水底にて、残響

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──諦めと後悔ばかりが澱んだ水の中に満ちている。太腿あたりまでの水位のそれは脚で掻き分ける度に、ばしゃ、ぼしゃ、と濁った水音を立てる。跳ね上げられた水は脚に絡みついて黒衣を汚し、どろりと滴ってまた水の中へと還る。水は凍るように冷たくなく、妙に生温い。人の肌に似通った温度の水に足元へ縋りつかれているかのような感覚が不快で、纏わりつくものを蹴り上げて前へと進んだ。 覗き込めば暗い、昏い、くらい水底。 水を掻く大きな音に驚いて水面から一斉に蝶が飛び立った。澱んだ水の名残を纏わぬ羽は薄明かりを受けて美しく煌めき、手を伸ばそうとした俺の腕は空を切って水面へと叩きつけられる。ざらりとした水の底を浚う指先を厭い手を引こうとして──力強く、引かれた。水底から。 ずるり。 「──……!!」 ひ、と。喉の奥で引き攣った悲鳴が漏れる。俺の手を掴む手指は男、否、少年のものだろうか。骨格の良く分かる成人男性のそれに非ず、節や爪の形に未だ幼さを残した手であった。その手は生温い水の中にあっても明確に分かるほど冷たく、間違っても生者の肉の質感ではない。 少年の指先が、俺の指先と絡み合う。 「──」 二の腕には鳥肌が立ち、歯の根が合わない。 ──ふ、と。生暖かい風が吹き抜けた。 その瞬間、周囲の空気にさざめく笑い声が満ちる。 「──……っ!」 人の気配などしないはずのそこで聞こえた声に、驚いた拍子に膝から崩れ落ちた。半身が生温い水の中に浸る──そのとき。足首を、太腿を、ふくらはぎを、服の裾を。温度のない無数の手が掴んだ。 「──っ、ぁ、」 絞り出した声はみっともなく震えていた。 しかしそれ以上に、俺には気になることがある。 ──……この、笑い声は。 『やっと』 『きづいてくれた』 『ずっとおれたちは』 『ここにいたんだよ』 『みてた』 『みてた』 『おまえをみてた』 『まっくらで、あたたかい、このばしょで』 ──幼い頃の自分の声が、頭蓋を反響する。 鳴り止まないそれは、何度も、なんども繰り返す。 気付かなかったことは罪ではない、 忘れていたことは悪ではない。 ただ、ただ。自分たちは確かにここに居たのだと。誰かに、俺に、気付いて欲しかっただけだったのだと。 ざわり。 肩に、頬に、腕に、背中に。飛び去ったはずの蝶が無数に群がる。指先から温度が凍っていく。 触覚が絶えていく。味蕾が麻痺していく。鼻腔には何の香りも感じられない。視界の明度が下がる。 「──」 暗くなる、昏くなる、冷たくなる。 身体の変化に反するように脚元の水だけが温かい。 心地良い、心地良い。ああ、俺も、ここに還るのか。 数多の自分を押し隠して水底に沈めたように。 俺も、また、ここに還る。 『おかえり』 『おかえり』 『おかえり』 ──ここは数多の過去の自分が水葬された場所。 そこに生命の息づきは感じられない。 ひたすらの静寂と、止まった時間が澱んでいる。
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