五話 下賤の者

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 当然知っていたけれど、アラタの雰囲気とそれが全く結びつかなかったものだから、聞き返してしまった。  でも、取り巻きのその方は、私が剣闘士団自体を知らないとでも思ったよう。 「剣闘士団というのは、娼館と同じようなものですよ」  娼館⁉︎  吐き捨てるように放たれた音に衝撃を受けてしまって、私は次の言葉を逸したの……。 「ようは、奴隷や娼婦の寄せ集めです」 「で、でもアラ、トゥスくんは……」  アラタと言いそうになって、とっさに誤魔化して、言葉を続けた。 「奴隷を連れていないわ……」  奴隷や娼婦を多く抱えているというなら、彼だって奴隷を連れて来れるはず。  でもアラタは一度だって学び舎に、奴隷を連れてきたことがない。  彼は平民であるから、労働力としての奴隷なんて持っていないのだと安易に思っていたのだけど……彼を知った今なら、それも違うのだと理解していた。 「剣闘士団を名乗るのも烏滸(おこ)がましいくらい、見窄(みすぼ)らしい一団なのですよ。だから連れ歩く奴隷もいないのでしょう」  ――違うわ。  彼は、体裁のための手を必要としていないだけ。  私たちみたいに見栄を張る必要がないだけよ。  高貴な身の者は、いついかなる時も奴隷を連れているもの。  自分の手を使うなんてはしたないこと。代わりに使う手を持たないなんて恥ずかしいこと。  そう教わるから、私たちはいつも奴隷を連れ歩く。必要とは思えない時だって奴隷を使う。  でも彼は荷物くらい自分で持つし、やりたいことは自分の手足で行える。  そしてそれを恥ずかしいことだなんて、微塵も考えていないのよ。  実はクルトまでもが、学び舎に連れてくる奴隷に、授業が終わるまで好きにして良いと、こっそり自由を与えてしまっていることだって知っていたわ。  奴隷も上手く丸め込まれているみたいで、それを告げ口したりもしていないのか、いつも平気な顔をして共に学び舎までやって来る。  他の誰も気づいていない様子だったけれど……授業中、主人に全く注意を払わず、楽しそうに講義内容へ集中している奴隷は、私の目にはとても奇異に映っていた。  なんとも不思議な関係性。けれど……クルトにとってもそれは、ごく普通のことなのだと思う。だって彼は自分の血と奴隷の血が、同じ祖を持つと知っているのだもの。 「何よりあれの父親は酒浸りで借金も嵩んでいるとか。先日もツケが溜まりすぎて酒を出さなくなった酒場で暴れ、アラトゥスが連れ帰りに来たと耳にしましたし、その父親に殴られていたそうで……」  なんですって?  その時 背中側から何かがドン! と、当たったものだから、私はよろけてまた別の誰かにぶつかってしまった。  人の多い屋台通りは、いつもなら周りに注意しておくのだけど、言葉を交わすことに夢中で、意識できていなかったのがいけなかったわ。 「申し訳……っ」  慌てて謝ろうとしたれど、その言葉は酒気の強い息が顔にかかったせいで引っ込んでしまった。  飛び出しかけた咳を必死で飲み込んだわ。  失礼にもほどがある行為だと思ったのもあったけれど、私がぶつかった人が刀疵(かたなきず)だらけの大男だと気づいてしまったから……。  飲食店が並ぶここは丁度昼時。当然お酒を飲んでいる人も大勢いた。だから絶対、気を緩めてはいけなかったのに……っ。 「なんだこのヤロウ、謝罪もなしか?」  澱んだ瞳でそう言われて、身が震えた。  だけど私以上に隣の彼と、荷物持ちの奴隷二人が恐怖に青ざめていたものだから、なんとか震えを抑え込んだわ。  必死で身を立て直して、衣服の裾を持ち上げて、小さく会釈。 「申し訳ございませんわ。私の不注意でした。お怪我はなかったかしら?」 「見て分かんねぇか? せっかくの酒がコボれちまって膝が濡れた。おかげで寒くてかなわねぇ!」  言われて見た膝は、ほんのちょっぴりだけ、赤い染みができていた。  けれど次の瞬間に肩をぐいと掴まれ引き寄せられたものだから、恐怖を通り越して頭が真っ白になってしまったの。 「言葉だけの詫びなんざイラねぇなぁ! 謝意は行動で示シテもらわねぇとよ!」  ……仕方ないわよね。酔ってらっしゃるのだもの。  しばらくお相手をすれば、溜飲を下げて解放してくださるかもしれないわ。  お酒を楽しまれている方の接待は家で何度もやっていること。大丈夫、いつも通りで良いのよ。  自分にそう言い聞かせて、なんとか震える手を握り込んで誤魔化した。  けれど、酒気の強い息が耳と首にかかって、ゾクリと背筋に悪寒が走り、肩の手が動いて私の首筋を撫でたことで、悲鳴を上げそうになったその時。  またグイと別の腕に引っ張られ――。 「おっさん、それシャレにならンぞ」  逞しい胸に抱き寄せられていたわ。爽やかな草木のような香りの方に。  引っ張った力は強かったはずなのに、ふわりと私を包み込んだ両腕は、真綿に触れるみたいに優しかった。  その方がまとった外套(がいとう)は、軽くて温かくて柔らかい、最高品質の毛織物。そして今日これを私……学び舎で、見ていたわ。  慌てて振り向くと、そこにあったのは想像通り、クルトの整った容貌だった。  だけどさっきの声は、彼じゃない。あの粗暴な口調は……っ。  急いで視線を、声のした方へ向けると。 「なんだてめ……あー……だりぃな、お前ら(・・・)かよ」 「その態度改めろよ。言っとくけど助けてやったのはこいつじゃなく、あんただからな?」  やっぱり!  何日も姿を見せていなかった、アラタのサラリとした黒髪の後頭部が、いつの間にやら私の前にあったの! 「こいつ、セクステぃリうすの娘だぞ」 「……今なんつった」 「貴族の中の貴族に絡むなっつった」  ゲッと青ざめた大人の方。それを笑うアラタの声。気心知れているみたいな、軽い口調。  だけどそんな会話を気にもとめていない様子で、クルトは私を見下ろして微笑んだ。 「大丈夫だったかい? ついでだから、安全なところまで送ろう」 「……くる、クァルトゥス様?」  私とは、人目のあるところで触れ合わない約束だったでしょう? 「アラタ、行こう」 「おぅ」  次は相手見極めて絡めよなぁ! と、からかうように言ったアラタに「ウルセェ!」と返す男の方。それを完璧に無視して、クルトは私の手を握って歩き出し、その場を離れたの。  奴隷たちが必死でついてきているのは、急かすアラタの声で分かっていた。  引かれるまま足を進めて、屋台通りを抜けてもまだ歩いて、水道橋(アクアエドゥクトゥス)の下でやっとクルトは足を止めた。  そこで私はようやっと、久しぶりにアラタの顔を目にしたの。 「お前ら、あの通りはさっさと抜けろよ。チンタラ歩いてっからカモにされンだぞ」  少々イラついた声と言葉。だけど安堵が滲んでいたわ。でも、そんなことは気にしてられなかった。  そんな些細なことより、左頬を口元まで青黒く染めて、切れた唇に大きなかさぶたをこしらえたアラタの姿の方が衝撃的で、私……っ。 「おい、聞いて……うわっ⁉︎」  アラタが、お父様に暴力を振るわれたのだという……あの話が本当だったのだって理解して、私……そのことがとても、苦しくなってしまったの。  私にとってもお父様は、本当に恐ろしい存在……。  言葉でだってあんなに怖い。なのに……っ。 「そんなに怖かったのか⁉︎ な、泣くなって!」  慌てたアラタの手が、私の頬に触れようとしたけれど、それははたき返されてしまった。 「セクスティリア殿に触れるな!」  先ほどまで震え上がっていたのに、威勢を取り戻した取り巻きの方がそう言い、私の前に身を割り込ませ、アラタをドンと突き飛ばしたの。 「お前……っ、あれはお前の所の剣闘士か! なんという……っきちんと調教もしていないとは呆れたな! 都合良く現れたのは。我々に恩を売って出資にこぎつけようという魂胆だろう⁉︎」 「……はぁ?」  アラタは呆れたようにそう言って、出した手をごまかすみたいに頭を掻いた。  そしてひとつ溜息を吐いて、チッと小さく舌打ちが聞こえたわ。  けれど、次に顔を上げた時、アラタは口角を持ち上げ、皮肉げに笑って……。 「うちは奴隷剣闘士ばっかだっつの。自由剣闘士を抱えられる資金があるわけねぇだろ」  せせら笑うような、凄みのあるお顔だった……。 「それにうちは、出資なンざ募ってねぇよ。募ったとしても……貴族(おまえら)には頼まん」  貴族(おまえら)と一括りで言われたことが、胸に刺さった。  笑っていても滲むアラタの気迫。それに圧倒されて一瞬言い淀んだ取り巻きの方に、今度はクルトが口を開いたわ。 「なぜ、セクスティリア殿を庇いもしなかった」  クルトも怒っていた。  そしてその指摘は、取り巻きの方にとって触れてほしくないことだったのだと思う。 「クァルトゥスッ……分かったぞ、お前だな! あの大男はお前が金で雇ったんだろう! おかしいと思ったんだ……グルだったんだ! だからあんな大男を前にしても、お前らは怯みもしなかったんだろう⁉︎ お前ら上位平民(ノビレス)は我々古参貴族が目障りで仕方ないのだものな! だから彼女を、(おとし)めようとしたんだ!」  唾を飛ばし、声を荒げる取り巻きの方に、何ごとかと周りの方の視線がこちらを向き始めていたわ。  眉をひそめ、口元に手を当ててヒソヒソと交わされる言葉。  いけない……こんな騒動がもしお父様の耳に入って、アラタたちがお父様に睨まれでもしたら……! 「も、もう良いです!」  取り巻きの方の腕を両手で引き、私は咄嗟にそう口にしたわ。 「もう良いですから、帰りましょうっ。 わ、私、まだ怖いのです。またあの大男が、追いかけてくる気がしますもの!」  私の言葉に、ぎくりと身を固める取り巻きの方。そうよ。言い争っている場合じゃないわ。  元老院議員(セナート)の身内が、争っているなどと思われてはいけない。  それが貴族と上位平民出身だなんて、さらに悪いわ!  お父様だけじゃない……クルトのお父上の名誉まで傷つけてしまう!  だけど……っ。  アラタの瞳がこちらを見て、そこに動揺した色を見たら、気持ちが揺らいだ。  違うわ! 貴方たちを怖がってるんじゃないの。  いえ、でも……今は、説明していられない……。 「帰りましょう!」  私の必死の訴えに、取り巻きの方はなんとか怒りを収め、従ってくれた。  今度はこの方に手を引かれて、家までを歩いたわ。  その道中をずっと、心の中で言い訳に費やした。  泣いてしまったのは、貴方たちが怖かったんじゃないわ。  アラタに暴力を振るった、彼のお父様を怖いと思っただけなの。  そう伝えたかったけど、言えないまま……。    それからというもの、貴族の取り巻きたちが、アラタたちを警戒するようになってしまった……。  彼が少しでも近くに来ると、人垣を作って私を隠そうとする。  上位平民たちとの関係にも亀裂が入ってしまい、事情を知らない人たちは急な敵視に不快感を露わにしていて、私は申し訳なさでいっぱいだった。  アラタと、挨拶ひとつ交わすことができずに、過ぎていく日々……。  そうなって初めて気がついたのは――。  それがとても、窮屈でたまらないということだった。
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