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「『今日も遅刻したね、楽しかったよ』一見すると、この文章は今日遅刻してきた渡辺君のことを言っているように見えます」  僕はうなずいた。 「でもそれだとおかしいところがありませんか?」 「おかしいところ?」  おかしくないところを探す方が難しい。恥ずかしくもオウムのように聞き返してしまった。 「私がおかしいと思うのは、この『楽しかったよ』という部分です。もし今日のことを言ってるのなら、ちょっと意味が通じないとは思いませんか?」 「確かに違和感を感じるところではあったよ。けどまあ、楽しい日ではあるから、なくはないかなと……」  胡桃は僕の言葉に一つうなずいた。 「確かにそうかもしれません。でも、それなら『楽しもうね』とか『楽しんでね』になると思うんです。だからこれは、今のことを書いたんじゃないと、まず私はそう思いました。それにこの字……、男の子の字に寄せて書いているけど、これはたぶん女の子の字です。そうすると、この手紙の本当の意味が少し見えてくるんです」  胡桃は先生の方を向く。 「先生は今日、渡辺君が遅れてきた時、あの日も遅刻したと言ってましたね。私も思い出したんですけど、渡辺君は卒業式の日も遅刻していたと記憶してます。先生の言うあの日とは、卒業式の日のことですか?」   「そうよ、渡辺君は卒業式の日も遅刻していた」  期せずして昔の失態が露呈する形となったが、そこまで聞いて、なるほど、と思う。  つまりは、『今日も遅刻したね』の今日とは卒業式の日を指すと彼女は言いたいのだ。確かにそれなら『楽しかったよ』の意味も通る。これまでの学校生活のことを『楽しかったよ』とAさんは言っているのだ。 「これは、Aさんが、卒業式の日に遅刻して来た渡辺君に向けて書いた手紙だと、私は考えました」  胡桃は続けて述べていく。隣で楓の喉がなる音が聞こえた。 「あとは、これがどういう経緯で今この場所にあるのか、でもこれは、三人の会話でほとんど解き明かしていると言ってもいいと思います」  胡桃の視線は、机の上の封筒へと移る。 「手紙がここにあるためには、①今日先生に気づかれないようにすり替える、②10年前の開封式のときにすり替える、③20年前のタイムカプセルに入れるときにすり替える、このいづれかでしかなりえません。でも、①と②はさっきの先生の話から違うと言ってもいい。消去法で答えは③になります」 「③も無理だよ、僕の記憶ではすり替えられるタイミングはなかった」 「そうですね。すり替えるなら確かに③も難しいかもしれません。つまり、これはすり替えたわけではないということです。ここに本物の手紙がないから、私たちはすり替えたと思い込んでしまっていました。でも、もしここに、本物の手紙と、今ここにある偽物の手紙、この両方があったらどう思いますか?これは、ある偶然の上に成り立っていると私は思います。10年前の開封式にAさんが参加して渡辺君が参加しなかったこと、そして今日君が遅刻して来たことで手紙に別の意味を与えてしまったこと、この2つの偶然の上に、です」 「つまりまとめるとこうです」胡桃はそういって説明を始める。 「Aさんは在学中、たぶん渡辺君に好意を抱いていました。けれど、思いを伝えることがないまま卒業式の日を迎えます。そのまま別の道に進むことを惜しんだAさんは、10年後の自分に向けた手紙を渡辺君の名前で書いてそれをタイムカプセルに入れました。それが『今日も遅刻したね、楽しかったよ』と書かれた手紙です。私にはわかります。これは素直に好きと書けない恥じらいと、精一杯の親しみが込もった言葉です……。10年後、開封式にきたAさんは渡辺君が欠席していることに気づきます。そこから先は出来心だったと思います。Aさんは本物の渡辺君の手紙を回収して、10年前に書いた偽物の手紙を残していきました。そして今、その手紙はここにある。事の真相はこういうことだと私は思います」 「なるほど……」と僕はうなった。 「とすると、僕の本当の手紙はAさんが持っているということか……」  恥ずかしいことを書いていなかっただろうかと、思いを巡らせてみたが、全く思い出せそうになかった。どうやら15歳の自分を自分を信じるしかなさそうだ。 「おそらく、ですよ。私の言ってることが当たってるかどうかは確かめようがありませんから」  胡桃がそういったとき、おもむろに伸ばされた楓の手が、机に置かれているAさんの手紙を取った。 「懐かしいな」    そう言って、楓は僕たちに微笑んだ。 「一つだけ付け加えると、私は自分の手紙と、渡辺君の名前の手紙の、両方をタイムカプセルに入れていたの。10年前は渡辺君の手紙を回収して、自分の手紙を回収するの忘れちゃったんだよね」  楓は、驚き声の出せない僕を横目に、自分の鞄から1枚の封筒を取り出した。それが何であるかは、確認せずともわかった。 「はい」と言って手渡されたそれには、間違いなく僕の字で、「渡辺 大樹」と書かれていた。 「ということは、あなた10年前も来ていたってこと?」  先生は楓に尋ねる。うなずく楓に、「全然気づかなかった」と申し訳なさそうに先生はこぼした。 「気づかなかったのは無理ないですよ。あの日の私は、帽子にマスクに、いつもはかけない眼鏡までしてましたから」 「ほらここ」と言って、先ほどの写真の一枚を指さした。そこには確かに帽子とマスクと眼鏡をした女性が写っているが、顔の大部分が隠れているので、確かに楓かどうかの判別はつかない。 「私は、なんとなくそうなんじゃないかと思っていたよ」  楓に笑いかける胡桃。楓も胡桃と同じように笑っている。気づけばつられるようにして、僕と先生も笑っていた。 「ちなみに中身は読んだの?」  僕の問いは空しく空中を漂い、鍋の湯気と同じように緩やかに舞い上がって霧散した。そこには鍋に舌鼓をうつ音だけが響いていた。
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