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終曲 月の光
教室に行けと言われて素直に戻る光流ではない。
光流はひとまず校舎の外に向かった。
途中、ガリガリ、バキバキ、と嫌な音が外から聞こえた。
光流は時折うずくまって耳を塞ぐ。しかし、結局は前に進むことを選んだ。
校舎の外に出ると――光流は異様な物を見た。
学校の裏門の外に、高さ5メートルほどの山がある。その山は、さまざまな物体が集まってできている。
鉢植え。物干し竿。室外機。剥がれたコンクリート。カラーコーン。大小の無機物が集まって、ひとつの塊になっていた。
さびた自転車や壊れた洗濯機もある。これらは学校近くの空き地に不法投棄されていた物とよく似ている。
落書きだらけのゴミ箱は、異形頭専門病院のそばの自動販売機にあったものとそっくりだ。
その山は意思を持っているかのように少しずつ動いている。それは裏門を通ろうとするが、横幅があるため抜けられない。
しかし、門はバキバキと音を立て、地面からすっぽり抜けてしまった。そして見えない力に弾きよせられ、重厚な門は塊にピタッとくっついた。
植木。サッカーゴール。石。誰かが落としたプリント用紙。とにかく何でも引きよせて、塊の一部にしてしまう。
謎の塊は、わずかな時間で6メートルになった。
光流は建物の陰に隠れ、慎重にそれの様子を観察する。
すると――塊の真ん中あたり、スーパーマーケットの看板の上に、土菱先生が寝そべっていた。
土菱先生は苦しそうな顔で目を閉じている。
「どうして土菱先生が……」
光流の心臓はドクドクと不愉快に鳴る。
塊の上のほうから、わずかに光が漏れている。
しっとりとした輝きに、光流は見覚えがあった。
「まさかあれは――流月?」
流月はゆっくりと、しかし着実に光流のほうへ向かってくる。このわずかな時間にも流月は肥大化を進め、高さは8メートルを越えていた。
生徒たちは先生の指示に従い、大慌てで逃げている。あまりの混乱で、光流がいないことに気づく者はいないようだ。
光流は校舎の陰にうずくまり、両手で耳を塞ぐ。
すさまじい轟音が両耳をつんざく。それはまるで、流月の悲鳴のようだった。
「どうして流月が。あの子は何も悪くないのに」
光流は自分が彼女に言ってしまったことを思いだす。
グズ。邪魔。あんたなんて妹と思ったことがない。
光流の頬が涙で濡れる。
「悪い子は私なのに。ひどい目に遭うべきなのは私なのに」
バキバキ、と校舎が音を立てている。光流が背中を預ける壁も、先ほどまでなかった亀裂がいくつも入っている。
ここも時間の問題だ。
何度か深呼吸をすると、少しだけ気持ちが落ちついた。
光流は壁から顔だけを出し、流月のほうを見る。
無機物の山の頂上に、電子ピアノを発見した。どこかの民家にあった物をさらってきたのだろうか。
光流は深呼吸の後、陰から一気に飛びだした。その直後、隠れていた壁が破壊される。
光流は流月の重力に引かれるまま、宙を舞った。抵抗する余地もなく、流月が構成する塊に背中を叩きつけられた。
その場所は布類が集中していたので、気絶まではいかなかった。
風はすさまじい音を立てながら、流月の中心部に向かって流れている。空気でさえ重力から逃げられない。
当然、光流もまともに身動きが取れない。
光流がいるのは地上から5メートルていどの場所だ。ピアノがあるのは山の頂上。残りはたった3メートル。そのていどの移動も難しい状態だった。
それでも光流は力を振りしぼり、塊の上を這う。
ペットボトルや、パンのビニール袋、コンビニスイーツのカップなど、小さなゴミも多かった。クリスマスのパッケージが目についた。
よく学校帰りに目撃する、道端にポイ捨てされたゴミも、ペットボトルやビニールの包装やプラスチックカップが多かった。今日は流月がそのゴミを拾ってしまったのかもしれない。上手く言えない悲しさがあった。
やっとの思いで山の上に立つ。いつの間にか、高さは10メートルに達していた。3階建ての建物に匹敵する高さだが、安全のための柵や壁は存在しない。
頂上からは街の崩壊がよく見えた。異形頭の病院がある方角から学校にかけて、コンクリートが無様に剥がれている。
太い木の抜けた跡。流月に引きずられ、ボロボロになった道路標識。
学校も教室が丸見えだ。誰かが黒板に描いた絵しりとりは、描き途中のサンタクロースで止まっている。
だが動揺している暇はない。光流はピアノに向かってよろよろと歩いていく。
光流はピアノの蓋を開けた。
鍵盤を見た途端、喉の奥から不快感がこみ上げる。
「私、今……ピアノ弾けないんだった」
それでも光流は鍵盤に手を置く。しかし、何を演奏すればいいのか分からない。得意だった曲はどれもテンポが速く、指の動きが複雑だ。演奏から離れていた光流には敷居が高い。
下を向くと楽譜があった。流月のお気に入りの曲だった。
そのとき、光流は思いだす。
小学校1年生のとき。月が怖いと泣く流月に、自分がどうしてあげたのか。
――あのね流月。これ、月の曲なんだって。すっごく綺麗なんだよ。
――楽譜見せられても分かんないよ。光流ちゃん弾いてよ。
――ええっ。こんな難しいの弾けないよ。
幼い光流は、一度は無理だと断った。でもその後で猛練習をした。光流が何度も弾いてあげると、流月は月を怖がらなくなった。
「私はあのとき、流月のために弾いたんだ。自分以外の誰かのために、願いをこめて」
弾くべきなのはこれしかない。
あの日と同じ、ふたりにとって大事な曲。
「ドビュッシーの『月の光』……」
光流は目を閉じ、ピアノに指を置く。わずかに鍵盤を押し、かすかな、消え入りそうな音を出す。
ゆったり、静かに、繊細に音を紡いでいく。
ゴウゴウと風が鳴っているが、ピアノの音はちゃんと聴こえていた。
目を閉じたままで手を動かす。鍵盤は見なくてもいい。正確に位置は覚えている。
まぶたの裏に、幻が現れた。
どこかの街の裏路地だった。
光流は暗い道を歩く。隣にいるのは流月。異形頭になる前の、背中を丸めて歩く流月だ。
建物の隙間から大通りが見えた。そこには巨大なクリスマスツリーが飾られていた。
流月は建物の隙間を縫い、ツリーのある通りへ向かっていく。光流は後ろを追いかける。
通りには人々が集まり、ツリーを眺めていた。
光流が見上げると、ツリーの上に満月があった。それはまるで、ツリーの頂上に施された飾りのようだった。
月は穏やかな光を放ち、人々を優しく見守っている。
流月が光流の手を握った。光流は少しためらったが、握りかえした。
流月の手はぽかぽかと温かくて、光流は鼻の奥がツンとした。
光流と流月は手を取りあって、長い間、光る月を眺めていた。
「ごめんね流月。ごめんね……」
そう呟いて、光流は最後の音を鳴らす。透きとおった音が長く響き、空間に解けていった。
光流の頬を流れる涙が、足元に落ちる。すると、そこから光が漏れた。光流はその柔らかな明かりに見覚えがあった。
「流月が光ってる?」
そう思ったとき、足元が揺れた。
無機物の山が小刻みに震えている。
何事かと思ったら、急に地面がガクンと下がった。さらに下を見ると、塊を構成していた物が剥がれはじめた。
流月の重力がなくなり、今度は地球の重力に引っぱられたようだ。
それはつまり、こういうことだ。
「落ちるー!」
気づいたときには落下を始めていた。地上までの距離は12メートル。光流はぎゅっと目をつぶる。
すると、温もりに包まれた。目を開くと、土菱先生が光流を抱えていた。土菱先生はガレキを飛びうつりながら下っていく。
土菱先生は校庭にひらりと舞いおりた。その背後で、山を構成していた物体がガラガラと崩れおちる。
土菱先生は光流をお姫さま抱っこの形で抱えたまま、彼女の顔を覗きこむ。光流は思わず顔を赤らめた。
「せ、先生」
だがこんなことをしている場合ではない。
土菱先生が光流を下ろす。光流は残骸の中を走った。
中心部に少女が横たわっている。月柄のパジャマは流月の物だった。机が覆いかぶさっているせいで、頭部の様子は分からない。
「流月っ!」
土菱先生が机をどかした。すると、流月の顔が出てきた。
異形頭になる前の、大人しそうな顔だ。
光流が覗きこむと、流月が目を閉じたまま呟いた。
「クリスマスケーキ、クリームいっぱいにしていい……?」
光流は思わず笑顔になった。
=====
街は大きな被害を受けたが、幸い死人は出なかった。
怪我をしたのも土菱先生だけだった。光流を抱えて飛びおりたときに、実は足をひねっていたらしい。
街の修繕費用や近隣住民への迷惑料は、国から補助金が一部支給された。だがほとんどは流月が負担した。流月が大規模なコンサートや海外セレブ宅の演奏で儲けたお金はなくなったが、彼女は気にしてなさそうだった。
光流は大金が出せない。だから父親や土菱先生と一緒に、民家の修復を手伝ったり、道路に落ちたゴミを拾った。長い間忘れていた何かを拾っている気持ちになった。
メディア関係者は数日ほど、流月の問題を取りあげようと躍起になった。しかし次々と天才的な異形頭たちが出現したことで、世間は流月への関心をあっさりと失った。
==========
桜が咲きはじめ、ふたりは高校3年生になった。
光流は進路相談の紙に、最難関とされる音楽大学の名前を書いた。
そして流月は……。
「え、流月も同じ大学に行くのっ?」
花びらが舞う校舎の前で、光流は大きな声を上げた。
流月は自信なさげに尋ねる。
「駄目、かな」
「無理でしょ。だってあんたは……」
光流は悪口を言いそうになった。
流月は人間に戻った途端、異次元とも言える演奏ができなくなった。
だが、異形頭のときに練習したお陰で「上手い部類」にはなっていた。
それでも否定したい気持ちが湧いてきたが、光流は思いきってこう言った。
「いや、流月ならできるわ」
流月の顔がパッと明るくなった。
「よかった。同じ大学に行けば、光流ちゃんのピアノがいっぱい聴けるもん」
「そんな理由?」
「でもわたし、まだまだ高校生でいたいな」
「弱気になっちゃ駄目よ。日本一の音大に挑戦するんでしょ」
「そうじゃなくて」
流月は身体の前で恥ずかしそうに両手をこすりあわせた。そして、思いきったように言う。
「実はわたし……土菱先生のことが好きなの」
「えっ?」
「わたしが危なかったとき、先生も助けにきてくれたでしょ。あれからずっとドキドキしてて」
流月はぽっと顔を赤らめる。
光流はあんぐりと口を開けた。
光流は流月を助けた日のことを思いだす。土菱先生は光流のことを転落から守ってくれたのだ。お姫さま抱っこで。
光流は自分の胸を押さえる。
光流もあのときからずっと、胸の鼓動が止まらないのだ。
「だ、駄目よ……」
「どうして?」
「先生とつきあいたいなら私とピアノで勝負しなさい!」
光流は流月に向かってビシッと指を差した。
流月は変な声を出す。
「ふええっ?」
「課題曲はベートーヴェンのピアノソナタ『月光』。より多くの人を感動させたほうが勝ちよ」
「月光って……『月の光』と名前は似てるけど、全然違う曲だよ」
「その中で最も高い技術が要求される、第三楽章で勝負よ」
「難しい曲は光流ちゃんの得意ジャンルでしょ!」
光流は足早に歩きだす。その後を光流が「待ってよ~」と言って追いかける。
光流はしばらく歩くと立ちどまり、流月を待つ。流月が追いつくと、光流はまた歩を進める。
校舎の2階の窓から、土菱先生が顔を覗かせる。双子のやり取りを見て首をひねる。喧嘩の理由が分からないらしい。
土菱先生はそのまましばらく双子のことを、上から優しく見守っていた。
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