1 あの子そっくりな女

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1 あの子そっくりな女

 詩織が死んだ。  亜美の頭は、その現実を受け入れることができずにいた。棺桶の中に横たわる親友の目は固く閉じたまま、もう二度と開くことがないのだ。 「どうして? なんで、こんな……ッ!」  気がつくと亜美の瞳からはぼろぼろと熱いものがこぼれ落ちていた。他の参列者も一様に、沈痛な面持ちで詩織の死を悼んでいる。 「……まだ若いのに、交通事故なんてね」 「自分から道路へ飛び出していったみたい。ひどく慌てた様子だったって聞いたけど」 「付き纏いに遭っていたそうよ。たぶん会社帰りにストーカーに襲われて、逃げている途中で」  ひそひそとした話し声が、亜美の耳に入ってくる。それがなおさら、亜美の心を傷つけた。  小学生の頃から、詩織は亜美にとってかけがえのない親友だった。  詩織は目立つのが嫌いで、いつも教室の片隅で本を読んでいる物静かな女の子だった。だから一見地味な印象しか受けないのだが、その透き通るような白い肌は美しく、黒目がちな瞳と長い睫毛、艶やかな髪、薄桃色の小さな唇は、まるで人形のようでとても愛らしかった。  そして何より、彼女は聡明で心の優しい人物だった。亜美が落ち込んでいる時には傍で励ましてくれたし、亜美の初恋を応援してくれたこともある。  高校からはそれぞれ別の学校に進学したから、会う回数は減ってしまった。しかも彼女は高三の時に突然県外の高校へ転校してしまった上、忙しさのあまりなかなか連絡もとれなくなってしまった。  それでも、亜美は彼女を忘れたことはなかったのに。 「詩織ちゃん……詩織ちゃん……ッ!」  涙でぬれた声で彼女の名を呼ぶと、亜美は両手で顔を覆いながら泣き続けた。棺の中の彼女は何も答えてはくれず、静かに目を閉じていた。  詩織は仕事を終えて家路につく途中で、車にはねられて死んだ。目撃者の話によると、彼女はひどく錯乱した様子で道路に飛び出してしまったのだという。よほど恐ろしい目に遭ったのか、ドライブレコーダーに記録された映像には何かに怯えて走る詩織の姿が映っていた。  そして近くの暗がりの中に、慌てながらどこかへ逃げていく人影があったという。  詩織は二十四歳という年齢で、その生涯に幕を閉じてしまったのだ。  もしも死んだ人間を生き返らせることができるのなら、何を犠牲にしても彼女を助るのに。  人を殺せと言われればできる。  死ねと言われれば、喜んで命を差し出しただろう。  詩織のために、自分はなんだってできるはず。  それほどまでに、彼女は亜美にとって大切な存在だったのだ。 「――み、亜美。大丈夫?」  隣から聞こえてきた声に、亜美は我に返る。運転席にいた颯真が、心配そうな目でこちらを見ていた。 「ごめん。なんでもないよ」  亜美が答えると、颯真は安心したように微笑んだ。ちょうど信号が青になり、車が動き出す。 「さっきから話し掛けても反応がなかったから、具合でも悪いのかと思った」 「ちょっと考え事してただけだよ」 「そっか。ならいいけど」  颯真は前を向いて運転をしながら、少し悪戯っぽい口調で言葉を続けた。 「てっきり俺が疲れさせちゃったせいかと思って」 「へ?」 「昨夜の亜美、すごく可愛かったからさ。俺もつい調子に乗っちゃって」 「ッ!」  亜美は恥ずかしさに頬を真っ赤に染めてしまう。 「ちょっと……もう、何言ってるの!」  つい大きな声を上げてしまうと、颯真は楽しそうに笑った。顔を背けてわざとらしく拗ねてみると、彼はごめんごめんと謝った。 「俺は幸せ者だよなぁ。こんなに素敵な奥さんと毎日一緒に過ごせるんだから」 「またそういうこと言う」  亜美は照れ隠しに小さく息を吐く。 「……私も、幸せだよ」  小さな声で呟くと、颯真は嬉しそうに目を細めた。  沢辺颯真と初めて出会ったのは三年前――詩織の通夜のことだった。  突然の親友の死に取り乱し、さめざめと泣いていた亜美に優しく手を差し伸べてくれたのが彼だった。颯真は詩織の兄と同じ大学出身で、詩織とも多少の面識があったらしい。  彼が慰めてくれたのをきっかけに二人は親しくなり、ほどなくして交際を始めた。それから一年後には籍を入れ、今は幸せな結婚生活を送っている。  颯真はとても良い男だ。顔立ちが整っているということもあるが、彼は明るくて優しい性格をしており、亜美を大切に扱ってくれる。家事もよく手伝ってくれるし、仕事も真面目に取り組んでいて収入も安定していた。  時々ちょっとした意地悪を言うこともあるけれど、それが彼なりの愛情表現だということは亜美にもよくわかっていた。  きっと詩織が、自分たちを引き合わせてくれたのだ。  詩織が亡くなってしまったことは悲しいけれど、颯真と巡り会えた運命には素直に感謝していた。 「にしても、あの先輩が結婚してたとはなぁ」  颯真はしみじみと呟く。 「将斗さんにも、いいご縁があってよかったね」  亜美は相槌を打ちながら、これから会いに行く人物に思いを馳せた。  颯真の言う先輩とは、詩織の兄である水木将斗という人物のことだ。颯真の大学時代の先輩で、社会人になった今でも二人は親しい間柄だ。  将斗は妹を溺愛していたから、詩織の死後はひどく気落ちしてしまい、まるで抜け殻のようになっていた。最後に彼と会ったのは亜美と颯真の結婚式に出席してくれた際だったが、その時もあまり元気がない様子だった。  だがそんな彼も最近になってようやく立ち直り、いつの間にか結婚していたというのだから驚きだ。 「せっかくなら式くらいあげればいいのに、籍を入れただけなんだって。でもまぁこうして家に招いてくれたわけだし、今日は俺らで盛大にお祝いしてあげよう」  楽し気に笑っている颯真に、亜美も微笑みで返した。  将斗のことは小学生の頃から知っている。詩織の家に遊びに行った時、よく顔を合わせていたのだ。  あの頃の亜美は、彼に対して淡い想いを抱いていた。もっとも、亜美の幼い恋心は成長するにつれて自然と消えてしまい、高校生になる頃には思い出の一部として心に留める程度のものになっていたのだが。  かつて憧れていた人の結婚に、少しばかりの寂しさはあった。  けれどそれ以上に亜美は喜びを感じていた。詩織の死をきっかけに深い悲しみに沈んでいた将斗に、支えとなってくれる人が現れたのだ。  きっと彼はこれから、素敵な人生を歩んでいくのだろう。だから亜美も、彼の幸せを祈りたいと思っていた。
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