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アラトゥスは特に目立つ外見をした子ではなかったわ。
いえ……目の下をクマで真っ黒にするくらい、いつも寝不足で、そこはとても目立っていたのだけど……本来なら、貴族の私が彼に興味を持つ理由なんてなかった。
だのに私は、彼の存在におおいに戸惑っていたわ。
「クルト、帰るぞ」
「うん。あ、待ってアラタ」
「早くしろよぉ〜」
上位平民であるクァルトゥス様の名を平然と略し、まるで対等であるかのように口をきく彼に、興味を引かれずにはいられなかった。
他の上位者子息を相手にする時と、明らかに態度が違ったの。
その差がどうして生まれるのか、分からなかった。
アラトゥスは決して身なりが良いほうではなかったわ。
少々大きすぎる衣服を無理矢理着ている感じで、色合いも季節感もあまり気にしていないみたい。髪の毛に至っては、たまに寝癖も残っていた。
対してクァルトゥス様は、毎日違う衣服を纏い、髪も綺麗に纏めて、いつも一人の奴隷を連れていた。
私を含め大抵の人は、荷物持ち用に奴隷を一人だけ連れてきていいという規則に則って、そうしていたのだけど……アラトゥスは常にひとりだったわ。
彼が、クァルトゥス様のなんなのか……それが分からなかった。
はじめはアウレンティウス家の解放奴隷なのかもしれないと思っていたのだけど、それならば市民権を持っていないでしょうし、この学び舎に来ることもできなかったはずと思い至った。
そもそも、仕えるべき保護者のクァルトゥス様を立てないのはおかしい。それでは不敬となってしまうもの。
結局どれだけ考え、どれだけ観察しても、彼らの関係を推し計ることは叶わなかった。
そして私は、そんな二人を遠巻きに見ておくことしかできなかったの。
「セクスティリア様、どうなさいまして?」
「……いえ、なんでもございませんわ」
学び舎に来始めた翌日から、私は学び舎内での派閥争いの中心となっていた。
貴族の中の貴族であるセクスティリウス家に縁を求める者は当然多かったし、私はそのために学び舎へとやられたようなものだったから、こちらを疎かにするわけにもいかなかった。
それが、お父様の言いつけだったからなおさらね。
そんなある日のこと。
学び舎の授業は、算術の時間が皆、一番に緊張していたわ。
なぜなら、教師役がとても怖くて、早口で、何を言っているか聞き取れないことが度々あったの。
そのくせややこしい計算式を出題してくるものだから、算盤を持たない平民の方々はたいへん苦労していたわ。
算盤は、彼らからしたら高価なのね……。殆どの平民が持っていなかった。そして教師役は、どこか平民の子らを蔑んでいる節があって、彼らには難しい問題を、あえて当てて答えさせようとするの。
私の隣席の子も、やはり算盤を持たない子で……。私が入学する前から、何度も鞭で打たれたと聞いていたわ。
そしてその日も、その子が教師役に当てられてしまったの。
「あ……えっと……」
言い淀むその子は、やはり計算が分からなかったみたい。
このままでは鞭で打たれてしまう。そう思ったら私、とっさに算盤をカシャンと鳴らしていたわ。
そうして、その子に見えるよう、膝の上の算盤に計算式を極力素速く、打ち込んでみせた。
この子が間違ってしまうのは、大抵桁が上がる時であるみたいだったから、そこだけ少しゆっくりめに。
そして答えが出たから、それを膝の上に置いたままにしたわ。
「……え、と……さ、三十八!」
私の意図は伝わっていたよう。
その子は正しい答えを言えたから、その日は鞭で叩かれなかった。
その後もその子、チラチラと私を気にしているふうだったけれど、私は気づかないふりを続けた。
別に、恩を売りたかったわけじゃないもの。
私はただ、人が鞭で叩かれるのを見たくなかっただけ……。
叩いて理解できるなら、この子はとっくに賢くなっているはずだもの。
その日の帰りに、奴隷を従えて玄関間に向かっていると、ポンと肩を叩かれて、びっくりしてしまったわ。
振り返ったら、そこにいたのはアラトゥスだった。
「お前、イイやつだな」
「?」
何に対する言葉か分からなかった。
だってアラトゥスと言葉を交わしたのは、これでやっと二回目だったから。
急に私に触れてきた平民に、奴隷は警戒したようで、私の前へと身を割り込ませた。
けれどアラトゥスは気にもとめず、ニッと、口角を持ち上げて笑ったの。そして……。
「じゃあな、サクラ。気をつけて帰れよ」
「え? ……えぇ、ごきげんよう……?」
でも私、アラトゥスが誰のことをサクラと言っていたのか、いまいち分かってなかった。
肩を叩かれてからの流れからして、私に対して言われた挨拶であることに間違いはないわよね?
だけど、サクラ……って、誰かしら?
しばらく呆然としていたのだけど……。
「……サクラ。さくら、さく、ら……セク、リア……あっ!」
セクスティリアって、言えなかったのねって、やっと気がついた。
クァルトゥス様の名前も略してしまっていた彼のことだから、これはきっと、揶揄いや侮蔑のためではないのね。
発音が苦手な彼なりの、工夫なのかもしれない。
「セクスティリア……サクラ……ふふっ、全然似てない」
本来は、名を略されたことを怒るべきだった。けれど、私はそれがなんだか嬉しかった。
あの時からすでに私は、彼の魅力に惹かれてしまっていたのだと思う……。
自由な風を感じる彼に。
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