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3,夜の空白地帯
夜中に唐突な目覚め方をして、体が金縛りにあったように動かない時がある。
そんな時は、誤って異質な空間に入り込んだのだとして観念し、再び眠りの中に戻るしかない。
けれども小夜は、夜の空白地帯への不適切な目覚めをむしろ待ち望むようになった。
そこでは、公園のいちょうの木が語りかけてくるから。
いちょうの葉のざわつく音は、彼女にとって音楽であり語りかけだった。
空白地帯に目覚めるための準備として、「幻想ポロネーズ」をごく小さな音でエンドレスにして寝る前にかけておいた。
それが功を奏したのか、小夜は数日に1回くらい空白地帯に降り立った。
そこでの掟、明かりをつけない、部屋から出ない、外部に通信しないを守って、そっと起き上がって障子を開け、外を見た。
いちょうの葉はもう半分以上落ちていて、残り少なくなった葉の隙間に夜風が遠慮なく吹き抜けていった。
いちょうの悲しみは、夜気のように肌に沁みとおった。
ブルッと震えて、小夜は障子を閉めて布団に戻った。
布団に潜り込んで自分のぬくもりに包まれた時、隣から透の声がした。
小夜は透がいることを承知していたが、あえて自分から話しかけなかった。それが掟の一つでもあるから。
「いちょうの木、もうだいぶ散ったな」
「地面に落ちてそのままカーペットの一部になる葉っぱもあるし、カサカサと枯れ葉独特の音を立てて移動するのもある。
木の葉っぱって、ずっと同じ場所で動かないから、最後に散っていく時は束の間の自由を感じているかもしれない。小動物みたいに動く葉っぱは、よっぽど動きたかったのよ」
「それじゃ、落ち葉を拾ってどこかに連れて行くといいかもしれないね」
以前のように冗談交じりで透と喋っているが、小夜は自分の体が小刻みに震えていることに気付いていた。
あのいちょう並木のデートの時のように、屈託なく笑い合うことはできない。
自分は悲しみを知ってしまったから。
小夜の目に、涙が滲んだ。それを透に見られまいとしたが、彼は暗闇だろうとそれを見通しているのだろう。彼女の悲しみも。
「今度の日曜日、公園のいちょうの葉っぱを持って神社にお参りしようと思うの」
「え? ああ、いちょうの木を供養するんだね」
「切られた木はもう跡形もないから、残った木の葉っぱを拾うつもり。その日は午前中、自治会の公園清掃があるから、その時に葉っぱを何枚か拾える」
「そうか。いちょうの木もきっと喜ぶだろう」
透の声には、本心から小夜の提案に賛同する想いが込められていた。
「じゃあ、おやすみ」
そう言うと透は、闇に溶け込むように気配を消した。
小夜は慌てて声をかけた。
「おやすみなさい」
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