応する奴隷すら、呆然としていたくらいよ。
だって下手をしたら鞭打ちじゃすまないことよ? アウレンティウス家の関係者に聞かれでもしたら!
だけどそこで、また「あーっ!」「やばっ、アラターっ!」という声がして、そっちに視線をやってみたら、凄い勢いで鞠がこちらに飛んで――っ⁉︎
「ザケンナ、何度目だ!」
そう言ったアラタがなぜか脚を振り上げて、飛んでくる鞠をするりと掬い取ってしまった。
「何回も言ったろうがっ! くるぶしの下! そこで蹴る!」
「蹴ってる!」
「だけどそこで蹴ったらそっちにいくんだよ!」
「足首固まってんのか! もっと踵を前に出せ!」
そう言ったアラタは、たった今掬い取った鞠を、足の甲でポンと蹴り上げて……。
空中にあるそれを、自身の言った通り足首のくるぶし下で、蹴り返したの!
綺麗に、ふんわりと弧を描いて飛んだ鞠は、声の主の手中にすぽりと収まった。
「もう一個いくぞー」
そうして、腰に抱えてた鞠を今度は、もう一人の腕の中へ⁉︎
「すっげ」
「お前足首の関節おかしいんじゃねぇ?」
「毎日足首回せって言ったろうが。やってりゃこうなる」
「嘘だ」
「やってもやってもならない」
「バカ、年単位でやってから言え」
「嘘だろー⁉︎」
粗野な言葉の応酬に、奴隷は顔を顰めたけれど、私はアラタの美しい身の捌き方に、目を奪われてしまっていたわ……。
たった一歩。そして脚のひと振りで、鞠を正確に蹴り返した。しかも足の内側を使って。
鞠は硬いのに、それを全く苦にもせず、弾まないのに綺麗に押し出して、距離も勢いも計算通りに。
不思議な動きだったけれど、洗練された淀みない動作だったわ。何度も何度も繰り返し身につけた、正しい身体の使い方。
ひねられた細い腰……舞の時、あんなふうにしなやかに身体を扱うことができたら、きっととても美しい腰捌きができるはず……。
「じゃあなサクラ、気をつけて帰れよ」
そう言われてハッと我に返った時には、アラタは走り去ったあとだった。
◆
あの時、硬い鞠がぶつかっていたら、きっと痣ではすまなかったはず。
なのに彼は恩義背がましくそれを言うこともなく、立ち去った。
言えば、謝礼だって得られたでしょうに……。
まるで当然のことをするかのように、私を助けてくれた。
でも……。
これをこの方に説明したって、無意味だとも思ったの。
この方はいつもアラタに手厳しい。おそらく彼のことを好ましく思っていないのね。
とはいえ、責めることもできなかった。
この取り巻きの方は私と同じ貴族出身の男性で、男性は立てなければいけない。それがお父様の指示……。
「アラトゥスくんは、とても理知的だと思うけれど……」
それでもただ肯定したくなくて、なんとかそう、言葉を返したわ。
アラタは確かに言葉遣いは悪かったけれど、社会的な規則を率先して破るような方ではなかったし、きちんとしなければいけない時はきちんとできた。常識を踏み越える時を、彼はちゃんと選んでいたわ。
ただ、その行動を選ぶ時の基準が、私には分からなかったけれど……。
でも、取り巻きの方は、私の言葉には頷けなかったよう。
少し眉を寄せ、周りを歩く町人や奴隷を気にするように視線を巡らせてから、私に顔を寄せて、小声で言った。
「……前々から気になっていたのですが……。
セクスティリア殿はたいへんお優しい。ですが慈悲をかける相手はもう少し選んだ方がいい。
とくにアラトゥス。彼には関わるべきではありません。
あれは勉学のために学び舎へ来ているのではありませんよ」
その言葉は、さらに私の気分を害したわ。
皆様の前では挨拶くらいしかアラタと接していない。もっと話したいのを沢山我慢しているわ……っ。
なのにそれすら駄目だなんて、そんな指図をされる謂れはない。そう言い返したかったのは堪えたけれど、心の中で激しく反論していた。
私が学び舎にやられているのだって、勉強のためじゃない。
私という人物の価値を周りに知らしめるために行かせているのだと、お父様も常々おっしゃっているわ。
良い夫を吟味するためにやっているのだから、淑女らしく振る舞って、お相手に気に入られるよう努めよって……。
アラタをこんなふうに誹っているこの方だって、勉強のためではなく、社交の場として学び舎を利用している。それくらいのことは私だってちゃんと分かっているのよ。
けれど、それを指摘したところでやはり、意味はないのよね……。
本当は言い返したいのに、それができないのは悔しかった。けれど、お父様の言いつけを守らなければと必死で自分に言い聞かせて、代わりにこう聞いたわ。
「では、どんな理由で学び舎にいらっしゃっているの?」
すると彼は、我が意を得たりといった様子で、笑った……。
「おそらく出資者を探しているのでしょう。アラトゥスの父親は落ちぶれた興行師です。全く成績の振るわない、連敗続きの弱小剣闘士団ですがね」
…………。
……剣闘士団?
「剣闘士団って……」
あの、剣闘士団よね?
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