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家でどんなに苦しいことがあったって、それを顔に出してはいけない。
それが貴族というもので、淑女というもの。
学び舎では特にそう。
貴族や上位平民の子に知られた弱味が、どう転がってお父様の足を引っ張るか、分からないから。
季節は巡り、秋も間近となった頃。
私も学び舎に慣れ、派閥争いもひと段落したものだから、少しゆとりが出てきていたわ。
いつものザンバラな黒髪が目についたものだから。
「ごきげんよう、アラトゥスくん」
笑顔でそう声を掛けると。
「アラタ」
真顔でそう返事が返った。
いつでも彼はそう。律儀に呼び方を訂正してくるの。
「お隣いいかしら? アラトゥスくん」
「アラタ」
「ありがとう、アラトゥスくん」
「アラタ」
「アラトゥスく……」
「アラタ」
絶対に譲らないのよね……。
でも、きちんとした発音で名を呼ばないのは、殿方に対してあまりにも無作法。
だからそう呼ばないわけにはいかなかったのだけど……。
「お前、要領悪すぎな」
その日、とうとう言われてしまった。
そうして、珍しく取り巻きや奴隷までもが場を外していた隙に、手を引かれたの。
そのままシーって動作で指示されて、されるがままついていった先で言われた、次の言葉は。
「二人の時ならいいだろ?」
「え……?」
「俺は無作法とか思ってねぇし。むしろアラタで呼んで欲しいんだっつの。つーか、俺にとってはアラトゥス呼びの方が無作法」
アラタと呼べと言っているのに、それをしないのか、女のくせにって、そう、言われた気がした……。
それで慌てて「アラタくんっ」て、言ったのに。
「アラタ」
……言ったわよね?
「くんとかいらねぇ。アラタでいい。ダチなんだから、それくらい普通のことだろ」
「だち?」
「そ。友達だろ、俺たち」
その時の気持ちを、どう表現すれば伝わるかしら……。
心臓を、アラタの両手でギュッと掴まれたように感じたと言えば、分かってもらえる?
友達だろって言って、にっこりと笑ってくれたそのお顔が、とても魅力に溢れていて、発光しているのかって思うくらいに、輝いていたわ。
頬が熱くなって、呼吸が乱れて、全身をゾクゾクと悪寒に近いものが走り抜けて!
「お友達……」
「そ。サクラはダチなんだから、俺のことはアラタって呼びすてりゃいンだよ」
友達だから、サクラって、呼んでくれていたの⁉︎
それが、人生で初めて友達を持ったと自覚した瞬間だった。
取り巻きや奴隷はいつだって私の側にいたわ。だけど、あのこたちは私を煽てる役目で、私を監視する役目……。
なんでもない会話なんてしてくれない。呼び捨てなんてしちゃいけない。名前の省略なんてもってのほかだった!
「周りの目があるから、そう自由にゃなんねぇよな、お前も。大変だよなぁ、議員の子供ってだけで。クルトも大概だけど、お前はもっとだよな」
羨ましいって言われたことは多々あったの。
だけど大変だって言われたのも、初めてだった……。
そしてクァルトゥス様の名前が出たことで、彼とアラタがどうしてあんなふうに仲良く見えたのかを、理解したわ。
クァルトゥス様もきっと、同じように惹かれたんだわ。
身分差を分かっていて、あえて踏み込んでくる彼の気概に。そして……。
大変だって、分かってくれたことに。
そうしてる間にも足を進め、連れてこられたのは学び舎裏手の、林の中だった。
少しだけ開けている場所で、大きな木のウロから敷物を引っ張り出して広げたアラタは、その上にゴロンと寝転んでしまった。
「ここ、穴場なんだ。
窮屈になったら好きに来ていい。見つかるようなヘマだけしないよう気をつけろよ。俺やクルトもたまにいるけど……まぁ、そこは気にすんな」
「……ここ、アラタの秘密なのね?」
「そ。秘密基地」
「ひみつきち……」
初めて聞く言葉だったけれど、本来なら教えない場所へ、私を特別に招いてくれたことはちゃんと分かった。
「……ここは、人の目なんて気にしなくていいぞ」
続けてそう言われて――。
きっとアラタは、私が今苦しいの、分かっていたんだわって、やっと気がついたの。
そう、苦しかった……。
飼っていた猫が亡くなってしまって、本当は笑っていたくなかった。
だけど、休むなんて許してもらえなくて、取り巻きの方々に隙を見せるわけにもいかなくて、奴隷たちが見てるから、いつも完璧でなくちゃいけなくて……。
そうじゃなきゃ、お父様にまた、怒られてしまう。
良いと言われたけれど……まだ、戸惑いはあった。でも……。
「後で湯を持ってきてやる。それとそこの湧水で、目の周りを冷やしたり温めたりすれば痕も消せる。……泣いたってバレやしねぇよ」
「っ⁉︎」
泣いていいって、言ってくれたのもアラタが……っ。
そのまま溢れ始めてしまった涙を、アラタはさも困ったといった表情で見ていたわ。自分で良いって言ったくせに、おかしいわよね。だけど視線を逸らして、そのまま泣くことを許してくれた……。
しばらくはそうしてソワソワとしてたのだけど、そのうち急に私の手を取った。
「眩しいよなぁここ」
陽の光はまだまだ強くて暑かったけれど、この木陰は優しく柔らかく、熱と眩しさを遮ってくれていたのに。
私の手をさらに引いて、すぐ隣に座らせてから、抱きしめてくれた……。
「俺ちょっと眠いから、つきあって」
そのまま引き倒された時は、流石に慌てたわ。
殿方にそうされるのがどういうことかくらい、もう分かる年だった。でもアラタは私を胸に抱いて、敷物に横たわって、それ以上は何もしなくて……。
泣いてる子どもをあやすみたいに、ただ抱きしめているばかり……。
「はしたないわ……」
「何が?」
「殿方の腕に抱かれているだなんて……」
そう言ったら、ブハッと、盛大に吹き出して。
「殿方ぁ⁉︎ うっわ、ガキのくせして言うわぁ」
「私が子どもなら、貴方だって子どもよ」
ついムッとして言い返してしまってから、ハッとしたの。
またやってしまった。
殿方の前では常に従順に。そう言い聞かせられているのにっ。
またいけない癖が出た。
私は、何度やっても、何回言われても、どうしても……!
だけどアラタはそんな私を、責めたりなんてしなかった。
「そうそう、俺たちはたった十二歳のガキなんだから、そんなにいつも張り詰めてなくていい。
ガキのうちだけだぞ、失敗を笑って許してもらえるのはさ……」
まるで大人みたいに落ち着いた口調で、私を見て頭を撫でたの。
「サクラはまだ、失敗していい。生意気とかそんなん、俺は思わねぇし、どうだっていいし」
急に悪い笑顔でニヤリと笑って。
「だいたい、口答えしちゃ駄目って、そりゃ無理だろ? 人生何十年あると思ってンだよ。つーか、口答えくらい許してくれる、寛大な夫を探しゃいいんだから、気負うことねぇって」
「口答えくらい……許してくれる、夫……?」
「人類の半分が男なんだから、そんな奴もいる」
無責任にあっけらかんと、そう言ったアラタ。
貴方みたいな?
思ったけれど、口にできない私……。
だけどアラタの言葉は、私の心に小さな灯りをひとつくれたわ。
そうなんだ。そんな人もいるのね。
こうして、少なくとも一人、私の前に……。
そこで、ガサリと藪が揺れた。
不意のことでびっくりしてしまった私は、とっさにアラタの胸にしがみついたの。
木々の中だし、てっきり動物か何かかと思ったのだけど……。
アラタは気楽に声を上げた。
「おー、クルトも来た」
藪をかき分けて来たクァルトゥス様が、抱き合い敷物に横たわる私達を見て、あんぐりと口を開いて……っ!
慌てて身を離したけれど、目敏く私に涙の痕跡を見つけてしまったクァルトゥス様は、たいへんお怒りになって、アラタに詰め寄ったの。
「アラタ! お前っ、セクスティリア嬢に何をした⁉︎」
「ち、違うの。アラタは何も……私、何もされていないわ!」
「だがその涙は!」
「違うのよ。これは悲しい涙じゃないわ。私……私、嬉しかったの!」
泣いて良いって言ってもらえて、悲しむことを許してもらえて、嬉しかったの。
でもそのせいで、アラタは誤解されてしまった。
けれど当のアラタは、気分を害した様子もなく、ニヤニヤ笑って「お前に誓って、彼女に手出しはしていない」なんて言うのよ!
そうしてなんとか誤解を解いたあと、アラタはこう言った。
「クルト、サクラも秘密基地の隊員になるから、ここのことは三人の秘密だ」
三人だけの、秘密の場所……。
その特別な響きが嬉しくって、くすぐったくて……。
気持ちがなんだか昂ってしまった私は、勢いに任せて言ってしまった。
「よろしくね、クルト!」
「よ、よろしく……サクラ」
その日私は、人生で二人目の友達まで手に入れたわ!
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