夢見がちなメイドさんは、ダメダメご主人様に恋してる

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夢見がちなメイドさんは、ダメダメご主人様に恋してる

 入江燈次(いりえ とうじ)という男は、あまり性格がよくない。ナルシストで、自分が世界で一番偉いと信じている。自分の思い通りにならないと癇癪を起し、子どものようにワンワン叫んで文句を言う。彼が生きがいとしているのは、人の悪口を言うことである。身体が弱いくせにというか、弱いからというか、性格がねじれてしまっている。容姿は優れている。金持ちである。だがそれ以外が目に余る。女もかなり好きなようである。美人を見かけるとつい追いかけていってしまうし、声をかけることもある。女性に囲まれてすごいすごいと言われる瞬間が大好きなようで、複数人の女性が自分の傍に寄ってくるとそれだけで興奮し、得意になって自慢話を始める。そういう人間である。  しかし彼のところにいるメイドは、何故だか彼に恋をしている。彼女の名前はさと。何故こんな奴が好きなのかとさとに尋ねても、顔を赤らめて「好きだから好きなんです」と言うだけ。粘って質問を続けると、「燈次さまはずっと昔、私の夢に出てきた王子様にそっくりなんです」と言う。まだ幼かったころの彼女は、夢の中の王子様と赤い糸で結ばれていると信じていたのだという。そして今、彼女はその王子様そっくりな燈次と、赤い糸で繋がっていると思っている。かなり夢見がちな女の子である。  だからといって、彼女がその妄想に完全に浸っているわけではない。運命を信じている反面、本当は運命なんて存在しないとも思っている。ときおり急に冷静になって妄想でなく現実を生きようと思い、彼氏を探す。そしてちょっといい感じになって、何回か会って、思ったより面白くないなと思って、破局する。ちょっと泣く。そういうときに限って夢に燈次が出てくる。夢の中の燈次は「お前だけを愛してる」とか「お前が運命の女だと知っているよ、ただ照れくさくて言えないだけだ」とか都合のいい甘い言葉をかけてくる。夢に出るってことは、やっぱり私は燈次さまが好きなんだ、などと考えて、また燈次との幻想へと戻ってくる。その繰り返しである。  彼女はその日、入江邸の階段掃除をしながらいつものように妄想に耽っていた。少女マンガのヒロインを自分に、かっこいい男の子を燈次にしてふたりが大恋愛の上で結ばれる妄想である。この日は学校で同じクラスのふたりが喧嘩をしつつも何故か仲よくなる、という想像だった。ファンタジー小説も好きなので、妄想は途中から急に飛躍し、悪い妖精に囚われたさとを、ドラゴンに乗った燈次が助けにくる、という空想へと変化していった。このファンタスティックな妄想があまりに楽しく、彼女は重い掃除機を持ったまま、視線は遠くの空を見て、階段を1段1段下りていた。そして彼女は、足を踏み外してしまった。 「危ないっ!」  あ、落ちる、と思ったとき、勇ましい声が聞こえた。燈次の顔がすぐ傍にあった。そのままバランスを崩し、ふたりは階段下まで転げ落ちた。燈次の片足がさとのお尻の下敷きになっていた。さとのお尻は人より少し大きめなので、さとは申し訳なさと恥ずかしさで慌てた。 「だ、大丈夫ですか、燈次さま!」 「どこも問題はない。お前、怪我は?」 「私は大丈夫です。誠に申し訳ございません。私なんかのせいで」 「馬鹿垂れ。俺の大切なメイドに怪我がないのなら十分だろう」  燈次は偉そうに胸を反らせた。メイドを庇う俺ってかっこいいだろう、と言わんばかりの、生意気そうな態度だった。だがさとの胸はときめいた。妄想世界のとにかくかっこいい燈次の姿が重なった。やっぱりこの人は王子様みたい、と思った。「俺の大切なメイド」という言葉の裏に、「俺の大切な未来の妻」という言葉が隠れているように感じた。さとはまた彼との運命を感じた。たまに偉そうでいらっとすることもあるけれど、少しくらいなら許してもいいかなと思った。  燈次の足は結局何ともなかった。だが「言われるとちょっと痛い気もする」と言ったせいで、この家の奥さま――つまり燈次の母がネチネチと長ったらしく文句を言い、結果としてかかりつけの医者を呼ぶことになった。診察の末、燈次は入院することになった。だがこれは足の怪我のせいではない。診察をしている内に、今回の怪我とはまったく関係のないところに病気が見つかったのである。病弱である燈次には、よくあることである。幸い、今回の入院は3日ていどで済むようだった。すぐ見つかったことも幸いしたようだ。文字通り怪我の功名である。  さて、入院にあたって、さとは燈次の元へ荷物を届けに行くことになった。暇つぶしの本やコップ、パジャマ、歯ブラシ、枕などである。パジャマなどは病院で借りることもできるし、枕くらい当然ベッドに備わっているものだが、入院慣れしている彼はかえって細かい拘りが生まれてしまい、自分の愛用のものでないと苛立ってしまう性格になっていた。難儀な男である。  病院に向かいながら、さとはかなりウキウキしていた。自分のせいで彼が足を痛めていたことには気が重くなっていたものの、彼が自分を庇ってくれたことにすっかり気をよくしてしまっていたのだ。つい顔がほころんでしまう。いけない、私は彼に悪いことをしたんだから、申し訳ない顔をしなくちゃ。彼は病気になって辛いはずだから、悔しそうな顔にならなくちゃ。でも駄目、ついつい口角が緩んじゃう。何か悲しいことを考えなきゃ。この間、楽しみに取っておいたクッキーの賞味期限を確認したら2ヶ月前だったことかな。もったいなくて食べたらちょっとお腹が痛くなったことかな。色々食べすぎて体重が1キロ増えちゃったことかな。しかも小振りな胸は成長しなくて、無駄におっきいお尻がまた大きくなっちゃったってことかな。ううん、辛い。でもニヤニヤしちゃう。いっそ病室に着くまで好きなだけにやけて、ニヤニヤ欲を発散しようかな。そうしよう。  さとは鼻歌交じりで病院の廊下を歩いた。とろけるような想像を好きなだけした。この荷物を届けたら、燈次さまは「たった数日でもさとと離れるなんて耐えがたい」と言って私を抱きしめてくれるの。「今すぐ俺の恋人になってくれ」とか「俺の妻になってくれ」とか言って、ちょっと強引に私にキスをするの。恥ずかしい。でも嬉しい。本当にそうなったらいいな。  燈次の病室の前にきた。個室だった。扉は閉まっている。開けようと手を伸ばして気がついた。まだニヤニヤ笑いが止まらない。しまった、と思ってさとは最終手段として自分の尻肉を思い切りつねった。痛い。でもお陰で哀しい顔が作れた。準備万端。さとはわざとらしく眉間に皺を寄せたまま、扉を開いた。  嬉しそうに笑っている燈次がいた。その周りには綺麗な女の人が5人。患者と思われる女性がひとり、誰かのお見舞いに来たと思われる女性が3人、看護師がひとり。楽しそうにキャッキャウフフと談笑している。燈次はさらには今流行りの本や映画を楽しそうにこき下ろしていた。やたら得意げな態度だった。患者と思われる女性が甲高い声で笑いながら、燈次の背中を撫でるような手つきで叩く。燈次は彼女に笑顔で応じつつも、彼女とは反対側に入る見舞い客と思われる女性のひとりのお尻を、実に親し気にポンポンと叩く。燈次の視線は別の見舞い客の太ももをチラチラと盗み見ている。彼は鼻の下が伸び切っている。彼は誰よりも大きな声でゲラゲラ笑いをしている。  さとは浮き立った気持ちが一気に沈むのを感じた。自分の心の中で膨らんだ花柄の可愛らしい風船が、バンと音を立てて弾けるイメージを抱いた。彼女は扉を半開きにしたまま突っ立っていた。 「おお、さと。遅いじゃないか!」  燈次は下卑た笑いを引っこめ、子どものように無邪気な微笑みでさとに笑いかけた。燈次がさとに向かって手招きをする。さとは事務的に頭を下げた後、無言で彼に近づき、荷物を彼の胸に押しつけた。 「おお、すまないな。ところでさと、俺はお前に言いたいことが山ほどあってな」  さとは燈次の言葉が聞こえなかったふりをし、彼にまた機械的にお辞儀をし、そのまま出口へと歩き出した。 「おい、さと、どうした! 待たないか、この阿保垂れ!」  燈次は大声で彼女を呼んだが、それでも彼女は無視をした。仮に聞こえたというふうに振る舞うにしても、彼女は振り返ることはできなかったろう。彼女の目には、大粒の涙が乗っていた。  病院から出て住宅街を歩き始めたさとは、ふと水たまりに映った自分の姿を確認した。  飾り気のない地味な顔。低い鼻。下向きの睫毛。ほとんど膨らんでいない胸。無駄に大きくて品のない尻。そんなに可愛くないな、と思った。自分の抱いていた妄想が恥ずかしくなった。こんなに地味な女がシンデレラストーリーを夢見るなんて、たまらなく馬鹿馬鹿しいと思った。  燈次の好きなタイプははっきりとした顔立ちで、背が高くて、胸も大きな女性である。自分とは何から何まで違う、キラキラとした、この世界のど真ん中にいるような女性たち。そんなのに敵うとどうして今まで思えたんだろう。恥ずかしくて穴があったら入りたい、いっそ穴の上から土をかけて埋めてほしいと思った。  燈次が気の多い男であることは、さともよく知っていた。ちょっとしたことですぐ女の人に目をつけて、ニヤニヤして、口説いて、近づいて、ベタベタする。彼が特定の女性に本気の恋愛感情を向けることも、当然のように多かった。もちろんその相手はさとじゃなかった。そのたびにさとは寂しい気持ちになりながらも、「最後には私のところへ来てくれる」と信じて何も言わずに待っていた。彼は性格が性格なので、惚れた女性にこっぴどく振られることも案外多い。そして病弱な燈次は気分の落ちこみのせいで熱を出して寝こんでしまう。そういったときはさとは有頂天になって、熱心に彼を看病する。「苦しいときに支えてくれるのはお前だけだ、愛してる」と言ってくれるのを信じて。でもそれで元気になっても、さとには目を向けてくれない。また別の女性のところに行くだけである。さとは落ちこんで、「多少の浮気も許してこそ女」なんて古臭いことを自分に言い聞かせて、また秘密の恋心を自分の中で抱えこむ。そんな自分に酔っている。彼女自身、心の底では自分の本音に気づいている。  私は、燈次さまのことが好きなんて嘘なんだ。ただ現実から逃げたくて、妄想に浸っているだけなんだ。彼は私の想像するような人じゃない。王子様じゃない。運命の相手なんて存在しない。階段で落ちそうになったときに助けてくれたのだって、たぶん勘違い。たまたま一緒に落ちて、彼が下敷きになって、それを「助けてくれたんだ」と都合よく解釈しちゃっただけ。ただの恋愛ごっこ。自分しか見てない無意味なお芝居。こんなのをして何になるの。私、もう20歳だよ。お酒だって飲めるんだよ。どうして私はこんなにも子どもなんだろう。馬鹿なんだろう。  涙がぽろぽろと零れ落ちた。ひと粒零れるたびに、彼女のロマンチックな空想が、ひとつずつ抜け落ちていくように感じた。もうやめよう、こんなこと。いい加減ちゃんとした恋愛をしよう。文句も選り好みも全部やめて、ちゃんと彼氏を作って、ちゃんと結婚をしよう。  涙を拭いた。前を向こうとして顔を上げようとした。するとそのとき、背後からワッと子どもの叫ぶ声がした。  気になって声のほうに行ってみると、3人の子どもの真ん中に、男の人がうつ伏せに倒れている。見覚えのある茶色がかった艶やかな髪。病院で支給される寝間着。燈次だった。慌てて駆け寄る。子どもたちは急に近づいてきたさとに驚きわっと逃げる。さとは彼のすぐ傍にしゃがみこむ。くるりと身体を回転させ、仰向けにする。そして上体を持ち上げ、自分の膝の上に乗せる。膝枕のような体勢である。燈次は少しだけ楽そうな顔になった。 「燈次さま、どうしてここに!」  どうして、という問いに燈次は答えなかった。実に不満そうな顔でさとを睨み、顎をぐっと天に向かって持ち上げ、横柄な口調で言った。 「何で勝手に帰ったんだ、この阿保が」 「え?」 「俺はお前を待ってたんだぞ。ずっと。話すこともたくさん貯めといてやったのに。医者のありえない言い間違いとか、隣の部屋の患者の廊下まで響くいびきの話とか。全部聞かんで、黙って帰るんだからなぁ。この俺より大事な用事なんざこの世にひとつもないだろうが」  燈次は「俺より大事な用事」という単語を憎々しそうに口にした。 「それはさっきの綺麗な人たちに話せばいいじゃないですか」 「俺はお前に話したいと言ってるんだよ。だからわざわざ病院を抜け出して追いかけてやったんだよ。ちょっと考えれば分かるだろう。馬鹿め」  燈次はちっと舌打ちした。機嫌の悪さを隠そうとしない。言っていることはロマンチックに聞こえても、態度は真逆である。 「私なんかに? どうして?」 「それくらい言わなくても察せ。ピーマンじゃないんだから頭に中身をちゃんと詰めとけよ」  燈次は偉そうに鼻をふんと鳴らした。 「分かりません、言ってくれなきゃ」 「ちっ。分からず屋のお前のために特別に言ってやる。一度しか言わんからよく聞けよ。俺にとってお前は大事な」  そこまで言って燈次は急にそっぽを向いた。あとはだんまり。燈次は自分本位な性格なので、よく会話を途中で勝手に打ち切ってしまう。 「俺の大事な、何ですか。言ってくれなきゃ私、また変な勘違いしちゃいますよ」  燈次の次の言葉を待った。でも燈次は無言を貫いている。さとは呆れたようにため息をついた。 「俺の大事な、何ですか。未来の花嫁さん、ですか?」  さとは思い切って花嫁、という言葉を使ってみた。恋愛や結婚について、彼女が口にしたのは初めてだった。今までは「真に愛しあうふたりは、言葉なんてなくてもいつか通じあえるもの」と思っていた。でもその幻想は、さっきの涙で消えてしまった。  燈次の反応を待った。それでも彼は何も言わない。よく聞けと言って何も言わないなんて、なんて自分勝手なんでしょう。でもふと嫌な予感がする。燈次の顔を覗きこむ。彼の長い睫毛は緩やかに閉ざされている。眠っているような表情だ。ふ、ふ、と息を吐いている。眠っている? いや、気絶している! 虚弱な彼は興奮しすぎて熱を出したり、こうして気絶することがたまにある。手のかかる男である。  さとはきゃーと声を上げ、燈次をおんぶした。そして病院に向かって走りはじめた。  まったく、とさとは心の中でため息混じりに言った。本当に手の焼ける人。自己中心的で。女の人のお尻ばっかり追いかけて。人の悪口ばっかり言って。今日、病気で苦しいのに追いかけてきてくれたからって、簡単にときめいたりしないんだから。あなたが運命の相手じゃないって分かったら、私はすぐあなたの元なんて離れるんですからね。絶対ですからね。  私、あなたと運命の赤い糸で結ばれてるなんてこと、信じてあげないんですからね。あともう少しの間だけしか。
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