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私は妻を見た。
「三人の子育てを、今まで何もしてこなかった事を怒っているのか?」
「そうね、それも大変だった。でも……違うわ。あなたが仕事に全力を尽くしていたこと、家族のために頑張って働いてくれたこと。それは、感謝してるから」
では、何がいけなかったというのか。
勿論、不倫や風俗遊びなどはしていない。大きな喧嘩もない。それどころか、小さな喧嘩すらない穏やかな日常だった。
「分からないと思う」
妻は断言する。
その言葉通り、私には全く分からなかった。なぜ今、自分が離婚届を突き付けられているのか。
世間には女性に暴力を振るう最低の男だっている。だが私は妻や子供達に手を挙げたことなどない。
「どうしてだ? 教えてくれ」
困惑する私に、妻は「例えばね」と前置きしてから言葉を続けた。理由はいくつもあるということだろうか。
「美味しいと、言ってくれた事がないからよ」
「は?」
確かに、妻の料理に美味しいと感想を言っていなかったかもしれない。だが、そんなことを取り立てて言わなくとも、問題ないと思っていた。それに私だって、一度くらいは言った事があったのではないかと思う。しかし、確信は持てなかった。
だが、そんな事で?
たかが、そんな理由で?
「そんな些細なことで、長年連れ添った夫に離婚しろと言うのか!」
私は椅子から立ち上がり、荒い口調で妻に問い掛けた。
「些細な事よ、とっても」
妻はもうとっくに諦めているのだと言うような目で笑う。
「些細な事がたくさん……降り積もったの」
妻は水の入ったガラスコップを差し出し、私に問いかけた。
「例えばこの透明な水の中に、毎日一滴ずつ墨汁を垂らしたら……。その水はいつ、真っ黒になるのかしらね」
私は、透き通る水を見る。
「きっと一日目なんて気付きもしない。それはひどく些細な事だから……。そして一ヶ月、一年、その些細な一滴の繰り返しで、その透き通った水は、いつ真っ黒になるのかしらね」
何がいけなかったのか。
それははっきりとした大きな出来事ではなく、長い夫婦生活の中で幾度となく繰り返された、心遣いの欠如の蓄積だったのか。
私は脱力して、崩れるように椅子の背もたれに寄り掛かった。今まで私は、一体どれだけ妻が作った料理を口にしたのだろう。
一日、一日。日々を重ね。
一滴、また一滴。濃度を増す。
透明だった妻の心は徐々に澱み、何十年の時を経て、今、真っ黒になったのだ。
「それならもっと早く! 早くに言ってくれれば!」
「言ったわ」
「え?」
「何度も言ったわ。あなたが、聞いていないだけ。いつも、気のない適当な相槌だけだった」
妻が私を真っ直ぐに見つめ、もう一度その言葉を繰り返す。
「離婚して下さい」
三姉妹の末っ子が成人を迎えた年、妻は離婚届をテーブルに置いた。そして私は、真っ黒の意味を知ったのだ。
待ってくれ。
もう一度……。
そう思った瞬間、目の前の視界がグニャリと歪む。遠ざかっていく妻の背中に、私は手を伸ばした。
「待ってくれ」
待って──。
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