八号棟の手紙のキセキ

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「比呂君といったよね。きみは父さんと友達なんだって?」  こくん、とぼくはうなずく。 「ちょっと聞かせてほしいんだ。父さんは最近、どんな様子かなあ」  あ、しまった。筆談に使っている小さいノート、置いてきちゃった。  と思っていたら、タカユキさんはさっと黒いかばんから手帳を取り出し、まっさらなページを開いて、ぼくに差し出した。 「父さんから、きみはこうしてお話しすると聞いたよ。ここに書いてくれるかい?」  スーツの胸ポケットからペンを取り出し、いっしょに差し出す。 『せいじさんは、ぼくがしゃべれなくてこまっていたとき、たすけてくれました』  とりあえず平仮名だけど、さっと書きつける。 『てがみでおはなししてくれます。おかしな人じゃないです』  ここまでで一度、ぼくは手帳をタカユキさんに向けて差し出した。  眼鏡の奥で、すっとタカユキさんの目が細くなった。複雑そうな顔。 「あのぅ……」  ためらいがちに、奏多が切り出した。 「おれも、清司さんはおかしな人に見えないっつーか。いつも茉莉子をつれてるけど、それ以外、変わったとこはないです。いつもちゃんとしてるし」  奏多の言葉に、ぼくもぶんぶんうなずく。 「それに、清司さんと手紙で話すようになってから、比呂が少し変わったんだ。めんどくさがらずに、おれたちとも紙に書いて話してくれたりさ」 「しかし……」  タカユキさんがみけんにしわを寄せ、つらそうに言った。 「本当におかしい人は、自分がおかしいなんて少しも思わないものなんだ。僕は父さんが、ちっとも自覚していないことがすごく心配でね。まさかあの人形を……」  と、腕組みをして、タカユキさんはぶつぶつとなにやらつぶやいている。  様子をうかがっていた美乃梨が、例によって好奇心を隠さずに聞いた。 「あのっ。茉莉子ちゃんという名前に心当たりはありますか?」 「ええ?」 「もしかして、だれか知っている人の名前じゃないですか?」  あ、出たよ。美乃梨の名探偵モード。思わず奏多と顔を見合わせる。  しかしタカユキさんは首を横にふった。 「いや。亡くなった母さんの名前ではないし、僕のきょうだいや親戚にも、茉莉子という名前はいないんだ」 「えっ、そうなんですか。うーん、あと年末年始、タカユキさんは清司さんと会ったりしましたか?」 「いや……電話で話したけど、会っていない。会うのは今日が本当に久しぶりなんだ」 「電話で? 清司さんはどんなこと言ってましたか?」 「僕から電話したんだ。年越しはうちに来ないか聞いたんだけど、毎年のとおり断られたんだ。迷惑かけたくないって」 「その電話で、清司さんは茉莉子ちゃんのことは話してました?」 「いや、人形の話はなんにも。お嬢ちゃん、どうしてそんなことを聞くんだい?」 「あたしたち、清司さんが茉莉子ちゃんをつれているのを見かけるようになったの、今年に入ってからなんです」 「え? そうなのかい?」  ぼくも、奏多もはっとした。そういえばそうだ。  美乃梨の名探偵モード、結構本気だぞ。 「そうだ。3学期に入ってから、毎朝ベンチにいるんだよな。茉莉子つれて」  奏多の言葉に、ぼくもうなずく。美乃梨は続けた。 「うん。だから年末か、お正月とかに、なにか茉莉子ちゃんをつれて歩くきっかけができたのかなーって思ったんですけど」 「……思いつかないな。こういうとき、父さんといっしょに暮らしていないと、いろいろと歯がゆいものだね。電話では、病院にちゃんと行くように伝えたんだけど」  え。清司さんは病気なの? 「清司さんって病気なんっすか?」  まさに奏多が聞いてくれた。 「いやいや、病気じゃなくてももう70をゆうに過ぎてるからね。市が毎年行ってくれる定期健診をちゃんと受けるように、勧めたんだよ。でも父さんは病院嫌いでねえ」  ふう、とタカユキさんは息をついた。ため息をつきたいのをごまかしたみたいな、息の吐きかただった。 「以前、病院の先生に食生活を指摘されてね。僕も心配だったから、父さんの家に食材を届けてもらえるよう生協の宅配を手配したんだ。父さん、料理はできるからね」 「あの」  また名探偵・美乃梨が口をはさんだ。 「タカユキさんは、茉莉子ちゃんをこれまでに見たことあるんですか?」 「ああ、あの人形はね、亡くなった母さんと父さんがフランスを旅行したときに買ったものなんだよ。この団地に引っ越してくるとき、遺品はほとんど処分したと聞いていたんだけどねえ」  じゃあ、茉莉子さんはやっぱり、清司さんの亡くなった奥さんとの思い出の品だ。 「なのに、奥さんの名前じゃないのね」  ぼくが思った疑問を、するどく美乃梨は言い当てる。  タカユキさんは腕時計を見て「おっと」と声をあげ、スーツのポケットから小さなケースを取りだした。 「僕はもう行かないと。比呂君、もし父さんの様子で気にかかることがあったら、ここに連絡をくれるかな。これはうちの番号だから」  取り出した名刺の裏に電話番号を書いて、ぼくに渡した。  受け取ったぼくは、こくんとうなずいたけど。  あ。電話? ぼくはしゃべれないんだった! 「なんかあったら、おれがかわりに電話してやっから!」  ぼくの心配が伝わったのか、奏多がばんと自分の胸をたたく。美乃梨もそのとなりでうなずいている。  そんなぼくたちを見て、ふっとタカユキさんも笑う。 「きみたちみんな、頼もしいよ。ありがとう」
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