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 ドンドンドンドンッ。 「瑠璃、瑠璃、いるんでしょ。そろそろ信也(しんや)さんと仲直りしてちょうだいよ。祐也(ゆうや)を寝かしつけてこんな雪の中来たのよ。部屋に入れてくれてもいいんじゃないの」  押し込めきれなかったようなヒステリックな声が、土砂みたいに部屋に流れ込んできて、俺は一瞬面食らった。玄関に顔を向けている瑠璃を見ると、白い顔がますます色を失っていて、何となく状況を掴む。 「追い返せばいいか?」  ひそめた声に、瑠璃が小さな頭を横に振る。血の色をした唇が「大丈夫」と動くのを見ながら、その間も玄関ドアはガタガタと揺れ、呪いのような言葉は溢れ続けた。 「信也さんが子どものあなたにおかしな気を起こすなんてあり得ないじゃない。あんな真面目な人なのよ。私の気を引きたくてわざと嘘をついたのよね。もう二年になるのよ。信也さんだって瑠璃とちゃんと仲良くしたいって言ってたわよ。ねえ瑠璃、分かってあげてよ」  瑠璃は俯いたまま、家具の一つになったようにじっとしていた。  既に21時手前。このアパートの壁に防音性があるとは思えないが、他の住人の生活音は微塵も聞こえずしんとしている。女の声だけが乱暴にその中を犯す。  俺はコートから携帯電話を出し、三つの番号をタップしスピーカーに耳を当てた。  暫くして通話を終えると、瑠璃が俺の喉ぼとけの辺りを見つめて「あれ、お母さんなの」とばつが悪そうに話した。やられっぱなしの状況とヤニ切れのせいで順調に苛々が積み上がっていた俺は、荒れた気持ちを隠すように「そうか」とだけ呟いた。  瑠璃くらいの年齢のガキは、独りよがりで乱暴で扱いに困るほど繊細だ。俺もそんな時代が長かったからよく分かる。感情の起伏が読み取れない瑠璃も、そんなとげとげした硝子細工を胸に抱えて生きている、というのは勝手な想像だが、少なくとも、クローゼットのロープを見る限り、何かしらの悩みは底にあるのだろう。この状況の何を問いただしても地雷を踏むように思えて、暗い顔の瑠璃に理由や原因を聞くことは憚られた。そもそも俺は危険から瑠璃を守るだけでいいんだし。    再び外から足音が聞こえた。今度は複数。予定通り。 「すみません、警察です。騒音の苦情がきていまして……ここの方に御用ですか?」  野太い男性の声に女が食いつく。 「ああ、丁度いいところに。私この部屋の子の母親なんですが、呼びかけても全然出てきてくれなくって。心配なので、中を確認してもらえませんか?」 「不在なのでは無いですか。もし行方が分からなくなったり自殺をほのめかすような連絡がきたということがあれば、また相談頂ければと思います。まず、今はあなたに騒音の苦情がきていますので、こういった行為は控えて頂くようお願いします」  業務用以外の何ものでもない声には聞き覚えがあった。大通り交番の本間一(ほんまはじめ)巡査だ。大仏顔の穏やかな男だが、若衆の何名かが馬鹿をやらかした時に鬼のような説教を食らっている。あの厚い瞼の奥の氷のような瞳には、ヤクザとは異なる威圧感があるのだ。  あーだこーだと抵抗していた女も警察の前では粘り切れなかったようで、ヒールを蹴る音とともに耳障りな声が遠退いていった。玄関の外が静かになり警察の気配も消えた頃、瑠璃がふうと息を吐いた。 「ありがとう」 「いや、俺は通報しただけで何もしてねえよ」 「ううん、私はそれも出来なかったから」 「俺もあんな母親とは仲良く出来ねえなあ」 「……そう」  テーブルに頬杖を付くと、瑠璃がセーラー服のスカートを揺らして立ち上がり、「ごはん食べて行かない?」と訊いたきり俺の返答も待たず、ふらふらとキッチンへ消えて行った。冷蔵庫が開く音が物悲しく聞こえて、指先で煙草を弄ぶ。  有無を言わさない瑠璃の言動には、俺をこの部屋に縫いつける為の十分な理由がある。玄関ドアに衝撃が与えられるたび肩を震わせていたガキの恐怖心や動揺が、ほんの数分で収まる筈がないのだ。責任感など毛ほども無いが、恩人の願いだと思うと無下に出来ない。  しかしながら、野生のヤクザはヒステリーな母親と同等にしつこく、危険な生き物だと思うのだが、瑠璃にとって自分は人相の悪いおっさんくらいの認識なのだろうか。それとも既にボディーガードとして厚い信頼を得ているのか。どちらにしても瑠璃の危機管理能力が狂っているのは事実だ。  キッチンでまな板が叩かれる音がする。  焼き鳥三本で押し込めていた腹の虫が疼いてきて切なく、ベッド沿いの窓に寄り行き、煙草を唇に挟んだ。  少なく見積もっても5センチは積もっていた。  深々と雪は降り続けていて、明日の朝には雪かきが必要なくらい厚くなっていると容易に想像出来る。夕食か夜食か分からない湯気の立つ豚汁を時間をかけて完食して、瑠璃と連絡先を交換して部屋を出た。瑠璃は寂しがるでも引き止めるでも無く、色気の無いビニール傘だけ差し出して俺を見送った。  透明ビニールが白く染まっていく。  茶色い小型犬を連れた、カーキのジャンパーの男が脇を通り過ぎる。  雪を踏む音が、自分と遠ざかっていく男と二つぶん聞こえる。車は一台も通らない。  一つが止み、自分の足音だけが圧雪に埋まって消えていく。  家々の疎らな照明が、足跡を照らす。  ふと、路上で立ち止まったままいつまでも動く気配のない男の動向が気に掛かり、横目でその姿を確認した。やはり男は白線の内側で佇み、雪の舞う宙を見上げていた。  俺が今しがた出て来たアパートの前で。  男は建物の上の方をじっと見つめて、ジャンパーから携帯を取り出し、そのレンズを視線の代わりにアパートへ向けた。  毛の長い犬が自分の尻尾を追って、その場を回り出す。  男はたっぷり時間を掛けて盗撮まがいのことをしていた。俺はそれを、意図して歩を弛めながら観察し、男が腕を下ろすのを見届けてから煙草に火をつけた。後ろの足音が動き始めた。  煙か息か分からない白い靄が嘲るように暗闇に溶ける。  レンズを固定していた二階で、灯りがついていたのは一部屋のみ。  フィルターだけになった煙草を踏み潰しながら目線を下ろすと、傘の柄に「るり」と記されているのを見つけた。子どもが書いたような歪んだ文字だ。  帰ったら、防犯グッズというものがどこで買えるのか検索する必要がありそうだ。  
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