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放課後、帰ろうとして上履きからスニーカーにはきかえ、校門を出たところで母さんの声がした。
「比呂! こっち!」
「え?」
びっくりした。母さんが来るなんて聞いてなかった。
母さんは待ちきれなかった様子でやってくると、ぼくの手を引いて歩き出した。
「病院に来てほしいって貴之さんから連絡あったの。そこに車停めてあるわ」
母さんもよほど急いで来たのか、校門の近くにランプが点滅したまま、車が停めてあった。ぼくは助手席に乗り込み、母さんも急いで運転席に乗り込む。
「あ、母さん。茉莉子さんは?」
「ごめん、母さんそこまで気が回らなくて。置いてきちゃったの」
母さんはコートも着ていない。ふり返ると、うしろの座席に母さんのファーつきコートがほうりこまれていた。
すぐにエンジンをかけ、母さんは車を発進させる。
「じゃ、じゃあ団地にもどって。茉莉子さんつれていったほうがいいよ」
ぼくが手当てをして、包帯ぐるぐるになっちゃった茉莉子さんだけど。
やっぱり、清司さんが大切にしていたのなら、つれていったほうがいい。
それでも、母さんは苦しげに首を横にふった。
「だめなの、比呂。できるだけ早く来てほしいんだって」
その言葉に、ぼくは言葉を失った。
もう、予感した。少し先の未来を。きっと母さんもだ。
病院に着くまでのあいだ、ぼくも母さんも無言のままだった。
母さんにつれられ、急ぎ足で廊下を抜けると、病室の前に貴之さんがいた。病院という場所だけど、今日もやっぱりスーツにネクタイ姿だった。
「お待たせしました、西村さん」
「矢崎さん。比呂君も。来てくれてありがとう」
引き戸が開かれたままの病室の奥を、ちらっとふり返ってから、貴之さんは言った。
「この病室は、大勢での立ち入りを遠慮するよう言われているんです」
「私はここで待っていますから。……比呂、行っておいで。静かにね」
「…………」
急に怖くなった。その先に待っていることを考えて。
さあ、と案内する貴之さんについていくと、ぼくの足はまるでリノリウムの床に吸いつくみたいに、一歩ずつが重たくなった。
病室の中は、ベッドが四つ。それぞれ反対側の壁側をあたまにして、ベッドがふたつずつ並んでいる。
どのベッドも人が横たわっているけど、動かない。透明のくだみたいなものが体に貼りつけられていて、ピッピッという音がするテレビモニターみたいなものがそばにある。
つれていかれたのは、奥のベッド。
「清司……さんなの?」
ベッドのさくに『西村清司』と書かれた札がついていたけど、ぼくはきっと貴之さんに案内されなければ、わからなかっただろう。
細いくだをつながれていて、透明なマスクをつけられていて、頭にもビニールでできたゴム帽子のようなものをかぶせられている。顔は真っ白で、すごく小さく見える。
本当に清司さん? たった数日でこれほど姿が変わってしまうの?
清司さんは目を閉じたままだ。
「あまり目が見えてないようなんだけど、呼びかけには反応するんだ。比呂君、話しかけてやってくれるかい」
おそるおそるベッドのそばで少しかがむと、清司さんの耳のそばで呼びかけた。
「清司さん」
かすかに、清司さんのほっぺたが動いた。
そうだ。そういえば、清司さんはぼくの声を知らないんだ。
「清司さん。ぼく、比呂です。矢崎比呂です」
「…………」
うっすらと、清司さんのまぶたが開く。その目が少し動き、ぼくのほうを見た。
伝えたいことはたくさんあった。次に手紙に書こうと思っていたこと。
学校で、自分から手を挙げた。黒板の前に出て問題を解いた。
声は出なくても、音楽の時間にみんなと同じように歌ってみせた。
放送委員はできなかったけど、美化委員をがんばって、先生にほめられた。
それに、やっと、声を出してしゃべれるようになった。
あきらめながら生きることをやめたから。
清司さんがそう教えてくれたから。
でもぼくは、それよりも大切なことを伝えた。
「茉莉子さんが、団地で、待ってます」
数度、清司さんのまぶたがふるえて、まばたきをくり返す。
「……き」
とぎれとぎれに、聞こえた。
―― き み は や さ し い こ だ ――
次の日の明けがた、清司さんは旅立っていった。
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