11.女郎蜘蛛

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11.女郎蜘蛛

 手脚はすらりと長く腰は見事にくびれ、鮮やかな縞模様をまとう。淡い山吹の巣を建てじっと客を待ち、逢瀬の時に至ればその身を尽くして是を喰らう。  駅を降りて京成電車の線路沿いを左に行けば、ほんの五分も歩けばいいという。売りは「焦がし味噌ラーメン」で、屋台からのし上がってやろうという気合い十分のパンチが効いているそうだ。この寒空の下、残業で疲れた空腹を満たすには、丁度いい気がする。  アパートの隣人でもある同僚の木村に教えられたとおり、線路沿いの道を左へ。ずっと直線なので、徒歩五分であれば、ラーメン屋の灯りが見えそうなものだ。しかし、その道は薄暗い街灯が続くばかりで、気合いの入ったラーメン屋は現れない。  そろそろ徒歩五分だ。ひょっとしたら、線路沿いを左ではなく右だったのではないか。そんな不安にかられてくる。  あと五分歩いたら引き返そう。そして、駅の近辺……いつもの中華料理屋で担々麺を食べて帰ろう。  半ば諦めたとき、ぽっと白い提灯が現れた。  これか?  いや、提灯には「おでん」と黒い墨で書かれている。ひょっとすると、ラーメン屋というのは木村の嘘っぱちで、このおでん屋に誘導したかったのかもしれない。  店というには粗末なテント張りだが、幾つか置かれたテーブルにはそれなりに客がついている。テントの屋根からは寒さしのぎの透明ビニールがぶら下げられて、それが微妙に曇って中の暖かさを教えてくれる。襟つきのジャンパーを羽織った老年の作業員たちが頬を赤らめてコップ酒を飲み、おでんの串を口に運ぶ。  うまそうだ。  それだけじゃあない。温かそうだ……。  ふっとビニールが開かれ、中から女が顔を出した。 「いらっしゃい、どうぞ」  白熱電球に照らされた横顔の美しさに息を吞んだ。三十歳台だろうか。臙脂色のセーターの上から割烹着を着ていて、頭には三角巾だ。昭和の映画ポスターから抜け出したような瞬間に包まれて、俺はもうすうっとビニールの中へ入った。   その空間は、日常とはかけ離れていた。まるで、何十年も時間を戻し、夜行列車に乗って到着した東北のどこかの港町だ。そこには美人女将のおでん屋があって、連夜、おじさんたちで賑わっている。はんぺんとすり身の揚げ物は地元の魚、卵も大根も地のものだし、何より酒も地元の酒蔵だ。このおでん屋に来れば、皆が笑顔になる。音楽はいらない。皆の笑い声がBGMで、一瞬にして、俺もまたそんな地元の青年気分だ。  熱燗のコップ酒など何年ぶりだろうか。それがこんなに美味いなんて、ずいぶん長いこと忘れていた。  そして、おでん。  柔らかな味の染みた大根、はんぺん、玉子、牛すじ……。  追加を頼んだときの彼女の笑顔が嬉しくて、俺はどんどん注文し、飲んだ。  たったひとりで店を切り盛りする彼女は、実にてきぱきと働いて気持ちがいい。客とのやりとりは軽妙で、それでいて愛情の隠し味さえ感じるのだ。テントにビニールの壁だというのに、この空間はどこまで温かく、心地よかった……。    そして、ふっと気がつくと、その空間には俺がひとりだけ残っていて、彼女はせっせと後片付けをしていた。 「ちょっとそれ、持ってきてくれない?」  洗い場から顔を出した彼女に笑顔で頼まれる。  俺は、いそいそと従い、そこから先は頼まれずともテーブルに残った皿やコップを運んだ。 「ごめんなさいね、お客さんに手伝わせちゃって」 「いえいえ、気にしないでください」  本気でそう思うのだ。手伝えることが、むしろ、嬉しくてならない。  あらかた洗い物が済んだのだろう。洗い場から素敵な笑顔の顔を覗いた。 「こっちへどうぞ。お礼に一杯ごちそうさせて」  彼女は洗い場の奥にあるドアを開けた。どうやら、テントの向こう側に母屋があるらしい。電灯をつけると、そこは四畳半程度の「小屋」になっていて、傍らには布団が畳んであった。 「こっち側が、あたしの家なんですよ」  残ったおでんを皿に盛り、瓶ビール一本とコップをふたつ、盆に載せて彼女は持ってきた。 「ストーブつけますね」  そこには電気ストーブがひとつあるだけで、他に家具らしいものはない。 「ここに住んでいるんですか?」  失礼とは思いつつ、つい、そう聞いてしまった。すると、彼女はちょっと恥ずかしそうに答えた。 「ええ。ちょうど一週間かな。実はわたし、風俗からの転身なんですよ。ここからスタートして、いずれは、ちゃんとしたお店を持ちたいと思って……」  木村は「屋台からのし上がってやろうという気合い十分のパンチが効いている」と言っていたが、このことかもしれない。 「ぜひ、応援させてください」  俺は心の底からそう思った。彼女は三角巾をはずし、割烹着を脱いだ。鍋の前で暑いからなのだろう。半袖のTシャツとジーンズは、この季節にしては薄着で、足を崩すと白い素足が眩しい。 「ありがとうございます」  そう言った彼女の瞳が潤んだように見えた。裸電球の明かりが瞳の中に反射して、まるでひとつの宇宙を描いている。 「大丈夫ですか?」 「ごめんなさい。まだ挑戦を始めたばかりなんですけど、本当にやっていけるのか、時々不安になるんです」  軽々しく大丈夫だ、などとは言えない。女手ひとつで店を持つ、という夢の先に、どれほどの苦労が待っているかしれないのだ。だからこそ、素直な気持ちが言葉になったのかもしれない。 「あなたが不安なとき、そばにいたいな」  彼女の表情が止まった。俺はその瞳の中の宇宙へ、するすると吸い込まれていった。彼女の細い手がビールのコップを盆に置いた。俺はその手をつかんで引き寄せる。  墨で描く細い筆の美人画が、すぐそこにあった。鼻がぶつからぬよう微かに首をかたむけた。柔らかな感触が唇に伝わり、熱い欲望が舌にからまる。五感の全てが甘い快楽に包まれて、俺は至福の海で泳いだ。目の前に血走った巨大な目玉が現れて、舌が食道を貫き胃の腑を絡め取っているというのに、夢の時間は永遠の愛に昇華した。  京成電鉄の線路沿いの雑草だけで何もない空地に佐藤の死体は転がっていた。その百坪ほどの土地は、もう五十年近くも放置されたままだ。衣類を含め、所持品は一切残っていなかった。ねばねばとした樹脂のようなもので裸の体をぐるぐる巻きにされ、口から肛門まで体内を貫かれ、血液は殆ど残っていなかった。目玉は異様に飛び出していたが、しかし、口元は何が嬉しかったのか、明らかに笑っていた。こんなに嬉しそうな佐藤の顔を俺は見たことがなかった。  新しいラーメン屋の情報を教えたが、それとは真逆の方向へ歩き、この空地に至って何が起きたのか――。  警察官という仕事柄、誰かに恨まれるリスクは高い。しかし、発見時の姿があまりに異様だ。当初、所持品が何もなく血痕もなかったため、他の場所で殺害されてここに運ばれた、と推測された。しかし、現場の雑草が直径三メートルほど踏み固められたようになっていて、しかも、数カ所から佐藤の精液が検出されたことから、この空地が殺害現場である可能性が浮上した。  その日、駅を降りた佐藤が空地に向かって線路沿いの道を歩く姿が、駅付近の防犯カメラに写っていた。手がかりはそれだけで、捜査はいきなり暗礁に乗り上げた。所轄の交番勤務だった俺は、捜査本部に招集された。佐藤の隣室に住み、彼に関する情報を少しは知っているだろう、と期待されたのだ。弔い合戦のつもりで俺は張り切った。しかし、どれだけ聞き込みをしても、彼には殺されるような理由はなかったし、反社会的勢力との怪しい付き合いもなかった。  手詰まりになった俺は空地に立って、呟いた。 「何でもいいから、手がかりをくれよ」  その夜は、久しぶりにアパートに戻った。シャワーを浴び、新しい下着に着替えた。冷えた空気のせいか、体がじんじんと痺れたような感覚になった。疲労のせいだろう。睡魔に襲われ、二十二時前に布団を敷いてもぐり込んだ。そして、うつらうつらしたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。  佐藤か?  反射的に思ったが、すぐに理性が否定した。かつて、疲れて眠っているところを何度も起こされたことが懐かしかった。  ドアの覗き穴を確認すると、誰もいない。悪戯だろうか。チェーンをかけたまま、ドアを開けてみる。  すうっと冷たく湿った風が吹き込むだけだった。悪戯か、寝惚けたか、そのどちらかだ。俺は再び布団に入った。    その夜、俺は夢を見た。  テントに透明ビニールの壁を吊した粗末な店で、俺は佐藤と向かい合って、おでんを肴にビールを飲んでいた。 「本気なんだよ」  そう言って、佐藤は厨房を振り返った。そこには三角巾を被り割烹着を着た女将さんがいて、てきぱきと働いている。 「あんなにいい女、初めて会ったんだ」 「おいおい、そんなに惚れちまったか」 「うん。あっちの方も最高でさ、なんかもう融けちゃう感じ」  なるほど、滅多にいない美人だ。割烹着を着ているのに、くびれた腰と長い手脚が男心をそそる。 「彼女、自分の店を持つのが夢なんだ」 「もう持ってるじゃないか」 「もっとちゃんとした店だよ。風俗やってある程度金は貯めたんだって。ここは店の経営を勉強するためにやってるそうだ」 「けっこう堅実ってことかもな」 「ああ。俺、彼女を応援したいんだ」 「好きなだけ応援してやれよ」 「でも、なかなか上手くいかなくてな」  佐藤は急に哀しそうな顔をした。 「何か障害があるのか?」  テーブルを睨んだまま、彼は頷いた。 「彼女、成仏できないんだって」 「え?」  突然、ふわふわと黄色い糸が飛んできた。それは瞬く間に密度を増して、佐藤の体にぐるぐると巻きついた。佐藤は恍惚とした目で俺を見た。 「俺が教えるから彼女を見つけてやってくれ」  そして、朝、目を覚ますと、天井の片隅に蜘蛛が巣をかけ、その真ん中に一匹のジョロウグモがいた。  俺は必死で上層部に掛け合い、佐藤が発見された空地を掘り返すよう訴えた。夢の中で佐藤に頼まれた、とは言えない。  実は、あの空地には秘密が隠されている、と生前の彼から聞いたことを思い出した。  何も出てこなければ、佐藤にからかわれたことにしようと思った。しかし、そこから人骨が発見された。かなり古い骨だ。DNA検査の結果、十五年前に失踪した風俗嬢だとわかった。  あの日以来、俺の部屋の天井にはジョロウグモが一匹巣をかけている。本来、冬になれば寒さで死ぬ運命だ。しかし、俺は常に部屋の温度を二十度程度に保ち、ときおり小さな虫を捕まえて餌を与えた。  そして、夜になると、おでん屋の女将と愛し合った。佐藤には悪いが、もう彼女と離れることなどできない。(了)
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