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その数日後、夜中に小夜は夢から誤って落下したように突然目覚めた。
そうしたことは最近しばしばあり、夜明けへの出口がふさがれたような孤立感に、夜の空白地帯に不時着したのではと、小夜は不安に陥った。
布団から起き上がり、精神(こころ)を落ち着かせると、彼女は耳慣れたそれでいて違和感のある音が、自分に向けて聞こえてくることに気付いた。
それは確かめるまでもなく、いちょうの葉のざわざわいう音だった。
念のため、ベランダへの扉を開けた彼女は、以前より増幅された葉のざわつく音を聞いた。
風もなく、「幻想ポロネーズ」の音楽もなく、いちょうが自らの力で音を生み出している。
世界中で今、この音を聞いているのは自分だけと、小夜は確信した。
その音は、小夜の心の中で音楽になった。そして心の中でその哀愁を深化させていった。
小夜の心の中の悲しみと、手を取り合うように。
「うっ……」
不意に嗚咽がこみ上げてきて、小夜は障子を閉めた。
布団に戻りかけた彼女は、隣の布団の上に起き上がっている人影を認めて、はっとした。
「あ、透……」
それが夫の透だとわかって、小夜は狼狽と安堵を同時に呑み込んだ。
「どうしたんだ?」
透は不審そうに尋ねた。
「ちょっと目が覚めて、外でいちょうの葉っぱがざわつく音が耳についたの」
少しの間、透は小夜の言ういちょうの葉のざわつく音を聞くために沈黙した。
「そうだね。いちょうの葉の音が聞こえるね」
「そう。メッセージを持った音楽みたい」
「なるほどね」
透は小夜の言葉に共感したのか、ただ納得しただけなのか、それ以上言葉を継がなかった。
そして関係のないことを話した。
「この部屋は公園に面していて、春には桜、秋には黄葉が見られて最高だな。小夜もそれが気に入ってここを借りたんだろ?」
「うん」
小夜は夫の言葉を肯定した。
桜が咲き始めた頃に部屋を下見して即決し、結婚して4月から住み始めた。
桜の木もいちょうの木も2本だったが、その花や黄葉を堪能するには十分だった。
「去年に続いて、今年も一緒に黄葉を見られてよかった」
と言ってから、小夜は寒気を感じて布団を膝まで引き寄せた。
寒気は、夜の空白地帯の感覚とつながっていた。
そして、今年のいちょうの黄葉をじっくり観賞しただろうかと、小夜は自問した。
考えてみれば、昼間は仕事の忙しさにかまけて部屋の外をゆっくり眺めていない。むしろ最近は、夜の街灯に照らされたいちょうしか見ていない。
「あのいちょう、何か悲しいのかしら」
小夜は独り言のようにぽつりと呟いた。
こんなに眠りから呼び覚ますくらいにザワザワと訴えかけてくるのは、自分自身が悲しみに取りつかれているせいだろうか。
と、暗がりの中に浮かび上がった透の姿を目にした小夜は、一瞬自分の悲しみを見失った。
「多分、連れ合いを亡くしたからなんだろう」
「え!?」
思わず小夜は訊き返した。
「あれ、知らなかったのか? 2本のいちょうのうち1本が伐採されたって」
「いつ?」
「今年の6月」
その頃の小夜は混迷の最中にいて、公園の木のことなど眼中になかった。
「切られたのは、雌株だ。残ってるのは雄株。つまり、2本は夫婦だったんだ」
「なんで切ったの。枯れたの?」
「うーん、理由はわからないけど、いちょうの実の銀杏は異臭を発して公害に近いから、実をつける雌株は街路樹とかに用いられないようになっているらしい。それに、いちょうの落ち葉は量が多くて掃除が大変なんだ」
「去年、自治会で公園清掃に駆り出されたわね」
そうしたことが理由だとしても、残された雄株にとっては妻が理不尽に葬り去られたようなことで、やりきれないのだろう。
いちょうの悲しみの理由はそういうことだったのかと、小夜は我が身を振り返って心底同情した。
でも、どうすれば……。
伐採されたいちょうの雌株はもう戻らないし、代わりの木を植えることもなさそうだ。
雄株は、ともに葉を茂らせ黄葉と落葉を繰り返した妻のいちょうの喪失を、ただ嘆くことしかできない。
精一杯の葉擦れの音で訴えかけることで。
傍らに目を向けると、透は依然として座った姿勢のままだが、影だけの存在になったように沈黙している。
小夜はそれを黙認し、この夜の空白地帯の掟を破らないよう、決して明かりをつけることなく、しばらく暗闇の中にそのまま座していた。
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