第2曲 流月の急成長

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第2曲 流月の急成長

 学校の近くのピアノ教室から、見事な音色が流れている。  弾いているのは光流(ひかる)だ。隣ではピアノの先生が彼女の音を聴いている。 「素晴らしい演奏よ」  光流はクールに頷いた。しかし口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。  光流はあえて素っ気ない声色で、さりげなさを装って尋ねた。 「どこがよかったですか」 「難しい箇所はすべて完璧よ。テンポの速さでごまかさず、1音1音丁寧に弾けている。右手のアルペジオは滑らかで正確。あれだけの迫力を最後まで維持する姿勢は、他の生徒にも見習わせたいわ」 「そうですか」 「でも……」  言いよどむ先生を光流はジロリと睨んだ。先生は困ったように笑いながら、アドバイスを続ける。 「自分の技量を誇示するためじゃなくて、聴き手の気持ちに寄りそう演奏ができると、さらによくなると思うわ」 「またその話ですか」 「コンサートに来る人の目的って何だと思う?」 「優れた演奏技術に驚くためです」 「いいえ。ピアノを通して、自分の気持ちに気づくためよ。自分の在り方を考え、日々の生活をより充実させるために来るの」 「私の考えと何が違うんですか」  先生は困ったように唸った。そしてすぐそばに置いてあった楽譜を彼女に渡す。クロード・ドビュッシーの『月の光』だった。 「次は、聴いた人の気持ちにフォーカスして弾く練習をしてみない?」  光流は舌打ちをし、楽譜を突きかえす。 「こんな簡単な曲、小学2年生の時点で弾けました」  ピアノの先生は小さくため息を吐いた。そしてふと気配を感じ、ドアのほうを見る。  ドアのすりガラスの上方に、ぼんやりと光が映っている。その光はゆっくりと大きくなっていく。  入ってきたのは流月(るつき)だった。  先生はアッと声を上げ、後ずさりをした。先生はピアノのペダルを熱心に見つめだしたが、意味がないことはよく分かった。  流月はいつものように背中を丸めて立っている。表情が読めないので、何を考えているかは分からない。  先生は深呼吸を5回した後、わざとらしく笑った。 「心配しないで流月さん。親御さんから聞いているから」  流月は軽く頭を下げた。月の形の頭は肩の上で浮いているから、会釈の拍子に落ちてしまいそうだった。  先生は1オクターブ高い声で言う。 「流月ちゃんもピアノ弾いてみる? 気分転換になるかもよ」  流月はピアノを習っているわけではないが、光流の教室によく顔を出す。先生は流月に対してよく「ピアノ弾いてみる?」と言っていた。  光流はつまらなさそうに鍵盤上で指を這わせる。流月がこの提案に乗ったことはない。無駄なことばかりする先生を、本気で見限ろうかと思った。 「……弾きたいです」  流月がそう言うと、光流は反射的に立ちあがった。鍵盤に手をついたせいで、耳障りな音が鳴りひびく。  流月はきっと、断りたいけど断れないんだ。光流はそう思った。  フォローしようと思って光流が席を離れると、流月が代わりに座った。彼女は鍵盤にそっと指を置く。  だが流月は楽譜がないことに気づき、辺りを探った。すぐそばにあった楽譜を譜面台に置いたが、上下逆さまだった。光流は思わず笑った。  流月はまた鍵盤に指を置く。  静かで、ゆったりとした、情緒的な音が流れだす。  流月はほとんどピアノを弾かない。家のピアノを、光流が使っていないときに遊び感覚で触るだけだ。  思ったより弾けている。だが、よく音は外している。しょせんは素人。驚くほどのことではないと思った。  光流はまばたきをした。目を閉じたのは一瞬だったが、目を開けたとき、光流は暗闇の中にいた。 「何これ。停電っ?」  光流はピアノの先生や流月の名前を呼んだ。返答はない。  その代わり、低いうなり声が聞こえた。ピアノの先生や流月の声では絶対になかった。  光流はその声のほうを凝視する。  すると、黒い服を着た骸骨が現れた。骸骨はケタケタと笑い、手に持った大鎌を振りかざす。  光流は間一髪で逃げだしたが、骸骨はまだ光流を追ってくる。  真っ暗で、果てのない空間を、光流は必死に逃げていく。 「ごめんなさい! いい子になるから、許してー!」  光流が泣きさけぶと、空にぽっと明かりが灯った。  穏やかで優しい光だ。  光を浴びた骸骨の姿は霧に変わった。 「助かったの?」  光流は空の光を見た。万物を見守り、受容し、寄りそう光だ。  安心して。どんなときでも味方になるから。  月がそう言っているような気がした。  何故かまた涙が出てきた。今度は感動の涙だ。  天に向かって手を伸ばすと、遠くからかすかにピアノの音が聴こえる。  光流はその曲に覚えがあった。  ああ、これは。 「ドビュッシーの『月の光』……」  光流がそう呟くと、目の前の景色がピアノ教室に戻った。光流は目をパチパチさせた後、光流は宙に持ちあげた手を下ろした。 「何だったの、さっきの幻覚は」  光流は不思議に思って先生を見ると、先生は大粒の涙を流していた。光流はギョッとして後ずさりをする。  先生は自分の手を大切そうに撫で、ひとり言のように呟いた。 「お月さまの下で、クロにまた会えた。クロがまた、私の手に……」  クロは先生が昔飼っていたペットの名前だ。3年前に亡くなっている。  先生も幻を見たのだ。光流と同じように。  光流はピアノのほうを見る。弾きおえた流月は椅子の上で、背中を丸めて座っている。 「流月あんた、何したの?」  流月はいつも通りのだらしない姿勢で、黙って座っていた。 ==========  翌日。光流が昼休みに音楽室へ向かっていると、ドアの前に生徒たちが集まっていた。生徒らはみな、音楽室の中を覗いている。  光流は得意げに髪を掻きあげる。 「また私のファンが集まってるの? 練習の邪魔だからやめてほしいわ」  生徒たちを押しのけ、室内に足を踏みいれる。ピアノに向かおうとしたが、光流の足はピタリと止まった。  ピアノのそばに、ぼんやりと光る丸い何かがある。それはちょうど、人が椅子に座ったときの頭の高さに浮いている。 「……流月!」  光流は叫んだ。流月がピアノの椅子に座り、群がる生徒たちと会話をしている。  流月はしばらく談笑すると、鍵盤に手を置いた。かすかな音がゆったりと流れる。昨日と同じ、ドビュッシーの『月の光』だ。  光流はとっさに自分の耳を押さえた。そうしないと幻覚を見る気がしたからだ。  光流は必死に別のことを考える。昨日観たくだらない動画のことを考えた。  そうしている内に静寂が訪れた。目を開けると、流月が手を膝の上に置いていた。演奏が終わったのだ。  光流は不思議に思った。これだけ生徒がいるのに、誰も拍手をしていない。  その代わり、すすり泣く声がした。  光流の右隣の男子生徒がえずきながら言った。 「何であのとき、姉ちゃんにひどいことを言ったんだろう。まだ謝れるかな」  左隣や真後ろからも泣き声が聞こえた。音楽室の外からも。  拍手の代わりに、鼻をすする音、懺悔の声、感謝の言葉が聞こえてくる。  光流は流月に駆けよった。 「何があったの。説明しなさいよ」  そこまで言って、光流は違和感を覚えた。  流月が、背筋をピンと立てて座っている。いつものだらしない猫背ではなかった。  変化の理由を探ろうと、流月の顔をまじまじと見た。  月面の凹凸に何かを見いだそうとしたが、何の変化もない。  ゾワ、と背筋に寒気が走る。 「あんた……誰?」  異形の頭部を持ったそれは、自分の知っている妹と別の存在のように思えた。  しかし、周囲は誰も彼女を流月だと疑わない。父や母も彼女が流月だと思っている。  光流は自分の胸元を押さえた。  これは流月じゃない、と心臓が訴えている。それと同時に、これは流月だ、という絶対的な確信が、心臓の奥底に存在している。  異形の存在――もとい、流月は鍵盤に指を添えた。  ひとりの生徒がスマートフォンを取りだし、彼女の姿を撮影しはじめた。流月はカメラのほうに顔を向けた後、何も言わずピアノに向きなおった。  ドビュッシーの『月の光』が流れはじめる。  これ以上聞いてはいけない。そう思った光流は聴衆を掻きわけ、音楽室を飛びだした。  光流は廊下をでたらめに走っていく。職員室や家庭科室、化学室の前を通りすぎる。  光流が去った後、化学準備室から男性教師が出てきた。彼の目の下には薄っすらとクマが浮かんでいる。  男性教師は光流の去った方向を見つめる。  彼は手に『天文学のすべて』と書かれた本を持っていた。 ==========  半年後。  民家の窓辺にてるてる坊主が並んでいる。  しとしとと降る雨の中、傘を差した光流がひとりで歩く。  光流はスマートフォンを取りだした。  6月30日という日付が出る。同じく表示された時刻は16地40分。  スケジュールアプリを開くと、「16:00~ ピアノ教室」という文字が表示される。 「完全に遅刻ね」  今までの光流はレッスンをサボったりしなかった。しかしこの3ヶ月は、2回に1回しか行かなかった。  通りがかった家からテレビの音が聴こえる。  アナウンサーが流月の名前を口にする。 『黒戸(くろど)流月さんのコンサートは、収容人数5,000人のホールで行われました。チケットは早々に完売。施設の外にも人が集まり、一部道路では交通規制も行われておりました』  アナウンサーは興奮気味にニュースを続ける。 『黒戸流月さんは頭部が月の形になった「月の異形頭(いぎょうあたま)」です。3ヶ月前、彼女の演奏姿がSNSに投稿され、またたく間に拡散されていきました』  他の出演者が口を挟む。 『見た目が奇抜だから流行っただけ、なんて囁く人もいるようですが、彼女の本質は神秘的な演奏にありますね。彼女の曲を聴いた人は、幸せな幻を見ると言われています』 『ではさっそく、黒戸流月さんの演奏を流しましょう』 『あ、ハンカチを楽屋に置いてきた』 『私のをお使いください。涙なしにこの演奏を聴ける人はいませんから』  茶番のような会話の後、ピアノの音が流れだした。  光流は傘を捨て、ピアノ教室とは反対の方向へ逃げだす。どこまで逃げても、流月のピアノの音がついてきた。 ==========  再び時が過ぎ、木々が紅葉する時期になった。  光流は家のリビングのソファに寝転がり、ぼんやりとテレビを眺めていた。  この国一番の巨大なドームが上から映される。  そこにアナウンサーの浮きたつような声が被さる。 『1週間続いた黒戸流月さんのコンサートが昨日、ついに終わりました。7万人超の座席は連日満席。各国の要人も彼女に注目しており、公演スケジュールは10年先までいっぱいとのうわさもあります』  コンサートの映像がダイジェストで流される。どれもゆったりとした旋律が特徴の曲だ。  特に時間を使っているのは、流月が最も得意な曲。ドビュッシーの『月の光』だ。  コメンテーターが鼻をすする。 『すみません。あの映像を見ていたら、この業界に入ってすぐの大失敗を思いだしました。当時は自分自身を恨みましたが、今はそのときの自分に感謝したい気持ちです』  光流は舌打ちをし、テレビを消した。  有名なのは私のほうだったのに。  今は逆転してる。  それどころか……。  飛びおきて、ピアノへ向かう。  白鍵が蛍光灯を反射し、過剰な眩しさを放つ。 「うっ!」  光流は口を押え、ピアノのそばにうずくまる。  このところ、ずっとこの調子だ。ピアノに向かうだけで具合が悪くなる。 「こんなことしてる間に、流月はさらなる高みに……」  家の外でかすかな音がした。  また報道関係者かと思った。流月が有名になるにつれ、記者たちがしつこく迫ってきたから。  光流は身を固くした。  玄関の鍵が開いた。足音はゆっくりと近づいてくる。  目につく中で一番分厚い楽譜を手に取った。  ピアノのある部屋のドアが開く。  光流が丸めた楽譜を構え、飛びだすと……。  異形頭がいた。  いや、流月がいた。  光流は、流月の姿を久しぶりに見た。  流月は公演に飛びまわっており、ほとんど帰ってこなかった。  たまに学校に来ても、彼女は常にファンに囲まれていて、話しかける隙などなかった。  光流は楽譜を構えたまま、目の前の異形頭に尋ねる。 「何しに来たの」 「ピアノ」 「ピアノが何」 「聴きにきたの……」 「は?」 「光流ちゃんのピアノ」  そう言って流月は座布団を出して座った。あとはただ、黙って待っている。  流月はよくこの座布団に座り、光流の演奏を聴いていた。  光流は目の前の異形頭が、流月本人なのだと確信した。  しかしそれで何が解決するわけでもない。  光流は楽譜を床に叩きつけ、怒鳴った。 「どっか行って!」 「でも」 「あんたの顔なんて見たくない。あんたの声も聴きたくない!」 「でもここ、わたしの家だし」  光流は耐えきれなくなり、家を飛びだした。  必死に自転車を漕いでいく。  秋は日が沈むのが早く、またたく間に夜になる。  光流はときおり振りかえる。すると、空に浮かぶ満月が必ず目に入る。  流月が月の異形頭になったとき、本物の月はなくなったのかと思った。でもあの日以降も、月は何事もなかったように存在していた。  光流は懸命にペダルを踏む。  どれほど漕いでも、月は同じ場所にある。 「ついて来ないで!」  光流が吠えても、月は変わらずそこいる。  車輪が石に乗りあげ、転倒した。  耳元で虫の鳴く声がする。その声を聞いていると少しだけ落ちついた。  光流は仰向けになったまま、月に向かって手を伸ばす。 「月は毎年4センチメートルずつ、地球から遠ざかっている。……あんなにそばに見えるのに」  この話って本当かしら。  光流はそう呟き、月を掴もうとして手を振った。しかし宙を掻くだけだ。  ふと流月の姿が思いうかぶ。先ほど見た彼女の姿だ。  彼女の頬に紙切れがくっついていた気がした。  それは5×5センチほどあり、頬にくっつくにしては少し大きな紙切れだった。  よく考えようとしたところ、通行人が話しかけてきた。 「大丈夫ですか」  光流は通行人に支えられながら立ちあがる。  通行人は光流の顔をじっと見た。 「な、何」 「あなた……黒戸流月さんのお姉さんですよね?」 「ええ」 「自分、有名人のうわさ話を集めた記事を書いてまして。詳しく聞かせてもらいませんか、流月さんのこと!」  光流は目をぎらつかせる通行人の手を振りほどき、自転車に乗って走りだした。  光流の自転車の車輪が落ち葉を撒きあげた。  落ち葉は風に吹かれ、空に向かってどんどん上がっていく。  その様子はまるで、月の引力が葉っぱを引きよせているようだった。
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