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第61話 桜の木の下で
桜が舞っている。
そう。
こんな日。
久遠遥が書いた小説で、桜のことを書いた小説は一冊だけ。
『桜の舞う場所』
主人公はこの坂の街の、海を見下ろせる小高い公園で桜が舞うのを見ている。
些細なことですれ違ってしまった恋人が、まだ恋人になるずっと前に話していたことを思い出しながら。
「もし、大切な人と喧嘩をしてしまったとしても、きっと桜の木の下で、舞い落ちる花びらがその人にふれる瞬間を目にしてしまったら、全て許してしまう気がするんだ」
「そんな簡単に?」
「そう。びっくりするくらい簡単に」
「無理に決まってる」
「無理じゃないよ。仲直りする方法を探さなくていいんだから」
もし、もう一度やり直せることができるのなら……そう思いながら、主人公は、昔話をした場所で、もう覚えてもいないかもしれない言葉を頼りに、桜の木の下で恋人を待ち続ける。
いつ来るかも、来てくれるかもわからない相手をずっと。
間違ってない。
「桜を見に行く」って言ったのなら、あそこにいるはず。
細い路地の、この角を曲がって、坂道を上って、それから石段を上がって、美術館を通り過ぎる。
ループ上の階段を上がりきったら、大きな岩の下をくぐって……
全て久遠遥が書いていた通りの道を進んだ。
どうか……
どうか……
遠くにある、桜の木の下に、見覚えのある後ろ姿を見つけて涙があふれてくる。
駆け寄って名前を呼ぶ。
「遥希さん!」
わたしの声に、ゆっくりと、目の前の男の人が振り向いた。
「ストーカー?」
涙がこぼれないように、眉間に力を入れた。
「あなたの欠片です」
「そうなの?」
泣いちゃダメだ。ちゃんと話をするまで。
「いなくならないで……わたし……」
「何?」
「自分の目で見た遥希さんだけを信じるべきだったのに、できなくて……ごめんなさい」
「その手は何?」
「迎えに来ました」
小説『桜の舞う場所』の中で、主人公を迎えに来た恋人は、桜の花が舞い散る中、手を広げて、恋人がその腕の中に飛び込んで来るの待つ。
「物語の主人公はオレってこと?」
「そうです。いつだって、遥希さんはわたしの物語の主人公です」
「また唯織を傷つけるかもしれない」
「その時は、また考えます」
「正直すぎ」
「過去の遥希さんも、今の遥希さんも、全部の遥希さんが好きです」
手が届くほどの距離に遥希さんがいる。
「探しに来るのを待っててくれたんですよね?」
「ずうずうしい」
そう言いながらも、遥希さんが微笑んでくれた。
「わかってます。ずうずうしいことを言ってるってことくらい。でも、こうでも言わないと勇気が出なくて。遥希さん、もうわたしに会いたくないから、いなくなっちゃったんですよね……ずっと後悔ばかりしています。ずっとずっと遥希さんのことばかり考えています」
「うざい」
「ごめんなさい。たくさん遥希さんを傷つけました」
「唯織が傷つくよりよっぽどいい。オレがそばにいたら、唯織を泣かせてしまう」
その時、ようやく気が付いた。
遥希さんがわたしの前からいなくなった理由に。
「……わたしのことを許せなくて……いなくなったんじゃないんですね」
遥希さんはそういう人だった。
わたしを傷つけたから離れて行こうとしたんだ。
「わたしの幸せは遥希さんと一緒にいることです。遥希さんがどう思っているのか教えてください」
「オレは……唯織がいないとずっと欠けたままだ」
遥希さんが桜の木を見上げたので、わたしも上を見た。
ここに来るまで、あちらこちらで桜の花びらが舞っていたのに、今、立っているその場所で、満開の桜はただ静かなに咲き誇っているだけだった。
遥希さんは、手が届くところに咲いていた桜の花びらをそっと抜こうとした。
その瞬間、風が通り抜け、たくさんの桜の花びらが宙を舞い、ふたりに降り注いだ。
本当にたくさんの花びらが。
小説の中で、主人公を迎えに来た恋人が言う。
「ほらね、僕たちは大丈夫。桜が微笑んでくれている」
今、現実では……
「望んでいるのは、ふたりで幸せになることだから」
遥希さんがわたしを抱きしめた。
だから、わたしも広げていた手を遥希さんの背中に回した。
見上げると、遥希さんがわたしに微笑んでいた。
「まだ久遠遥を好きでいてくれるなら、これから先、新作は絶対一番に読ませるから、一緒にいてよ」
「わたしちゃんと本屋で買います。だから、サインをください」
「知らないの? 久遠遥はサインをしない」
遥希さんとキスをした。
会えなかった時間を埋めるみたいに……
さっきまで、そっと背中に回していた手で、今度はぎゅっと遥希さんを抱きしめた。
わたしは、遥希さんの欠片でいたい。
久遠遥の小説はいつだってハッピーエンドで終わる。
「読んだ人が幸せになるために書いているから」と遥希さんは言った。
この物語も、そう思っていいんだよね?
END
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