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階段を1段飛ばしでかけ下り、2階を過ぎたとき。
「なあ、父さん。わかってるのか? 少しは僕の話を聞いてくれよ」
ちょっとイライラしたような男の人の声がして、ぼくははっとおどり場に立ち止まった。
怒っているけど隠そうとしている、でも隠しきれていない声って、わかる。ずっと前に家の中でしょっちゅう聞いたから。
おどり場の手すりかべに身をかくして、ぼくはそっと外の様子をうかがう。
あ。清司さんだ。
清司さんが団地内の道を8号棟へ向かって歩いてくる。いつものひらべったい帽子に長いコート姿で、左腕に茉莉子さんを抱え、もう片方の手には紙袋を下げている。たぶん、あのケーキ屋さんのだ。
そのとなりには、眼鏡をかけた男の人がついてきている。まるで会社で仕事をしているようなスーツにコート姿で、黒いかばんを持っている。
父さんって呼んだということは、あの男の人は清司さんの息子さん?
「急に訪ねてくるからなにごとかと思えば。私なら心配には及ばないよ」
やんわりと、清司さんは笑う。
男の人はじれったそうに話しかけている。
「心配するさ! 今日だってわざわざ仕事をぬけてきたんだよ。自治会の人から連絡がきて、おどろいたよ。まさか人形をつれて歩いてるなんて――」
「人形じゃなくて、この子は茉莉子というんだ」
「……父さん。不審者じゃないかってこの近所でうわさされてるんだって。それか、気がおかしくなったんじゃないかって」
「私はどこもおかしくなどないよ、タカユキ」
はあっと、ため息をつく気配がして、タカユキと呼ばれた男の人は言った。
「なあ、父さん。身のまわりの世話をしてくれる高齢者施設があるから、そこへ移れるように調べてあげるよ」
ふたりの声が近づいてきて、すぐ下まできた。
「それがもしだめだったら、僕らといっしょに暮らそう。大丈夫だよ、キヨミは僕が説得してみせるから」
「タカユキ。申し出はありがたいが、それが義務から出た言葉でしかないことくらい、わたしにはわかる。キヨミさんはすばらしい女性だが、嫁という立場の人が夫の親と暮らしたがるとはどうしても思えないよ」
「いや、けど……」
「とくにキヨミさんはその優しさから、私にもおまえにも、その気持ちを押し隠すことになるだろう。私もそれはつらい」
「…………」
「ほら、私はおかしくないだろう?」
「父さん……」
「さほど心配しなくても、もうすぐ終わるよ」
え? もうすぐ終わるって? なにが?
ふたりが並んで1階に入ってきて、言葉につまったタカユキさんが気配を感じたのか、ふとこちらを見てばつが悪そうな顔になった。
清司さんがその視線を追ってこちらをふり返る。ぼくは聞かなかったふりをして、最後の階段を下りて、ぺこんと頭を下げた。
「やあ、比呂君。お出かけでしょうか?」
こくんとぼくはうなずき、清司さんが抱いている茉莉子さんの頭をちょっとなでてから、ふたりと茉莉子さんに手をふって8号棟を出た。
「この団地の子?」
「ああ。私と茉莉子の大切な友人だよ」
そんなやりとりがうしろから聞こえた。
ふり返らずにずんずんと歩きながら、これでいいはず、と思った。
茉莉子さんにも、ふつうにふるまえばいい。これが当たりまえなんだって、タカユキさんに伝わったかな。
けれど。団地の道を歩きながら、ぼくは思った。
ふつうって、当たりまえってなんだろう。だれが決めたんだろう。
だって、ぼくは今、ふつうじゃない。しゃべれないんだから。
本当なら、しゃべって歌って声を出せるはずなのに、それができない。ほとんどの人が当たりまえにできることができない。それは、ふつうじゃないんだ。
ふつうじゃ、ない……。
ああ、なんだか気分が落ちこんできた。最近やっと、ちょっとずつだけどみんなと遊びたいって気持ちになれたのに。
団地の広場に行くと、もう奏多と美乃梨がぼくを待っていた。
「比呂! こっちこっち!」
「おっそーい!」
ふたりと合流し、団地の南口を出て児童館へと向かおうとしたとき。
「比呂君! 比呂くーん!」
背後から声がせまってきて、ぼくたちはふり返った。
追ってきたのは、さっきの男の人。タカユキさんだ。奏多と美乃梨は「だれ?」と顔を見合わせている。
かけつけてきたタカユキさんは肩で少し息を切らせ、ぼくたちを見下ろした。
「呼び止めてごめんね。……ああ、僕は西村清司の家族で、西村タカユキといいます」
「えっ。清司さんの?」
おどろく奏多に、タカユキさんもおどろいたみたいだ。
「きみも、父さんのことを知ってるのか?」
「あたしも知ってまーす!」
美乃梨もどこか得意げに笑った。
「朝、学校に行く前に、清司さんと茉莉子ちゃんにあいさつしてます」
「ああ……そうか」
タカユキさんがちょっと痛々しい顔つきになる。
もしかして、呼び止めたのは清司さんのことかな?
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