三話 秘密基地

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 家でどんなに苦しいことがあったって、それを顔に出してはいけない。  それが貴族(パトリキ)というもので、淑女というもの。  学び舎では特にそう。  貴族や上位平民(ノビレス)の子に知られた弱味が、どう転がってお父様の足を引っ張るか、分からないから。  季節は巡り、秋も間近となった頃。  私も学び舎に慣れ、派閥争いもひと段落したものだから、少しゆとりが出てきていたわ。  いつものザンバラな黒髪が目についたものだから。 「ごきげんよう、アラトゥスくん」  笑顔でそう声を掛けると。 「アラタ」  真顔でそう返事が返った。  いつでも彼はそう。律儀に呼び方を訂正してくるの。 「お隣いいかしら? アラトゥスくん」 「アラタ」 「ありがとう、アラトゥスくん」 「アラタ」 「アラトゥスく……」 「アラタ」  絶対に譲らないのよね……。  でも、きちんとした発音で名を呼ばないのは、殿方に対してあまりにも無作法。  だからそう呼ばないわけにはいかなかったのだけど……。 「お前、要領悪すぎな」  その日、とうとう言われてしまった。  そうして、珍しく取り巻きや奴隷までもが場を外していた隙に、手を引かれたの。  そのままシーって動作で指示されて、されるがままついていった先で言われた、次の言葉は。 「二人の時ならいいだろ?」 「え……?」 「俺は無作法とか思ってねぇし。むしろアラタで呼んで欲しいんだっつの。つーか、俺にとってはアラトゥス呼びの方が無作法」  アラタと呼べと言っているのに、それをしないのか、女のくせにって、そう、言われた気がした……。  それで慌てて「アラタくんっ」て、言ったのに。 「アラタ」  ……言ったわよね? 「くんとかいらねぇ。アラタでいい。ダチなんだから、それくらい普通のことだろ」 「だち?」 「そ。友達だろ、俺たち」  その時の気持ちを、どう表現すれば伝わるかしら……。  心臓を、アラタの両手でギュッと掴まれたように感じたと言えば、分かってもらえる?  友達だろって言って、にっこりと笑ってくれたそのお顔が、とても魅力に溢れていて、発光しているのかって思うくらいに、輝いていたわ。  頬が熱くなって、呼吸が乱れて、全身をゾクゾクと悪寒に近いものが走り抜けて! 「お友達……」 「そ。サクラはダチなんだから、俺のことはアラタって呼びすてりゃいンだよ」  友達だから、サクラって、呼んでくれていたの⁉︎  それが、人生で初めて友達を持ったと自覚した瞬間だった。  取り巻きや奴隷はいつだって私の側にいたわ。だけど、あのこたちは私を(おだ)てる役目で、私を監視する役目……。  なんでもない会話なんてしてくれない。呼び捨てなんてしちゃいけない。名前の省略なんてもってのほかだった! 「周りの目があるから、そう自由にゃなんねぇよな、お前も。大変だよなぁ、議員の子供ってだけで。クルトも大概だけど、お前はもっとだよな」  羨ましいって言われたことは多々あったの。  だけど大変だって言われたのも、初めてだった……。  そしてクァルトゥス様の名前が出たことで、彼とアラタがどうしてあんなふうに仲良く見えたのかを、理解したわ。  クァルトゥス様もきっと、同じように惹かれたんだわ。  身分差を分かっていて、あえて踏み込んでくる彼の気概に。そして……。  大変だって、分かってくれたことに。  そうしてる間にも足を進め、連れてこられたのは学び舎裏手の、林の中だった。  少しだけ開けている場所で、大きな木のウロから敷物を引っ張り出して広げたアラタは、その上にゴロンと寝転んでしまった。 「ここ、穴場なんだ。  窮屈になったら好きに来ていい。見つかるようなヘマだけしないよう気をつけろよ。俺やクルトもたまにいるけど……まぁ、そこは気にすんな」 「……ここ、アラタの秘密なのね?」 「そ。秘密基地」 「ひみつきち……」  初めて聞く言葉だったけれど、本来なら教えない場所へ、私を特別に招いてくれたことはちゃんと分かった。 「……ここは、人の目なんて気にしなくていいぞ」  続けてそう言われて――。  きっとアラタは、私が今苦しいの、分かっていたんだわって、やっと気がついたの。  そう、苦しかった……。  飼っていた猫が亡くなってしまって、本当は笑っていたくなかった。  だけど、休むなんて許してもらえなくて、取り巻きの方々に隙を見せるわけにもいかなくて、奴隷たちが見てるから、いつも完璧でなくちゃいけなくて……。  そうじゃなきゃ、お父様にまた、怒られてしまう。  良いと言われたけれど……まだ、戸惑いはあった。でも……。 「後で湯を持ってきてやる。それとそこの湧水で、目の周りを冷やしたり温めたりすれば痕も消せる。……泣いたってバレやしねぇよ」 「っ⁉︎」  泣いていいって、言ってくれたのもアラタが……っ。  そのまま溢れ始めてしまった涙を、アラタはさも困ったといった表情で見ていたわ。自分で良いって言ったくせに、おかしいわよね。だけど視線を逸らして、そのまま泣くことを許してくれた……。  しばらくはそうしてソワソワとしてたのだけど、そのうち急に私の手を取った。 「眩しいよなぁここ」  陽の光はまだまだ強くて暑かったけれど、この木陰は優しく柔らかく、熱と眩しさを遮ってくれていたのに。  私の手をさらに引いて、すぐ隣に座らせてから、抱きしめてくれた……。 「俺ちょっと眠いから、つきあって」  そのまま引き倒された時は、流石に慌てたわ。  殿方にそうされるのがどういうことかくらい、もう分かる年だった。でもアラタは私を胸に抱いて、敷物に横たわって、それ以上は何もしなくて……。  泣いてる子どもをあやすみたいに、ただ抱きしめているばかり……。 「はしたないわ……」 「何が?」 「殿方の腕に抱かれているだなんて……」  そう言ったら、ブハッと、盛大に吹き出して。 「殿方ぁ⁉︎ うっわ、ガキのくせして言うわぁ」 「私が子どもなら、貴方だって子どもよ」  ついムッとして言い返してしまってから、ハッとしたの。  またやってしまった。  殿方の前では常に従順に。そう言い聞かせられているのにっ。  またいけない癖が出た。  私は、何度やっても、何回言われても、どうしても……!  だけどアラタはそんな私を、責めたりなんてしなかった。 「そうそう、俺たちはたった十二歳のガキなんだから、そんなにいつも張り詰めてなくていい。  ガキのうちだけだぞ、失敗を笑って許してもらえるのはさ……」  まるで大人みたいに落ち着いた口調で、私を見て頭を撫でたの。 「サクラはまだ、失敗していい。生意気とかそんなん、俺は思わねぇし、どうだっていいし」  急に悪い笑顔でニヤリと笑って。 「だいたい、口答えしちゃ駄目って、そりゃ無理だろ? 人生何十年あると思ってンだよ。つーか、口答えくらい許してくれる、寛大な夫を探しゃいいんだから、気負うことねぇって」 「口答えくらい……許してくれる、夫……?」 「人類の半分が男なんだから、そんな奴もいる」  無責任にあっけらかんと、そう言ったアラタ。  貴方みたいな?  思ったけれど、口にできない私……。  だけどアラタの言葉は、私の心に小さな灯りをひとつくれたわ。  そうなんだ。そんな人もいるのね。  こうして、少なくとも一人、私の前に……。  そこで、ガサリと藪が揺れた。  不意のことでびっくりしてしまった私は、とっさにアラタの胸にしがみついたの。  木々の中だし、てっきり動物か何かかと思ったのだけど……。  アラタは気楽に声を上げた。 「おー、クルトも来た」  藪をかき分けて来たクァルトゥス様が、抱き合い敷物に横たわる私達を見て、あんぐりと口を開いて……っ!  慌てて身を離したけれど、目敏(めさど)く私に涙の痕跡を見つけてしまったクァルトゥス様は、たいへんお怒りになって、アラタに詰め寄ったの。 「アラタ! お前っ、セクスティリア嬢に何をした⁉︎」 「ち、違うの。アラタは何も……私、何もされていないわ!」 「だがその涙は!」 「違うのよ。これは悲しい涙じゃないわ。私……私、嬉しかったの!」  泣いて良いって言ってもらえて、悲しむことを許してもらえて、嬉しかったの。  でもそのせいで、アラタは誤解されてしまった。  けれど当のアラタは、気分を害した様子もなく、ニヤニヤ笑って「お前に誓って、彼女に手出しはしていない」なんて言うのよ!  そうしてなんとか誤解を解いたあと、アラタはこう言った。 「クルト、サクラも秘密基地の隊員になるから、ここのことは三人の秘密だ」  三人だけの、秘密の場所……。  その特別な響きが嬉しくって、くすぐったくて……。  気持ちがなんだか昂ってしまった私は、勢いに任せて言ってしまった。 「よろしくね、クルト!」 「よ、よろしく……サクラ」  その日私は、人生で二人目の友達まで手に入れたわ!
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