序曲 光流と流月

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序曲 光流と流月

 夜の空に浮かぶ月は、冷たい光を放っている。  月明かりに照らされる住宅街を、ひとりの少女が歩いている。  ふんわりと丸みを帯びたボブヘア。淡い色のダッフルコート。マフラーには音符の形の刺繍が施されている。  彼女は堂々とした歩き方だ。胸を反らし、歩幅も大きく取っている。  そばにある家の窓が開き、ラジオの音が漏れた。 『12月25日、黒戸(くろど)光流(ひかる)さんのコンサートが行われました。天才女子高生ピアニストとして話題の彼女は、今回も広い会場を満員にし……』  少女は得意げに髪を掻きあげる。  すると、その少し後から別の少女がやってきた。 「待ってよ、光流(ひかる)ちゃん」  もうひとりの少女は光流と姿がそっくりだ。  服装の色や形だけでなく、身長や体型、顔の細かいパーツまでよく似ている。  しかしこちらの少女は、背中を丸め、不格好な歩き方で光流についていく。  光流は少女をキッと睨んだ。 「うるさい流月(るつき)。ついてこないで」 「でも、わたしたち」 「あんたを妹なんて思ったことないから」 「生まれたときからずっと一緒だよ」  凍てつく風がふたりの間を抜けていく。  流月がぼそぼそと話す。 「光流ちゃん、今年のクリスマスコンサートもすごかったね。本当にわたしなんかと同じ日に生まれたのかな」 「どうかしら」  光流はあごをツンと上げたが、流月はまだ話しかけている。 「そういえば光流ちゃん、あのニュース見た? 頭がさ……」 「異形頭(いぎょうあたま)症候群のことね。動物や道具や家電など、頭だけが人以外の物になってしまう、原因不明の症状」 「詳しいね。光流ちゃんは異形頭になっちゃったらどうする?」 「もう話題を振らないで。あんたと喋る気ないから」 「ねえ光流ちゃん」 「何よ」  流月は空を見上げた。 「たくさん歩いたのに、お月さまがずっと一緒にいるよ。わたしたちについてきたみたいだね」  光流も同じように空を見る。真っ黒な空に浮かぶ満月は、先ほどよりも大きく見える。  光流は舌打ちをし、速度を速めて歩いていく。 「ひとりで月でも見てれば?」 「あっ、待ってよ光流ちゃん」  光流はひとりで角を曲がる。しばらく走ってから振りかえると、流月の姿はなかった。  光流は得意げに笑ったが、すぐに表情を曇らせた。視線を地面に落とし、立ちどまる。 「……また、言いすぎちゃったな」  光流は靴の先で道路に文字を書いている。  最初の文字は「ご」。次の文字は「め」。3文字目の「ん」を書こうとしたとき、ふと気になって空を見上げた。  月が見当たらない。  キョロキョロと探したが、どこにもない。  建物の陰に隠れたと思うのが自然だ。しかし光流は何故か不気味な予感がした。  光流は無意識にマフラーを握りしめた。吐息が彼女の唇を濡らす。 「……流月」  妹の名を呟いて、光流は来た道を戻る。  月明かりがない上に、何故か外灯も消えている。辺りは不気味なほど真っ暗だ。光流は民家の塀を頼りに慎重に進む。  曲がり角に到達する直前、小さな声が聞こえた。叫びのようにも聞こえた。  角を曲がろうとすると、その先から強烈な光が放たれる。  その刺激はあまりに強く、光流は顔を手で覆ってしゃがみこんだ。  光が少し収まると、光流は恐る恐る角を曲がった。そこには流月が立っていた。  流月が立っていた?  たしかに目の前の少女のコートやマフラーは流月の物だ。少し背中を丸めた不格好な立ち方も彼女らしさがある。  違うのは、彼女の首から上の部分がないことだ。  首から上には、人間の頭より少し大きな、丸い塊が浮いている。  その塊は鈍い光を放っている。 よく見ると塊の表面は凹凸があり、大きな模様のように見えた。その模様は、片爪を上げたカニにも、本を読む老婆にも、餅をつくうさぎにも見える。 「流月……頭が……頭が!」  光流は足を震わせて、その場に座りこんだ。 ==========  翌日。  学校から帰ってきた光流は、忍び歩きで廊下を歩く。  リビングに通じるドアの先から、カチャカチャと音がした。母親がキッチンで家事をしているのだと思った。  ためらいがちにドアを開けると、リビングのソファに布団がかかっているのが目についた。布団は大きく盛りあがっている。 「異常はなさそうだって」  キッチンから母親の声が聞こえた。光流はびくりと肩を震わせた。目線だけを動かして母親を見る。 「病院に行ってきたの?」 「最近はすごいわね。異形頭の専門病院が、うちから車で30分のところにあるんだから」  母親は少し間があった後、カップを持ってソファに近づく。そして軽やかな声で布団に向かって声をかけた。 「流月の好きなプリン作ってみたのよ。甘いカラメルソースもたっぷり。食べてみる?」  布団がもぞもぞ動き、中から弱々しい声が聞こえた。 「食欲ないよ」  声の感じは普段の流月と一緒。しかし布団がズレて出てきた頭は昨日と様子が変わらない。  丸くてぼんやり光る塊。餅をつくうさぎに似た模様。  流月の頭は、「月」の形になっていた。  異質な姿に、光流は思わず顔をしかめた。  光流は壁掛け時計を見る。時刻は16時の少し前。  光流はわざとらしく声を上げた。 「も……もう行かなきゃ。ピアノのレッスンに遅れちゃう」 「光流」  母親に名前を呼ばれ、光流の肩がビクッと跳ねた。ごくりと唾を飲み、あえて素っ気ない感じで返答する。 「何?」 「お父さんに車で送ってもらって。ひとりだと危ないから」  光流はぎこちなくうなずいた。 ==========  翌日。  学校の音楽室で、光流はピアノを弾いていた。  今は放課後だが、吹奏楽の活動がない日だ。光流はひとりでピアノに向かっている。  光流は素早く指を動かして音を連ねた後、力強い音を鳴らす。  最後の一音も力いっぱいに弾くと、少女は身体を大きく反らせた。  激しい演奏を終えた光流は、乱れた呼吸を整える。 「これだけ弾ければ、コンサートに来た客を圧倒させられるわね」  得意げにそう呟いて、光流はまたピアノに向かう。  演奏中、背後で小さな音がした。音楽室のドアが開いたのだと分かった。  光流は振りかえらなかった。生徒の誰か、あるいは先生の誰かが、光流の演奏を見にきたのだと思った。彼女が音楽室で弾いていると、よく見学者が来るからだ。  光流は指を小刻みに動かしながらも、音楽室に入ってきた人物の足音を聞いていた。歩幅が小さく、上履きの先を擦るような歩き方をする人だ。  光流は鍵盤から手を離した。 「……流月」  ピアノのそばに立っているのは流月だった。  彼女はパーカーのフードを頭に被せている。そこから覗く頭はやはり月の形だ。  じろじろ見てはいけない気がした。光流は何の意味もなく鍵盤を凝視する。 「流月、今日も学校は休むつもりじゃなかったの?」 「でも、光流ちゃんのピアノを聴きたくなって」  光流は鍵盤に指を置きなおしたが、何もせずにそのまま下ろした。 「弾かないの?」 「気が変わった」 「わたしは光流ちゃんのピアノ聴きたいな」  そう言って小首を傾げる姿はいつも通りの流月だ。  しかし頭は月。凸凹の月面に表情などない。  光流は何度か口をパクパクさせた後、音楽室から出ていった。  ドアを閉めたところで、光流は自分の手を握りしめる。 「どう接するのが正解なのよ」  光流は口の中だけで「ごめん」と呟いてみた。でも本人には言えなかった。  光流はしばらく、音楽室の前で立っていた。  光流は昇降口を出た途端、忘れ物に気づいた。自分の教室へ向かっていくと、隣の教室が騒がしいことに気がついた。  隣は流月のクラスだ。光流と流月は双子だが、クラスは別である。  覗いてみると、15人ほどの生徒が輪を作っていた。上履きの色を見ると、他学年の人もいるようだ。  輪の中心に流月の姿があった。  彼女は恥ずかしそうに身体を縮こめている。  光流はその様子を見て、安堵の息を吐いた。姿は変わっても、おどおどした性格は今まで通り。  光流はやれやれとばかりに首を左右に振った。 「ひとりじゃ喋れないのに無理しちゃって。私が間に入ってあげなきゃ駄目なんだから」  光流は教室に足を一歩踏みいれた。 「あ……光流ちゃん」  輪の中で流月が小さな声を上げた。  光流は思わず笑みを浮かべた。  だが流月はしばらく光流を見た後、野次馬たちに顔を向けなおした。  流月はそのまま野次馬たちと話しはじめた。恥ずかしそうにしているが、彼女は楽しそうに笑っている。  光流は教室のドアのそばで立ちつくす。  どうしたの、流月。  あんた、そんなことできる性格じゃないでしょ。  光流はフ、と小さく笑い、強がりを言った。 「なーんだ。私がいなくても平気じゃない」  軽やかに踵を返し、教室を出た。廊下は西日で赤く染まっている。  光流は視線を落とし、夕方の色に染まる足元を見た。 「どうしちゃったのよ、流月」  光流が自分の胸に手を当ててみると、心臓がチクリと痛んだ。  光流は窓の外を見る。  日の傾き始めた空に、月がひっそりと浮かんでいた。
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