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第3曲 明らかな異常
流月にさらなる変化が生じたのは12月。
街が鮮やかな飾りで彩られるころだ。
クリスマスコンサートの時期なのに、流月がよく家にいた。
絶え間なく続いたコンサートやテレビ出演などのイベントラッシュが嫌になったのかもしれない。流月は消極的な性格だったから。
流月に残った人間らしさに、光流は安心していた。
異変に気づいたのは、家族で食事をしているとき。
流月が箸を落としそうになった。彼女はよく物を落とすので、光流はまたかと思って気にしなかった。
だが流月の手から離れた箸は、何かに引きよせられるように上昇し――流月の頬にくっついた。
物理法則に反した光景に、光流は苦笑いをする。
「あんた、今度は磁石の異形頭になるつもり?」
月は天体だし、磁力より重力かしら。光流はそう思った。
流月は黙って下を向く。
頬についた箸を引きはがすと、流月は「ごちそうさま」と呟いて立ちあがった。
まだほとんど食べていないのに、彼女は足早に立ちさった。
光流も食事を中断し、流月の後を追う。
ピアノ部屋から音が聞こえてきた。
流月のお気に入りの曲、ドビュッシーの『月の光』だった。
彼女は自分の音に納得がいかないのか、何度も弾きなおしていた。
==========
それから1週間後。
流月は一切の公演活動を中止した。
大きなコンサートのチケットの払い戻しが発生し、人々は混乱した。
マスコミは理由を知るために、光流の家に殺到した。
夜に光流がほんの少しだけ外に出ると、物陰から記者が飛びだしてきた。光流は自分の家に逃げこむ。
光流は無意識に自分のコートの袖を掴む。グッと引っぱったせいで、袖についた大きめのボタンが取れそうになった。
呼吸を整え、流月の部屋の扉をノックする。
ゴソ、と布の擦れる音が聞こえた。
光流は勇気を出し、ドアを開ける。
ベッドの上に、がらくたの塊が浮いていた。
がらくた?
よく見るとそれらは、流月の部屋の物だった。
卓上時計。デスクライト。ぬいぐるみ。スマートフォンの充電器。筆記用具。ハードカバーの本。ブランケット。
その塊の下から、パジャマ姿の人間の身体が生えている。
頭部に塊をつけた存在に、光流は呼びかける。
「流月……」
光流が手を伸ばすと、袖のボタンが前方に引っぱられた。
袖のボタンは糸を千切って正面に飛んでいく。
ボタンは他の物たちと一緒に、塊にくっついた。
塊の隙間からは、光がぼんやりと漏れている。月面らしき凸凹もわずかに覗く。
「流月、あの……。お母さんが今、入院の準備をしてて」
「入院?」
「異形頭症候群の病院よ」
「わたし入院したくない……」
流月が首を左右に振る。その拍子に、床に脱ぎすてられていた服が彼女の顔に引きよせられた。
「その……顔に物がくっつく現象、原因が分からないんでしょ。だから行かなきゃ」
「ピアノは」
「ピアノを弾きたいの?」
流月は答えなかった。光流は窓のほうを見る。カーテンの隙間から、月明かりがかすかに差しこんでいる。
流月はぽつりと言った。
「昔はお月さまが嫌いだったな」
「え?」
「大きくて、お化けみたい。それがいつも夜空にいるんだよ」
光流は昔のことを思い出す。
ふたりが小学校1年生のときだ。流月が「お月さまが怖い」と言って大泣きした。その夜は満月で、いつもより大きく見える日だった。
そこまで思いだした後、光流は自分の頭を押さえる。
それから……どうしたんだっけ。どうして流月は、月を見て泣かなくなったんだっけ。
カーテンレールがギシ、と鳴った。
カーテンはレールごと外れ、流月に引きよせられる。長いカーテンが彼女の頭にぐるりと巻きついた。
流月はカーテンを引きずりながら立ちあがる。
「……ピアニッシモ」
「え?」
「鼓動……協和音……12月24日……」
流月は意味不明なことを口走っている。
突然、光流は何もない場所で転びそうになった。
見えない何かに引っぱられている。そう思った光流は慌ててドアに掴まる。
改めて床を見ると、ボコボコと激しく波打っていた。
その波の頂点は、ベッドに向かって尖っている。流月はここ数日、ベッドに横になってばかりだった。
光流はごくりと唾を飲みこんだ。
光流はおぼつかない足取りで、1階のピアノがある部屋に来た。
外見はピカピカだが、蓋を開けると細かい埃が舞った。
光流は鍵盤に指を置いてみる。
しかしすぐに、光流は吐き気を感じてうずくまる。
ピアノのそばの窓から見える空は真っ暗で、星がひとつもなかった。
==========
流月が入院して1週間が経った。
学校の人たちはのんきに、放課後の予定で盛りあがっている。
黒板に書かれた日付は12月24日。そういえば今日はクリスマスイブだった。
スマートフォンのスケジュールを見る。去年も一昨年も、この時期はコンサートの予定で埋まっていた。しかし今月は空白だ。
今日だけではない。最近はずっとスケジュールに何も書かれていない。
光流の机から紙が落ちた。乱暴に詰めこまれていたせいでくしゃくしゃだ。それは採点済みのテストで、ほとんど白紙だった。
教室の窓から外を見ると、校庭にはボールを投げあったり、外周を走ってトレーニングをする生徒がいた。
光流は壁の一点を見つめる。
勉強も、運動も、以前は誰よりがんばっていた。それはすべてピアノのためだ。勉強をすれば曲を奥深くまで知ることができる。力強い音を出すには体力もいる。
ピアノから離れた今、それらに何の意味もない。
それに今は、流月もおかしくなっている。
何かを楽しむ気力が湧かない。
教室内で、生徒たちがキャッキャと声を上げる。
光流はゆらりと立ちあがり、廊下に出た。
行く宛てがあるわけではない。ただ人のいないところを目指した。
化学室の前に差しかかると、目の前に男性教師が現れた。
流月のクラスの副担任だった。
流月が異形頭になってから、光流は彼女の周りの人に注目するようになった。自分のクラスの副担任は知らないが、流月のクラスなら知っていた。
男性教師は光流の目の前でバランスを崩した。その拍子に、彼の手から本が数冊こぼれ落ちる。
しゃがみこむ男性教師に、光流は駆けよった。
「どうしたんですか、土菱先生」
「すまない。連日、調べ物をしていたせいで……」
土菱先生は顔を上げる。彼の目の下にはひどいクマがあった。
土菱先生は何かを言いたそうに光流を見た。光流は気まずくなり、床を見る。
すると、土菱先生が落とした本のタイトルが目に入る。
『発展・天文学』『星の誕生と進化の先』『人類は月について何を知っているか』……。
「どうして天体の本ばかり。化学の授業に関係が?」
そう呟いてから、光流はある可能性に思いあたった。
「もしかして、流月について何か知っているんですか」
光流が土菱先生の顔を覗きこむと、先生は目を伏せた。その仕草で、光流は彼が何か重要なことを知っていると確信した。
光流は土菱先生の肩を揺さぶる。
「教えてください」
「光流さんには言えない」
「知りたいんです。だって私は……私は!」
その後に続く言葉は分からなかった。流月を救うためか。ただ自分が、「よく分からない状況にいる」というストレスから解放されるためか。
自分の気持ちが理解できず、光流は歯を食いしばる。
その様子を見た土菱先生は、観念したように微笑んだ。
土菱先生は化学準備室に光流を招きいれた。光流がドアを閉めようとすると、土菱先生から開けたままにするように言われた。
準備室の机には、いくつもの本が乱雑に置かれている。その本はどれも天体に関連したものだった。
土菱先生は机の上のノートパソコンを立ちあげながら、話しはじめる。
「流月さんは頭部の月の重力が強くなっているそうだね」
「原因は不明みたいですけど……」
流月の物を引きよせる力が高まっていることは、公に発表されていない。知っているのは家族と医療機関、そしてごく一部の教育者のみ。
土菱先生も副担任なので聞いているようだ。
「ではまず光流さん、質問だ。――空に浮かぶ本物の月。どのていどの重力か知ってるかい?」
「地球の6分の1だけですよね」
土菱先生は頷いた。
「月は本来、重力が小さい星なんだ。では、こちらは知っているかな?」
土菱先生はそばにあった本を1冊持ちあげた。その本の題名は『超新星爆発について』というものだった。
その単語を見た途端、光流は喉が詰まった。しかしすぐに冷静になり、淡々とした口調で回答した。
「超新星爆発は、星が自身の重力に耐えられなくなったとき、爆発を起こす現象のことです」
「何故そんなことが起こる?」
「エネルギー不足に陥った星は、一瞬で潰れてしまうからです」
「素晴らしい知識だ」
土菱先生は光流を褒めたが、顔は強張っていた。まるでその後に続く言葉を言いたくないように。
光流は突きはなすように言った。
「土菱先生はこう考えていますね。流月の頭の重力が高まっているのは、もうじき超新星爆発を起こすからだ、と」
「……鋭いね」
「あり得ません。超新星爆発を起こすのは質量の重い恒星です。月は恒星でなく衛星。その上、特別言及するほど重さがあるとは思えません」
「よく知っているね」
土菱先生はパソコンを操作し、ブックマークからサイトを開いた。
表示されたのは古いページだ。よく知らない言語だった。
光流が目をパチパチさせていると、土菱先生がページを日本語翻訳に切りかえた。
表示されたページタイトルは――。
「衛星の超新星爆発について?」
「どの本を読んでも書かれていなかった。論文にもなかった。だが探しつづけ、ようやく辿りついたのがこのサイトだ」
土菱先生は微笑んだ。笑うと、彼の目の下の隈がより目立った。
「……ここには何が書いてあるんですか」
「地球と同じ太陽系の惑星――土星には、「クロード」と呼ばれる衛星があった」
「それで?」
「しかしクロードは現存していない。超新星爆発に酷似した現象が、クロードに起こったせいだ」
「は?」
「その痕跡が今も土星の周りに存在すると、この記事に記されている」
「そんな話、どうやって信じろと」
「この記事を書いた者はかつて、天文学界で名のある人物だった。だが彼のかつての同僚も誰ひとり彼の説を信じなかった。僕も光流さんの担当医や天文学の専門家にこの可能性を訴えたが、誰も取り合おうとしなかった」
「記事を書いた人にコンタクトは?」
「取れない。存命ではないからだ」
光流は頭を押さえた。情報が多く、混乱してきたのだ。
原理も重要だが、もっと大事なものがある。今はそれを聞くべきだと思った。
「もしその話が本当だとして」
「うん」
「流月の頭の月も、同じように超新星爆発を起こすとして」
「うん」
「そしたら、流月はどうなるんですか」
土菱先生は唇を噛んだ。その仕草だけで光流は察した。
流月の頭の月がパチンと弾けるのだ。
彼女の頭が無事なわけがない。
ついでに胴体は人間のままだ。爆発が起きたら、身体だって無事ではない。
光流は呆然と宙を見る。
「流月、死んじゃうの?」
ふと、外から妙な音が聞こえた。
バキバキと、何かが壊れる音だ。
光流は窓を開けた。しかし何も見えない。
身を乗りだそうとすると、土菱先生に止められた。土菱先生は双眼鏡を使って窓の外を見た。
「……何ということだ」
「何が見えたんですか」
「君はクラスに戻りなさい。何かあったら担任の先生の指示に従うこと」
困惑する光流をよそに、土菱先生は廊下を走りだした。
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