ダブルフェイスのあの子

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 一、二つの顔を持つ人々  埋め込まれた熱で、俊(しゅん)は目眩がしそうだった。 「センセー……」 「……ん? 辛い?」  俊の耳元で、涼(りょう)が甘く囁く。椅子に座った彼の膝の上で快楽に耐える俊は、そのささやかな刺激にすら喉を震わせた。俊は、入れられた瞬間が一番苦しくて一番感じる。涼に言わせれば、そういうところが女の性器に似ているとのことだったが、女性経験のない俊には分からない話だった。  研究室の安いカーテンを通して、春の日差しが抱き合う二人を照らしていた。俊の榛色の前髪から、汗が一滴零れていく。 「このままがいい? 布団の上がいい?」 「……この、まま」  涼に体を預け、俊は細く呟いた。涼の濡羽玉の黒髪が、俊の頬をそっとくすぐる。  狭い個人研究室の更に奥、本棚で仕切られた一畳半ほどのスペースには、宛がわれたパソコンと、涼が持ち込んだ布団が置かれている。本来は頻繁にここで徹夜をする涼が仮眠のためにこっそり持ち込んだものだったが、俊が入学してからは別の用途にも使われるようになっていた。  涼は俊の耳たぶを甘噛みしてから、あまり肉が付いていない腰を優しく掴んだ。前後に揺すると、押し殺した快楽の声が俊の唇から漏れる。ゆっくりとした動きで、涼はしばらくそれを続けた。 「センセ……、もっと」 「もっと欲しい? じゃあ、自分で動いてごらん」  小さく頷いて、俊は不安定な膝の上でそっと腰を揺らした。徐々に動きは速くなり、俊の喘ぎも断続的になっていく。俊の陰茎が涼の固い腹に当たり、先走りがそこを濡らした。その突き入れるような激しい動きに、ローションまみれのコンドームがいやらしい音を立てる。 「上手……」  与えられる快感に身を委ねながら、涼は榛色の頭を撫でた。俊は、セックスの時にだけ見せる極上の笑顔を浮かべて、更に激しく動き始める。  幼さを秘めた円い目が、快楽の色で塗りたくられていた。彼の持つこの無邪気な淫猥さを、涼は一年前に出会った時から好んでいる。 「……俊くん」 「な、に……?」 「ちょっと、止めて」  言われるままに、俊は動きを止める。涼は膝の上の俊を抱き上げて、繋がったままゆっくりと布団に横たえた。榛色の短髪が、布団の上に広がる。 「やっぱり、正常位(こっち)がいいな」  独り言のように呟いて、涼は俊の中に突き入れた。敏感な部分が擦られ、俊は堪らず少し大きな声を漏らす。苦しげに眉を顰める俊の頬に口付けて、涼は蠕動を始めた。  先程以上に激しく、俊の陰茎が涼の腹と擦れ合う。内と外からの快楽を更に貪ろうと、俊は自ら腰を動かした。背筋から脳天まで突き上げるような快感が、俊の意識を奪い去っていく。 「センセ、も、無理……!」 「いいよ、イって」  優しい声と相反する、冷酷なまでに激しい動きで、涼は俊を追い詰めた。自らの陰茎を握り締めた俊は、より強烈な快楽を求める。  手も、声も、腰も、止められない。俊は高い声を上げて、二人の腹の間に精液をまき散らした。  その瞬間にきつく締まった俊の中で、涼もまた快楽を吐き出したのだった。  次に俊が目覚めた時には、セックスの余韻など欠片も残っていなかった。俊が脱ぎ捨てた衣服は彼の体を包み、涼もネクタイこそ付けていないがスラックスとワイシャツ姿に戻っている。閉まっていたカーテンは半分ほど開かれ、涼の吐いた紫煙が窓の外に零れていた。僅かに痕跡を見いだせるのは、パソコンデスクの下にひっそりと置かれたゴミ箱に入っている、精液まみれのティッシュとコンドームが詰められたナイロン袋だけだ。 「おはよ。黒畑(くろはた)くん」  フィルターのない紙煙草〈しんせい〉を片手に、椅子に座っていた涼は振り返った。俊は少しだけ眉を顰めてから、「おはよう、センセー」と返す。〈しんせい〉に限らず、俊は煙草の匂いが嫌いだ。 「五時間目、いいの? あと十分で四時間目終わるよ」 「つまんないから、いい」 「まだ三回目でしょう? とりあえず出ときなって」 「……うん」  仕方なく、俊は起き上がった。寝癖の付いた榛色の髪を手櫛で解いて、アウターを羽織る。 「センセーは、授業ないの?」 「六時間目。それまでにこのプリント仕上げなきゃいけないんだよね」 「ふーん」  さして興味はなかったが、俊はパソコンのディスプレイを覗いた。ほとんど完成しているそのプリントには、『男色』、『陰間』、『色町』などの単語が並んでいる。彼、細野(ほその)涼は、日本の男色文化に造詣の深い若手研究者だった。だが、俊にはどうでもいいことだ。  一年前にハッテン場で出会って以来、俊は涼とだけ関係を続けている。彼とのセックスの条件が、もうハッテン場には行かないことだったからだ。そこ以外の場所で遊び相手を見つける方法がないわけではなかったが、俊は自然と彼以外とセックスすることがなくなった。  その涼に勧められるまま彼のいる大学に入学した俊だったが、早くも学業が面倒になってきていた。ただ、涼とのセックスは気持ちいい。だから俊は大学に来ているようなものだった。  ふわりと、カーテンが揺れる。誘われるように、俊は窓の外を見た。抜けるような青空と、見慣れてきたキャンパス。どれもこれも、俊にはつまらない。 「やっぱり、寝てていい?」 「駄目だってば。単位落としちゃうよ」  涼は煙草を揉み消して、呆れたように言った。そして、俊と同じように窓の外へ視線を遣る。涼はすぐに下を向いて、なにかを探すように階下を見回した。 「あ、いた」 「……なにが?」  嬉しそうな声を上げた涼は、研究室棟の目の前にあるカフェテラスを見下ろしていた。四階の一番隅にある涼の部屋は、カフェテラスのほぼ真上になる。俊もつられて、そこに視線を送った。  涼と同じ、烏の濡れ羽色が風に揺れていた。真っ直ぐな黒の長髪は、ゆったりとしたロングスカートの腰にまで届くほどだ。時折その髪を耳に掛けながら、彼女は本を読んでいた。テーブルの上には、大学で売られている色気のないタンブラー。向かいの椅子には、少し大きめのバッグ。大学構内では、珍しくない光景だ。 「可愛いよね、あの子」  涼は独り言のように、そう言った。だが、四階からでは彼女の顔まではよく見えない。俊は少し目をこらしてから、彼女の美醜を確認するのを諦めた。 「教え子?」 「ううん。名前も学部も知らない。でもよく見かけるんだ。半年くらい前から」 「ふーん」 「結婚するなら、あんな感じの子がいいよね」  悪びれもなく、涼はにこりと笑って言った。俊の心の片隅に、言いようのない不快感がそっと生まれる。 「俺、男の人しか好きにならないから」 「ああ、君には分かんないか」  俊は窓枠に肘を突いて、彼女をぼんやりと眺めた。画面に視線を戻した涼は、キーボードを叩きながら続ける。 「ああいう子なら、結婚しても尽くしてくれそうじゃない? もし別れることになっても、慰謝料や養育費ふっかけてこないだろうし。そもそも、できちゃった結婚とかしなさそうだよね」 「……俺、よく分かんないから」  嫌な流れだった。この手の話になると、涼は途端に愚痴っぽくなる。話を断ち切ろうとした俊の思いも虚しく、涼は続けた。 「いやいや、大事なことだよこれは。養育費なんて、最低でもあと八年は払わなきゃいけないんだから」 「ふーん」 「大学行きたいとか言われたら、更に四年か……。はぁ、幸せな結婚したいなぁ……。できたらもう別れない方向で」 「ふーん」 「また下手な轍踏んで、慰謝料二倍になるのは嫌だよねぇ」 「そうだね」  尚も言い募りながらキーボードを鳴らす涼に適当な相槌を打ちつつ、俊はカフェテラスの女をなんとなく眺め続けた。  しばらくして、一枚ページをめくってから彼女はしおりを挟んだ。カバーの掛かった本を閉じ、タンブラーに手を伸ばす。  円い筒を傾けた彼女は、不意に俊の方を見上げた。……と、俊は思った。目が合ったような気がしたのだ。奇妙な気恥ずかしさを感じ、俊は目を逸らす。  四時間目の終了を告げるチャイムが鳴ったのは、その時だった。 「黒畑くん、行っておいで。サボっちゃ駄目だよ」 「う、うん」  涼の声で我に返り、俊は窓から離れた。本棚で作られた仕切りの隙間をすり抜け、床に投げていた鞄を掴む。 「明日はお昼から暇だから」  本棚の向こうから、涼の声が響いた。 「うん。じゃあね、センセー」  俊が声を掛けると、のんびりとした返事が来る。それを聞きながら、俊は研究室を出た。小走りに階段まで向かうと、やたらと足音が響く。  大学が創立された当初から存在しているこの研究室棟は、あちこちにボロが来ている。リノリウムの廊下には大小無数の傷が付き、ドアの蝶番はぎしぎしと音を立てた。階段は所々にヒビが入り、補強した跡がいくつもある。  錆だらけの細い手すりを片手に、俊は早足で階段を下りていった。涼に会いに行くためにしょっちゅうここには出入りするが、廃屋一歩手前のこの建物が俊は苦手だった。他に新しい研究室棟があるが、今のところ涼がそちらに移動する話はない。あっちならエレベーターも付いてて上り下りが楽なのに、と思いながら、俊は最後の一段を下りた。  階段の目の前には、正面出口がある。先程まで俊が見下ろしていたカフェテラスは、そこから左手だった。俊はよく前を通るが、中に入ったことはない。パンやコーヒーの香りに腹を鳴らすことはあったが、涼の研究室に行けばなにかしらの飲食物があったため、利用する必要がなかったのだ。  普段ならばなにも考えず通り過ぎるが、先程のこともあって俊は思わずそちらに目を向けた。  長い黒髪が、相変わらず風に揺れている。ゆったりしたロングスカートからささやかに覗く足は、細いパンプスに包まれていた。大人しめのファッションの、どこにでもいる女性だ。    可愛いよね、あの子。  俊は涼との会話を思い出し、再び不快感が戻ってくるのに気付いた。自然、表情が固くなる。  涼との関係は、あくまでもドライなものだ。恋愛感情があるから一緒にいるわけではない。以前付き合ってきた相手も、みんな同じだ。セックスさえできれば、それでいい。だから、嫉妬など俊には無縁だった。それは今までも変わらなかったし、これからも変わらない。  殊更になんでもない表情を作り、俊は彼女の横を通り過ぎようとした。  その時、ことり、と小さな音が鳴った。音につられて、俊はつい彼女に目を向ける。  一際強く、風が吹く。タンブラーをテーブルに置いた彼女は、きつい視線で俊を射抜いていた。髪と同じ、濡れた烏の羽のような黒い目が、真っ直ぐに俊を見据えている。  ぞくり、と背筋に寒気が走り、俊は固まった。視線を逸らせず、彼女を見つめることしかできない。  彼女は、口を開いた。だが、すぐ閉じる。喉元を隠すストールの奥が、少しだけ蠢いた。  すっと、彼女の視線がテーブルの上の本に落ちる。  何事もなかったかのように、彼女はまた読書を始めた。長い睫を伏せて、紙の上の文字を追う。一葉の写真のような光景が、再び戻ってきていた。  金縛りが解けた俊は、逃げるように教室へ向かう。背中に冷たい視線が貼り付いてしまったような気がして、どうにも落ち着かなかった。 「……なんだったんだろ。あの人」  ようやく俊がそう思い至ったのは、教室に入ってからだった。  翌日、金曜の昼。昼食も兼ねて、休憩に入ると俊はまた涼の研究室を訪ねていた。体の奥にくすぶる熱を持て余しつつ、涼がこっそり持ち込んだ炊飯器から勝手に炊きたてのご飯を拝借する。同じく涼が隠し持っているふりかけを取り出して、俊はテーブルの上の本をどけた。茶碗が置けるスペースを確保してから、俊の昼食は始まる。  その間、涼は本の山の向こうでコーヒーを片手にプリントを眺めていた。作成者のところには『赤森(あかもり)桂(けい)』と書かれている。『若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)の構造と日本人の少年愛について』という題名を見ただけで、俊が早々に興味をなくしたものだ。涼はと言えば、いつになく興味深そうにプリントを精読しては、ペンを走らせている。  ふりかけご飯を食べながら、俊は涼の手をじっと見ていた。身長は大して変わらないが、彼の手は俊より一回りは大きい。少し筋張っているが、俊にとっては途轍もなく心地いい手だ。温かい指先が体中を這い、体内にまで入ってくる感触を思い出して、俊はそっと肩を震わせた。  最後の一口を飲み込んだ俊は、茶碗と箸を置いた。涼は相変わらず、プリントに向かっている。  俊は、口を開こうとした。  だが、「エッチしよう」と言う前に、危機感のない電子音が部屋に響き渡る。 「あ、メール来た」 「……え?」  涼は俊を置いて、パソコンがある仕切りの向こうへ行った。その背中を見送って、俊は口を噤む。  すぐに、涼は戻ってきた。俯いていた俊の頭を優しく撫でる。俊は、嫌な予感がした。 「もう少ししたら、これ書いたゼミの子が来ることになったから。俊くん、どうする?」 「……どう、って」  俊は虚しさを覚えながら、涼しげな涼の顔を見上げた。 「帰る? それとも、奥で寝てる?」 「……じゃあ、奥で寝てる」 「そっか。ちゃんとカーテン閉めるんだよ」  大人しく頷いて、俊は鞄を掴んだ。引きずるようにそれを奥に持っていき、本棚でできた仕切りの隙間に掛けられたカーテンを引く。窓のカーテンも閉めて、俊は布団を引っ張り出した。 「寝る前にお茶碗洗ってきて」 「はーい」  寝床の用意をしてから、俊は再びテーブルの前に戻った。置きっぱなしにしていた茶碗と箸を取り、研究室を出る。  昼なお暗い廊下は、いつものように足音を大きく響かせる。給湯室までの短い道程を行きながら、俊はそっと溜息を吐いた。  胸の奥が、疼く。自分でも持て余すほどの性欲が、出口を求めて俊の中で彷徨っていた。男に抱かれ始めた三年前から、それは止まらない。たとえどんなに満足のいくセックスをしても、すぐにまた胸は疼いた。俊は最初こそ、自分は異常なのではないかと思っていたが、今ではもうそれに慣れ親しんでしまった。羞恥心も罪悪感も、あまりない。  温水で食器を洗いつつ、俊はゆっくりと熱い息を漏らした。性欲は、ほんの少しだけなりを潜める。  再びそれが暴れ出す前にと、俊は足早に涼の研究室へ戻った。  布団に入ると、すぐに俊は目を閉じた。温かい日差しがカーテン越しに俊を包み、優しく眠気を誘う。持て余すばかりの熱よりも更に強く、睡眠欲が彼の体を支配した。  遠くで、蝶番の軋む音が聞こえた。ゼミの人が来るんだっけ、と俊は涼との会話を思い出そうとしたが、早々に諦めて睡魔に身を委ねる。  聞き慣れない声が、聞き慣れない呼び方で涼の名を呼ぶ。ささやかな違和感を覚えながら、俊はゆっくり眠りの世界へ旅立っていった。  夢の中で、懐かしい人に出会った。  十年前に死んだ、俊の父親だ。いつも仕事で留守がちな母に代わって、俊を大切に育ててくれた。穏和で優しく、料理の上手な父だった。  夢の中の父は、少し筋張っている大きな手で、俊の頭を撫でてくれる。俊はこの手が大好きだった。 「お父さん」 「なに?」  帰ってきた声は、父ではなかった。俊の知らない内に、父は涼に変わっていた。 「お母さん、いつ帰ってくる?」 「なに言ってるんだ? そこにいるじゃないか」  涼は困ったように笑って、指さした。大好きな手を差す方向へ視線を遣った俊は、言葉を失う。  カフェテラスの女が、俊を睨み付けていた。  飛び跳ねるように起き上がった俊は、肩で息をしながら汗を拭った。春だと言うのに、全身が汗で濡れている。  俊が息を整えていると、「誰かいるんですか?」と聞き慣れない男の声が仕切りの向こうで言った。 「新入生の子なんだけど、前々からの知り合いでね。疲れてたみたいだから奥で寝かせてたんだよ」 「……ふーん」 「ちょっとごめんね」  一言断ってから、涼は奥に顔を出した。心配そうに、俊の顔を覗き込む。 「うなされてた? すごい汗だよ」 「……ちょっとだけ」 「ココアでも飲む?」  俊が頷くと、涼は仕切りの向こうへ戻っていった。程なく、カチャカチャと食器を探す音が響く。 「赤森くんもなにか飲む? コーヒーとココアあるけど」 「いえ、お構いなく」  赤森と呼ばれた学生は、遠慮がちに応えた。俊の脳裏に、先程ちらりと見たプリントの作成者が思い浮かぶ。赤森桂、だった。 「コーヒーでいいね。ミルクと砂糖は?」 「あ、あのほんとに……」 「若い内から遠慮しないの。希望がないならなにも入れないよ」  二つのカップの中に粉末のコーヒーを入れながら、涼は桂に答えを急かした。電気ポットの水量を確認する涼を見て諦めた桂は、黒縁眼鏡を押し上げる。 「じゃあ……、砂糖二つ、ミルク一つで」 「へぇ、甘党なんだ。意外だな」  楽しげな涼の声に、俊はまた不快感を覚えつつあった。体がべたついてるせいだ、と思いながら、静かに体を起こす。 「そうですか?」 「ああ。ブラック好きそうだと思ってた。ミルクなしとか」 「飲めませんよ、そんなの。俺、先生の中でどんなイメージなんですか」 「見た目の割に大人っぽい、かな?」 「身長のこと言ってるんなら、細野先生でも怒りますよ」 「顔のことだよ。君、ちょっと童顔だから。……あ、黒畑くん」  仕切りの奥から出た俊を、少し驚いた涼が迎える。 「もう少し寝てていいよ」 「……目、覚めました」  できる限りの丁寧な言葉遣いを選び、俊はゆっくりと話した。そして、涼の向かいに座っている桂に目を遣る。俊から視線を少しずらし、桂は口を開いた。 「初めまして」  黒縁眼鏡に、ダークブラウンの短髪、無地のシャツにくたびれたジーンズ、そして少し大きめだが、どこにでもあるリュック。ここで出会わなければ心の隅にも残らないと確信できるほど、彼は地味な男だった。  だが、俊はなにかが引っ掛かった。警戒心丸出しの嫌な目に、既視感を覚える。 「赤森桂です。細野ゼミの二年の」 「黒畑俊、です。一年です」  軽く頭を下げて、俊は空いている椅子に座る。積まれている本をどけると、目の前にココアの入ったカップが出された。 「はい、ココア」 「……ありがとうございます」 「どういたしまして。赤森くんはこっちね。砂糖二つとミルク一つ」 「ありがとうございます」  涼と話していた時のくだけた口調から一転、桂は低い声で礼を言った。  しばし、沈黙が落ちる。俊はちびちびとココアを飲みながら、横目で桂を観察した。桂はと言えば、逆に目が合わないように下を向いてコーヒーを啜っている。互いに、あまりいい印象はなかった。 「赤森くんはね」  一息吐いた涼が、二人の微妙な空気を知りながら、さして気にした風もなく切り出した。 「若衆歌舞伎とか少年愛とかについて研究しようとしてるんだよ。黒畑くん知ってる? 若衆歌舞伎」 「教科書で、見かけたことあります」  数ヶ月前まで詰め込んでいた記憶をどうにか引っ張り出して、俊はそれだけ口にした。実際、それ以上の知識はない。 「近世初頭に、女歌舞伎が禁止された後で行われてたんだ。すぐに禁止されたからあまり史料が残ってないんだけど、女歌舞伎と同様に大人気だったそうだよ。女歌舞伎はその名の通り、女だけで演じるかぶき踊りだけど、若衆歌舞伎は少年だけで演じたんだ。赤森くんはそれを題材にして、当時の日本人の美意識とか、少年愛の根源について研究したいんだって。……まぁ、君は興味ないか」  早くも目が半分閉じている俊に苦笑して、涼は角砂糖が一つだけ入ったコーヒーを啜った。 「あの、先生、俺そろそろ……」 「ん? ああ、バイトあるんだっけ? 引き留めて悪かったね」 「いえ。コーヒーありがとうございました」  丁寧に頭を下げ、桂はテーブルの上に開いていたプリントを畳む。大きなリュックから取り出したクリアファイルにそれを入れると、もう一度頭を下げた。 「今日は、ほんとにありがとうございます」 「こちらこそ。来週は面白い発表、期待してるよ」  はい、と嬉しそうに返事をしてから、桂は研究室を去っていった。ドアを閉める前に、「失礼しました」と言うのも忘れない。  小柄な後ろ姿がドアの向こうに消えてから、ようやく俊は肩の力を抜いた。温くなったココアを一気に飲み干して、溜息を吐く。 「……疲れた?」 「うん。……ああいう人、苦手」  頬杖を突いて、涼はまた苦笑した。 「いい子なんだよ。ただ、ちょっと人見知りするって言うか、あんまり人付き合いが上手くないって言うか……。特に、君みたいにあんまり目的決めずに大学来たって人が嫌いみたいでね」 「ふーん」  内心「どうでもいいや」と思いながらも、俊は相槌を打った。一息吐くと、途端にまた性欲が疼き始める。今は興味のない先輩の話より、持て余している性欲をどうにかしたかった。  今度こそ、と思い、俊は口を開いた。だが、言葉を発する前に、「あ」という間抜けな声に遮られる。 「あーあ。赤森くん、筆箱忘れてる」 「……そう、だね」 「届けてあげてよ。まだ、そんなに遠くに行ってないと思うから。見つからなかったら、僕のところに返してくれればいいよ」 「……うん」 「ごめんね、黒畑くん」  俊は力なく首を振る。飾り気のない小さな筆箱を片手に、立ち上がった。 「荷物、いいの? 定期とか財布とか、入ってるよね?」 「……え? あ、うん」  差し出された鞄を手に、俊は虚しさを覚えながら研究室を出る。去り際に見た涼は、またプリントを眺めていた。  暗い溜息が、廊下に響き渡った。  研究室を出て、俊は階段へ向かった。錆びた細い手すりと手すりの隙間から、階下へと降りていく手が見える。走って追い掛けるのも億劫で、俊はだらだらと階段を下りていった。  だが、二階まで来て立ち止まる。廊下の突き当たりにあるトイレのドアが、軋んだ音を立てたのだ。そちらに視線を遣ると、先程見かけたリュックがドアの向こうに吸い込まれていくところだった。  筆箱の入った鞄とトイレを見比べて、少し俊は悩んだ。わざわざ追い掛けて渡すか、桂を見つけられなかったことにするか迷ったのだ。  追い掛けていって堅苦しい桂と話すのは億劫だったが、さり気なく帰宅を促された後で涼のところに戻るのも気が進まない。せっかく下りた階段をまた二階分上がるのも面倒だった。このまま素知らぬ振をして帰るのも手だったが、他人の持ち物を自分の家まで持って帰るのはあまりいい気分ではない。  仕方なく、俊は突き当たりのトイレに向かった。四階にある涼の研究室以外、特に寄る用事がなかった俊は、初めて二階の廊下を歩いた。どの研究室も暗く静かで、ドアの横にある手作りの居所表示は、どれも『授業』、『帰宅』を示している。不気味なほど静かなフロアに、俊の足音だけが響いていた。  トイレの前までやって来て、俊は首を傾げる。  女子トイレしかないのだ。思い返せば、涼のいる四階には男子トイレしかなかった。「古い建物だから、元々は男子トイレしかなかったんだよ」という涼の言葉が蘇る。時代が進むにつれ女性の大学講師が増えたため、二階だけ女子トイレに改装したという話を、今になって俊は思い出した。  見間違えたかと思い、俊は踵を返した。だが、どう考えてもちらりと見えた地味なリュックは桂のものだった。  あの堅物そうな桂が、本当に女子トイレに入っていったとしたら。そう考えて、俊は奇妙な好奇心を覚えた。中でなにをやっているのだろう、こんなところから出てくるのを誰かに見られたら、桂はどんな顔をするんだろう。随分と久し振りに、俊はセックス以外のことに興味を持ち始めていた。  壁を背にして、俊はトイレのドアを見守った。物音一つしない廊下で、五分、十分と時間だけが過ぎていくが、桂は一向に出てこない。  俊は用心深く周囲を見回してから、ドアノブに手を掛けた。できる限り優しく回しても、油の少ないドアノブは軋んだ音を立てる。蝶番が、悲鳴を上げた。  からん、と乾いた音が響く。それが口紅の落ちる音だと俊が気付いたのは、一拍遅れてからだった。  烏羽玉の黒髪が、ばさりと揺れる。こちらを向いて俊を凝視しているのは、昨日見かけたカフェテラスの女だった。落ち着いたメイクの施された顔の中で、唇だけが不自然なほど自然な色を残している。 「え……、あ、の」  見間違いだった。真っ先に、俊はそう思った。確かに見たはずのリュックはないし、眼鏡も掛けていない。そもそも目の前にいるのは女だ。勘違いで異性のトイレに入ってしまった。俊の頬が、羞恥に染まる。  女は、なにも言わずに震えている。俊は頭を下げて、出て行こうとした。  だが、違和感を覚えて咄嗟に顔を上げる。昨日喉元を隠していたストールが、今は彼女の腕の中にあった。 「……赤森、さん?」  ごくり、と喉仏が鳴る。震える唇は、返事をしない。俊は、一歩踏み出した。昨日と同じパンプスに包まれた細い足が、後じさる。乾いた音が、トイレ中に響き渡った。  濃い睫に縁取られた目が、ゆらりと揺れた。見る見るうちに潤んでいく。どくり、と俊の心臓が音を立てた。  青くなった唇が、そっと開いた。 「……お願い、誰にも、……言わ、ないで」  細く掠れ、ひどく頼りなかったが、それは間違いなく男の、桂の声だった。  どくどくと脈打つ胸の音が、俊の思考をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせる。 「お願いだから、誰にも」  か細い声が、俊の頭に痛いほど響く。 「……先生、には、言わないで……」  一滴。涙の玉が、薄くチークを塗られた頬に零れていった。桂は、俯いた。  俊は、更に一歩踏み出した。小刻みに震える手が、ブラウスに包まれた細い腕を掴む。桂の肩が、びくりと大きく揺れた。  怯えた目が、俊を見上げる。震える唇は、恐怖のためにほんの少しだけ開いていた。更に一つ、二つと、涙の粒が落ちていく。  どうしたらいいのか、分からなかった。ただ、俊は欲しかった。  その、震える唇も、揺れる瞳も。  初めての衝動に突き動かされ、俊は青い唇を奪っていた。  桂の目が、見開かれる。一瞬遅れて、桂は俊の肩を引き離そうとした。だが、力の加減を忘れた俊の手がきつく桂の腕を掴み、空いていた手がその頭を無理矢理引き寄せた。苦痛に歪む眉すらも、俊の欲を掻き立てる。  驚きのあまり開かれたままになっていた唇の奥に、俊は舌を突き入れた。再び、桂の肩が揺れる。  抵抗の仕方すら知らない舌を、俊は素早く絡め取った。互いの唾液が混じり合って、唇の隙間から卑猥な水音が漏れる。桂の喉から、声にならない音が響いた。  桂の手が、力なく俊の肩から落ちる。俊は細腕を掴んでいた手を離し、ブラウスのボタンを外そうとした。  今すぐに、欲しかった。  その時、ひくり、と桂の喉が鳴る。俊の手を、ぽたぽたと涙が打った。喉の痙攣は、徐々に小刻みになっていく。夕立のような涙が、俊の手を濡らしていった。  さっと、熱が引いていく。途方もない罪悪感に襲われて、俊は慌てて体を離した。だが、桂の涙はいっそう激しく流れ出す。 「え、あ、あの……、ごめ、ん」  膝の力が抜けた桂は、タイルの上に座り込んだ。ロングスカートが、ふわりと広がる。どうしたらいいか分からず、俊は一緒になって座った。 「あの、誰にも、言わないよ」  俊はできる限り優しく言ったつもりだったが、桂の涙は止まらない。俯いていても、滴が零れているのが分かる。 「なに、が……、したいの」  震える声が、俊を力なく責めた。 「なんなの、あんた……っ。なんで……!」  なんで。俊にもよく分からない。衝動のままに動いた自分が、信じられなかった。  答えられない俊は、肩を震わせて泣き続ける桂の前で途方に暮れた。謝罪も、慰めも、ありきたりなものしか思い浮かばない。泣き止んで欲しいのに、どうしたらいいか分からなかった。  恐る恐る、俊は細い体を抱き締めた。びくりと、また桂が震える。今度はすぐに桂が抵抗して、俊の中から自力で逃げ出した。  ぎゅう、と心臓が握り締められたように痛む。俊はまた、「ごめん」と呟いた。獣を見るような怯えた桂の目が、俊を突き刺す。 「あの、違う、の。えぇと……」  どう言えば自分の気持ちを分かってもらえるのか、俊には想像もつかなかった。上手い言葉が出てこない。ただ、ありのままを告げるしかなかった。 「キス、したかった、だけ……」 「…………なに、それ」 「ごめん……」  桂のスカートの端を握り、俊は俯いた。彼の顔が見られない。自分でもなにがなんだか分からなくて、今度は俊が泣きたくなっていた。 「意味、分かんない」 「う、うん……」 「離して。帰る、から」  笑う膝を叱咤して、桂は立ち上がろうとした。咄嗟に、俊は強くスカートを握り締める。他に、引き留める方法が思い付かなかった。 「離して……!」  強い口調で拒絶されても、俊は首を振って縋るように桂を見つめた。 「誰にも、言わない。言わない、から」  お願い、という言葉は、声にならなかった。俊は乾いた唇を舐めて、ごくりと喉を鳴らす。 「エッチ、して。俺と……」 「そ、れ……、どういう」 「ここが嫌なら、他のところでもいいから。エッチ、して」  スカートを離す代わりに桂の腕を取って、俊はゆっくりと立ち上がった。桂もまた、震える足をどうにか立たせる。  桂は先程以上に怯えた目で、俊を見上げていた。絶望が、その大きな目に揺れている。 「……赤森、さん」 「……分かった、から。離して」  低い声で、桂は呟いた。震える手で転がっていた口紅を拾い、女物の大きなバッグに放り込む。 「……逃げないから、離してよ」 「あ、ごめん」  ようやく我に返った俊が手を離すと、桂はストールを巻き、バッグを抱えた。真っ直ぐな黒髪の下で、暗い目が俊を見つめている。 「え、っと……、どこなら、いい?」 「どこって」 「その、……エッチするとこ」  俊の家は遠い。ラブホテルも近くにない。かといって構内では、よほどのところでない限りはいつ見つかるか分からない。そう思って、俊は訊ねた。  桂は、震える唇をぎゅっと噛む。屈辱に耐えるようなその顔を見て、俊はまた泣きたくなった。 「ご、ごめん」 「なんで、いちいち謝るの……! ……家来て」  冷たく言い放って、桂はトイレのドアを開けた。軋むドアの向こうが、俊には知らない世界のように見えていた。  研究室棟の正面入り口まで来た時だった。先を行っていた桂が、途端に立ち止まる。  視線の先には、いつものカフェテラスが見えていた。 「赤森さん……?」 「赤森って呼ばないで。誰が聞いてるか、分からないから」 「う、うん」  氷のような声に、俊はただただ萎縮していた。それでも怯えられるよりはずっといい。そう思いながら、立ち止まったままの桂の後ろ姿を見つめた。  俊は今になって、桂の身長が自分よりかなり低いことに気付いた。先程、涼の研究室で見た時も小柄だとは思ったが、後ろから見るとそれは更に顕著に分かる。俊は百七十センチを少し越える程度だが、桂は俊の鼻の位置に頭頂があった。 「……なに」 「あ、えと、なんでもない……」  桂は不信感を露わにしつつも、正面入り口から踵を返した。研究室棟の裏にある自転車置き場へ出られる、小さな裏口へと向かい始める。 「自転車、あるの?」 「ない。……あんまり、喋らせないで」 「うん……」  たくさん聞きたいことがあったが、俊は言われるままに黙り込んだ。  不思議な気分だった。俊は今まで、相手のことなど興味を持てなかった。職業はおろか、名前も知らない人を相手にしたこともある。涼のことも、彼が話すまでは知ろうとしなかった。セックスができればそれでいい。そういう場所に顔を出し始めた頃から、俊はそう思っていたはずだった。  なんで。俊は自問した。なんで自分は、目の前を行く女の格好をした桂に、ここまで興味を持つのか。昨日、カフェテラスに座っていた彼を眺めた時も、先程、研究室で普段の姿の桂に出会った時も、なんの興味も沸かなかったのに。俊にはわけが分からなかった。  桂は自転車置き場に出ると、そのまま北門へ向かった。研究室棟の裏から北門までは、ほんの数分で辿着する。その数分の間に何人もの学生とすれ違ったが、奇妙な二人のことを誰一人として気にも留めなかった。  その古びた学生マンションは、大学からそう遠くないところにあった。喫茶店が入っている一階のガラス戸を横目に、二人は階段を上っていく。圧迫感のある灰色のコンクリート壁が、二人の空気をいっそう重くした。  四階の突き当たりの部屋まで来て、桂はバッグの中から鍵を取り出した。すぅ、と大きく息を吸ってから、ドアに鍵を差し込む。  軽い音がして、鍵が開いた。ドアノブを掴む桂の手は、やはり小さく震えている。  とくりとくりと、心臓が音を立てる。俊はそれを聞きながら、ドアが開いていくのを見つめた。ワンルームの部屋が、ゆっくりと露わになっていく。  一歩、部屋の中に入る。俊も後に続いて、ドアに手を掛けた。するりと靴を脱いだ桂は、バッグをコート掛けに掛け、窓へ向かう。俊もまたドアを閉め、靴を脱いだ。肩に掛けていた鞄を、絨毯の上に置く。  カーテンが、閉まった。昼だと言うのに、部屋の中は真っ暗になる。どくり、と俊の胸が強く打った。 「……やるなら、さっさと、して」  気丈な言葉だったが、声の震えは隠せない。桂は固く唇を噛んで、俯きながら俊のところまでやってきた。  恐る恐る、俊は黒髪を撫でた。人工毛は自然な髪と遜色なく、さらさらしていて手に馴染む。両手で桂の頭を支えて、そっと上向かせた。  揺れる瞳が、再び俊を見上げていた。だが、その瞳に映るのは怯えではなく、怒りと僅かな恐怖だ。俊の胸が、また強く痛む。  先程、謝って怒られたのを思い出した俊は、口から出かかった「ごめん」を引っ込めた。代わりに、トイレでの性急な口付けと対照的な、優しくゆっくりとしたキスを落とす。何度も何度も、啄むように軽いキスを続けたが、桂は唇を固く結んで開こうとしない。逆に、見開かれた目は唇を蹂躙する俊をじっと睨んでいる。その冷たい目に見つめられるのが苦しくて、俊は目を閉じた。  柔らかな唇の感触だけを頼りに、俊はキスを続ける。リラックスさせる時に涼がするように、何度も何度も桂の髪を撫でた。だが、桂は頑なだった。  深い口付けを諦めて、俊はキスをしながら手探りでブラウスのボタンに手を掛けた。小さなボタンを丁寧に外し、肌を露わにしていく。ブラウスの下は、カップの付いたタンクトップだった。本来、胸があるはずのそこには、柔らかな布のパッドが詰められている。  ブラウスを肩から落として、俊はタンクトップを捲り上げた。唇を離し、そっと目を開ける。  桂の目から、再び涙が溢れていた。 「……大丈夫、だよ。あの、痛くしないから」  ふい、と桂は顔を背けた。無性に切なくなって、俊は零れそうになったしゃくりを必死に飲み込む。  むき出しになった桂の肩に、彼の涙がぽたぽたと落ちた。それでも、俊はトイレにいた時のように止まることはできなかった。泣きたいほど辛いのに、性欲を吐き出したくて仕方ない。  優しく、しかし抵抗する間を与えず、俊は細い体をゆっくりと押し倒した。絨毯の上に、黒髪とロングスカートが広がる。だが、露わになっている胸は薄い男のものだ。その倒錯した美しさに、俊はしばし息を呑んだ。  しばらくしてから、俊は壊れ物に触るかのように優しく、桂の素肌に触れる。びくり、と白い肩が震えた。引き結んだ唇が、きつく顰めた眉が、俊の指先から与えられる感触に耐えていた。  俊の指先が、そうっと桂の胸をなぞる。俊に、焦らすほどの余裕はない。すぐに指先は、空気に触れて少し冷え、勃ち上がっていた乳首に触れた。 「やめ……っ」 「痛い……?」 「違……っ、や……」  きゅ、と乳首を摘まれて、桂は細く高い声を上げた。彼の意思とは裏腹に、乳首は更に固さを増していく。 「やめて、やめ……っ」 「気持ちよくない……?」  言葉と逆の反応をする桂の乳首に、俊はべろりと舌を這わせた。びくびくと桂の体が震え、羞恥で頬が紅潮していく。  少し顔を上げた俊は、桂の涙が止まったことに気付いて、安堵の笑みを零した。そして、乳首への愛撫を再開する。  片方を舌で突き、もう片方は指先で擦り、時折吸い付いたり摘んだりしては、堪えきれずに漏れた桂の声を聞いた。それだけで、俊の中の欲はどんどん溢れてくる。もっと声を聞きたくて、俊は何度も何度も乳首を責めた。徐々に激しさを増していく愛撫が、頑なだった桂の唇を触れずしてこじ開ける。  片方の乳首に歯を立てられ、もう片方の乳首をきつく摘み上げられた時、とうとう桂は大きな嬌声を上げた。その甘い声が、俊の心臓を鷲掴みにする。 「も、やめて、お願い……!」  荒い息を吐きながら、桂は細い声で懇願した。だが、隠しきれない欲情が混じるその声は、俊を掻き立てることしかできない。開いた唇にもう一度口付け、俊は乳首を弄りながら彼の口内も蹂躙した。  ん、ん、と声にならない音が漏れる。それがどちらのものなのか、もう二人には分からない。嫌が応にも高まっていく熱が、二人を見たことのない場所へ引き込もうとしていた。  しばしの後、息苦しくなるほど長いキスを終え、俊はそっと顔を離す。 「……勃ってる……?」 「違……! さ、触らないで!」  空いていた手をスカートの上に置いて、俊は白い耳に囁いた。思い出したように力ない抵抗をする桂の耳を甘く噛んでから、俊は布越しにも分かるほど屹立したそこを撫でる。  薄い布を隔てた先には、求めていたものがある。俊は喜びと期待でごくりと唾を飲んだ。乳首への愛撫を止めて、体をスカートの方へずらす。  細い腰を包むスカートに手を掛けると、俊は桂が手を握り締めたことに気付いた。優しくその手に口付けて、スカートを下げる。下着も一緒に下りて、暗がりの中に桂の陰茎が立ち上がった。  恐る恐る、俊はそれに指を伸ばす。少し触れただけで、ぴくりと震えた。火傷しそうなほど熱いそこからえもいわれぬ香りが漂い、俊の性欲を激しく揺さぶる。深く息を吸い込んで、俊はそれをいきなり銜えた。 「……や、め……!」  突然の強い快感に、桂は体を震わせた。文字通り、貪るような俊の口に次々と快楽を与えられ、唇から隠しきれない艶声が漏れる。  その嬌声に混じり、ぴちゃぴちゃと水音が零れていた。俊の口から、飲み込みきれない唾液が漏れる。それでも、俊は桂の陰茎を離さなかった。舌を裏の筋に這わせ、ぎりぎりまで引き抜いては勢いよく銜え込む。そのたびに桂の陰茎は震え、次第に先走りを垂らし始めた。  俊は口淫をしながら、アウターを脱ぎ捨てた。忙しなくジーンズを放り投げると、トランクスも脱ぎ捨てる。そして、片手で置きっぱなしになっていた鞄を引き寄せた。  乱暴にジッパーを開き、中を漁る。涼から貰ったローションとゴムが、どこかにあるはずだった。やわやわと桂の陰茎を吸いながら、俊は指先に当たったプラスチックの容器を引っ張り出す。 「……そ、れ、なに」  震える唇で、ようよう桂は訊ねた。音を立てて陰茎から口を離した俊は、彼を安心させるように微笑む。 「ローションだよ。これないと、辛いから」 「……!」  俊が蓋を開けると、桂の顔に緊張が走った。目を固く閉じ、再び顔を背ける。  俊は首を傾げた。なぜ桂がここにきてまた顔を背けたのか、分からなかった。とりあえず再び口淫をしつつ、ローションの蓋を開ける。手のひらに冷たいローションを乗せて、自分の尻にそっとそれを塗った。  口で桂に愛撫をしながら、自分の手で自分を追い詰める。二つの相反する快感が、自らの秘所に宛がった俊の指を自然と激しく動かした。水音は更に激しく、大きくなっていく。  いつもならばもっとゆっくり開かれるはずのそこに、俊はすぐ二本の指を突き入れた。痛みを伴う異物感はあっという間に薄れ、内部が自分の指を締め付ける。堪らず、俊は口に陰茎を銜えたまま喘いだ。  そこでようやく、桂は目を開く。 「あん、た……、どういう……!」  苦しげに吐息を漏らしながら、桂は自らのアナルに指を突き入れる俊に目を見開いた。 「あんた、が、入れるんじゃ……」  じゅるり、と大きな音を立てて、俊は口を離した。高ぶっていく体内の熱で頬を染めながら、首を傾げる。 「こっちの方が、気持ちいいから」  どうしてそんなことを訊くのかと言わんばかりの顔をした俊を、桂は愕然と見上げる。  再び言葉を失った桂を、俊は寂しげに見下ろした。そっと目を伏せてから指を引き抜いて、濡れていない方の手を鞄に入れる。取り出したコンドームの袋を口で切って、先走りと俊の唾液にまみれた陰茎に被せた。 「……入れる、よ」 「好きに、すれば」  この期に及んで、桂は震える唇でそう吐き捨てた。その目に混じる軽蔑の色を見つけ、俊は泣きたくなる。それでも体は止まらなかった。  熱くそそり立つ陰茎に、俊はゆっくりと自分の秘所を宛がった。絨毯に広がった真っ黒な髪が、乾いた音を立てて波打つ。  埋め込まれていく楔の熱で、俊の中ははち切れそうだった。  挿入の瞬間、桂は苦しげに眉を顰めた。その顔を見ただけで、俊は達してしまいそうだった。息を深く吸って熱を吐き出し、快感に耐える。  いつも辛いはずの挿入直後が今に限っては気持ちいいばかりで、俊は戸惑っていた。動いているわけでもないのに、俊の口から甘い声が漏れる。そのたびに中が蠕動し、桂のものを切なげに締め付けた。 「動く、ね」  俊が声を掛けても、桂は顔を背けたままだった。快楽に耐え、再び口を引き結んでいる。  だが、陰茎は素直だった。ゆるゆると動き始めた俊の中で、確かな固さを持ったそれがびくびくと震える。根本まできつく閉められてから、先端まで引き抜かれるのを繰り返されると、桂は堪らずくぐもった声を漏らした。 「やめ、て、もう」 「……気持ち、良くない?」  熱に浮かされた円い目が、桂を見下ろしていた。稚い目に潜む妖艶な輝きに、桂は息を呑む。  目を見開いた桂を見つめて、俊はとろけるように笑った。 「俺は、気持ちいい」  汗と性欲にまみれているのに、その笑顔は無垢な子どもにも似ていた。  初めて、桂の中から嫌悪が薄らぐ。 「……っ!」  声にならない音が、桂の喉から漏れた。陰茎が震え、俊の中で圧迫感を増す。桂は慌てて手を口に当て、溢れ出す声を必死に隠そうとした。だが、薄らいでしまった嫌悪は、もうそれを抑えることはできない。  断続的に漏れる雄の声に、俊はいっそう艶やかな笑みを浮かべた。  喘ぎを漏らしながら、徐々に腰の動きを速くしていく。前立腺の裏側が、擦るたびに燃えたぎるような熱を生み出した。感じたことのない熱さが、俊を否応なく高みへと押し上げていく。それは、桂も同じだった。 「も、駄目……!」 「ん……、俺、も」  ぎゅっと、桂は絨毯を握り締めて目を閉じていた。俊は少し躊躇ってから、その手に自分の手を重ねる。大好きだった父や、涼の手より、ずっと小さな手だった。きゅう、と胸の奥が締まる。  懐かしい、感覚だった。もう、なくしてしまったはずの気持ちだった。  胸が苦しくて、目の前が白くなる。なにを言ったらいいか分からなくて、でもなにか言いたくて、俊は口を開いた。だが、想いは言葉にならず、喘ぎだけがなにかを求めるように溢れ出していた。喘ぎは激しく動けば動くほど大きくなり、とうとう悲鳴になる。  どん、と胸が大きく鳴った。  前のめりになりながら、俊は二人の腹の間に欲望を吐き出した。強烈な締め付けを受けた桂も、コンドームの中に精液を吐き出す。  崩れ落ちるように、俊は桂の上に倒れ込んだ。着たままだったシャツに精液が付くのも厭わず、俊は目を閉じる。  今までにないほど、満ち足りた気分だった。  二、変わる日常と見知らぬ想い 「……ちょっと、重いんだけど」  いつまで経っても動こうとしない俊を、桂は気怠い腕で揺らした。だが、うんともすんとも言わない。 「ほんと、なんなの?」  仕方なく、どうにか体をずらして彼の下から這い出ると、俊の口からうめき声が漏れる。 「……終わったんなら、帰ってよ」  ティッシュ箱を引き寄せ、桂は自分の腹を拭いた。付けっぱなしになっていたコンドームを、慣れない手つきで剥いでいく。 「……黒畑?」 「んー……」 「ちょっと、シャツに……付いてるじゃん」 「……ん……」 「動かないでよ、絨毯に付くってば。ちょっと、寝ないでよ」  俊は返事をする力もなく、絨毯の上で丸まった。桂がどれだけ声を掛けても、もう起きる気配はない。  溜息を吐いて、桂は立ち上がった。絨毯や俊のシャツは無論のこと、互いの体から汗や精液の臭いが立ち上り、桂は思い切り眉を顰める。  丁寧にウィッグを外すと、桂は本棚の上に立て掛けてある卓上鏡を覗き込んだ。涙と汗で化粧はほとんど流れ、鏡の中の桂はもういつもの姿に戻っている。  不機嫌な顔で鏡の中の自分を睨み付けてから、桂は俊の隣に置きっぱなしになっていたブラウスを手に取った。 「……ブラウスしわくちゃじゃねぇか。げ、タンクトップにもちょっと付いてやがる。スカートに付かなかっただけマシかな……」  ぶつぶつと不平を漏らしながら、脱いだ服を纏めて洗濯機に入れる。蒸れてしまった頭を掻きながら電源ボタンを押そうとして、ちらりと背後の俊を見た。俊は早くも深い眠りに入り、安らかな寝息を立てている。異常なほどの寝付きのよさが、桂には途轍もなく忌々しい。 「外に放り出すぞ、この野郎」  聞く者のいない悪態が、部屋に虚しく響く。俊は無防備な寝顔を桂に晒して、むにゃむにゃと寝言を言った。 「あー、もう」  がりがりと後ろ頭を掻いてから、桂は勢いよく俊の隣に座る。乱暴に精液が付いたシャツを脱がせ、投げ捨てられたトランクスとジーンズも拾って、洗濯機に放り込む。  重々しい音を立てて洗濯機が回り始める。桂はティッシュを取って、全裸のまま眠っている俊の陰茎を拭いた。それでも、部屋の中の生臭さは消えない。絨毯に吸い込まれていった汗と精液は、そう簡単に消臭できるものではなかった。 「ほんと、なんなんだよお前」  いい加減、罵倒にも力が入らない。桂は鞄の中からデオドラントシートを取り出し、俊の体を拭き始めた。気になるとなにかせずにはいられない性分が、今の桂を動かしている。  俊の体を一通り拭き、情事の後の絨毯に霧吹きタイプの消臭剤をまき散らす。置き型の消臭剤もすぐ傍に置き、眠っている俊が蹴飛ばさないようにと彼を端に追いやる。少し迷ってから俊の上に毛布を掛け、桂はユニットバスへ向かった。  コンタクトレンズを外し、クレンジングクリームで残った化粧を丁寧に落とす。ぬるま湯でクリームを洗い流してから、桂は再び鏡の中の自分を見つめた。 「……わけ分かんねぇ」  自分に向かって吐き捨ててから、シャワーの蛇口を思い切り捻った。  シャワーを浴びてユニットバスから出たら、いつもの日常が戻っているといいのに。そんな詮無いことを考えながら、桂はバスタブの中に立った。  熱いシャワーが、汗と精液の残りを流していく。徐々にすっきりしていく体と裏腹に、頭は整理が付かないままだった。 「……脅してる癖に。なんで」    喋らないから、エッチして。  脅しと言うにはあまりにも必死な声音を思い出し、桂は頭を振った。 「わけ分かんねぇ。男の癖に女の格好してる男に勃つとか、ありえねぇ」  トイレでの強引なキスと、部屋での優しいキスが、順番に脳裏を過ぎる。 「もしかして……、あいつが先生のとこにいたのも、脅して……? いや、でも」  涼の研究室で見た無気力な目は、俊が脅されていると言われた方が自然なほどだった。そのうつろな目と、無邪気な寝顔が重ならない。 「……くそ、分かんねぇ」  無垢な子どものような笑みと、娼婦のような妖艶な笑み。言外に脅していると言うのに、泣きそうな顔。謝りながらも触れてくる、優しく激しい指先。そして、熱くきつい俊の中。  頭に蘇る情交の記憶を慌てて掻き消して、桂はシャンプーを手に取った。体が熱いのは、シャワーのせいだと自分に言い聞かせて。  俊が目を覚ました時には、カーテンの向こうが暗くなり始めていた。奇妙なほどすっきりしている頭と体を不思議に思いながら、体を起こす。見慣れない場所と白米の香りに、俊は首を傾げた。 「……どんだけ寝てんだよお前」 「あ……」  ワンルームの部屋のキッチンスペースに立っている桂の声が聞こえて、俊はようやく眠る前のことを思い出す。それから、肌寒さを覚えてぶるりと身を震わせた。 「……裸?」 「お前の服、臭うから洗濯した。服貸してやるから、さっさと帰れ」 「でも……」 「用は済んだだろ」  背を向けたまま、桂は冷たく言い放った。眉尻を下げて、俊は寂しげに俯く。 「箪笥の中から適当に取れ。面倒なら返さなくても……」 「でも、サイズ合わない」  引きつった桂の顔は、俊からは見えない。桂は敢えて大きな音を立てて、ニンジンを叩き切った。だん、と響く包丁の音に、俊はびくりと肩を震わせる。 「……ご、ごめん」 「生乾きのまま帰れ。つかもう今すぐ帰れ。お前が捕まろうが風邪引こうが知ったこっちゃねぇ」 「う……」  じわり、と俊の視界が潤む。自分がなぜ泣きたくなっているのかもよく分からないまま、俊はぐすんと鼻を鳴らした。 「分かった……」  細く、頼りない声で俊は答えた。桂の胸に、僅かながら罪悪感が生まれる。 「……帰る。ごめんね」 「え、おい」  桂が振り向いた時には、もう俊はカーテンを開けていた。全裸のまま、窓の鍵も開けようとする。 「待て! お前、そのままベランダ出るな!」 「でも、服取れない……」 「人に見られたらどうすんだよ!」 「けど……」 「あーもう、分かったからカーテン閉めろ!」  戸惑いながらも、俊は言われるままにカーテンを閉めた。また寒さに体を震わせてから、毛布にくるまって三角座りをする。 「ごめん、なさい。帰れない」 「あーそうだな。ほんと、なんでお前の服なんか洗濯しちまったんだ俺は」  がりがりと短い襟足を掻いて、桂はぼやいた。半泣きの俊は、そこでようやく違和感に気付く。 「……喋り方」 「は?」 「男の子、だね」  ぶすっとした顔になった桂は、なにも言わずに再び背を向けた。先程のように冷たくあしらうでもない桂を見て、俊はそっと笑みを浮かべる。 「髪も、男の子に戻ってる」 「……悪いかよ」 「眼鏡も」 「だから、なんか悪いのかよ」 「ううん」  毛布を背負ったまま、俊は立ち上がった。桂の近くまで歩いていって、まな板の上を覗き込む。 「桂ちゃん、なに作るの?」 「は、ぁ? んだよ、馴れ馴れしい」 「訊いちゃ駄目だった……?」 「料理のことじゃねぇ、呼び方だよ。桂ちゃんってなんだよ」  隣に立った俊を、桂は心底嫌そうに見上げる。だが、先程のような冷たさのない彼の目が、俊の機嫌を更に上昇させた。 「だって、お昼、赤森さんって呼ぶなって」  にっこりと、俊は笑った。その無邪気な笑みに、桂は思い切り溜息を吐く。 「誰が聞いてるか分かんなかったからだよ! 名前でばれたらどうしてくれんだお前は!」 「ここならいいの?」 「馴れ馴れしく呼ぶなっつってんだよ」 「じゃあ、ここなら赤森さん? 大学だったら桂ちゃん?」 「なんでいちいち場所にこだわるんだよ!」 「あ、そっか。男の時は赤森さんで、女の時は桂ちゃんにしよう」 「勝手に決めんな! ちゃん付けんな!」 「桂ならいいの?」 「呼び捨ては一番むかつく」 「じゃあ、やっぱり桂ちゃんだ」 「だから勝手に決めんな!」  怒る桂を放って、俊はにこにこ笑いながら一人で納得していた。再び盛大に溜息を吐いて、桂は会話を断念する。 気を取り直して料理を再開した桂の手元を、俊は興味深そうに覗き込んだ。軽快な包丁の音と手の動きに、しばし見とれる。 「料理、上手だね」 「今度はお世辞かよ。ほんとわけ分かんねぇヤツだな」 「お世辞じゃないよ」 「始めてたったの一年だぞ。これで上手いなら料理人は商売あがったりだ」 「俺より上手だよ」 「お前のレベル知らねぇっつの」  喋りながら切った具材をボウルに入れ、桂は炊飯器を覗き込んだ。あと数分で炊きあがるところまで来ている。  それを一緒に覗き込んでいた俊の腹が、きゅう、と高い音を鳴らした。 「……お前の分、ねぇからな」 「う……。ない、の?」 「……なんでお前なんかにやらなきゃいけねぇんだよ」 「そっか……」  項垂れて、俊は炊飯器から離れた。炊きかけの米の香りが、空きっ腹に堪える。  また目に涙を溜めつつ、俊は投げっぱなしになっていた鞄を引き寄せた。普段からあまり食欲が旺盛ではない俊は、今日も鞄の中にあめ玉一つ入っていない。ぐう、と今度は大きく鳴った。  俊は鞄を枕にして、絨毯の上に横になった。安い絨毯の毛が、素肌に刺さって不快感をもたらす。空腹と相俟って、俊はなんとも惨めな気分になってきた。 「あーもう、分かったよ! やればいいんだろやれば!」 「へ?」  突然の優しい言葉に、俊は思わず顔を上げる。 「その代わり、大した量ねぇからな!」 「いいの?」  俊が確かめるように訊ねると、返事代わりに溜息が返ってくる。 「そこでいじけられるよかよっぽどマシだ。ったく」  ぶつぶつと文句を言いながら、桂は炊きあがったご飯をボウルに突っ込んだ。それから生卵と粉末の中華出汁を入れて、具材と一緒に混ぜ合わせる。 「ありがとう」 「……やりたくてやってるわけじゃねぇ」 「うん。だから、ありがとう。桂ちゃん」 「そう呼ぶなつってんだろ!」 「うん。赤森さん」  数秒前まで落ち込んでいたのも忘れて、俊は満面の笑みを浮かべた。それを横目に見ながら、桂は本日何度目か数える気も失せた、大きな大きな溜息を吐いたのだった。 「美味しい」  できあがった炒飯を一口食べて、俊はそう呟いた。 「褒めてもなんにも出ねぇぞ」 「これだけで、十分だよ」  手のひらサイズの平皿に盛られた炒飯を一掬いした俊を、桂はちらりと一瞥する。桂もよく食べる方ではないが、俊の食事量はどう考えても少なく見えた。そんな量で体は保つのだろうかと思ったところで、自然と俊を心配している自分に気付く。 「……どうしたの? ご飯付いてる?」 「別に、なんでも」  知らない内に俊の顔を覗き込んでいた桂は、慌てて目を逸らした。照れを隠すように、炒飯を掻き込む。あり合わせの食材で作ったにしては、いいできだった。 「どうして、眼鏡に戻したの?」  炒飯を嚥下してから、俊は首を傾げた。 「ない方が可愛いのに」  無邪気な笑顔が、桂の胸を叩く。思わず身を引いて、桂は眉を顰めた。 「わけ、分かんねぇ。眼鏡あろうがなかろうが変わんねぇだろ」 「変わるよ。ない方が、絶対いい」 「別に、……変わりたくねぇ」  桂は自然と目を伏せていた。そのまま、ゆっくりと炒飯を口に運ぶ。  聞きたくない答えが返ってくる気がして、俊はそれ以上聞けなかった。しばし、気まずい沈黙が落ちる。  かつ、かつとスプーンの当たる音だけが、狭いワンルームに響いた。すぐに食べ終わった俊は、自然と桂の手を見つめていた。  体と同じ、小さな手だ。細長く繊細で、少女のようだと俊は思った。女の格好をしていても、男の格好をしていても、その手は変わらない。 「……食べ終わったんなら、ごちそうさまくらい言えよ」  所在なさげな俊をちらりと見上げて、桂はぶっきらぼうに言った。慌てて、俊は手を合わせる。 「ごちそうさま、でした」 随分と、久し振りに言った言葉だった。わけもなく、俊の胸がほっこりと温まる。  だが、胸は温まっても体は冷えたままだ。春とは言え夜はまだ少し肌寒く、俊はぶるりと震えた。冷えた空気は毛布を通り越して、俊の肌を舐める。    お前が捕まろうが風邪引こうが知ったこっちゃねぇ。  桂の冷たい言葉を思い出し、俊は慌てて毛布の中で体を小さくした。 「……飯の次は風呂か。俺はいつからお前の母親になったんだよ」  再び、桂は可愛げのない口調で俊の望むものを口にした。 「お前にここで風邪引かれたら、うつるかもしんねぇだろ。……シャワー浴びてこい」 「いいの?」  恐る恐る俊は顔を上げる。呆れ顔の桂と、目が合った。 「浴びろっつってんの。風呂のドアの横にスイッチあるから。あんまり温度上げるなよ」 「うん。ありがとう」 「分かったから早く行け」  手をひらひらと動かしてから、桂は食事に戻った。毛布を巻いたまま立ち上がって、俊はユニットバスへ向かう。ドアを開けて毛布を置いてから、思い出したように俊は振り返った。小柄な背中に向けて、弾んだ声を掛ける。 「赤森さん、優しいんだね」 「は?」 「もっと、恐い人だと思ってた。ごめんね」  笑ってから、俊はユニットバスへ消える。桂が振り向いた時にはもう、ドアは閉まっていた。 「……やりたくてやってるわけじゃ、ねぇよ。ばーか」  力ない罵倒を呟いて、桂は残った炒飯を一気に口の中へ掻き込んだ。少し冷えても、炒飯の美味しさは変わらなかった。  シャワーを浴びて出てきた俊の足元に、地味な水色のジャージが置かれていた。胸元に、『赤森』と刺繍がされている。 「それ、着ろ。裸よりマシだろ」 「ありがとう」  寝間着に着替えた桂は、布団の上で研究書を開いている。静かに読書へ戻る桂を横目に、俊は用意されていた下着とジャージを着た。裾は足りないが、どうにか着ることだけはできる。 「携帯鳴ってたぞ」 「あ、うん」  ちょうど着替えが終わったところで、桂は顔を上げずに言った。読書に集中しているように見えて、ちゃんと自分のことを見てくれている。それが俊には、少しこそばゆい。  脱ぎ捨てたままのアウターのポケットから携帯電話を取り出すと、メールが届いていた。一通は涼から、もう一通は母親からだ。 「……あ、忘れてた」  涼からのメールを開いた俊は、思わず口に出す。「筆箱はちゃんと届けられた?」とだけ書かれていたのである。本来の目的を思い出した俊は鞄から桂の筆箱を取り出し、布団へ向かった。 「あの、ね」 「……なんだよ?」 「これ……、忘れてたよ」  俊の手の中にある筆箱を見て、桂も「あっ」と声を上げる。本を閉じて、桂は隣に膝をついた俊を見上げた。 「筆箱……、もしかして研究室に?」 「うん」 「……それ渡すために、トイレまで来たのか?」  こくりと頷いてから、俊は「ごめん」と呟く。だが、桂にはその声は届いていなかった。 「なんだ……。てっきり、俺のことつけてたのかと……」 「え?」 「なんでもない。……ありがとな」  筆箱を受け取った桂は、初めてささやかな笑みを浮かべた。  どくり、と俊の心臓が音を立てる。 「……なんだよ」 「あ、あの、えぇと……」  すぐに不機嫌そうな顔に戻った桂は、「わけ分かんねぇ」と呟いて、布団から出た。コート掛けに掛かっていたバッグの中から折り畳んだリュックを取り出すと、筆箱を入れる。  布団へ戻ろうとした小さな背中を、細長い手が閉じこめた。 「……おい」 「あの……、ね」  俊の腕が、背後から桂を掻き抱く。腰の辺りに確かな熱を感じて、桂はびくりと震えた。 「エッチ、しよ?」 「な……、おい、離せ……!」  腕の中から逃れようと、桂はもがいた。だが、俊の唇が耳を甘く噛むと、高い声を漏らして膝を震わせる。その敏感な反応が、俊を余計に高ぶらせた。  桂の外耳を、俊の舌が丁寧に這っていく。ゆっくりとした、それでいて確かな快感が、桂の体から力を奪った。 「止めろ……。馬鹿、離せ……」 「気持ちよくない?」 「み、耳元で喋るな……!」  力のない声が、必死になって抵抗する。しかし、桂の体はもう抗わなかった。それを了承と受け取って、俊は優しく桂を自分の方へ向かせる。 「や、止め……」 「大丈夫だよ。汚さないように、気を付けるから」 「そういう問題じゃ……」 皆まで言うことを許されず、桂は唇を奪われた。キスと同時に、黒縁眼鏡が俊の手の中へと収まる。傍にあった本棚の上に眼鏡を置いて、俊は甘い唇を貪った。  怯えるように奥で縮こまる桂の舌を、俊のそれが優しく絡め取る。舌が擦れるたびに、桂はくぐもった声を上げた。整えられた眉が、切なそうに皺を寄せる。  二人の唇が離れたのは、しばらくしてからだった。 「……お、前、なんなんだよ……。なんで、女装してないのに……」  肩で息をしながら、桂は唇を拭う。俊は寂しげにそれを見てから、微笑んだ。 「……よく、分かんない。可愛かったから、かな?」 「わけ分かんねぇ……。なんで、俺なんか……」  俊の胸を弱々しく突き放して、桂は彼の腕の中から出た。息を整え、本棚の上の眼鏡を取る。 「したく、ない?」 「当たり前だろ。……男とセックスなんて」  口でそう言いながらも、昼の衝撃的な初体験の記憶が蘇り、桂は慌てて首を振った。 「しねぇ、絶対しねぇからな!」 「……ごめん」  俊の手が、伸びた。桂の眼鏡を再び奪い取り、息つく暇を与えず押し倒す。 「……我慢、できない」 「お、い……!」  昼のように覆い被さられた桂は、必死の抵抗も虚しく首元に吸い付かれた。過敏な体はそれだけで震え、白い肌には赤い跡が残る。 「いっ、うぁ……」 「綺麗。……可愛い」  溢れ出る想いを言葉にしたくて、俊は口を離すたびに喋った。だが、上手い言葉が出てこない。跡ばかりが白い肌に残り、花を散らしたように桂を彩った。 「止め、ろ……!」  弱々しい声が、桂の口から漏れる。しかし俊はもう、止まれなかった。 「……お前、もう、ほんっとに帰れ!」 「ごめんなさい……」  半泣きの桂は、ティッシュで腹を拭きながら叫んだ。しかし、怒鳴られた俊は眠気に襲われており、目が半分閉じている。 「あ、ジャージにも付いてる!」 「ふぇ……? あ、うん」 「うんじゃねぇよこの野郎! 洗濯物増やしやがって! おい、寝るな!」  掛け布団の上に転がった俊は、心地よさそうに目を閉じた。さして間を置かず、寝息を立て始める。深々と溜息を吐いて、桂は昼のように俊の体も拭いた。 「なんなんだよ、お前。……女装してたからやりたくなったんじゃねぇのかよ」  返事を期待せず、桂は呟いた。 「男ならなんでもいいのかよ。先生にも……、あんな風に迫ってんのか」  カフェテラスから見上げる、涼の横顔が思い浮かぶ。遠くからでも分かる、整った顔。いつも優しく、穏やかな彼も、俊に迫られれば雄の顔になるのだろうか。そこまで想像して、桂は頭を抱えた。 「……なに考えてんだ、俺は」  全ての熱を吐き出したような気さえしていたというのに、再び桂の顔は火照っていた。頭を振りながら、ユニットバスへ向かう。歯を磨いて、さっさと眠ってしまいたかった。  端の錆びた鏡の向こうには、頬を赤く染めた自分がいる。見ていられなくて、桂は歯ブラシを濡らすとユニットバスを出た。壁に背を凭せかけて、歯磨きを始める。  今日はなにかと、疲れた日だった。あの時、俊がトイレに来なければ、いつも通りにカフェテラスで読書をして、いつも通りに時々顔を上げて涼を眺めて、日暮れと共に帰宅するつもりだった。歯車が狂ったのは、全て俊のせいだった。 「……全部、あいつのせいだ」  言葉に出しても、力が入らない。憎みたくても、憎みきれない。拒みたいのに、抗えない。中途半端な自分が、情けなかった。  結局、俊が帰宅したのは翌日、土曜の夕方だった。それまでの間、都合三度ほど求められた桂は、せっかくの日曜を寝て過ごすことになったのだった。  月曜。俊は珍しく、朝から真面目に授業を受けていた。大学にいる間、俊はいつも一人で行動している。誰かと話したり、触れたりするのは、涼の研究室に行った時だけだった。先週までは。  昼休憩、購買で買ったパンを片手に教室へ入った俊は、教卓の近くに、この週末でしっかり目に焼き付けた背中を見つけた。 「あ、赤森さんだ」  自然と笑みを浮かべて、隅で一人弁当を広げていた桂のところへ駆け寄る。 「……なんでお前がこんなところにいるんだよ」 「次の授業、ここだから。赤森さんも?」 「そうだけど……」  俊は前の席に座ってパイプ椅子の背を抱き、桂の嫌そうな顔を覗き込んだ。 「お弁当作ってるんだ。やっぱり、料理上手だね」 「節約してるだけだ」 「節約?」 「お前と違って、こっちはカツカツなんだよ」  そう言って、桂は卵焼きを口に放り込む。砂糖に少し塩を足すだけで、卵焼きは堪らないほど甘くなっていた。今日の弁当はいいできだと、自己採点をする。 「……えっと、お金ないの?」 「お前、ちょっとは遠慮とかねぇのかよ。人を貧乏みたいに……」 「ごめん」  しゅん、と項垂れる榛色の頭を見下ろして、桂はやれやれと言わんばかりに溜息を吐いた。 「バイト代と奨学金で生活してんだよ。うち、下にも二人いるから」 「へぇ、赤森さんってお兄さんなんだ」  顔を上げた俊には、もう笑みが戻っている。 「だからあんなに面倒見がいいの?」 「それは関係ねぇよ。部屋の中でいじけられるのが嫌だっただけだ。追い出そうにも追い出せなかったし」 「でも、俺が寝てても、体綺麗にしてくれたよね」 「生臭いのが嫌いなんだよ」 「綺麗好きなの?」 「別に。大体、あんな臭(にお)い好きなヤツ、お前くらいしかいねぇよ」  話している間にも、桂の弁当はどんどん減っていく。だが、俊の方は買ってきたパンに触れることもせず、質問を続けていた。 「つか、お前食わなくていいのかよ。休憩もう終わるぞ」 「あんまりお腹減ってないから、平気」 「あっそ」 「赤森さんは、いっぱい食べるね」 「人を大食いみたいに言うな。お前が少なすぎるんだよ」  最後の白ご飯を口に入れてから、桂は弁当の蓋を閉じた。バッグの中からタンブラーを取り出し、一口啜る。  その色気のないタンブラーを見た俊は、「そういえば」と呟いた。 「その中って、いっつもお茶入ってるの?」 「……まぁ、大体は」 「じゃあ……、なんでカフェテラスに行くの?」  ぴくり、と桂の眉が跳ねる。冷たい視線を感じ取り、俊は口を噤んだ。 「あそこの雰囲気が好きなだけだ」  タンブラーをしまい、桂は言い捨てた。頑なな空気を纏った桂は、リュックの中から次の授業で使うものと共に研究書を取り出す。読書を始めた桂はもう、周囲のことなど目に入っていなかった。  それ以上の質問ができなくなり、俊はすごすごと前を向いた。買ってきたパンを食べながら、胸に生まれた奇妙な感覚と向き合う。それは、「変わりたくない」と桂が言った時にも感じたものだった。  変わりたくないなら、なぜ女装なんてするんだろう。飲み物を用意しているのに、なぜわざわざあのカフェテラスで読書をするのだろう。なぜ他のところでは駄目なんだろう。  なぜあの時、目が合った気がしたんだろう。  いろんな疑問が浮かび、消える。答えを出すのが恐いというのに、俊は考えずにはいられなかった。  三時間目の授業中、考え事をしている内にいつの間にか眠っていた俊は、終業のチャイムで飛び起きた。チャイムの前には授業が終わっており、教室は閑散としている。振り向いたが、桂はもういなかった。  俊は小さく溜息を吐き、鞄に筆箱とプリントを入れて立ち上がった。  次は涼の受け持つ授業だった。先程の時間と同じく、全学年が受講できる。淡い期待を胸に、俊は鞄を肩に掛けた。  廊下の雑踏が、ひどく耳障りだった。すれ違う学生の中に、知った顔はいない。入学以来、俊が顔と名前を一致させられるのは涼だけだった。そこに桂が加わっただけで、俊の景色はがらりと変わった。  それが俊には、少しこそばゆくて、心地よくて、時々寂しい。今まで、知ろうとも、知りたいとも思わなかった感情だった。  今はもういない父への想いとも、時折体を交わす涼への想いとも違う、奇妙な感情。それの名前を、もう少しで俊は分かりそうな気がしていた。  四回目の授業ともなると、上の学年になればなるほど受講者が減る。初回は中規模の教室をいっぱいにするほどの学生が集まっていたが、今日は半分ほどしか席が埋まっていなかった。  俊は教室に入るなり教壇の近くに目を遣り、小柄な背中を見つけて昼休憩の時のように駆け寄る。 「赤森さん」 「……げ」  嫌そうな顔をして、桂は振り返った。手には先程読んでいた研究書が収まっている。 「これも取ってんのかよ」 「うん」  自然と、俊の頬に笑みが浮かんだ。鞄を下ろし、いそいそと桂の隣に座る。だが、桂はいっそう不機嫌な顔をして俊を睨んだ。 「……あっち、空いてるじゃねぇか」 「でも、ここがいい」 「狭くなる。あっち行け」 「……どうしても駄目?」 「さっさと離れろ」  とりつく島もない桂は、言うだけ言って本を開いた。仕方なく、俊は隣の机に移る。鞄の中から筆箱を出したところで、始業のチャイムが鳴った。  程なく、涼が教室に入ってくる。しっかり着込んだスーツと、丁寧に締めたネクタイ。手には今日配布するプリントと、専門書がいくつか、それに授業進行用のノートが入った紙袋を下げていた。俊の前で見せるような、だらけたところはなに一つない。顔つきも、至極真面目だった。  涼が教壇に立つと、ざわめきが少しずつ収まっていく。  俊が隣の机を一瞥すると、桂は目を輝かせながら教壇を見つめていた。きゅう、と胸の奥が痛んで、俊は俯いた。 「今日は新しいプリントを配布します。一枚取って後ろに回してください。あんまり数刷ってないから、足りなかったら教えてくださいね。あ、来てない人の分は取らないように」  マイクを通さなくてもよく響く声が、教室中を巡った。普段は気にも留めないというのに、今日に限って俊はそれに苛立ちを覚える。来なければよかった、と心の中で呟いた。  涼は端から順番にプリントを配り、最後に俊の前に立った。 「……珍しいね、こんな前にいるの」  小さな囁きは、研究室にいる時ととおなじ声音だ。俊はプリントを受け取りながら、「うん」と気のない返事をする。 「筆箱、ちゃんと届けてあげたんだね。ありがとう」 「……うん」  桂を深く知ることができたのは、元はといえば涼のおかげだった。俊は少しだけ機嫌を直して、顔を上げる。 「これ終わったらおいで。お礼しなきゃね」  俊にだけ見えるようにささやかな笑みを浮かべ、涼は教壇へ戻っていった。だが、俊の胸はもう躍らない。  授業を進める涼の声を聞きながら、俊はゆっくりと眠りの世界へ旅立っていった。 「今日はここまでにしましょうか。来週は、今回のプリントを忘れずに持ってきてください」  涼の声が響くと同時に、学生達のざわめきが生まれた。各々が思い思いに片付けを始める中、桂は教壇へ向かう。 「先生」  学生と同じく片付けをしていた涼は、桂の声を聞いて顔を上げた。 「はいはい、なんだい?」 「ここの、白滝姫(しらたきひめ)伝説のことなんですけど、地方によって歌合(うたあわせ)の内容が変わるんですよね。伝播した年代によっても変わるんじゃないですか?」 「ああ、おそらくそうだろうね。ただ、こういった伝承はいつ頃に伝わったか明確にできないから……」  説明をしようとした涼は、ようやく起きた俊と目が合う。だが、俊は苦しそうに眉を顰めて、すぐに視線を逸らした。 「……先生?」 「ごめん、えぇと……」  説明を続けながら、涼は何度か俊に目を遣った。俊はその視線を無視し、逃げるように教室を去っていく。  涼は毎週のようにこの授業が終われば桂と話していたが、俊がこんな反応をするのは初めてだった。そもそも、今まで彼は後ろの席でぼんやりしているばかりで、授業中に目を合わせることもなかった。  俊の中で、なにかが変わりつつある。一抹の寂しさが、涼の背中を撫でた。一年前に出会ってからずっと無気力だった彼を変えたのは、自分ではない。それが、ひどく虚しかった。 「なるほど。ありがとうございました」  軽く頭を下げた桂を見て、涼は我に返る。 「あ、ああ。ところで、筆箱はちゃんと届いたみたいだね」 「……はい」  さっと、桂の頬に赤味が差した。眼鏡の奥で、目を逸らす。その過剰な反応に、涼は内心首を傾げた。だが、口には出さない。 「案外、抜けてるところもあるんだねぇ。意外だったよ」 「すいません……」 「次から気を付ければいい」  桂の旋毛を見下ろす涼は、穏やかな声に見合った優しい笑みを浮かべていた。心に生まれたしこりなど、おくびにも出さない。 「あの、今日はこれで」  顔を上げた桂は、幼さの残る目で涼を見上げた。 「今日もバイト?」 「いえ、ちょっと体の調子が悪くて。家帰って寝ます」  そう言われて、初めて涼は彼の目の下に隈ができていることに気付く。 「大丈夫? 一人暮らしだろ」 「熱とかないんで、大丈夫だと思います。ありがとうございます」  丁寧に頭を下げて、桂は座っていた机に戻っていった。涼も教卓の上を片付け、黒板を消していく。 「細野先生、また明日」 「ああ。さよなら」  教室を出て行く小柄な背中を見送って、涼は小さく溜息を吐いた。黒板を一通り綺麗にしてから、荷物の収まった紙袋を提げる。  とにかく、ネクタイも上着も邪魔で仕方がなかった。少し早足に、涼は自分の研究室への帰途に着いたのだった。 「今日もいないな……」  カフェテラスを見下ろして、涼は呟いた。うららかな春の日差しが、少し沈んだ彼の心を優しく癒す。  先週の金曜と、今日。いつもの彼女は現れなかった。涼の脳裏に、先程の桂の言葉が蘇る。 「季節の変わり目だもんなぁ」  ネクタイを解いてパソコンディスプレイに掛け、上着は椅子の上に放る。思い切り伸びをして、涼は「うーん」と唸った。  俊が変わってしまったように、彼女にも変化が訪れたのだろうか。そんな想像をして、涼は自嘲した。名前も知らない、近くで見たこともない女性にまで、寂しさを抱く自分が滑稽だった。  〈しんせい〉を一本取って、銜える。安物のライターで火を点けて、ゆっくりと息を吸った。頭の中が、煙と同じ色に染まる。  七年前に離婚してから、煙草とセックスだけが彼の安らぎだった。このどちらかに心を預けていれば、別れて以来ろくに会っていない前妻のことも、時折会いに来る息子のことも、まだ見ぬ再婚相手のことも、なにも考えずに済む。  抜けるような青空に白い煙が消えていくのを、しばらくぼんやりと眺めた。空に溶けていく白が、少し羨ましい。 煙草が半分になったところで、胸ポケットの携帯電話が鳴った。携帯電話を取り出したところで、着信音は止まる。ごくごく短い、俊からのメールが届いていた。 『今日は行けない』  たったそれだけだ。涼は煙草を灰皿に押し付けて、俊の電話番号を呼び出した。  数コールの後、無機質な音が響く。 『……センセー?』 「や。メール見て、どうしたのかなって思ってね」  窓を閉めながら、涼はなるたけいつも通りに言った。 『どうもしないよ』 「そう? じゃあ、なんで来られないの?」 『……気分じゃない、から』  今まで、一度も耳にしたことのない言葉を口にする俊は、ひどく暗い声音をしていた。 「ふぅん。……飽きちゃった?」 『飽きる……?』 「僕とのセックス」  しばし沈黙が落ちる。涼は片手で煙草をもう一本取り出して、口に銜えた。火を点けて、煙を深く吸い込む。 『飽きたわけじゃ、ないけど』 「ん?」  俊が零れ落とした言葉を拾って、涼は煙草を口から離した。 『……なんか……、やりたくない。……やっちゃ、いけない気がする』 「ふぅん」  灰皿に置かれた煙草から、細い煙が立ち上った。 「……なにかあったの?」 『なにか、って?』  聞き返されて、涼は少し迷った。俊の今の状況を、的確に表せる言葉を知っている。だがそれは、あまりに彼には似つかわしくなかった。これまで、幾人もの相手と心の通わないセックスばかりしてきた彼には、無縁だったはずの言葉だ。  苦しそうに目を逸らした、俊の顔が脳裏を過ぎる。涼は、思い出したように煙草を吸い込んだ。迷いが、煙草の香りに掻き消されていく。 「誰か、好きになったとか」 『…………好、き?』  たっぷりと間を空けて、俊は呆けたように繰り返した。 「恋、したんじゃない?」 『恋……』 「そういう人、できたの?」  口ではそう言いながらも、涼は見当が付いていた。約束を守っているならば、俊が最近接点を持った相手は涼の知る限り一人しかいない。 「どんな人?」  自分でも不思議に思うほど、涼は落ち着いていた。嫉妬も、先程感じた寂しさや虚しさもない。 『……優しい、人』 「へぇ」 『最初は、恐い人だと思ってたけど……』 「うん」 『でも、笑うと可愛い』  話を聞きながら、涼は少し首を傾げた。涼と俊では、彼に対する印象が違いすぎるのだ。 『お料理上手だし、お世話焼いてくれるし、話してると楽しい』  俊の声が、次第に弾んでいく。こんなに明るい俊を、涼は知らない。 『それに……』 「それに?」 『エッチ、我慢できなくなる。……そんな人、初めてだから』 「……そっか」  今、俊がどんな顔をしているのか、涼には想像できない。もう彼の知っている黒畑俊はいないのだと、気味が悪いほど実感させられるのが、少し恐かった。 「セックスしてるってことは、もう付き合ってるの?」 『……付き合う?』  不思議そうに、俊は聞き返した。 「違うの?」 『……分かんない。なにしたら、付き合ってることになる?』 「なにって……、そうだなぁ。一般的には、お互いの好意を確かめて、恋愛関係になったら、それが付き合ってることになるのかな」  例外も多いけど、と涼は心の中で付け足した。 『センセーと俺は、付き合ってることになるの?』 「ならないんじゃない? 少なくとも、僕はそう思ってなかったけど」  『そう、だよね』  俊の声が、沈む。 「ま、いいんじゃない? 体から始まる関係があっても。僕はそんなに悪いことだと思わないよ」 『……うん』  暗い声が、電話の向こうから響いた。いつものように無気力な声に似ていながら、そこに潜む苦しみは比較にならない。 「なにかあったら、いつでも連絡してよ。話くらいなら聞くからさ」 『う、ん。……ありがと』  今の俊の表情なら、簡単に想像が付いた。涼はまた、煙草を一口吸う。 「じゃあね、俊くん」 『うん。バイバイ、センセー』  ぷつり、と容赦のない音が鳴り、電話は切れた。  すっかり短くなった煙草を揉み消して、涼は布団を敷いた。堅苦しいワイシャツのボタンを半分ほど外して、ゆっくりと横たわる。  目を閉じて真っ先に思い出したのは、家を出て行く妻と息子の背中だった。 「……はは、は」  乾いた笑いが、一人きりの研究室に響く。 「遊びが、終わっただけじゃないか」  自分に言い聞かせようとしたその一言は、抜けるような青空に吸い込まれて消えていった。  もう、羨ましいとは思わなかった。  涼からの電話を切った俊は、携帯電話をアウターのポケットに入れて、しばらくその場で座り込んだ。ひび割れたコンクリートは、あまりいい座り心地ではない。  時折、喫茶店のドアベルが鳴った。入っていくのか出て行くのかは、俊からは分からない。知ろうとも思わなかった。  教室を出てすぐ、俊は行き先に困って構内をうろうろした。涼の研究室に向かう気にはなれなかったが、かといって日の高い内から誰もいない家に帰るのは嫌だった。  そして悩んだ挙げ句、大学を出た俊の足が向いたのは、桂のアパートだった。だが階段まで来て、急に足が重くなった。自分には決して見せない顔で涼を見つめる桂を思い出し、目の前が暗くなった。  本当は、とっくの昔に分かっていたはずだった。桂が女の格好をしてあのカフェテラスにいる理由も、涼の授業になった途端に自分を遠ざけた理由も。そして、「先生には言わないで」と桂が言った理由も。答えを出すのが恐いと思ったのは、それを認めたくないからだ。分かっていたはずだった。全て。  だが、どうして認めたくないのかは、つい先程まで分からなかった。 「……好き、なんだ。俺」  言葉は知っていても、一度として実感したことのなかった感情。知りたいとも思わなかったもの。それが分かった時、俊の心は真っ暗になった。 「桂ちゃんは……、センセーが好き、なのに」  足の間から見えるコンクリートに、そっと吐き出す。視界が揺れ始めて、俊は固く目を閉じた。肘を股の上に置いて、両手で顔を覆う。  両手を伝う滴を拭うこともせず、俊はひたすら嗚咽を堪えた。 「……お、前、なにやってんの」 「……へ?」  頭の上から声が聞こえて、俊は慌てて顔を上げた。涙は随分前に止まっていたが、目の周りは真っ赤なままだ。 「なんだよ、その顔」 「な、なんでもない……」 「……わけ分かんねぇヤツ」  下りてくる桂は、夕日を背にしている。一体どれほどの間ここでぼんやりしていたのか、俊は自分でも分からなかった。 「どこ、行くの?」 「なんでお前に言わなきゃいけねぇんだよ」 「……ご、ごめん」  俯いた俊の隣まで来て、桂は深々と溜息を吐く。 「……買い物だよ。どっかの誰かがタダ飯喰らいやがったせいで、食材がほとんどねぇからな」 「あ……、う、ごめんなさい……」 「悪いと思うんなら、二度と家に近寄るな」  言い捨てて、桂は再び階段を下り始める。だが、俊は無意識の内に、去りゆく小さな手を掴んでいた。  ダークブラウンの頭が、勢いよく振り返る。 「離せ……っ! ……え?」  戸惑うような桂の目を見るのが辛くて、俊はまたぎゅっと目を閉じた。乾いていた頬に、再び涙の川が流れていく。 「ごめ、ん、なさい……」  空いた手で、何度も涙を拭う。堪えきれない嗚咽が、喉を幾度となく鳴らした。それでも俊は、手を離せなかった。 「ああ、もう! こんなとこで泣き出すなよ!」  がしがしと、襟足を掻く音がした。俊がそう思った時には、もう桂は階段を上り出していた。手を引かれるままに、俊も目を開けて彼を追い掛ける。  桂は自分の部屋まで来ると、ドアを開けて俊を中に放り込んだ。 「俺が買い物から帰ってくるまでに、絶対泣き止んでろよ!」  尻餅をついた俊にそう言い捨てて、桂は音を立ててドアを閉める。外から鍵を掛けた桂は、足早に立ち去っていった。  残された俊は、そうっと自分の手のひらを開いた。気付いたら、桂を掴んでいた手だ。そして、桂に掴まれていた手だ。まだ、彼の熱が残っている。  その手のひらに口付けて、俊は祈るように目を閉じた。  その日、俊はもう桂に触れることはなかった。  三、突然、しかし必然  数日が過ぎ、再び週末がやってきた。  その間、俊は桂を見つければ近寄って話し掛けたが、もう家を訪ねるようなことはしなかった。桂はと言えば、相変わらず口こそ悪かったが、以前ほど邪見にすることもなくなっていた。  金曜の朝も、眠い目を擦りながら構内を歩いていた俊は、小柄な後ろ姿を見つけて駆け寄った。 「赤森さん、おはよう」 「ん? ああ」  少し寝癖の付いた髪を掻きながら、桂はいい加減な返事をする。眼鏡の奥の目は、俊以上に睡眠を欲していた。 「……寝不足?」 「発表用のレジュメ作ってたら、朝日上ってた」 「レジュメ……」  発表用、と聞いて、俊は先週の金曜日に涼が読んでいたプリントを思い出す。 「先生は十分だって言ってたけど、どうしても詰めが足りねぇような気がして……」  皆まで言い終えることもできず、桂は欠伸を噛み殺した。 「誰かさんがなにかと引っ付いてくるせいで、本読む時間減ったし」 「う……」 「……あそこに行く時間も」 「え?」  ぽつりと漏らした言葉を、俊は聞き返した。だが、桂は返事をすることなく大欠伸をしてから、ずれた眼鏡を直す。 「これから最終確認するから、邪魔すんなよ」 「うん。……頑張ってね」 「……言われなくても」  ひらひらと手を振って、桂は図書館へと消えていった。疲労困憊の背中は、いつもと違って少し曲がっている。  その背中を見送ってから、俊はのんびりと教室へ向かった。  退屈な朝一の必修授業を寝て過ごした俊は、思い切り伸びをしてから教室を出た。二時間目も必修授業だったが、足は図書館の方へと向かっている。  入学以来一度も利用したことのない図書館に入った俊は、その気味が悪いほどの静寂を壊さないように恐る恐る歩きつつ、桂を探した。だが、もう小柄な背中はどこにもいない。  小さな溜息を吐いて、俊は図書館を出た。桂がいない以上、そこに留まる理由はない。  外に出た俊は、かげり始めた空を見上げてぶるりと体を震わせた。登校時は晴れていたが、ものの九十分で雲行きはすっかり怪しくなっている。  しばし悩んでから、俊は大人しく次の教室へ向かった。廊下にできた人の波に乗り、流されるままに歩を進める。それに虚しさを覚えるようになったのは、桂を追い掛けるようになってからだった。  一人が寂しいと思い始めたのも、彼と言葉を交わすようになってから、だった。 「あー、やっぱり納得行かないです!」 「そう? 僕は十分だと思うけど」  二時間目のゼミを終えた桂は、寝不足の頭で不満を噴出させていた。教室を出て涼の研究室へ向かいつつ、先程の自身の発表に否を突き付ける。 「あの史料だけじゃ、根拠には薄い気がするんです。でもあの研究者(ひと)、他の史料上げてなかったし……」 「あの手の史料はいくつもあるものじゃないからねぇ。他の研究者(ひと)は、似たような史料上げてないの?」  熱くなっている桂と対照的に、涼はいたってのんびりとしていた。二十センチ近く下にある桂の顔を見下ろしながら、冷静に指摘する。 「いえ、あの研究者(ひと)だけなんです。これ上げてるの。……大体、まだ史料集(ほん)にもなってない史料らしいですし、本人が翻刻してるから、もしかしたら字ぃ間違ってるかもしれないし」 「あー、それに関してはなんとも言えないねぇ。現物見てみないと。……まぁ、僕あんまりくずし字読めないけど」 「え? そうなんですか?」  目を少し丸くすると、桂はいつも以上に幼くなる。微笑ましく思いながら、涼は頷いた。 「元々、民俗学畑の人間だから。それも、だいぶん近代に近いからねぇ。普段は読みやすい史料ばっかり読んでるよ」  話している内に、二人は研究室棟の前まで辿り着いた。カフェテラスの横を通り過ぎようとした時、涼の視線が自然といつも彼女が座っているところへ向かう。一瞬、顔を凍らせた桂には気付かず、涼は世間話でもするように切り出した。 「話変わるんだけど、よくここで読書してる子のこと、知らない?」 「え……、と、……どんな?」  必死に動揺を隠し、桂はできる限り平静を装った。涼は相変わらずいつもの場所に目を向けたまま、穏やかな笑みを浮かべる。 「髪が真っ黒で、腰くらいまであって、長いスカート履いてて、いつも文庫本読んでるんだけど」 「……さぁ」 「んー、知らないか。いやね、しょっちゅうここで読書してたのに、ここ一週間くらい見かけなくてさ。赤森くん、授業とかで見かけない?」  言葉が見つからず、桂は首を振った。 「そっか。……やっぱり、風邪でも引いたのかな」  ぽつりと、心配そうに呟いた涼の声も、桂には届かない。  半年間、毎日のように桂は涼と話していた。だが、涼が彼女の話をしたのは、今日が初めてだった。なぜ、今更。桂の頭の中で、そればかりがぐるぐると回る。 「……赤森くん?」 「あ、はい」 「君も大丈夫? あんまり寝てないんだろ」 「え、あ、……はい」  顔を覗き込まれて、慌てて桂は俯いた。少し首を傾げてから、涼は軽く桂の肩を叩く。 「辛いようなら、僕の部屋で寝とく? 今日、もう授業ないよね」 「いえ、……近いんで、もう帰ります。ここまで来といて、すいません」  桂が深く頭を下げると、「いいよいいよ」と涼は苦笑した。 「無理しすぎないようにね」 「はい。……失礼します」  言うが早いか、逃げるように桂はその場を立ち去った。  去りゆく小さな背中を見送った涼は、僅かに眉を顰める。 「……もしかして」  そっと呟いて、携帯電話を開く。俊の番号を呼び出したが、しばらくコール音が鳴った後、留守電録音のメッセージが再生された。  仕方なく電話を切り、涼は自分の研究室へ向かう道すがら、俊に一通のメールを送った。 「……なにやってんだろうな、僕は」  ドアに向かって自嘲した涼は、ゆっくりと研究室の鍵を開けたのだった。  昼休憩の雑踏の中、俊はふらふらと頼りない足取りをしている桂を見つけて、慌てて駆け寄った。 「赤森さん、大丈夫……?」  俊の声に鈍く反応して、桂は混乱したまま顔を上げた。 「先生、が」 「……え?」 「……変に思ってる。一週間、行けなかったから。今まであんなこと、訊かれなかったのに」  独り言のように言って、不安定な足取りのまま桂は北門へ向かう。  肩を貸すことも、言葉を掛けることもできず、俊はただ彼の後を追った。ポケットに突っ込んだままの携帯電話が震えたが、手に取る気にはなれない。    結婚するなら、あんな感じの子がいいよね。  涼の呟きが、蘇る。だが、今の俊を襲ったのは、全く別の不快感であった。 「行かなきゃ……!」 「けど雨が降りそうだよ……」 「付いてくんな!」  震える声で、桂は叫んだ。周囲の視線が、二人に集まる。桂は思い切り眉を顰めて、足早に北門を通り過ぎていった。 「……で、も」  最後まで言えず、俊は俯いた。薄い胸に、吐き気にも似た不快感が渦巻く。  小さな背中は、どんどん遠ざかっていく。向かう先は、俊にも分かっていた。そして、彼がそうせずにはいられない理由も。  俊は、止まってしまった足を叱咤した。  折しも、曇り空からぽつぽつと雨粒が落ち始めた。道行く人々は、或いは傘を取り出し、或いは軒先で立ち止まって雨を凌ごうとしている。  次第に強さを増す雨に頓着する余裕もなく、俊はひたすら桂の背中を追い掛けた。だが、駆け足になっている桂に追いつくには、体力のない俊は時間が掛かる。  結局、俊が桂に追いついたのは、彼の部屋の前だった。  閉まり掛けたドアに体を割り込ませた俊に、桂は鋭い視線を浴びせる。 「付いてくんなよ!」 「嫌だよ!」  俊は、桂の前で初めて声を荒げた。自分でも信じられないほど大きな声に、俊自身が戸惑う。  一瞬目を見開いた桂は、しかしすぐに眼光を取り戻した。 「全部……、全部お前のせいだろ! お前がそうやって付いてくるから、俺はあそこに行けなかった。お前がそうやって付けてきたから、あんなところ見られた。セックスまで、させられた……! 先生にも、不審がられてる」  桂の手が、俊の襟首を掴む。一週間ぶりに間近で見た彼の目に、俊は息を呑んだ。 「全部、お前のせいだ……」  眼鏡の奥で、涙の粒が光っている。あの日のように、桂の瞳が揺れている。俊の胸を包んだのは、どうしようもない恐怖だった。  桂は言葉を失った俊を勢いよく突き飛ばして、思い切り目を拭う。ドアに背中からぶつかった俊は、そのまま尻餅をついて桂を見上げた。 「出て行けよ! もう、ほっといてくれ!」 「い、やだ」  ようよう、俊はそれだけ呟く。恐くて、仕方がなかった。自分のせいで桂が泣いている、その事実を目の前に突き付けられて。だが、口を突いて出るのは否定の言葉だけだった。  桂の目が、強く強く俊を睨み付ける。 「どうしてだよ! どうして、いちいち俺に付いてくるんだよ! わけ分かんねぇよ、お前!」  飛び散った涙の飛沫が、俊の頬に落ちた。 「俺、は」  頬を流れていく桂の涙を、そうっと俊は包み込んだ。唇が、震える。喉の奥が、カラカラに乾いていた。視界が揺れて、定まらない。 「俺……」  ごくり、と俊は喉を鳴らした。乾いた唇を濡らすことも忘れて、気付いてしまった想いを、ゆっくりと声に乗せる。 「……赤森さん、が……、好きだから」  言葉と同時に、俊は目を閉じた。頬を、今度は自分の涙が伝っていく。 「……な、んだよ、それ……!」  桂の声が、揺れている。どんな顔をしているのか知るのが恐くて、俊はいっそう固く目を閉じた。 「脅して強姦まがいのことまでして、その理由が好きだから? ふざけんのもいい加減にしろ!」  耳を塞いでしまいたかった。逃げ出してしまいたかった。だが、俊にはなにもできなかった。指先一つ、動かせない。  がちゃり、と乱暴にドアノブを捻る音が響いた。背を預けていたドアが突然開いて、俊は後ろに倒れ込む。  ようやく目を開いた俊が最初に見たのは、涙を堪えて俊を睨み付ける、桂の瞳だった。  桂はなにも言わず静かにドアを閉める。  それでも俊は、その場を一歩も動けなかった。  雨は次第に強くなっていく。ぶるりと体が震えて、俊はようやく立ち上がった。  随分と長い間、俊は桂の部屋の前に座り込んでいた。だが、桂は出てくる気配がない。ドアが閉まってからは、物音一つしなかった。 「……赤森さん」  ドアに向かって、呟く。その小さな声は雨音に掻き消され、残ったのは沈黙ばかりであった。 「ごめんなさい」  そうっと、俊はドアに額を擦りつけた。温もりのない鉄の扉が、彼の全てを拒絶していた。 「分かってた。……好きになってもらえないことくらい。でも」  祈るように、懺悔するように、俊は言葉を続けた。桂が聞いているかどうかは、この際関係なかった。 「一緒にいたかった……。声、聞きたかった。隣に、座って、隣で、歩いて、一緒にご飯食べて、……それだけで、いいと思ってた」  一週間の記憶が、ゆっくりと蘇る。それは流れていく涙と共に、俊の手からこぼれ落ちていった。  ひとときの思い出など、忘れてしまった方がいい。たくさんの虚しい付き合いの中で、俊が自然と覚えたことだった。顔も名前も忘れて、その人との記憶が空っぽになってしまえば、別れは辛くない。  辛くない、はずだった。 「桂ちゃん……」  もう二度と呼ぶことはないであろう名を、俊はありったけの想いを込めて口にした。 「これだけは……、知ってて欲しい。……脅すつもりなんかなかった。ただ、どうしたらいいか分からなくて。俺、あんな風になったの初めてで……。ずっと、エッチしか知らなかったから……」  遠雷が、俊の声を優しく掻き消した。桂からの返事は、ない。  俊は、涙を拭った。困ったような笑みを浮かべて、ドアから額を離す。 「迷惑掛けて、……いっぱい悲しませて、ごめんなさい」  深く頭を下げて、俊は小さく続けた。 「もう、近寄らないから。……さようなら、赤森、桂さん」  頭を上げた時にはもう、俊の顔から表情らしい表情がなくなっていた。躊躇いなくドアを離れ、力ない足取りで廊下を歩いていく。  遠雷は、ゆっくりと近付いてきていた。  激しい雨と雷のために、構内を歩く学生はほとんどいなかった。これ幸いにと自主休講を決め込む不真面目な者も多く、涼の受け持つ六時間目の授業には数人しか参加していない。  仕方なく、かなり短めに授業を切り上げた涼は、学生達を送り出してから教室の電灯を消した。  日が長くなったとはいえ、この豪雨では夕方と夜の区別などないに等しく、涼は少し憂鬱な気分になりながら暗い廊下を歩き始める。  こんな日は、誰もいない家に帰るのが億劫だった。少々冷えるが研究室に泊まり込んでしまおうかと思いながら、わけもなく窓の外を眺める。いくつかの傘の花が咲く中、一人だけ雨に打たれる人影があった。 「……俊くん……?」  まさかと思いながらも、涼は足早に教室棟を出た。傘を差し、俊を見かけた場所まで走る。アスファルトに弾かれた雨水が跳ねて革靴と裾を汚したが、彼は気付かなかった。  先程、涼が歩いていた廊下から見えたのは、自転車置き場へ向かう細い通路だった。俊はふらふらと危ない足取りでそこを横切り、自転車置き場を過ぎて研究室棟の裏口へと向かっている。  遠目にも分かるほど、俊の体は濡れそぼっていた。髪や袖口から水がしたたり、手や首は紙のように白い。ぞくり、と涼の背筋に寒気が走った。 「俊くん!」  急いで駆け寄り、その手を取る。氷のような手を握り締め、少し乱暴に俊を振り向かせた。  うつろな目が、涼を見上げた。 「……どうしたんだ、傘も差さずに」 「センセー……」 「とにかく、中に入ろう」  青い唇が、恐々動く。しかし、涼にはなにを言っているか分からない。とりあえず自分の傘の中に引き入れて、涼はそのまま研究室棟の裏口へと走った。  室内に入ってから、俊はなにも言わなかった。ただ、涼に手を引かれるままに、彼の研究室まで付いてきた。  灯を点け、エアコンから温風が出るのを確かめてから、涼は俊をその傍に立たせた。 「タオルとか置いてないから、これでちょっと我慢しててね」  そう言って、涼は携帯電話を取り出す。彼がタクシーの手配をしている間、俊は身じろぎもしなかった。 「タクシー、すぐ来てくれるってさ。上だけでも着替える?俺のワイシャツあるけど」  ほんの少しだけ、首が横に動いた。 「じゃあ、家に帰ったらすぐに着替えてお風呂入るんだよ。そのままじゃ……」  涼が皆まで言い終わる前に、ぐらり、と俊の体が揺れる。涼は慌てて俊を抱き留め、ようやく彼の体が小刻みに震えていることに気付いた。 「一体、どれくらい外歩いてたんだ?」 「……覚えて、ない」 「顔、真っ青だよ。熱……あるんじゃない?」 「……分かん、ない」 「お母さん、今日は帰るの?」 「どうせ、帰って来ない……」  俊の瞳が、揺らぐ。それを隠すように、俊は涼の胸に顔を埋めた。 「……俊くん、もしかして」  榛色の濡れ髪に指を通し、涼はできるだけ優しく声を掛けた。 「赤森くんと、なにかあった?」  声にならない声を上げて、俊はびくりと震えた。恐る恐る、涼の顔を見上げる。 「ど……して?」 「バレバレだよ。僕の前では隠してたみたいだけど、あのタイミングで君が好きになる誰かなんて、赤森くんくらいじゃないか。……約束、守ってくれてたしね」  もうハッテン場には行かないこと。それが、涼と俊の間に交わされたたった一つの約束だった。すっかり忘れ去っていたそれを、今更になって俊は思い出す。そして、それ以来、涼以外の男と関係を持たなかったことも。だが桂との関係は、涼や他の男とのそれとは違う。俊は、無意識の内にそう思い込んでいた。あの衝動も、熱も、涼に抱いたことなど一度もなかったから。 「メール、見てないだろ」 「……うん」  幼い子どもをあやすように、涼は優しい笑みを浮かべた。 「赤森くん、……別の誰かが好きなんじゃない? って送ったんだよ」  俊の目が、泳いだ。涼はそれを図星と受け取って、「やっぱり」と小さく呟く。 「今日、カフェテラスのあの子のこと、彼に訊いてみたんだ。動揺してるみたいだったから、もしかしてとは思ったけど」 「……え?」 「知らない、って言われたよ。けど、あれは明らかに知ってた。あの子も、嘘が吐けない子だからね」  俊は呆然と、涼を見つめた。一人納得している涼の携帯が、胸ポケットで震える。 「あ、タクシー来たみたい。立てる?」  小さく頷いた俊の頭を撫でて、涼は電話に出た。「すぐ行きます」と涼が言っているのを聞きながら、俊はそっと自分の体を抱いた。  震えは、まだ止まらなかった。  タクシーに乗った途端、俊は倒れるように横になった。体の震えはどんどん強くなり、吐息は荒くなっていく。目眩で目を開けていられず、頭痛でなにも考えられない。 「俊くん……、僕の家に、来る?」  遠くで涼の声が聞こえて、俊はなにがなんだか分からないまま頷いた。優しい大きな手が、髪をそっと撫でてくれる。 「……おとう……さん」  朦朧とした意識の中で、俊はぽつりと呟いた。大きな手が、止まる。 「……俊くん?」  俊の顔を覗き込み、涼は寂しげに笑った。大きな子どもは、荒い息を吐きながら眠っている。ひどく、安らいだ表情だった。  涼は上着を脱いで、俊の体に掛けた。幾分乾いてきた榛色の髪を、優しく撫でる。 「……髪質まで、似てる」  苦笑して、目を閉じた。瞼の裏に映るのは、俊よりずっと幼い影だった。 「……シュン」  堰を切って流れ出しそうな想いを必死に止めて、涼は口を噤んだ。ただ、その触り心地のいい髪をひたすら撫でる。  決して、俊には本気にならない。それは、涼が自らに科した枷だった。元より、男との関係は遊びと割り切っていたが、この少年にだけはとかくその枷が必要だったのだ。  あまりにも、息子に似ていたから。 「俊くん、着いたよ」  揺り起こされて、ようやく俊は目を開けた。見知らぬマンションが、窓の奥に見える。ふらつく足で車を降りた俊の手に、涼が傘を握らせた。 「先に中入ってて」  財布を取り出しながら、涼は言った。震える手で傘を開き、俊はゆっくりとマンションの入り口へ向かう。少し古いが、小綺麗な建物だった。小さなドアの奥に、細い廊下が続いている。 「一番奥の部屋だよ」  タクシーの料金を払い終わった涼が、小走りに後を追ってきた。彼がいつの間にか上着を脱いでいたことに、俊はようやく気付く。  大きな手が、優しく俊の手を取った。温かくて気持ちがいいと思いながら、俊はその手に導かれるまま歩いていく。  突き当たりまで来て、二人は立ち止まった。まともに立っていられない俊に肩を貸しながら、涼は片手で鍵を開ける。  ドアを開けると、ふわり、と古本と煙草の混じった匂いが漂った。研究室と同じ、涼の匂いだ。どちらもあまり好きではないのに、今日に限って俊はその香りに安らぎを覚えた。 「お風呂沸かすから、座ってて」  俊をソファに座らせて、涼は風呂へと向かった。先程のタクシーと同じように横になった俊は、痛みを持て余しながら目を閉じる。  程なく、湯が浴槽を叩く音が響き始めた。風呂場のドアが開いて、涼が戻ってくる。 「食欲ある?」  心地よい声が、俊の耳を撫でた。俊が首を横に振ると、今度は温かな手が額を覆った。 「熱はそんなに高くなさそうだけど、薬は飲んでおいた方がいいよ」 「……うん」  俊が力ない声を漏らすと、優しい手はそっと離れていった。 「お粥作るから、ちょっとだけ食べて薬飲もうか。明日、もっと熱が上がってたら病院に行こう」 「……でも、土曜……」 「大丈夫。午前中なら開いてる病院もあるから。君はなんにも心配しなくていい」  温かい手に撫でられて、俊は小さく頷いた。おぼろげになってしまった父の声が、涼のそれと混じって聞こえてくる。俊はひどく、泣きたくなった。 「……センセ、お父さんみたい」  今度こそはっきりと、俊は涼に向かって言った。泣き顔を隠すように、微笑みを作って。  目眩がひどく、視界がぼやけている俊には、寂しい笑みを浮かべる涼が見えない。心地よい手に前髪を撫でつけられて、俊はまた目を閉じた。 「お湯が溜まったら、起こしてあげるよ」  俊が頷いたのを確認してから、涼はキッチンへ向かった。  独り身になってから料理に凝り始めたこともあり、調理道具や調味料は常に一式揃っている。使い慣れたキッチンで粥の準備をしながら、涼は奇妙な充実感を得ていた。 「……まずいな。ハマりそうだ」  俊に近付けば近付くほど、こうなるであろうことなど分かっていたはずだった。だから涼はこの一年間、俊との距離を縮めまいとしていた。体だけの関係だと、自分にも彼にも言い聞かせて作った距離が、今日一日で簡単に崩れていく。 「お父さん、か」  自分のことをそう呼ぶのは、この世にただ一人だけだ。今年で十歳になる、悲しい目をした少年。俊に、よく似た息子。 「……向いてないよ、僕には」  誰にともなく呟いて、涼は風呂場へと向かった。    さようなら、赤森、桂さん。 「……!」  飛び起きた桂は、すぐに部屋の中を見回した。だが、この一週間ですっかり見慣れた榛色の頭は見つからない。  荒い息を吐いて、額を押さえる。寝不足と精神の不安定が重なり、彼の体調は最悪だった。どうにか眠ろうと布団に潜っても、俊の言葉がぐるぐると頭の中を回って寝付けない。ようやく眠りに就けば、夢にまで出てくる始末であった。  外はもう真っ暗になっている。昼に降り出した雨は嵐のように激しくなり、外出できるような空模様ではない。 「……結局、今日も駄目だった」  一人呟いて、桂は立ち上がった。肌寒いほどの気温にもかかわらず、体中が汗ばんでいる。水場の蛇口から水を直接飲んで、そっと息を吐いた。  初めてだった。面と向かって誰かに好きだと言われたのも、キスやセックスをしたのも。今までの俊の不自然な行動や桂に対する態度は、好意から来るものだと考えれば彼にも納得できた。  そうやって頭では冷静に考えられても、心が追いつかない。俊に迫られた時の恐怖や嫌悪感、憎しみにも似た怒りは、一週間経った今でも消えてはいないのだ。 「男が、男を、好き……なんて。気持ち悪ぃよ。わけ分かんねぇ」  確かめるように、桂は呟いた。知識としての男色や衆道と、現実問題としての同性愛は違う。これもまた、頭では分かっていることだ。 「……そうだ。あれは、好きとかじゃ、ない」  力なく、桂は首を振った。  煙草を吸っている時の穏やかな横顔、ディスプレイに向かっている時の真剣な眼差し、  俊に話し掛けている時の、優しい笑み。あの小さな窓から、自分には見せてくれないいろんな彼の表情を覗いていたのは、好きだったからではない。抱きたいと思ったからでもない。 「違う。俺はあいつとは、違う」  研究室の窓から、初めて俊が顔を覗かせた時に苛立ちを感じたのは。彼女を気に掛けてくれていると知った時、焦りながらも心の隅で喜んでいたのは。 「……好きだからじゃ、ない」  眉を顰め、呻くように、桂は呟いた。想いを切り捨てるように勢いよく振り返ると、ユニットバスへ向かう。  灯を点けて、ドアを開ける。脳裏に過ぎったのは、一週間前の俊の笑顔だった。 「なにが……、優しいんだね、だよ。……やりたくてやってたわけじゃ、ねぇよ」  力ない罵倒と共に零れそうになった涙を、桂は慌てて腕で拭った。服を脱ぎ捨てて、シャワーの蛇口を捻る。 「……優しくねぇよ、俺は」  この一週間で俊に吐き捨てた冷たい言葉を思い返して、桂は自嘲した。それでも自分のことを「好きだ」と言う俊の想いが、桂にはよく分からなかった。  だから、その想いを嬉しいと思うことも、ないはずだった。  風呂に入り、粥を食べて薬を飲んだ俊は、すぐにうとうとと船を漕ぎ始めた。震えは収まっているが、熱が上がってきている。 「三十八度五分、だってさ」 「……ん」  ソファに寝ころんだ俊は、億劫そうに返事をした。俊から手渡された体温計をケースにしまい、涼は立ち上がる。 「奥の部屋にベッドあるから、そっちで寝るんだよ。僕はちょっと、頭冷やすものを買ってくるから」 「……センセー」  熱い手が、涼の指先を握る。頼りないその手を、涼は優しく握り返した。 「すぐ帰るから、ね?」  宥めるような言葉に、俊は首を振る。 「……違う、よ」  半分ほど閉じている目で、微笑む。俊は、ゆっくり口を開いた。 「ありがとう、センセー」  大きな手は、返事代わりに俊の頭をそっと撫でた。涼が他の言葉を探している間に、俊は手を離す。  重い体を起こした俊に、涼はすぐ肩を貸した。俊に触れたところが熱い。情事の時に似ていながら、その熱は性欲と無縁だった。  ぶるり、と体がまた震えて、俊は毛布を握り締めた。ベッドに入る前までには確かにあったはずの睡眠欲が、寒気に掻き消されていた。  一週間前、桂の部屋でもこうして毛布にくるまっていたことを思い出し、そっと眉を顰める。  忘れた方が、自分のためにも桂のためにもなる。分かっていても、俊はいつものように忘れることができなかった。ふとした瞬間に、彼の横顔や小さな手を思い出す。頭痛と倦怠感に包まれているのに、桂のことだけは何度も頭に浮かんだ。  そっけなく、冷たい態度を取られた。幾度もきつい言葉を投げつけられた。毎日のように迷惑そうな顔をされた。いつもの俊なら、そんな相手に執着することなどない。だが、桂だけは別だった。  その奥に潜む優しさを、俊は知ってしまった。そして、息を呑むほどの美しさと、熱も。何度貪っても飽き足らないくらい、桂が欲しくて堪らない。それは今も変わらなかった。  だが俊はもう、あの熱い肌に触れられない。近付くことすら許されない。幼さを秘めた大きな目に、映ることもできない。    全部、お前のせいだ!  震える声が、俊の脳裏を過ぎる。罪悪感が胸を突き刺し、呼吸すらも辛かった。 「全部、俺のせい……。俺のせいで……、赤森さんは苦しんでる。だから、嫌われて、当たり前……」  涙が一滴、零れていく。もう、桂の優しさが与えられることはない。その事実が、再び俊の涙腺を緩ませた。 「もう、近付いちゃ、いけない。話しちゃ、いけない。好きでいちゃ、いけない」  一つひとつ、確かめる。桂を傷付けないために、自分がやってはいけないことを。 「迷惑掛けちゃ、いけない。悲しませちゃ、いけない。それから……」  ぽたぽたと、枕に涙が吸い込まれていく。それ以上は言葉にならず、俊はただ嗚咽を漏らした。  頭に浮かぶのは、桂の涙ばかりだった。「ごめんなさい」と言いたいのに、声にならない。ひくりひくりと、喉が勝手に鳴った。なにもかもがもどかしくて、苦しい。  いっそ、このまま風邪をこじらせて、いなくなってしまった方がいいのかもしれない。俊は、ぼんやりとそう思った。泣きながら起き上がり、ぐらぐらと揺れる頭を抱えてカーテンを引いた。  大きな窓の外には、マンションの中庭があった。震える手で、鍵を探す。三日月型の鍵は、すぐに軽い音を立てて開いた。  カラカラと、軽い音が鳴る。俊は降り止まぬ雨の中へ足を踏み出そうとした。  だが、ドアの音が俊を止める。 「俊くん……! なにやってるんだ!」  涼の、聞いたことのない怒声が響く。思わず、俊は身をすくませた。  ナイロン袋を投げ捨てて、涼は俊のところへ駆け寄った。すぐに俊をベッドへ寝かせて、毛布と布団を掛ける。俊が抵抗する暇などない。 「ちゃんと寝てなきゃ駄目だろう? 熱が上がったらどうするんだ」 「……いい」 「……え?」  ようやく、涼は気付いた。俊の頬を伝ういくつもの涙の筋に。そして、うつろな黒い瞳の中に、自分の姿が映っていないことに。 「いない方が、いい。俺なんか……、いない方が」 「俊くん」 「赤森さんのためだよ」 「俊くん……!」 「だから、いい。風邪、こじらせちゃえば……」 「……俊!!」  大きな手が、俊の口を塞いだ。見開いた涼の目を、俊はぼんやりと見上げている。 「二度と、そんなことを言わないでくれ……!」  俊は首を横に振ろうとした。だが、その頬を涼の両手が包み込む。 「赤森くんとなにがあったか知らないけど、君がいなくなったら僕は悲しいよ。だから、いない方がいいなんて言うな。……頼む」  いつになく真っ直ぐに、涼は円い目を見つめた。 「センセー……、どう、して?」  うつろだった瞳に、僅かながら光が戻る。だが、それはあまりにも頼りなく、おぼろげな光だった。そんな目まで彼に似ていて、涼は苦しみに耐えるように瞼を閉じる。 「……似てるんだ。君は」  口に出してしまえば、もう元には戻れない。分かっていても、涼は言わざるを得なかった。俊の目に映る光を、少しでも強くするために。 「初めて会った時から、そう思ってた。君は、そっくりだ。僕の息子に」  大きな手が、優しく頬を撫でる。愛おしそうなその仕草に、俊は既視感を覚えた。その手の温かさを、知っていた。 「いつも寂しそうに笑うところも、元気のない目も、我が儘を素直に言えないところも……、愛されるのを諦めているところも。……だからほっとけなかった」  懺悔を告げるように、涼はそっと目を閉じた。 「でも、近付きすぎるのが恐かった。君に近付けば近付くほど、あの子と君が重なってしまう。君は抱かれたいと望んでるのに、……抱けなくなる気がして」  冷たい頬が、俊のそれをくすぐる。濡れているような気がして、俊は思わず涼の頬に手を伸ばした。  大きな手が、俊の手を包む。 「……ずっと君から逃げてきた。君のためだと思って」 「センセー……?」  細い俊の声が、すぐ傍にある涼の耳に吸い込まれていく。涼は、その手に包んだ俊の手のひらに頬を擦り寄せた。 「けど……、もう逃げない」  ひどく優しい目が、俊を見つめていた。俊はただ、見つめ返すことしかできない。 「俊くん、いなくならないでくれ。……赤森くんのためにいなくなるくらいなら、僕のために生きてくれ」 「……で、も、俺は」 「好きにならなくたっていい。彼の代わりに抱いて欲しいなら、喜んで身代わりになる。君の気が済むなら、八つ当たりしたって構わない」  力なく、俊は首を横に振る。再び潤み始めた瞳に自分が映っているのを見て、涼は微笑んだ。 「僕は、君がいてくれるだけでいいから」  温かな腕が、俊をゆっくりと抱き締めた。  俊の顔が、歪む。濡れた目から、いくつもの涙の粒が頬を伝った。止まっていた嗚咽が、また鳴り始める。嗚咽は次第に大きくなり、とうとう声になった。 「う……あああああっ」  涼の腕の中で、俊は叫び声を上げた。それは産声に似た力強さで、俊の中に潜んでいたたくさんの想いを外に投げ出す。乱暴で、そのくせ爽快感すら覚えるほどの衝動が、俊を激しく揺さぶった。 「やだ……っ。ごめ、んっ。……桂ちゃ……っ、ひっ」  言葉の欠片が、叫びに混じってこぼれ落ちる。意味を成さない単語の羅列を吐くたびに、俊の胸に詰まっていた苦しみは少しずつ消えていった。  目映い朝日を浴びて、涼は目を覚ました。就寝前に必ず閉めているはずのカーテンは、窓の隅で頼りなく揺れている。 「……あ、鍵……、開けっ放しだったっけ」  ぼんやりした頭で、昨夜のことを思い出す。俊を中に連れ戻した時、窓は閉めたが鍵を掛け忘れていたのだ。鍵を掛けて僅かに忍び込む隙間風を遮断し、涼は大きな欠伸をした。  寝癖の付いた黒髪を掻き上げながら、隣で丸くなっている俊を見下ろす。一晩中、散々泣いた俊は、涙と鼻水のために顔中がひどく乾燥していた。目は腫れて、厚ぼったい。それでも、穏やかな寝顔だった。 「……お疲れ様、俊くん」  優しく頭を撫でてから、足を下ろそうとした。だが、シャツの裾を、力ない手が握っている。  苦笑して、涼はそっと俊の手を取った。起こさないように、ゆっくりと指を離していく。 「……にも、……ないから……」 「……え?」  昨夜の大泣きのためにすっかり枯れた声で、俊は呟いた。起こしてしまったかと思った涼は、手を離す。 「……が、嫌なら……、……の、ところでも……」 「寝言……か?」  俊は、再び泣き出しそうに顔を歪めていた。ぎゅっとシャツを握り、一粒涙を零す。 「……かもり、さん……」 「大丈夫、ここにいるよ」  咄嗟に、涼はそう囁いていた。俊の顔が、安らいでいく。自然と、指先に込められていた力も抜けていった。  皺になったシャツの裾を俊の手から抜き取り、涼はようやくベッドを下りた。音を立てないように部屋を出て、キッチンへ向かう。  その胸にわだかまるのは、桂のことだった。  彼は、誰よりも真面目に涼の講義を聴き、誰よりも熱心にゼミ発表にも取り組んでいる。その姿勢は、去年入学してきた時から一切変わらない。涼が話を聞く限りでは、生活の大半を研究や読書に費やし、それ以外でやっていることと言えば生活のためのアルバイトくらいだという。  桂と知り合ってからの一年間、彼の口から出るのは講義や研究のことばかりで、色恋の話は爪の先程も触れられなかった。涼は勝手に恋愛事には興味がないのだろうと思っていたが、秘めた相手がいたことが分かった今となっては、その認識を改めざるを得ない。  カフェテラスの彼女。桂が彼女に少なからず思うところがあるのは明白だった。  その上で、桂は俊とセックスをした。俊と桂の間になにがあったのかは分からないが、堅物そうな桂がよく知りもしない相手に体を許した以上、大きな理由があるのは間違いなかった。  そして、俊をあそこまで追い詰めるほどのなにかを、桂は彼に言った。それはおそらく、彼女への想いも深く関係している。  涼が想像できるのは、そこまでだった。情報が少なすぎるのだ。それに、二人の間になにがあったか知ったところで、涼にできることは少ない。涼は昨夜のように俊を思う存分泣かせてやることくらいしか、彼を慰める方法が思い付かなかった。 「大人になったら、なんでもできると思ってたんだけどなぁ」  ヤカンで湯を沸かしながら、涼はぽつりと呟いた。 「……桂くんくらいの頃は、できることが増えたって喜んでたけどな。まぁ、僕とあの子は違う、か」  自分を見上げてくる、幼さを残した顔を思い出して、涼は一人溜息を吐く。二人の間になにがあったにせよ、俊をあそこまで傷付けた桂に、いい感情は持てなかった。    俺は、気持ちいい。 「……ぅあっ!」  叫び声と共に、桂は目を覚ました。脳裏には、妖艶に微笑む俊の顔が刻まれている。 「畜生……」  額を流れる汗が、ひどく不快だった。体中を、ざわめくような性欲が支配している。自分の体を抱き締めて、桂は深く溜息を吐いた。  元々、性欲が旺盛な方ではない桂だったが、俊を抱かされた一週間前から、毎朝のように寝起きに勃っていた。いつもなら、じっとしていれば勝手に熱は冷める。しかし、今日に限って熱は冷めるどころか、より高まっていた。 「あいつの、せいだ」  目を見開いて、言葉を失った俊の顔が思い浮かぶ。桂のことが好きだと告げてから、怯えたように目を閉じた俊も。 「あいつの、せいだ……」  固く目を閉じて、苛立ちながら桂は自分の陰茎に手を伸ばした。空いた手で寝間着と下着をずらし、布団を剥ぐ。早朝の冷えた空気に、陰茎が小さく震えた。  遮光カーテンの隙間から、朝日が漏れている。昨夜の嵐が嘘のように、晴天だった。それすらも自分の体を熱くさせる要因になっている気がして、桂はますます苛立った。  自然、陰茎を擦る手も荒くなる。無理矢理高められた熱は、出口を求めてすぐにそこへ集まった。先走りが零れる暇すらない。  一心不乱に、桂は処理を続けた。なにも考えず、ひたすら手を動かす。浅い快感が続き、小さく陰茎が震えた。  そろそろだ、と思った時だった。    可愛い。 「……う、そだろ」  俊の声が蘇っただけで、陰茎は熱を増した。深い快感と共に、手の動きが速く、激しくなっていく。もう、桂の意思では止められなかった。 「……はっ、あ……!」  妖艶な笑み、無邪気な寝顔、自分を抱きすくめる細い腕、一回り大きな手。俊の記憶が、細切れになって桂の脳裏を駆け巡った。背筋に、強い射精感が走る。 「うぁ……っ!」  うめき声と共に、桂は精液を吐き出した。一週間ぶりの吐精は、濃密で多量だった。右手を流れていく白い体液を見て、桂は再び深々と溜息を吐く。 「……最悪だ」  夢も現実も、俊の記憶に振り回される。それがなぜなのかを考える余裕もなく、桂はひたすらティッシュで自分の精液を拭いた。  それでも彼の脳裏には、俊の体を拭いた時のことがこびりついていた。なにをやっても、俊のことばかり思い出す。いつまでこれが続くのかと考えると、ぞっとしない気分だった。  俊は、とても幸せな夢を見た。  ゆっくりと目を開いて、現実を思い知る。見知らぬ部屋と、一人きりのベッド。あの日と違う熱に冒された体は、思うように動いてくれない。  起き上がるのも億劫で、俊はごろりと寝返りを打った。頭痛が、幸せな夢の記憶を押し流していく。 「……夢くらい、いいよね……」  薄れゆく記憶を辿りながら、呟いた。とても幸せで都合のいい夢は、辛い現実を一時でも忘れさせてくれる。今だけでも、それに縋りたかった。  カーテンの隙間から、日の光が漏れている。ぼんやりとその光を見つめ、俊は小さく溜息を吐いた。光が眩しくて、また泣きたくなっていた。  どれだけの間そうしていたか、俊は覚えていない。気が付いた時には、部屋のドアが控えめな音を立てていた。 「おはよ」 「……おはよ、センセー」  俊は、力ない声で返した。背を向けている彼からは、苦笑している涼が見えない。 「とりあえず、熱計ろうか」  涼が体温計を差し出すと、ようやく俊は彼の方を向いた。力の入らない手で体温計を取り、脇へぞんざいに差し込む。 「生姜湯作ろうか? 温まるよ」 「……うん」  俊が素直に頷くと、涼は静かに部屋を出て行った。  その背中を見送ってから、俊はゆっくりと自分の瞼に指を這わせた。薄い皮膚は、すっかり腫れ上がって熱を持っている。頬や鼻の周りは乾燥しており、ヒリヒリと痛んだ。こんなになるまで泣いたのは、随分と久し振りだ。 「……お父さんが死んだ時も、いっぱい泣いたっけ」  閉じた熱い瞼の奥に、あの日の記憶が蘇る。  真っ白になった父の手は、氷のように冷たかった。どんなに呼びかけても、もうその手が頭を撫でてくれることはないと知って、俊はただただ泣いた。そして、荼毘(だび)にふされる直前まで父の傍にいて、離れようとしなかった。火葬場で最後の別れを告げる時、俊を父の棺から引き離した母の手の熱さを、俊は今でも覚えている。気丈に振る舞っていた母が、その時になって初めて涙を流したのも。  ピピ、という軽い電子音が、俊の意識を現在に戻す。ごそごそと体温計を脇から取り出して、数値を見た。昨夜よりは少し下がっているが、平熱とは言えない。  俊がぼんやりとデジタル表示を眺めていると、再びドアが開いた。マグカップを片手に、涼はベッドの縁に座る。 「何度?」 「……三十八度ちょうど」 「そっか。病院……、は、もう無理かな」  置き時計を見て、涼は呟いた。もう、正午を回ろうとしている。 「お家には連絡しなくていいの?」 「……たぶん」  差し出されたマグカップを受け取り、俊はそっと口を付けた。熱い生姜湯にはたっぷりと蜂蜜が入れてあり、甘い香りが漂っている。 「それ飲んだら、メールくらい送ってあげたら? 携帯持ってきてあげるから」 「うん……」  俯いた俊の頭を、大きな手が優しく撫でた。その心地よさに、俊は目を細める。 「お粥とか、食べられそう?」 「少しなら」 「じゃあ、ちょっと食べようか。昨夜の残りでいい?」  俊が頷くと、大きな手は離れていった。心細そうな俊の目を見て、涼は苦笑する。 「大丈夫、どこにも行ったりしないから」 「うん……」  大きな背中を見送って、俊はそっと生姜湯を飲み込んだ。  顔や性格は違っても、涼はどこか父に似ている。父がいなくなった日のことを思い出していたために、俊の胸には言いようのない不安が訪れていた。  この上、涼まで俊の前からいなくなったとしたら。想像するだけで、俊はまた泣きたくなった。  俊の熱は、日曜の午後にはほとんど下がっていた。食欲が戻り、顔の腫れも引いている。 「……うん、……うん。分かった。……うん。じゃあね」  携帯電話を切って、いつものようにアウターのポケットに入れると、俊は料理をしている涼の方へ振り返る。 「お母さんが、お礼がしたいから住所教えてくださいって」 「いいよそんなの。僕がお礼を言いたいくらいだから」  うどんをザルに上げて、涼は苦笑する。手持ち無沙汰になった俊は、後ろから涼の手つきを眺めた。 「センセーが、お母さんにお礼するの?」 「そ。少しの間だけど、息子さん借りちゃったから」 「お母さんは平気だと思うよ」 「こういうのは、貸す側じゃなくて借りる側の気持ちの問題なの」  丼にうどんを入れて、温めておいたつゆを掛ける。出汁の香りがふわりと漂って、涼は目を細めた。 「久し振りに……、いいや、初めてかな。家族っぽいことさせてもらえたからね。楽しかった」 「……熱下がったから、今日でおしまい?」  ふっと笑みを消した涼を、俊はじっと見つめた。しばし、沈黙が落ちる。  先に動いたのは、涼だった。用意しておいたネギをうどんに入れながら、微笑む。 「君が望むなら、いつでも。……代わりにしか、なれないけどね」 「……いいの?」 「もちろん。君こそ、僕でいいの? こんな、勝手な男が父親で」  俊は首を振った。涼のシャツの裾を引っ張って、無邪気な笑みを浮かべる。 「センセーがいい」 「……ありがと。さ、こっちが君の分だから、持っていって」  手渡された熱い丼を持って、俊はリビングへ向かった。中には半玉ほどしか入っていない。なにも言わなくても、彼は俊の適量を把握していた。 「……センセーの子どもも、これくらいしか食べないの?」 「え? あ、ああ、まだ十歳だからね」 「ふぅん」  ソファに座った俊は、向かいに丼を置いた涼を見上げる。俊が涼の息子のことを聞いたのは、これが初めてだった。 「俺に似てるんだよね?」  渡された箸を丼の上に置いて、俊は手を合わせた。涼もそれに倣い、軽く手を合わせる。 「ん……、うん。顔はあんまり似てないけどね」 「センセー似?」 「いや、母親似。会うたびに似てきてる」  軽く肩をすくめる涼を、不思議そうに俊は見つめた。うどんを一口啜ってから、首を傾げる。 「どれくらい会ってるの?」 「二、三ヶ月に一回か……、半年くらい空いたこともあったかな。もう少ししたら、もっと空くことになるかもね」 「なんで?」 「再婚するんだってさ。お相手は三つ年下のサラリーマン。子ども好きで、家事も分担してくれる優しい人だって」  皮肉っぽく笑って、涼は音を立ててうどんを啜った。なにを言うべきか分からず、俊も箸を動かす。 「その話聞いたからかな。最近、ちょっと焦ってるのは。別に、今更あいつがどうなろうと関係ないのにね」 「……センセーも、再婚したいんだよね」  涼を見つめる俊の目に、僅かに不安が混じる。苦笑して、涼は首を振った。 「相手がいないのに、しようがないよ。それに……」  箸を止めて、涼は寂しげに目を伏せた。 「正直ね、少し恐いんだ。また駄目になる気がして。だから、しばらく再婚はいいかな」 「……あの子、は?」 「え?」  つゆを一口飲んでから、俊は丼を置いた。 「いつも、カフェテラスにいる子。……あの子は、好きじゃないの?」  俊の顔が強張っている理由を、涼は知らない。優しく微笑んだ涼は、再び箸を動かしながら言った。 「ああいう子は可愛いなと思うけど、それと恋愛は別物だよ。……それに、声を掛けたこともないしね」 「声……掛けたくないの?」 「この歳になって、ナンパは無理だろ。相手が嫌がるよ」 「……そう、かな」  呟いて、俊は最後の一本を啜った。 「随分、気にしてるんだね」  咄嗟に顔を上げた俊は、慌てて首を振る。 「別に、そういうわけじゃない」 「そう? ……赤森くんが、あの子のこと気にしてるからじゃない?」 「違う、よ」  これ以上喋ると余計なことを口走りそうな気がして、俊は口を噤んだ。手を合わせて、「ごちそうさま」と言ってから、足早に流しへ向かう。  桂は涼が好きだが、涼は彼女のことが好きなわけではない。俊はそれを聞いて、心の隅で安堵している自分がいることに気付く。  虚しさを覚えて、ゆるゆると首を振った。桂の想いが実らなかったとしても、自分に向くことなどないのを俊は知っている。それでも安堵をしてしまう自分が嫌だった。 「ところで、今日も泊まってく?」  食べ終わった涼が、流しまでやってきた。つゆを捨てて、スポンジを手に取る。 「……お母さんが、帰ってきなさいって」 「僕は別に構わないよ。もう遅いし、泊まっていきなよ」 「うん……」  洗い物を始めた涼の隣で、俊は小さく頷く。 「……こういう時はね、誰かに甘えた方がいいよ。一人でいても、ろくなこと考えないから。酒や煙草で忘れられたらいいけど、君はどっちもしないだろ」  大きな手が、小さなスポンジで丁寧に食器を洗っていく。俊はそれを眺めながら、首を傾げた。 「センセーが煙草吸うのも、忘れたいから?」 「んー……、まぁね」 「でも、吸ってないよね。昨日も今日も」 「だって、俊くん煙草嫌いじゃないか」  その言葉に、思わず俊は涼の横顔をまじまじと見つめる。 「知ってたんだ」 「そりゃ、吸うたびに嫌そうな顔されればね。嫌でも分かるよ」 「……知ってて吸ってたんだ」  気を落とした俊を見て、慌てて涼は頭を下げた。 「ごめんごめん。あんまり好かれないようにしようと思ってたから」 「今は、いいの?」 「んー、まぁね。こんなに距離が縮まっちゃったら、今更そんなこと言ってられないだろ?」  洗い終わった食器を篭に置いて、涼はタオルで手を拭いた。数センチ下にある俊の頭を撫でて、円い目を覗き込む。 「だから、君も言いたいこと言っていいんだよ」  曖昧に、俊は微笑む。包み隠さず様々なことを話してくれる涼に隠し事をしているのが、今になってひどく申し訳ない気がしてきていた。 「さ、お風呂入れるから、しばらくリビングで待っててくれる?」 「うん。ありがと、センセー」 「どういたしまして」  おどけてお辞儀をしてから、涼は風呂へ向かった。その背中を見送ってからリビングに戻った俊は、使い込まれたソファに深々と座り込む。  明日、大学に行かなければならないと思うと、気分は落ち込むばかりだった。  久し振りに取り出した女物の服を見下ろして、桂はそっと溜息を吐く。拾い上げて鼻を近付けても、もう精液の匂いはしなかった。  明日こそは、カフェテラスに行かなければならない。桂は疲れた頭でそれだけを考えていた。天気予報は晴れ、気温も上がるとニュースで流れている。久し振りの、読書日和だった。  授業の用意をしたリュックの中に、畳んだ女物の鞄と服を詰めていく。ウィッグを痛めないよう、丁寧に布で包んでから、優しくリュックに入れた。  ここまで準備をしていながら、桂は不安を消せないでいた。この半年間、警戒に警戒を重ねて、時間によって最も人目がなくなる場所を探しては女装をしていたが、俊のようにたまたまそこへやってくる者がいないとは言い切れない。今まで、見つからない方が奇跡だったのだ。 「……やっぱり一旦、家まで戻るか。明日は四限終わりだから……」  慎重に、様々な要素を考慮しながら、明日の計画を立てる。だが、こういった時にいつも覚える奇妙な高揚感は、今日に限っては欠片ほども感じなかった。  ウィッグも着けず、化粧もしていない桂を、俊は熱に冒された目で「可愛い」「綺麗」と言い続けた。その言葉が、今も桂の胸を締め付けている。もう一人の自分になるための計画は、きつく締め付けられた胸のせいで単なる作業になりかけていた。 「可愛いわけない。……綺麗なわけ、ない。こんな顔……、こんな、嫌な性格……、どこに可愛げがあるんだよ」  本棚の上の卓上鏡に、眉を顰めた自分が映る。桂は泣きそうな自分の顔を隠すように、鏡を伏せた。 「……どうして、俺なんか」  桂の手は、ゆっくりと自分の目鼻立ちをなぞった。答えを探すように、顔を確かめる。すぐに、見つかるはずもない答え探しに疲れて、目を閉じた。  落とされた瞼の裏には、無邪気に笑う俊がいた。桂が無意識の内に思い出す彼の笑顔は、いつも幼子のように無防備だった。そのくせ、桂が本気で拒んでいる時は察することができる。とかく、俊は桂の機微をよく読んでいた。  今、自分がどれだけ悩まされているかも、俊には分かるのだろうか。桂は、寝不足のはっきりしない頭で思った。  その答えも、見つかりそうもなかった。  四、交錯する想いの果て  翌、月曜日。桂は眠い目を擦りながら作った弁当を、教室で広げていた。次の授業は俊と同じで、先週の同じ時間には彼が目の前にいた。  だが、今日は教室内にはいない。弁当を食べ終えてから後ろを見たが、榛色の髪は見つからなかった。 「……サボるつもりじゃねぇよな」  やりかねないと思いつつ、桂はぼやいた。腕の時計は、昼休憩の半分が終わったことを示している。  分厚い研究書を取り出した桂は、文字を追うことに集中しようとした。だが、寝不足の頭では一文を理解するのに時間が掛かり、読書は遅々として進まない。次第に、うとうとと船を漕ぎ始めた。  視界がぐらぐらと揺れ始めた辺りで、桂は本を閉じた。眼鏡を外し、腕を枕にして突っ伏す。普段ならば決してやらない気の抜けた姿に、そっと自嘲した。  目を閉じて、睡魔に身を委ねる。疲れた体から、徐々に力が抜けていった。  ざわめきの中で、自分の吐息ばかりがひどく耳に付く。その吐息すらもどこか遠くなり、意識が薄らいでいった。 「……!」  眠りに就く直前、背後で椅子を引く音が響き、桂は飛び起きた。慌てて眼鏡を掛け、振り返る。  だが、二つ後ろにいたのは見覚えのない学生だった。胡乱な視線を向けられ、慌てて頭を下げる。そして、前に向き直ろうとした。  その時だった。ずっと後ろに、榛色の頭が見えた。 「……黒畑」  桂の呟きなど聞こえるはずもない距離だったが、俊はすっと目を逸らす。すぐに椅子に座ると、先程の桂のように机に突っ伏した。    もう、近寄らないから。  ドアの向こうから聞こえた、小さな声が蘇る。俊は、あの言葉を守っていた。  桂は前を向いて、閉じた本を再び手にした。開いても意味がないと知りながら、同じところを読み始める。  眠気は霧散しても、相変わらず一文字も頭に入ってこなかった。  俊が目を覚ました時には、もう授業は終わっていた。教室は閑散としており、一番前の席にいた小柄な背中ももういない。  ゆっくりと鞄にものを入れてから、俊は立ち上がった。あまりにも億劫で、なにをする気にもなれない。とりあえず教室は出たが、足は自然と外へ向かっていた。  終業のチャイムが鳴る。廊下を行く学生達のざわめきは、いっそう大きくなる。大きな人の流れに逆らって、俊は教室棟から逃げ出した。  ゆるゆると向かう先は、涼の研究室だった。俊には、他に寄る場所がない。頼る相手もいなかった。  泣きたくなるほど青い空の下、すれ違う学生からは笑い声が聞こえる。仲良く並んで歩く男女から目を逸らし、俊は研究室棟へと向かった。自分でも知らぬ内に、足はどんどん速くなっていく。  授業開始間際の研究室棟は、少しだけ騒がしくなる。暗い廊下に響く足音や、古い蝶番の軋む音が時折響いた。教師達は、受け持ちの授業がある教室へと向かい始めている。  すれ違う教師に軽く頭を下げ、俊は四階へと急いだ。涼は授業がある時、始業のチャイムが鳴る少し前に部屋を出る。今ならまだ、彼を捕まえられるはずだった。  四階の廊下に辿り着いた俊は、端にある研究室へ走る。 「……センセー」 「あ、俊くん」  少し息を切らした俊を見て、涼は鍵を持つ手を止めた。 「次の授業、休んでいい?」 「……まぁ、今日は大目に見ようかな。来週はちゃんと出るんだよ」  微笑んだ涼は、俊の頭を優しく撫でる。 「授業が終わったらすぐ帰るから、それまで待っててね」  俊が頷くと、大きな手はそっと離れていった。  涼に手を振って、その背中が見えなくなるまで送ってから、俊はドアを開けた。煙草と古本の匂いが、ささくれだった心に染みこんでいく。目を閉じて、俊は深く息を吸った。  内鍵を掛けてから本棚で仕切られた奥に入る。鞄を置いてから畳まれている布団を敷いて、仕切りのところに掛けられたカーテンを閉めた。  寝転がって、目を閉じる。瞼の裏に浮かんだのは、先程驚いたようにこちらを見ていた桂だった。その視線が冷たくなる前に、俊は目を逸らした。彼を知る前に戻るには、まだ時間が必要だった。 「……近寄らない。話さない。好きにならない……」  呪文のように繰り返しながら、布団を被る。  暗い布団の中で、目を輝かせて涼と話す桂の顔が思い浮かんだ。尊敬や好奇心、そして好意を秘めた目で、今日も桂は授業の終わりに涼と話す。どうしようもない苦痛が、俊の胸をきつく締め付けた。  先日、嫌と言うほど泣いたというのに、俊の目にはまた涙が溢れていた。枕に顔を埋め、ぐす、と鼻を啜る。  遠くで、始業のチャイムが鳴り響いていた。 「じゃあ、今日はここまで。来週は新しいプリント配ります」  涼の言葉が終わるやいなや、教室中にざわめきが立った。学生達は思い思いに片付けをして、教室を出て行く。  黒板を消しながら、涼は少し悩んでいた。いつものように桂から話し掛けられても、平然としていられる自信がなかったのだ。平静を取り繕うことには慣れたつもりだったが、泣き叫ぶ俊の声はまだ耳に新しい。自然、突き放すような言動をしてしまいそうで、不安だった。  だが涼の不安を余所に、いつまで経っても桂は声を掛けてこなかった。黒板を消し終わり、荷物を片付けながら様子を窺うと、のろのろとリュックを開けているところだった。  先週の金曜、ほとんど寝てないと言っていた日ですら、桂はせかせかとよく動いていた。明らかに、普段と様子が違っている。  雨の中を彷徨っていた俊の背中が、涼の脳裏を過ぎった。あの日の俊と今の桂は、よく似ている。  気付いた時には、涼の足は自然と桂の前へ向かっていた。 「風邪でも引いた?」 「……先生」  桂は、少しだけ肩を震わせて顔を上げた。 「この間、無理しすぎたんじゃない?」  今の自分は、いつも通りの優しい教師を演じられているんだろうか。心の隅で、涼はそう思った。 「かも、しれません」  覇気のない声で言って、桂は頭を下げる。 「心配お掛けして、すいません」 「いいよ、そんな。……早く帰って、ゆっくり寝たら?」 「はい。……ありがとうございます」  笑顔を作る余裕もなく、桂はリュックを背負って早々に立ち去っていった。小柄な背中に不似合いな大きさのリュックが消えるのを見送って、涼は溜息を吐く。 「……悪い子じゃないんだ、あの子も。そんなこと、分かってたじゃないか」  呟きは誰に拾われることもなく、喧噪の中に流れていく。気持ちを切り替えて、涼は荷物の入った紙袋を手に取った。  彼は、ここでいつまでもぼんやりしているわけにはいかなかった。  足元が覚束ない。頭がぼんやりする。冷静な判断を下せる気がせず、桂は結局アパートに帰っていた。  洗顔をしてもすっきりしなかったが、そのまま化粧を施していく。半年の間にすっかり慣れた手は、自然といつものように桂の顔を彩っていった。  マスカラが乾いたところで、コンタクトレンズを付ける。クリアな視界の向こう、鏡の中にはもう、彼女がいた。 「久し振り、ね」  声を掛けると、彼女はぎこちなく笑う。桂は鏡の前から離れて、リュックに詰めていた服を取った。春物の上品なブラウスと、ふわりとしたスカート。そして、濃い黒のタイツを履き、ウィッグを着ける。これで、彼女はほとんど完成した。  これらの化粧品や服は、ネット通販で揃えていた。最初の内こそプレゼント包装を頼んで誤魔化していたが、性別さえ偽ってしまえば名前からは男女の区別が付かないため、今では特に偽装もせず買っている。  後は、首にストールを巻いて喉仏を隠せば、男であることは気付かれない。桂はストールを取り出し、ゆっくりと首を隠していった。  鏡の前に戻って、最後に確認をする。少し目の下の隈が見える以外は、いつもの彼女だった。 「……よし、行こ」  必要最低限のものを詰めた鞄を肩に掛け、桂は彼女に声を掛ける。鏡の向こうで、彼女は不安そうな顔をしていた。 「大丈夫……」  そう言い聞かせて、桂は玄関へ向かう。すっかり履き慣れた細いパンプスは、するりと桂を受け入れた。  ドアの向こうには、抜けるような青い空が広がっている。眩しそうに目を細めてから、桂はゆったりとした足取りで部屋を出た。            「……おはよ」  声を掛けられて、俊はまどろみの中から抜け出した。布団から這い出して、涼の顔を見上げる。 「授業、終わったの?」 「さっきね。そろそろ終業チャイムも鳴るんじゃないかな」  寝てていいよ、と声を掛けて、涼は仕切りの向こうへ戻った。電気ポットが音を立てると、程なくコーヒーの香りが漂い始める。 「ココア飲む?」 「うん」  上体だけ起こした俊は、窓に掛かったカーテンをぼんやりと見つめた。隙間から見える青空は、憎たらしいほど清々しい。 「綺麗だよね」  ぽつりと、俊は呟いた。 「え?」 「今日、空が綺麗」  ココアとコーヒーの入ったマグカップを持った涼は、訝しげに首を傾げる。 「俊くん?」 「……なに?」 「いや……、珍しいなと思って。君が、そういうこと言うの」 「……うん」  手渡されたマグカップを両手で包み、俊は頷いた。 「なんでだろ。……綺麗だけど、なんか……」 「苛立つ?」  再び、俊は小さく頷く。 「僕も、時々あるよ。……息子と会った後が、多いかな。なんか……、嫌になるんだよね。綺麗な空を見てると」  苦笑しながら、涼はカーテンを開けた。キャンバスに直接絵の具をぶちまけたような青が、世界を覆っている。 「昔は大好きだったんだけどな。抜けるような、雲一つない青空。大人になっちゃったってことなのかなぁ」 「……俺も?」 「そうだね」  パソコンデスクの椅子に座り、涼は俊を優しく見下ろした。 「嫌かい?」 「……ううん。しょうがないよ」  力なく笑って、俊はココアを口に含んだ。ほんのりとした甘さが、荒んだ胸に広がっていく。 「センセーは、子どものままでいて欲しい?」 「……そうだなぁ……」  コーヒーを啜って、涼はカーテンを開ける。晴れ渡る空を見上げて、悲しげに笑った。 「いつまでもそのまま、ってわけにはいかないだろうけど、できるだけ……、今の君のままでいて欲しいかな」 「……そっか」  それだけ呟いた俊は、熱いココアをもう一口飲んだ。  しばし、沈黙が落ちる。穏やかな静寂の中に、甘く苦い香りが漂っていた。その心地よさに、俊はそっと吐息を漏らす。 「あ」  窓の外を見ていた涼が、間の抜けた声を漏らしたのは、その時だった。 「どう、したの?」  胸騒ぎを覚えて、俊は恐る恐る涼の顔を見上げる。 「いや、久し振りにあの子が来たから」  すぐに窓から視線を戻した涼は、苦笑してコーヒーに口を付ける。俊は強張った顔を隠すように下を向いた。 「何者なんだろうねぇ、彼女。少なくとも、赤森くんとは接点があるみたいだけど。あのカフェテラス以外で見かけたこと、一度もないんだよね」 「……そうなんだ」 「もしかして、モグリなのかなぁ」  マグカップをパソコンデスクの上に置いて、涼は頬杖を突いた。胸ポケットから〈しんせい〉を取り出そうとして、手を止める。 「いいよ、吸っても」 「やめとくよ。これ以上、君に副流煙吸わせたくないから」  肩をすくめた涼は、口寂しさを紛らわすためにコーヒーを取ろうとした。  だが、その指先が滑る。 「……あ!」  咄嗟に、二人は手を伸ばした。しかし、思い虚しくマグカップは床に転がり、盛大にコーヒーが流れていく。  涼はすぐさま布団を避け、パソコンデスクに置いてあるティッシュを取った。しかし、軽い箱はすぐに底を突く。 「俊くん、あっちの予備取ってきて!」 「う、うん」  言われるままに、俊は慌てて立ち上がる。仕切りのカーテンを引き、新(さら)のティッシュ箱を取って引き返した。 「センセー、はい」 「ありがと」  涼は手渡された箱からティッシュを何枚も取り出し、白を焦げ茶色に染め上げる。多少の飛沫は飛んだが、布団は概ね無事だった。 「よかった、大して汚れてないみたいだ。……俊くん?」  顔を上げた涼は、怯えるような目で窓の外を見つめている俊に気付く。その唇が、微かな声を漏らした。 「……桂、ちゃん」  二度と呼ばないと思っていた名を、俊は自然と口に出す。 「え?」  彼の視線を追って、涼も外に目を遣る。  カフェテラスの彼女は、既に走り出していた。 「どう、しよう……!」 「俊くん?」 「俺、また……」  目を見開いて、俊は首を振った。 「また、傷付けた……」 「俊くん、どうしたんだ?」  なにも言えない俊は、座り込んで体を丸めた。縮こまって震える俊に、涼はなにもできなかった。  どうして、自分が走っているのか。どうして、自分が苛立っているのか。どうして、自分が泣きたくなっているのか。なにもかも、桂には分からない。  ただ、心が欲するままに、桂は涼の研究室へと階段を駆け上がっていた。  細い靴に包まれた足が悲鳴を上げる。鞄の中に入っている本が、がさがさと音を立てていた。息が切れて、足がもつれ掛かる。それでも、桂は走った。  見上げた窓の奥で、涼は誰かと喋っていた。桂には決して見せない、ひどく優しい目で。  少し目を離した内に、涼はひどく慌てていた。そして、窓の下に隠れた。  代わりに見えたのは、俊だった。 「なん、で、あいつが……! どうして、俺は……!」  彼女が、心の中から消えていく。気を付けていた歩き方や姿勢は、とうの昔に乱れていた。丁寧に整えたウィッグも、乱れに乱れている。  最後の一段というところで、とうとう足が引っ掛かった。バランスを崩した桂は、廊下に手を突いたが強かに膝を打つ。スカートが、リノリウムの床にばさりと広がった。  額から零れた汗が、傷だらけの床に小さな水溜まりを作る。乱暴に額を拭って、桂は勢いよく立ち上がった。そして再び、なりふり構わず走り出す。  見慣れたドアの隙間から、電灯が漏れていた。あと三歩、二歩、一歩。ノックなど忘れ去った桂は、ドアを押しながらノブを捻る。  蝶番が、高い高い音を立てた。 「黒畑!」  自分でも驚くほどの大音声だった。 「いるんだろ!」 「赤森……くん?」  仕切りの向こうから顔を出したのは、目を丸くした涼だった。だが、桂は一切気に掛けず、ずんずんと歩いていく。すぐに涼の前まで辿り着き、立ちはだかる恩師を睨み付けた。 「先生、どいてください! 黒畑、いるんだろ!」 「ちょ、ちょっと待って、君、ほんとに赤森くん?」 「黒畑!」  涼は混乱しつつも、押し退けようとしてくる桂を両腕で止めた。体格と腕力の差もあり、桂はそれ以上先に進めない。 「俺が好きだとか言った癖に!」 「赤森くん、落ち着いて」  力強い涼の腕に抗いながら、桂はがむしゃらに叫んだ。 「舌の根も乾かない内に次は先生かよ! ふざけんな!」 「……赤森くん」 「どうせ、お前にとってはそんなもんだったんだろ! 俺なんて!」  涙が、散る。自分の腕を濡らしたそれに気付、涼は初めて知る教え子の顔を見つめることしかできなかった。 「俺なんて……! 誰かに好かれるタマじゃないことくらい、分かってたんだ……!」  長い黒髪が、桂の顔を隠す。膝を突いた桂を、涼は慌てて支えた。 「イカれたヤツ見つけたから、からかおうとしただけなんだろ……!」 「……赤森くん!」 「オモチャになれば、誰でも良か……っ」  突然、桂の頬に熱が走る。リノリウムの床に滴が飛び散った。 「赤森くん。……言い過ぎだ」  打たれた頬を覆って、桂は厳しい顔をした涼を見上げる。そしてその苦しそうな目に、言葉を失った。  言葉の代わりに、涙が溢れていく。コンタクトレンズがずれて、視界がいっそうぼやけた。どうしようもない苛立ちに、桂は思い切り床を殴りつける。 「……とりあえず座って」  差し出された大きな手を、桂は黙って握った。今になって、足が棒のように重くなっていることに気付く。どうにか立ち上がって、古いパイプ椅子に座り込んだ。  涼は黙って、コーヒーを一杯淹れた。砂糖を二つとミルクを一つ入れて、ゆっくりと掻き混ぜる。カラカラと、乾いた音が小さな研究室に響いた。 「……どうぞ」  目の前に置かれたマグカップを受け取り、桂は頭を下げた。そして、下を向いたまま一口啜る。あまりに味気ないコーヒーだった。 「落ち着いた?」  優しさを取り繕った固い声で、涼は俯いた桂にそう言った。桂は小さく頷いて、マグカップを置く。 「……いきなり、大声出して……すいませんでした」  桂の声は、掠れていた。マスカラを塗った睫が、涙で溶けたファンデーションに影を落とす。 「どうしてそんな格好をしてるのか、訊いていい?」 「……聞いたって、気持ち悪いだけです」 「それは僕が判断することだ。……去年の、後期からだよね?」  桂が大人しく頷いたのを見て、涼は続ける。 「俊くんも、それを知ってるんだね?」  呼び方が変わっていることに気付いた桂は、ぴくりと肩を震わせた。 「……知ってます。十日前、下で着替えてるところ見られたから」 「十日前……、君が筆箱を忘れていった日?」  軽く頷いて、桂はまた俯く。 「見られた後……、セックスさせられました。誰にも言わない代わりに」 「……あの子が、そんなことを言ったの?」 「ええ」  冷たい声で、きっぱりと桂は言い切った。 「おかしいな」 「……え?」 「あの子と知り合って一年は経つけど、そんな強引なことを言う子じゃないよ」 「けど!」 「嫌だって言えば、すぐ分かってくれる子だよ。少なくとも、僕にはね」  胸ポケットから〈しんせい〉を取り出して、涼は火を点けた。 「君は、あの子が軽い気持ちで君に近付いたと本気で思ってるのか?」 「じゃなきゃ、納得できません」 「本当に、あの子が簡単に僕に乗り換えたと思ってる?」 「……はい」  桂の声が、小さくなる。 「あの子はね」  紫煙を吐き出しながら、涼は呟くように言った。 「僕と知り合う前からずっと、心のないセックスばかりしてた。相手の顔も覚えてないような関係ばかり続けて、空っぽな心を満たそうとしてた。満たされるわけ、ないのに」  煙草の煙が、研究室の中を充満していく。 「君が初めてだったんだ。好きになったのも、セックスが我慢できなかったのも。……自分はいない方がいいなんて言うほど、追い詰められるのもね」 「……え?」 「その方が君のため、だそうだよ」  なにかに耐えるように眉を顰め、涼は灰皿に灰を落とした。そして、ようやく顔を上げた桂を見つめる。 「君があの子になにを言ったかは知らない。君とあの子の間に、なにがあったかも知らない。けど」  煙草の先が、赤く燃える。 「あんなに追い詰めるほどひどい振り方をしておいて、別の誰かに縋るあの子を責める権利なんて、君にはないよ。あの子の想いを軽んじる権利もね」  言い終わり、涼は勢いよく煙草を揉み消した。固い声と冷たい視線が、桂を深く突き刺す。 「分かったらもう帰ってくれ。これ以上、あの子を傷付けるな」  そのあまりにも冷たい声音に、桂はなにも言えなかった。  目の前に座っているのは、桂の知る大学講師ではない。桂よりもずっと深く俊を知り、ずっと強く彼を想う男だった。  どうしようもない沈黙が、小さな研究室に落ちた。 「もう、いいよ」  精一杯明るく作った俊の声が響いたのは、どれほどの時間が経った頃か。桂にも涼にも分からない。カーテンの向こうには、無理矢理笑顔を作った俊がいた。 「センセー、もう止めて。……赤森さんはなんにも悪くないよ」 「でも、君はあんなに……」 「俺が悪いんだ。嫌がってるのにエッチさせた。付きまとって迷惑掛けた。嫌われてるの分かってて……、好きでいたから、いけないんだよ」  ぎこちなく笑った俊は、ゆっくりと桂の傍まで歩み寄る。力なく俊を見上げる桂に、深々と頭を下げた。 「ごめんなさい。もう、近寄らないから。ここにも、来ないから。……センセーにも近寄らない」 「俊くん、君は」 「センセーも、ごめんなさい。……俺、やっぱり駄目だよ。センセーの息子さんの代わりには、なれない」  痛々しい笑みを浮かべて、俊は顔を上げた。 「……さよなら、赤森さん」  なにも言えずにただ戸惑うばかりの桂を寂しそうに一瞥すると、俊は研究室を出て行った。脇目も振らず階段を駆け下り、研究室棟を出る。  憎らしいほど青い空の下、俊は行く宛もなく歩き出した。涼の研究室に行けなくなった今、構内で俊の居場所はない。  足は、自然と大学の外へ向かう。黙々と、なにも考えず、見慣れ始めていた道を歩いた。すれ違う人の声も、時折葉を揺らす木々のざわめきも、俊の耳には届かない。  彼の耳に響くのは、桂の叫び声だけだった。  涼に乗り換えたんじゃない、と言えば桂は信じてくれただろうか。誰よりもあなたが好きだと言えば、桂は分かってくれただろうか。答えはどちらも、否だった。俊の声はもう、桂には届かない。それは、冷たいドア越しに最後の言葉を掛けた時から、痛いほど分かっていることだった。  どれだけ望んでも、手に入らないものはたくさんある。桂も、その一つだ。俊は、そう思うことにした。今までそうやって、様々なものを諦めてきたように。  もう、涙すらも出てこなかった。いつもの無気力な自分に戻り、躊躇いなく帰宅の途に着く。恐れていた涼との別離にも、心は微動だにしなかった。  明日も、明後日も、一週間後も、一年後もそうするように、俊は地下鉄の駅へ向かった。  俊が去ってすぐ、涼は音を立てて椅子を蹴った。大股で桂の前までやってきて、細い肩をきつく掴む。  ただ呆然とするばかりだった桂は、その痛みにうめき声を漏らした。だが、涼は手を緩めずに桂を睨み付けた。 「君は……、あの子をあれだけ傷付けておいて……」 「……先、生」 「あの子から、僕まで奪うのか!」  普段からは想像もつかないほどの怒号を上げた涼を、桂は怯えの混じった目で見上げる。恐怖と戸惑いで、喉がひりつく。言葉が、出てこなかった。  黙りこくる桂を睨み付けたまま、涼は長い足を折る。黒髪が、桂の肩にこぼれ落ちた。 「……どうして、君なんだ」  独り言のように、涼は呟いた。桂からは、俯いた彼の顔は見えない。 「一年間……、できるだけ一緒にいた。本気にならないようにはしていたけど、それでも同じ相手とずっといることで、少しでも心を開いてくれるかもしれないと思ってた」  涼の独白は、虚しく桂の耳を叩く。 「でも、あの子はなにも変わらなかった。欲しがってるのに、自分からは言えない。僕が拒めば、すぐに諦める。なのに、僕が頼めばなんでもする。自分の意思なんて伝えてくれない。……愛されることだって、ほんとは望んでるはずなのに」  桂の肩を握り締めていた手から、ゆっくりと力が抜けていく。 「君だけだ。あの子が自分から求めたのも、あの子が愛したのも。出会って、まだ十日なのに……、君はあの子をあんなに変えてしまった」  どうして。その言葉は、声にならなかった。桂の肩から、大きな手がすべり落ちていく。 「結局、僕がなにを言ったって、あの子は君の意思を尊重する。僕がなにをしたって、慰めにもならない」  涼は、ゆるゆると顔を上げた。 「君だけなんだ。あの子を救えるのは、あの子が愛した君だけだ。あの子を変えた、君だけだ。けど君は……」  その目に潜む暗く強い光に、桂は息を呑んだ。 「君は、あの子を追い掛けない。あれだけあの子に執着しておきながら、それでも君は……!」 「ち、違う! 俺はただ……」 「なにが違うって言うんだ!?」  再び上がった怒号に、桂はひっと声を漏らした。 「あの子の気持ちが他人に向かうのが嫌だったから、ここまで来たんだろう? あの子の想いを独占したかったんだろう? そうでなければ、なんで女装がばれるのを覚悟でここまで来るんだ」  自覚のなかった想いすらも言い当てられた桂は、言葉を失った。感情ばかりが先走って、理性が追いついていない桂とは裏腹に、涼は怒りながらも冷静だった。 「今ならまだ間に合う。あの子を追い掛けるんだ」 「で、も……、でも、どうしたら」 「素直に言えばいい。好きだって。誰にも取られたくないって、言ってあげればいい」 「好き……?」  混乱する思考に、その一言が溶け込んでいく。すぐさま否定しようとする理性と、無条件に受け入れた感情が、桂の中で錯綜した。 「ああ、そうだ。君もあの子が好きなんだよ」  きっぱりと、涼は言い切った。尚も戸惑う桂の頬を両手で挟み、無理矢理顔を上げさせる。 「けど、あの子は君に嫌われたと思ってる。君の傍にいたら傷付けてしまうと思ってる。だからここを出て行った。分かるね?」  恐る恐る、桂は頷く。 「少しでもあの子の誤解を解きたいなら、今すぐ地下鉄の駅に向かうんだ。君の傍にも、この部屋にも居場所をなくした以上、あの子には家に帰る以外選択肢はない」  手を離した涼は、桂の腰を掴んで無理矢理椅子から立たせた。黒髪が揺れ、白い頬を叩く。 「さぁ早く。あの子が電車に乗る前に」 「……でも、俺……、ほんとに……?」  まだ自問している桂の肩を、涼はしっかりと掴んだ。先程と違い、優しい力強さを秘めた手が、薄い肩を温める。 「今は、余計なことは考えなくていい。自分の気持ちに素直になるんだ。……あの子のために」 「黒畑の、ため?」  桂の脳裏に、痛々しい笑みが蘇る。寂しげに去る俊の背中を、桂はただ見つめることしかできなかった。  あんな顔をさせたかったわけではない。心の中で誰かが叫んだのを、桂はどこか遠くで聞いた。おぼろげなそれは、しかし確かに自分の声だった。  混乱が、収束していく。一つ答えが見つかると、次々に思考は走り出した。溢れ出す感情のまま、涼の手を振り解いた桂は傍らに投げ捨てていた鞄を掴む。 「……行かなきゃ!」  挨拶すら忘れて部屋を出て行った桂を見送り、涼は力なく笑った。 「それでいい。……俺が行っても、なんにもならないんだから」  たった一人の研究室に、涼の声が響く。ドアを閉めた涼は、窓際に行って〈しんせい〉を取り出した。外を見下ろしながら、安物のライターで火を点ける。  煙を思い切り吸い込んでも、思考はすっきりしないままだった。一本をゆっくりと吸い、かなり短くなったところで灰皿に押し付ける。  青い空を見上げ、涼は携帯電話を取った。発信履歴から番号を探し、すぐに携帯電話を耳に当てる。  その行動に、迷いはなかった。  地下鉄への入り口は、南門から五分程度歩いたところにある。一本しか路線が通っていない小さな駅の入り口は、通りに面して二つ。桂は息を切らしながら、人の波を掻き分けて駅構内へ向かった。  階段を駆け下りる。膝やふくらはぎが痛み出し、速度はどんどん遅くなっていった。春先だというのに、汗が頬を伝う。思うように動かない足に苛立ちながら、桂は最後の一段を下り切った。  折しも、電車が入ってきたところだった。人々は早足に改札へ向かう。普段、あまり地下鉄を利用しない桂は、周囲を見回しながら券売機に急いだ。  鞄の中から財布を取り出し、焦る指先で札を抜く。適当にボタンを押して、出てきた切符と釣り銭を鞄に突っ込んだ。  遠くで、発車を告げる音が鳴る。間に合わないかもしれない。諦観が桂を襲った。  半ば自棄になりながら、自動改札に切符を押し込む。重い足を必死に動かし、近場の階段を駆け下りた。足元に、駆け込む乗客の背中が見える。 「駄目だ……!」  人目も気にせず、桂は呟いた。半ばまで下りてきたところで、無情にもドアは閉まる。  桂が構内に降り立った時にはもう、轟音と共に電車は発車していた。思わず立ち止まった桂は、壁に手を突いて荒い息を整える。  落ち着く暇もなく、桂はよろよろと歩き出した。逆方面の電車を使っているなら、まだ俊が構内にいる可能性はある。一縷の望みを託して、重い足を引きずった。  あまり人気のないホームを、壁伝いに歩く。ベンチに座る老人、壁にもたれて読書する学生、自販機に向かう高校生。榛色の頭は、見つからない。  ホームの端まで到達して、桂はとうとう足を止めた。壁に背を預けた途端、体の力が抜けていく。ずるずると、そのまま座り込んだ。  肩で息をして、流れる汗を拭う。化粧が落ちてしまうかもしれないと、頭の隅で思った。瞬きをするたびに乾いたコンタクトレンズがずれて、視界がどんどん歪んでいく。  耐えきれず、桂は目を閉じた。  頭に浮かんでくるのは、泣きそうに笑う俊の顔だった。 「……黒畑」  そっと、呟く。伝えられなかった言葉を。 「ごめん」  自分の膝を抱き寄せて、桂はそこに顔を埋めた。  俊が駅を出た途端、携帯電話が震え始めた。相手は想像が付いている。無視して帰ろうと歩き出すが、いつになっても震えは止まらなかった。留守電メッセージのアナウンスが始まると一旦切れるが、すぐにまた震え出す。  俊が仕方なく携帯電話を開いた時には、着信は相当の回数に上っていた。 「……センセー」 『やっと繋がった』  開口一番、涼は優しい声でそう言った。それすらも、今の俊の心を動かすことはない。 『俊くん、今どこ?』 「家に帰るとこ、だよ。……じゃあ」 『待って!』 「……センセー、もう、掛けてこないで」  冷えた声で言い放ち、俊は電話を切ろうとボタンに指を掛ける。だが、その指に力は入らなかった。 『赤森くんが君を追い掛けてる』  静かな、しかしはっきりとした涼の声が、俊の耳を突いた。 「嘘、だ」 『本当だ。あの子は自覚がなかっただけで、……あの子も君が』 「……違うよ、センセー」  携帯電話に両手を添えて、俊は目を閉じた。思い浮かぶのは、涙を浮かべて俊を拒絶したあの日の桂だった。 『違わない。君だって聞いただろう? 赤森くんは僕に嫉妬してた。君が僕に靡いたと思ったから……』 「違うんだよ。……センセーは知らないけど、ずっと……」  胸の奥が重く、息苦しい。吐き出すべきか否か、俊は逡巡した。 『……ずっと、なに?』 「赤森さんは……ずっと」  躊躇う必要などない、と心の片隅で誰かが囁く。もう、涼と桂がどうなろうと、俊にはどうしようもないことだった。肩の力を抜き、息を吐いてから、俊は誰にともなく笑みを浮かべる。 「ずっとセンセーが好きなんだよ。半年前から、ずっと。あのカッコの時も、……普段も、センセーのことが好き。……だから、俺は」 『……だから、なんなんだ?』  そのあまりにも低く怒りを秘めた声に、びくりと俊は肩を震わせた。 『僕は赤森くんのことなんてなんとも思ってない。彼だって、今はそれどころじゃないだろう』 「そんなこと……」 『現に、君のために急げと言ったら、走って部屋を出て行った』  すぐに否定できず、俊は押し黙った。冷え切っていたはずの心に、ほんの僅かな熱が戻っている。桂のために捨てたはずの熱は、俊から言葉を奪っていた。 『僕の言葉が信じられないなら、自分で確かめればいい。今ならまだ間に合う。駅で彼を見つけられなかったら、僕の研究室まで戻っておいで。僕の方から彼に連絡するよ』  いつものように穏やかな声で、涼は優しく言った。 『……もし、君の思ってる通りだったとしても』 「センセー?」 『君が僕のところからいなくなる必要なんてないよ。言っただろう? 僕は、君がいてくれるだけでいい。だから、戻っておいで』  その言葉は再び、俊の頑なな心を少しだけ開かせた。そっと息を吐いて、小さく頷く。 「……分かった。行ってみる」  そう応えると、涼は「いい結果を待ってる」と言って電話を切った。  俊は涼の用意した逃げ道に行くつもりはない。事実を確かめたら、家路に着くつもりだった。  桂は涼のことが好きだという事実を確かめることができたなら、それでよかった。今までの苦しみも傷も、今度こそ全て諦めがつく。僅かに残った熱を消すためにも、俊は再び地下鉄に潜っていった。  どれだけそうしていたか、桂は覚えていない。幾度か構内アナウンスが流れ、何本か電車が往来した。だが、ホームの端に座り込んだ桂は、顔を上げることすらしなかった。  だから桂は、直前まで気付かなかった。榛色の頭が、人波を掻き分けて桂の前までやって来たことに。  恐々と、桂の前に膝をつく。どう声を掛けたものかと迷い、口を開いては閉じることを、何度か繰り返す。だが結局、出てきたのはあの時と同じだった。 「……赤森、さん?」  俊の声が、ゆっくりと桂の中に染みこんでいった。顔を上げた桂は、ぼやけた視界の中に榛色を見つける。 「黒畑? なん、で」 「……センセーが、連絡くれた。けど俺、その時にはもう、電車に乗ってたか、ら……!」  皆まで言い終われず、俊は突然胸に飛び込んできた桂を抱き留めた。自分より一回りは華奢な体に、俊の胸は跳ね上がる。必死に鼓動を無視して、思いも掛けぬ行動に出た桂を見下ろした。 「……赤森さん……?」 「馬鹿、なんで、わざわざ戻ってきたんだよ……!」 「ご、ごめん……なさい」  言葉と裏腹に、桂は俊の中で肩を震わせていた。そのあまりに頼りない背中を、俊は恐る恐る抱き締める。 「……俺、なんかの、ために……。馬鹿じゃねぇか、そんなの」 「なんか、なんて言わないで。……俺は、馬鹿でいいから」  ぎこちなく、俊は笑う。いつも通りの桂の言葉と、正反対の行動。期待してしまう自分を直視できず、俊は首を振った。 「センセーに言われて、来てくれたんでしょ? 赤森さんは、優しいよ。……ごめんね。こんなこと、させて」 「く、ろはた」 「迷惑だよね。ほんとは、センセーのことが……」 「黒畑!」  俊の声が、桂の怒号に掻き消される。数人が二人の方へ視線を送ったことに気付き、桂は慌てて立ち上がった。そして、俊の腕を強く掴む。 「赤森さん?」 「……ここじゃ人目がある、から」  極力抑えた声で呟いて、桂は歩き出した。翻ったスカートが、俊の足を優しく撫でる。 「どこ、行くの? 離してよ」  桂はなにも言わない。ただ、俊の腕を掴む力が更に強まった。 「離して……。俺といても、苦しいだけでしょ? もう、傷付けたくない」  振り解けないもどかしさを抱えたまま、俊はそれでも口を開いた。 「怒らせたくないし、悲しませたくない」  桂の足はどんどん速くなっていく。引きずられるように、俊は付いていくことしかできなかった。 「お願い……離して」  力ない抵抗は黙殺される。桂は一段飛ばしで階段を上り、俊もその後を小走りに追い掛ける。改札を出た桂は、脇目も振らずに地上へと向かった。  夕暮れに染まる街並を、桂はひたすら北へ向かう。行き先は、俊にも見当が付いていた。 「嫌、だよ……。もう行かないって、決めた」 「……ちょっと黙ってろ」  低い声で、桂は前を向いたまま言い放った。 「どうして? ……嫌いなんでしょ、俺のこと。センセーに言われただけなんでしょ? なんで」 「あんまり、喋らせるな」  いつかと同じ言葉を、いつかよりずっと低い調子で言って、桂はまた口を噤んだ。黙々と、自分の部屋へ向かって歩を進める。  目の前でひらひらと揺れるスカートを見つめながら、俊は否定の言葉を自身の胸に突き立てた。好きになってもらえるはずがない。嫌われて当たり前のことをした。桂は涼に言われて渋々追い掛けただけ。桂は涼が好きなんだから。希望を持とうとする自分を戒める鎖は、俊をどんどん雁字搦めにしていく。 「……お願い、もう」  希望なんていらない。続く言葉は、声にならなかった。  俊が気付いた時にはもう、桂のアパートは目の前だった。喫茶店の灯が、夕暮れの中でぼんやりと光っている。眩しくて、俊は少し目を細めた。  俊の様子を気遣う暇もなく、桂は喫茶店の前を横切って部屋への階段を上り始める。俊の少し上を行くスカートから覗く足は、小さく震えていた。ようやく、俊は桂の足が遅くなっていることに気付く。 「赤森さん……」  立ち止まった桂は、苛立ちを隠さず僅かに振り返る。 「あの、逃げないから……、ゆっくりでいいよ」  腕を掴んでいた小さな手を握り、俊は恐る恐る言った。途端、桂の目が泣きそうに歪む。 「ご、ごめん。疲れてるかと思って……」  口を噤み、桂は首を横に振った。そして、俊の手を強く握り返す。小さな手に不似合いな力強さに、俊の胸が小さく鳴った。  桂は再び歩き始める。俊に言われたようにゆっくりと、足を引きずるように。  その重い一歩一歩を見つめながら、俊は諦めにも似た想いを抱いていた。桂の手を振り解くこともできなければ、彼に惹かれる自分を止めることもできない。今までのように、ただ成り行きに任せて流されるしかなかった。  これまでと違うのは、目の前にいる桂も流されている一人だということ。そうでなければ、桂が自分を追い掛けてきたことが俊には納得できない。  涼の優しさも、桂の優しさも、俊にはただ辛いだけだった。  階段を上り切った二人は、一番奥の部屋まで無言のまま歩いた。冷たいドアの前で、桂は立ち止まる。  震える手で鞄の中から鍵を探り当て、鍵穴に差し込んだ。その間も、俊の手は握ったままだ。  呆気なくドアが開き、二人は吸い込まれるように桂の部屋に入る。いつかと同じように、部屋の中は真っ暗だった。  そして重い音を立て、ドアは閉まった。  数日前のようにドアを背にしていた俊は、再び飛びついてきた桂を呆然と見下ろしていた。胸の中に、桂の顔が埋まっている。高鳴る胸を抑えた俊は、ゆっくりと首を振った。 「……赤森さん。センセーになんて言われたか、知らないけど……」  優しく肩を抱いて、桂の体を引き離す。 「無理、しないで? 俺のこと嫌いでしょ? ……脅して、レイプして、馴れ馴れしく……付きまとって、迷惑だったでしょ?」  桂の薄い肩から手を離し、俊は無理矢理笑った。だが、目に浮かぶ涙は今にも溢れんばかりに揺れている。 「お願い、もう帰して……。そんな顔、見たくない」  揺れる視界の向こうで、桂の顔が歪んでいた。耐えきれず、俊は目を閉じる。  あの日と同じように、頬を涙が伝った。真っ暗な世界の中で、頬を流れていく熱い滴の感触だけが鮮やかだった。  だがそれも、すぐに褪せていった。小さな手が俊の顔を俯かせる。間を置かず熱い唇が押し当てられた。さして日が経ったわけでもないのに、俊の胸に懐かしさが詰まっていく。 「……分かんねぇよ、俺にも」  そっと唇を離した桂は、独り言のように呟いた。 「あんなことされて、弱み握られて、……恐かった、のに」  俊の頬を包む小さな手は、震えていた。ようやく、俊は恐る恐る目を開ける。 「なんか、馬鹿正直だし。優しいとか、言うし。やたら、付いてくるし。なのに、あれから全然手ぇ出さねぇし。それに、いきなり泣き出すし……!」  しゃくりを上げながら、桂は必死に言葉を紡いでいた。真っ赤になった目で、正面から俊を見つめる。 「好き、って、言い出すし」  小さな手に、力が籠もる。俊は首を振って、その手を優しく離した。 「……ごめん」 「なんで、……謝るんだよ」 「好きって言ったって……、迷惑掛けるだけって、分かってた。……それに、……桂ちゃんは」  寂しさの混じる目で、俊は桂を見下ろした。 「ずっと、センセーのことが好きだったんでしょ?」 「ち、違う……! あれは、好きとかじゃ、ない」  桂は慌てて首を振る。だが、俊は確信を秘めてその大きな目を射抜いた。 「じゃあなんで、ずっとあそこで本を読んでたの? 初めてあそこで会った時、俺のこと睨んでたのはなんで? 自転車ないのに、自転車置き場から出たのは? センセーの授業の時だけ、俺のこと遠ざけたのは? ……変わりたくないのに、女の子になってたのは?」  桂がなにも言えないのが、なによりの答えだった。やっぱり、と内心で呟いた俊は、自分自身にも向けて刃を突き立てる。 「全部、センセーが好きだからでしょ」  熱の引いた無気力な目を見ても、桂は首を振った。 「違う!」 「違わないよ!」  怒号と共に、涙が飛び散る。言葉を失った桂は、ゆるゆると尻餅をついた。俊は静かに膝を折り、力ない目で桂を見つめる。 「……センセーは優しいから、俺とのこともきっと許してくれるよ。だから、……センセーに、自分の気持ち伝えて? 俺なんかに構わなくて、いいか……!」  皆まで言い終える前に、俊は引き倒されていた。押しつぶしてしまいそうになった桂を、咄嗟に抱き寄せて庇う。 「桂ちゃん、いきなりなに……」 「俺は、細野先生に抱かれたいなんて思わない」  俊の胸に鼻を押し付けて、桂はぽつりと呟いた。 「ずっと一緒にいて欲しいなんて思わない。一人でやる時、あの人の顔なんて思い出さない。世話焼こうなんて思わない」  徐々に、桂の声は大きくなっていく。俊の胸の鼓動も、どんどん強くなっていく。 「好きになって欲しいなんて、思わない……!」  小さな手が、俊のシャツをきゅっと握り締める。言葉を失うのは、俊の番だった。好き、という単語が頭の中でぐるぐると回る。好きになって欲しい。桂は、自分に好きになって欲しい。そう言ったのだと理解するまで、時間を要した。理解してから受け入れるまで、更に時間が掛かる。その間、俊は黙りこくったままだった。  しばらく俊の胸に縋り付いていた桂は、そっと顔を上げた。その眼前には、戸惑い揺れる俊の瞳がある。 「お前が先生の研究室にいるのが見えた時、……自分でもよく分かんねぇけど、すっげぇ苛ついた」 「……う、ん」 「お前が、……もう近寄らないって、言って、いなくなってから……、ずっと、お前のことばっか考えて、ろくに眠れなくて」 「うん……」 「俺はこんななのに、お前は、俺のことなんか忘れて、先生のとこにあっさり戻ったんだと思って……。けど、違ったんだよ、な?」    自分はいない方がいいなんて言うほど、追い詰められるのもね。  桂の脳裏に、涼の言葉が蘇る。その一言は、俊の苦しみを知るには十分だった。桂の頬を、今までとは違う涙が流れていく。言わなければいけない言葉は、喉元までやって来ていた。罵倒して、振り回して、傷付けた記憶が、桂の脳裏にまざまざと蘇る。  口を開いても、しゃくりが止まらない。涙が止まらない。伝えなければならない言葉が、声にならない。  その時、桂より一回りは大きな手が、恐々黒髪を撫でた。人工毛は自然の毛と遜色なく、その手に馴染んでいく。慰めるような優しい手つきに、桂の喉はゆっくりと収まっていった。 「黒、畑」  なおも戸惑いをその目に浮かべながら、俊は手を止めた。細い声が、精一杯の想いを込めて言葉を紡ぐ。 「……ごめん」  小さな、しかし確かな謝罪は、俊の胸にじわじわと溶けていった。隅にわだかまっていた暗い決意と頑なな想いが、ゆっくりと消えていく。代わりに広がったものがなんなのか、俊には分からなかった。  胸の中の桂は、見たことがないほど不安そうな目で俊を見上げている。なにか言わなければ、と思っても、俊の口は声を出さなかった。  それはあの日、女子トイレで桂の涙を見た時に似ていながら、段違いの力強さで俊の心を塗り替えていく。 「黒畑……」  なにも言えない俊を、桂は恐る恐る呼んだ。 「……口先だけで謝ったって、許してもらえないのは分かってる」 「桂、ちゃん」 「だから……」  桂は俊の頬を両手で挟み、目を閉じた。未だ自分の変化に戸惑うばかりの俊は、桂の名を呼ぶことしかできない。  桂の唇が、熱を込めて再び近付く。半ば取れてしまった口紅が、まるで情事の後のような色香を放っていた。見とれる暇もなく、再び俊の唇に甘く柔らかなそれが触れた。  震えている。真っ先に、俊はそう思った。桂の唇は、小刻みに震えながら俊のそれに合わさっていた。女子トイレで出会った時の震えとは全く別の想いに包まれ、桂は自ら俊に口付けている。それはもう、疑いようのない事実だった。  桂の唇は、ぎこちなく上下に動いた。時折軽い音を立て、そのたびに桂は大げさなほど肩を震わせる。応えなければ、と思っても、俊の体は今までの経験が嘘のように動かなかった。  一際優しい動きで、桂の唇は離れていく。 「……あ、の、……下手、だよな?」  再び開いた桂の目には、相変わらず不安が揺れていた。俊の機嫌を窺うように、上目遣いで恐る恐る訊ねる。 「俺、経験ないし、気持ちよくないかもしれない。こんなことで、謝罪になるかも分かんねぇ。けど」  俊は慌てて首を振った。だが、言葉が出てこない。想いばかりが胸に溢れて、形にならなかった。 「お前が許してくれるなら、なんだってする」  震える声で、しかしきっぱりと桂は言い切った。  小さな手が俊のシャツを捲り上げ、上半身を露わにする。外気に晒された乳首は、既に勃ち上がっていた。口付けを再開しながら、桂はそこを指先で弄る。いじらしいその動きは、巧拙を越えて俊を高ぶらせた。じわじわと、快感が下半身に集まっていく。  だが、しばらくして桂は動きを止める。 「……やっぱり、気持ちよくない、か?」 「ち、違うよ」  ようやく俊の口から、返事らしい返事が出た。途端、桂の顔に安堵が広がる。 「俺、そこあんまり感じないから。その……桂ちゃんほどには」 「な……!」  一瞬にして羞恥が桂の言葉を奪った。いつものように怒鳴られると思った俊は、身をすくませる。しかし、桂は耳まで赤く染めながらも唇を引き結んだ。  次に桂の手が向かったのは、乳首ではなかった。俊のジーンズのボタンを両手で不器用に開け、ジッパーを乱暴に下ろす。早くから反応していたそこは、その感触だけで俊に快感を与えた。堪らず、俊は甘い声を漏らす。 「ここは……、感じるのか?」  男なら当然と言えば当然のことを、桂は口走っていた。敢えてのことでもなければ、言葉で俊を責めるためのものでもない。喜びの混じるその声は、幼子のような無邪気さを秘めていた。  桂はいそいそとジーンズをずらし、トランクスにも手を掛ける。そのたびに、俊は小さな声を上げた。いつもよりずっと感じやすくなっているそこは、もう先走りを垂らしている。  小さな手が、露わになった陰茎を優しく包んだ。すぐにゆるゆると動き出したその手は、根本から先端まで丁寧に刺激を与えてくる。その快感に身を委ねながら、俊は奇妙な違和感を覚えていた。小さな手はそれに気付くことなく、俊を追い詰めていく。水音が、暗い室内に響き渡った。  手を動かしながら、桂は精一杯背伸びをして俊に口付けた。だが、無理な体勢は長く保たず、すぐに離れていく。細い俊よりももっと小柄な、女物のブラウスに包まれた肩を見て、ようやく俊は違和感の正体に気付いた。 「……小さいんだ」  え、と桂は気の抜けた声を漏らす。涙で化粧がほとんど取れてしまった顔には、俊以上の幼さが残っている。 「桂ちゃんの手……、体、全部。……俺より小さいんだ」 「な、なんだよ、今更」  最初から分かり切っていたことのはずだったが、俊は今になってそれを実感していた。  忘れていたはずのたくさんの男達の記憶が、俊の脳裏を駆ける。顔も名前も知らず、覚えてもいない彼ら。そして、涼。どんなに時間が経っても、その手だけは記憶の隅にこびりついていた。皆、俊よりも一回りは大きな手で彼に触れた。父のような手で。  俊は、桂の空いている手を握った。手首まで隠すブラウスから伸びた手は、少女のように小さい。 「……可愛い」  とろけるような声で、俊は呟いた。同時に陰茎が震え、桂の手の中で熱を増す。 「桂ちゃん、可愛い」  握り締めた手の力強さに戸惑いながらも、桂は俊を見上げた。 「か、可愛くなんか……」 「可愛いよ」  全ての憂いをなくした俊は、屈託なく笑う。妖艶さの欠片もないその笑みに、桂は状況も忘れて俊の顔をまじまじと見つめた。  手の動きすらも止めた桂を、俊は慈しむように抱き締めた。むき出しになった俊の肌に、滑らかなブラウスと裾の長いスカートが触れる。俊はそっと体を離すと、ブラウスのボタンをゆっくりと外していった。 「お、俺はいい」  慌てて、桂は俊の手を止めようとした。しかし、やんわりとその手を払われてそれ以上なにも言えなくなる。  先程までの積極的な態度から一変、桂は借りてきた猫のように大人しくなった。極端な変化に、俊はまた笑みを浮かべる。 「ほら、可愛い」 「どこが……」 「うーん……とね。……うん、猫みたい」  最後のボタンを外した俊は、無邪気に言い放った。露わになった薄い胸に俊が指を伸ばすと、先が触れただけで小さな声を漏らす。 「……分かんねぇ……っ」 「小さくて、柔らかくて、でも、強引で、気まぐれ」  俊が体をずらして乳首を吸うと、その周りも赤くなっていった。 「……ぎゅって、したくなる」 「お前、語彙力なさ過……うあ!」  抱き締められながら歯を立てられ、桂は堪らず大きな声を上げた。そして、細いながらも自分より大きな俊の体を必死になって押し返す。 「ちょ、っと、待て」 「なんで?」 「俺がやる、って言っただろ……?」 「許してくれるなら、でしょ? でも、最初から俺は桂ちゃんのこと怒ってないよ」  俊の目に、寂しさが戻ってくる。 「俺が悪いって、言ったでしょ? 桂ちゃんが謝ることなんてない」 「けど、……先生が」  皆まで言い終わる前に、俊は桂の口を閉じた。涼のことを、これ以上桂から聞きたくなかった。  その名を呼ぼうとする舌を、唇を、俊は必死になって絡め取る。桂の想いを知ったはずなのに、なぜこんなに気になるのか。それが独占欲と嫉妬だと、俊は未だに知らない。  息も絶え絶えになった桂のスカートに手を掛け、下着ごと脱がせた。一息で外気に晒された陰茎が、びくびくと震える。そこは俊と同じように、先走りをしたたらせていた。俊は桂の体を抱き起こし、同じく上体を起こした自分の膝に座らせる。様子が変わった俊を、桂は不安そうに見下ろしていた。 「お願い、今は……先生のこと、話さないで」  懇願にも似た声で、俊は囁いた。そして、俊は自分の陰茎と桂のそれを摺り合わせる。  熱い肉と肉が、互いの敏感な箇所を刺激し合う。そこにあるのは手を添えている俊の意思だけで、桂はただただ快楽に耐えるしかない。先程の俊の言葉を思い返す暇すら、与えられなかった。  は、は、と息を吐く音が、水音に混じって響く。次第に早くなっていく俊の手は、他者から与えられる快感に不慣れな桂を簡単に追い詰めた。 「は……、あ、止め……っ」 「……気持ちよく、ない?」 「違、やだ……!」  桂が首を振ると、黒いウィッグがさらさらと揺れた。肯んぜぬ子どものような仕草は、俊の口付け一つで止まる。拒む声と裏腹に、桂はぎこちなくも必死な動きで俊の舌に応えた。目を閉じた桂の頬は、暗がりでも分かるほど紅潮している。  小柄な体が、震える。合わさった口から、くぐもった叫びが漏れた。咄嗟に俊は顔を離し、その甘く切ない声に耳を澄ませる。そして、快感のあまりとろけそうな桂の顔を見上げた。 「ふ、ぁあああ!」  淫猥な熱を秘めた叫びが、俊の耳を突く。同時に、俊の手の中で熱い精液が弾け飛ぶ。 「あ、あ、あ、も、やめ」  達したというのに止まらない手の動きに、桂は眉を顰めて高い声を漏らし続ける。細い腰が小刻みに揺れ、残っていた精液が押し出されるように溢れた。耳と手、そして視界にぶつけられるその熱情を糧に、俊もまた高みに上り詰める。 「俺も……イく、よ……!」  程なく、俊もまた自分の手に欲を吐き出したのだった。  俊の手が止まってからも、しばらく二人は向かい合ったままだった。触れ合っている場所を残して、肌に残る熱はどんどん失われていく。  先に息を整えた桂は、そっと体を離した。切なげに見上げてくる俊に「ちょっと待ってろ」と言って、本棚の上にあるティッシュ箱を持ってくる。俊の記憶にはなかったが、桂はあの日のように彼の体を清め始めた。  情事が終わるとすぐに眠ってしまうのが常だった俊は、睡魔に襲われないのを不思議に思いながら桂の動きを目で追っていた。少し不器用だが、優しい手が俊の体から精液を拭き取っていく。まだ肌寒い時期だというのに、俊の胸の奥はじわりと温まり始めた。 「……俺がやるって、言ったのに」  一通り清め終えてから、桂は呟く。拗ねたような声音は忌憚のない物言いをするいつもの彼のものだったが、そこには今までにない情が籠もっていた。自然、俊は笑みを浮かべる。 「いいんだよ。桂ちゃんは、なんにも悪くないんだから」 「けど……、その、……たくさん、傷付けた。好き勝手言ったし、……冷たく当たったし」  少し乾いている自分の精液を丁寧に取りながら、桂は呟く。だが、自分の行動を思い返して落ち込んでいる桂と対照的に、俊は不思議そうな顔をして首を傾げた。 「傷付いてないよ?」  あっさりと言った俊に、桂は思わず間の抜けた声を上げる。 「けど先生が……追い詰められてたって」  涼のことを口にした途端、俊は僅かに眉を顰めた。だが、すぐに表情を戻して首を振る。 「それは、桂ちゃんを泣かせたからだよ」 「は、あ? お前も泣いただろ」 「それも、桂ちゃんが泣いてたから。……俺のせいで」  細く、しかししなやかな腕が、桂の体を引き寄せる。ウィッグに包まれた頭を撫でながら、俊は小作りな耳に囁いた。 「恐かった……。初めての時は泣き止んで欲しいと思ったけど、あの時はもう……そんなこと考える余裕もなくて。どうしたらいいか、分からなかった」  桂を抱く腕に力を込め、俊は懺悔するように囁き続けた。 「センセーがなんて言ったかは知らないけど、俺は桂ちゃんが悪いなんて少しも思ってないよ。あの時、桂ちゃんが言ってた通り。……全部、俺が悪い。でも俺、馬鹿だから」  桂がどうにか顔を上げると、悲しげに笑う俊を見つけてしまった。今日、散々見てきたぎこちない笑み。  桂の胸に、怒りにも似た感情がこみ上げているのを、俊は知らない。 「桂ちゃんに言われるまで、気付かなかった。……桂ちゃんを、傷付けてたこと。……馬鹿でしょ?」 「……んな顔……」  突然の、そして怒りを帯びた小さな声に、俊は思わず「え?」と聞き返す。 「そんな顔させたかったわけじゃねぇ」 「桂、ちゃん?」 「そんな顔させたくて、お前に怒鳴ったんじゃねぇって言ってんだよ」  両手で俊の顔を包み、桂は真っ直ぐに彼の目を見つめた。 「……ごめん、なさい」 「謝って欲しいわけじゃねぇ」 「じゃあ、……なんで?」  すぅ、と桂は大きく息を吸った。そして、大きな目を閉じて口付ける。しかし、唇はすぐに離れていった。 「……今にしても思えば、だけどな」  戸惑いながらも、俊は小さく頷く。ゆっくりと目を開いた桂は、いつかのようにささやかな笑みを浮かべた。とくり、と落ち着いていたはずの俊の鼓動が乱れる。 「まだ俺のこと好きだって、言って欲しかったんだ」 「……え?」 「先生じゃなくて、俺が好きだって」  惚けたたまま、俊は揺るぎない桂の目を見つめ返した。胸の鼓動はどんどん速くなり、溢れ出す想いは言葉で表せない。どうしたらいいか分からなくなっている俊を、もう一度桂は口付けた。 「だからもう……、そんな顔、すんな」  照れ臭そうに視線を逸らして、桂はいつものような口調で言った。 「……うん!」 「う、わ……!」  思いの丈を自らの腕に託して、俊は満面の笑みを浮かべた。きつく抱き締められた桂は目を白黒させるが、無邪気な笑みを浮かべる俊を見てつられるように微笑む。  心の底からの笑顔を浮かべて、二人は互いの温もりを抱き締め合った。想いをむき出しにする喜びを、噛み締めながら。  黒板を前にしている涼を、陽光がカーテン越しに包んだ。そろそろ上着を着たまま授業をこなすのが辛くなってきたというのに、相変わらず教室の隅では授業中だというのに俊が惰眠を貪っている。  熱心に授業を聴いていた桂が、涼の視線に気付いて横を向いた。榛色の髪から覗く耳を引っ張って、無理矢理前を向かせる。この光景を、涼は随分と見慣れてきた。  涼は腕時計を見て、小さく頷く。少し早いが、授業の終了を学生に告げた。  程なく、桂がプリントを片手にいそいそと涼のところまでやって来た。その後ろには、寝ぼけ眼を擦る俊もいる。桂の質問がどんなに長くなっても、俊はいつもそこにいた。一ヶ月前は、出席すらしなかったというのに。  二人で話し込んでいると、終業を告げるチャイムが鳴り響いた。話し足りないと言わんばかりの桂を研究室へ誘うと、必然的に俊も付いてくる。これもまた、見慣れてきた光景だった。 「……センセー?」 「どうかしました?」  しみじみと後ろについてくる二人を眺めいていた涼は、当人達に顔を覗かれて「なんでもないよ」と微笑む。それから、俊の頭に優しく手を置いた。 「よかったね、俊くん」  突然の言葉に、俊は首を傾げる。しかし涼はその反応に頓着せず、ずっと下にある桂の耳に唇を寄せた。 「あんまりくっついてると、ばれちゃうよ?」 「そ、そんなにくっついてません!」  思わず大声を上げた桂に、周囲の視線が突き刺さる。慌てて俯いた桂の頭も優しく撫でて、涼は空を振り仰いだ。 「空……、綺麗だね」  同じく空を見上げた俊が、目を細めて呟く。その横顔を眩しそうに見つめてから、涼は俊の背中を軽く叩いた。 「いい天気だから、カフェテラスにでも寄ろうか?」 「え、ちょ」 「俺はどこでもいいよ」 「お、俺はやです!」 「多数決は民主主義の基本だよ。ほら、行った行った」 「行こう、桂ちゃん」  小柄な背中を押して、涼は満面の笑みを浮かべる。嬉々として桂の腕を引っ張る俊もまた、屈託なく笑っていた。  二人の間に挟まれてわめいていた桂も、いつもの席に座らされる頃には諦めたように溜息を吐いて、笑う。  三人の飾らない笑顔を、晩春の日差しが優しく包んでいた。
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