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今日は朝から世界が暗かった。曇りの日だ。雨が降りそうな天気だけど、実際には降っていないように思えた。雨粒の音は聞こえない。そして雨の日の朝というのはもっと静かだ。
別に雨が降っていようがいまいが、僕には関係ないのだけど、芳根さんには関係があるようだった。雨が降っていない曇りの日、彼女はいつも僕のアパートに来た。
それは決まって朝の9時半過ぎだった。僕は朝の7時に起き、顔を洗って髭を剃り、歯を磨いて、朝食を軽く食べた。それから僕は卒論の続きに取り掛かった。
彼女を待っているわけではない。待っていて来なかったらより淋しい気持ちになるし、彼女を待つという行為を生活に入れ込みたくなかった。そういうところから関係というものは破綻していくのだと思う。いつか終わりが来るなら自然に、例えば雨が二人を別つように消滅したい。
曇りの日はいつも気分が滅入る。僕は午前中なのに蛍光灯がつけられ妙に明るい教室が嫌いだった。教室がそんなふうに光るのは大抵雨の日だったけど、雨は嫌いではなかった。嫌いなのは曇りの日だ。
僕は日当たりが悪く薄暗い室内を見渡して、電気をつけようかと1分ほど逡巡した。しかし結局電気はつけずノートPCのディスプレイの明るさを下げた。その方がきっと都合がいいと、この前の曇りの日と同じことを思った。繰り返している。
曇りの日はなぜかいつも僕は家にいる。いまはバイトもしていないし、大学3年にはすべての単位を取り終えたので基本的には授業も週に1回の研究室のミーティングしかない。それでも研究の実験などで週に2度、3度は大学に行く。今週だってそうだ。明日から3日間はずっと研究室にこもることになるだろう。
この関係を初めて半年になる。それなのに曇りの日に彼女が来なかったことはないし、僕がこのアパートにいなかったこともない。
9時37分にチャイムが鳴り、僕は腰を上げる。それから玄関の前まで行って立ち止まりドアの覗き穴から外の様子をうかがう。芳根さんであることはチャイムの押し方でわかっている。彼女の押すチャイムは細い糸のようにこの部屋を満たしすように鳴り響く。それでもこうして穴を覗くのは一種の儀式のようなものであり、日常的な僕の癖でもあった。
覗き穴から見える彼女の姿は、いつも虚ろでどこか遠くを見ているようであった。長く黒い髪が茶色いコートを侵食するみたいに張りついていた。
「どうぞ」
僕はそう言い、彼女をベッドと床に置かれた小さな机しかない部屋に招き入れる。彼女は開かれたままのノートPCが置かれた机の前に座り、僕はベッドの上に腰を下ろした。外から車のエンジン音が聞こえて遠ざかっていった。彼女は小さくため息を吐きだして、おもむろにコートを脱ぎだした。
「卒論?」
コートを自らの横に折り畳み彼女は言った。中は薄手のシャツに淡い青色のスカートを履いていた。
「そうです。研究室内の締め切りがもうすぐなんです」
「邪魔しちゃったかしら」
「もうほとんど書けてるので」
「優秀なのね」
「心配性なだけです」
彼女はふふっと笑った。その顔は彼女のどんな表情よりも僕の胸を強く締めつけた。まるでその冷え切った色の白い手で心臓をぎゅっと握られているようだった。僕はこの人のことが好きだと思った。これまでもこれからも何度も同じように思うのだろう。そう思うと泣きだしてしまいそうなくらい淋しくて心地いい。
「どんなことをやってるの?」
「芳根さん文系ですか?」
「そう、文系」
「簡単に言うとAIを使った画像認識です。僕がやってるのは人の顔の認識で、その人の過去の顔といまの顔の識別をやってます」
ふうん、と彼女はあまり興味がなさそうに僕の論文に目を向けた。マウスホイールをひかえめにカタカタ回し、びっしりと文字や画像が敷きつめられた白い紙を動かしている。
「それは例えば、過去のその人の写真から、いまのその人の顔を予測するってこと?」
「そんなことできませんよ。僕のはあくまで今と昔の2つの写真を並べて同一人物か判別するだけです。精度は80%くらいですけど」
「そうなの。ずいぶん難しい研究をしてるのね」
「そんなことないです。すごいのはAIですよ。僕はそれを使ってるだけです。もしかして、会いたい人でもいるんですか?」
彼女は小さく息を吐いて口をつぐんだ。何か遠い昔の記憶を思い返しているように見えた。彼女の中にささやかな湖があって、それをぼんやりと眺めている。彼女は時々そんな顔をする。僕と寝ているときやそれが終わった後、そして帰るとき。初めは旦那さんのことを思っているのだと思ったけど、それもどうやら違うようだった。その表情をするとき彼女は孤独だった。深い森の中にひっそりと生まれた湖を一人でただ感じている。
「いるわよ。そりゃあ30年も生きればね」
僕はどうしてこんなに淋しいのだろう。どう生きれば淋しくないのだろう。愛だとか恋は少しも積もっていかないのに、淋しさだけが降り積もる。それはまるで雪のように儚くて、冷たくて、美しい。曇りの日は雪を思い出させる。こんな日本の真ん中でも年に数度は雪が降る。雪が降るとあの日を思い出す。あの日からもう10年近く経っている。それなのに僕はあの日にずっと囚われている。
彼女の指が僕の耳に触れた。とても冷たかった。僕の熱がどんどん彼女に吸い取られていくような気がした。彼女は自らの額を僕の額につけた。額はそこまで冷たくはなかった。彼女は目を閉じている。僕は目を閉じる。好きだと強く思う。そのろうそくの火のような熱に積もっていた雪が融ける。彼女が唇を当てる。しんしんと淋しさが降り積もる。
「芳根さん」
唇を離した彼女に言う。彼女の顔は病的なまでに白く見える。雪女だとか雪の精みたいだと思う。でも目は潤んでいて、雪でできた身体が融けだすのは目からなんだと思った。好きだと僕の心は言う。これは恋だ。これが恋だと言う。
――愛しかわからないの。と僕の中で誰かが言った。
これが愛ならこんなに淋しいわけない。
「僕、好きな人ができたんです」
「恋人じゃなくて?」
僕はうなずく。彼女はそっと僕の耳から指を離して「そう」と言った。僕はそのまま立ち去ろうとする彼女の腕をつかむ。細くて柔らかい水のような腕だった。
「待ってください。本当に待って」
僕が腕を離すと彼女は立ったままこちらを向いた。僕は見上げるように彼女の表情を探った。怒ってもいない、悲しんでもいない、喜んでもいない、いつもの彼女の顔だった。思い返せば僕はいつも彼女のことを見上げていた気がした。
「どんな子なの?」
「同じ研究室の人です。背が僕より低くて、髪が短くて」
「外見ばかりね」
「そうですね。あまり深くは知らないんです。正直名前も覚えてません」
「それなのに好きなの?」
「そうですね。変ですかね。僕は好き以外の感情を持ち合わせてないんです。でもそれは芳根さんに対してもそうです。僕はいまでも、たぶんこれからもずっと芳根さんのことが好きだと思います」
彼女は何も言わず、ただじっと僕を見ていた。丸い2つの黒い瞳が夜の海のように静かに揺れていた。
続く言葉が出てこない。出てくるのは意味のない仮定と現実味のない理想だけだった。
「写真撮らせてください」
「写真?」
「実験のデータがあと1人分足りないんです。あと、次来るときでいいので昔の写真もください。できれば中学生とか高校生くらいの」
「わかった」
僕は立ち上がり、スマホで彼女の顔写真を撮った。撮り終えると彼女は着てきたコートを羽織ってすぐに靴を履き始めた。僕はその様子を後ろでただ見ている。
「写真忘れないようにするわ。中学生のときのでいいのよね」
「はい、ありがとうございます」
彼女がドアを開けると外ではぱらぱらと雨が降っていた。僕が傘を貸そうとすると、彼女は小さなカバンの中から折りたたみ式の傘を取りだした。
「傘持ってるんですね」
「ええ、いつも持ち歩いてるの。濡れたくないから」
彼女は振り向かずに僕の部屋をあとにした。ドアが音を立てて閉じ、鍵をかけた。僕はそれからしばらくそのまま立ち尽くしていた。雨の音がした。
* * *
二日後の朝、めずしく郵便が届いた。僕にはそれが彼女からの写真であることがすぐにわかった。茶色い封筒には丁寧な文字でここの住所と僕の名前が記されていた。僕はハサミを使い慎重に中から一枚の写真を取りだした。手紙のようなものを期待したけどそんなものはなく、写真にもメッセージのようなものは何も書かれていなかった。
写真は卒業アルバムのデータを印刷したもののようだった。だったらデータのまま貰えばよかったと少し後悔する。僕の嘘なんて初めから彼女にバレていたのかもしれないと思った。実験は全て終わっているし、そもそもこんな画質の写真では正確に判別できるかわからなかった。僕は黒いセーラー服を着たおさげの女の子を見てため息をついた。
僕はこの前撮った写真とこのセーラー少女の画像をパソコンに取り込み、プログラムを起動させる。判別には数分かかった。僕はその間、芳根さんのことを考えた。もう二度と会えないのだろうか。どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。
結果は『不一致』だった。念のためもう一度やってみるが、結果は変わらずだった。無機質な黒い画面に小さく「不一致」という文字が表示されている。
今日も雨が降っていた。この雨がもうじき雪に変わるのだ。ろうそくの火を絶やすわけにはいかない。
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