Darling

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 蒸し蒸しと湿度の高い夜。ここは、初めて降りた駅だ。  左右を見渡したけど、なんてことはない。  ピロピロと入店音を鳴らしているコンビニがすぐそこにあって、狭い道路には交通量も大して多くない。強いて言えば、通行人はやはり、駅名の通り大学生の割合が多いのだろうけど、もうこの時間だ。大勢が駅に押し寄せて来るようなことはない。  ひたすら真っ直ぐ進んで行くと、綺麗に舗装された広い遊歩道が伸びて、街路樹が等間隔に並んで出迎えてくれた。  球場までの広大な敷地に併設された公園が見えて来た。大丈夫、道は合ってる。あと五分もすれば到着しそうだ。早く行かないと、練習終わっちゃうかな。  どきどき、緊張で落ち着かない足を進める。  広瀬さん、仕事してるところもかっこいいけど、野球してるところもかっこいいんだろうなぁ。どんなユニフォームなんだろう。  ちらっと、ちらっとだけ、一目見られたらそれで。  ばくばくしながら、あと数分で見れる広瀬さんの姿を想像する。  パンプスの音が鼓動と連動するようにコツコツと響いた。    広瀬さんは、私に気づいてくれるかな……。いやいや、プレイ中なんだから気づかないよね。いいんだ、それでも。一方的に、一目見たいだけだもん。  でももし、もしよ? 広瀬さんが私に気づいて話しかけてくれたら? あーなんて言おう! 「観に来ちゃいました」とか?  それで他の先輩方もわらわらと来て、「え、広瀬のとこの新人ちゃん?」とかいって、広瀬さんに懐いている新人として認知の輪が広がっていったらどうしよう! 照れる!  そこまでは考えてなかったなあ!  あれ?  ふと、ある考えが過ぎり、足を止めた。  ……野球部の練習って、こんな手ぶらで観に行っていいのかな?  社会人だよ? ましてや私は新入社員だよ? 何か差し入れをすべきなのでは……?  困った。何の予備知識もない。  普段、練習グラウンドは遠くて諦めてたけど、今夜は大学野球部との合同練習がこの球場であるって聞いて、これはチャンスと思った。  広瀬さんの会社外のお姿を一目見たいその一心で、勢いだけで来てしまった。  何が常識? どうするのが相場?  手ぶらで行って、「はん、手ぶらかよ」って先輩方に思われたら恥ずかしくない?  少なくともイイ女認定はもらえないよね?  え、でも、持って行くとして何を?  もうここまで来ちゃったんだから、今さら洒落たものなんて用意できないし、それに、全然渡せるチャンスすらないのかもしれないよ?  いや、そもそも何も持って行かなくていいものかな?  かえって邪魔になってしまう?  どうしよう。どうすれば?  すれ違う通行人に聞くわけにもいかず、入社してからの相談相手である同期のみんなにもこのことはまだ話していない。社内報にも、そんなことまで載ってなかった。  急激に不安が襲い、前にも後ろにも進めない。次第に沸騰していく頭が、「んー……無いよりはマシ!」という結論を噴射した。    もう少しで拝める広瀬さんのユニフォーム姿のことはいったん我慢し、ゴール目前まで歩み進めていた遊歩道を早足で戻った。   「あざした〜」  大学生バイトの店員さんと、私と入れ替わりに来店したお客さん、ピロピロと鳴る入店音まで、「それえ? センスねえなあ」と鼻で笑ってくるようだ。どうだろう、間違ってはないよね。  やばい。重い。汗が……。  2リットルのスポーツドリンクを二本持っているせいで指がちぎれそうになりながら、もう一度広瀬さんのいる球場へ向かった。
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