12.カブトムシの夏

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12.カブトムシの夏

 記憶の中のケイちゃんは、少年のようだった。  背が高く、手足が細く長く、真っ黒に日焼けして、ショートカットで、目がくりくりとしていて、野性的なんだ。  都会育ちで白くてぽっちゃりしたボクにとっては、まるで別の世界に生きる人みたいだ。 「アスリート」という言葉がテレビから聞こえ、ああ、これなんだって思った。  そのころのボクは東京の団地に両親と三人で暮らしていた。夏休みになると両親はぼくを連れて故郷の新潟に帰る。まだ新幹線はなかった。「特急とき」は高いから、だいたい「急行佐渡」に乗った。  小千谷駅で降りてバスで三十分ほども走る。途中の山沿いには煙草畑があって、びっくりするほど大きな葉が揺れていた。やがて田園地帯にある大きな農家が、母親の実家だった。  ケイちゃんの家はその実家の敷地内にあった、代々小作の家なのだと母は少し威張ったふうに教えてくれた。  感じ悪かった。  小作だろうが大作だろうが、ボクには関係ない。ケイちゃんを貶めるような言葉は嫌いだ。  いつまで経っても追いつかないのだけど、ちょっと年上のケイちゃんに会える夏休みが、ぼくはたまらなく待ち遠しかった。 だって、ケイちゃんは、ボクのためにカブトムシを何匹も捕まえて待っていてくれるのだから。  初めてケイちゃんがカブトムシを捕まえてくれたのは、何歳の夏だったろうか。  オスが三匹、メスが三匹。ぼくの虫かごはカブトムシで満員になった。それを枕元に置いて眠りたかったのだけど、ネズミが来るからダメだと大人たちに言われ、廊下に吊るしておくことになった。  翌朝、虫かごに残っていたのは、三本のオスの角だった。 「ほら、やっぱりネズミにやられたのよ」  なんで母が得意げに言うのか、わけがわからなかった。  そのことをケイちゃんに教えると、ケイちゃんはボクの頭を撫でてくれた。そして、お爺ちゃんの墓参りから戻ると、新しいカブトムシを捕まえて待っていてくれた。  今夜こそ枕元に置いておく。  ボクは母親に懇願したが、ネズミに噛まれたら大変だといって、許してはもらえなかった。泣く泣く廊下に吊るし、今夜はボクが守ってやるぞと箒を準備して布団に入った。  夜中、廊下がきしむ音がして目が覚めた。 (ネズミがきたんだ!)  ボクは箒を構えて障子をそっと開けた。  虫かごのカブトムシが暴れている音がした。  そして、ボクは見た。  虫かごに手を突っ込み、カブトムシを捕まえてはがぶりと食らいつくケイちゃんの姿を――。  ただ目を見開いて立ち尽くすボクの姿に、ケイちゃんは気づいた。 しっ、と薄い唇に指を当てる仕草が、とても可愛いかった。  ケイちゃんはカブトムシをむしゃむしゃと食べつづけた。  ああ、カブトムシが好きなんだなって、ボクは思った。  虫かごの中には、二本のオスの角が残った。  翌朝、納屋の陰からケイちゃんが手招きをした。 「なんでもしてあげるから、昨夜のことは誰にも言わないでね」  ぼくは約束した。  その代償に、ケイちゃんは、ボクのズボンを下ろして、他の人に教えてはいけないことをしてくれた。  次の年もその次の年も、夏になるとケイちゃんはカブトムシを捕まえ、それから、いろんなことをしてくれた。ボクは、どんどん、どんどん、ケイちゃんを好きになった。  ボクと同じくらい、ケイちゃんがボクを好きになって欲しかった。  ボクが高校生なると、ケイちゃんは東京の女子大に進学した。夏だけの秘密が、日常の秘密になった。  ケイちゃんの体はとてもしなやかで、ちょっとしていた。  ボクが大学生になり、就職し、三年が経ち、ケイちゃんは純白のドレスを着てバージンロードを歩いた。結婚式が終わり、友達を集めた二次会が終わり、ボクたちはやっと二人だけになれた。  大好きな、ケイちゃん……。  ボクのことも大好きだとケイちゃんは言ってくれた。  ベッドサイドの明かりが、黒い影を天井に写した。  都内のあるホテルで、清掃スタッフが左手の親指を見つけた。(了)
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