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イシハは快活な十六歳の少女だった。薄青色のレースを重ねた『海底の国』の衣装は、彼女の少し焦げた色をした健康的でなめらかな肌によく生えていた。
黒真珠色のつやのある髪を、つむじの辺りできつく結び、みつあみにして背におろしている。機嫌の良いときは、その髪のすじに、桜色の貝殻が飾りとして散らされる。
広い富士額は、薄暗いこの世界でも照るようだった。無駄な贅肉ひとつない体を、まぶたを閉じてひらりひらりと三拍子のリズムをとって、海を泳ぐエイのように踊らせるのが、仕事から解放された束の間の彼女のたのしみであった。
きゅっと足首と手首で萎むレースのたわみが揺れる様を、踊る彼女を見かけた国の者は「海の中に咲く青い花」と例えて、仕事の手を止めて楽しんでいた。
特に終わりにうっ、と突き出したくちびるの先まで右手を挙げて、人差し指と親指の腹を合わせて円を描くポーズが、彼女の踊りの特徴であった。
海の中に生み出される、小さなちいさな太陽が。
イシハの暮らす国は、深海の底にぽっかりと空いた大きな洞の中にあった。
『海底の国』。
国を覆う壁は、長い間海水で磨かれた、なめらかな黒い石の肌が複雑な凹凸を描いているのが特徴である。どこか怪物の胃袋のようで恐ろしい形状をしていたが、イシハにとって生まれ育ったそこは庭で、過ごしていることに特に不便は感じず、日々ちいさな楽しみを見つけながら懸命に生きる生活の場所であった。
そこだけが、彼女の世界だった。
ある日、イシハはいつものようにかろやかなステップで、洞の凸の上を渡り歩いていた。渡り歩くうちに、自分でも足を踏み入れたことのなかった里の奥のおくへ辿り着いてしまったことに、踊り終わってから気づいた。
イシハは丸いまぶたを閉じてくるくると踊るので、その最中は白昼夢をみているような心地になり、意識がとんでしまうことがあるのだ。
目を開けて辺りを見渡す。
洞と洞の間、顔を極限まで近づけなければわからない位置に、何かがあることに気付く。
(これは……卵?)
イシハは、中指と親指に海底の国の者であるという証の水龍の文様を象った銀の指輪をつけていた。洞に流れる薄青の空気をまとい、鈍くひかるそれを中指と親指につけるのは、自分が清らかな乙女だと示している。
その彩られた手に、ぐっと力を入れて、挟まれていた卵を拾い上げる。
確かな重みを持ったそれは、イシハの両腕で抱えなければ落ちてしまいそうなほど大きかった。
イシハは驚いて黒く長い睫毛で覆われた、琥珀色の瞳を見開き、じっと卵を見つめた。イシハの眸の水面が、透明にゆらめく。
朱色の斑のついた灰色の殻が、その時鼓動を打つように、どくん、と蒼い光を放った。
「えっ……?」
驚いて、イシハは無意識のうちにその卵を抱く腕にかすかな力をこめていた。彼女のうすい胸を押し潰すほどの重量のある卵。その場で動かず、じっと卵を抱きしめていると、胸に巻いて重ねた薄青色のレース越しに、卵の温度がとつとつと伝わってきて、彼女の胸とむき出しになった褐色の腹を、じわりとあたためた。
つめたい国の中で、感じたことのないあたたかさだった。里を流れる空気も、海草と生魚中心の料理も、これほどまでに温かいものはひとつもない。
幼い頃に国に流行った病で両親を失ったイシハには失われたものだったが、この国の民が唯一温度を感じるものは、家族と触れ合ったときの、彼らの褐色の肌の下を流れる血潮の温度、そしてときおり洞の天井を覆う壁の隙間に生まれた、ちいさな穴を塞ぐための丸く薄青い硝子を通して漏れてくる、海をとおした蒼いもれ陽だけであった。
国の多くの者たちは、肌の性質が、生まれた時からその温度に慣れていたので、それが自然だった。
イシハは初めての温度に心地よくなり、半分瞳を閉じ、お湯に肌を触れさせたかのように、うっとりとして、しばらくその場でじっとしていた。
だが、遠くで人の気配を感じると、はっと目を見開き、注意を向け、卵を抱く腕に力を入れ、足音をなるべく立てぬように、小走りで洞を駆けた。
洞の中にある、さらにちいさな洞ーーイシハの自室に帰ると、戸口の穴の上に丸めておいた青紫の紐で留めていた水色の布を、さっとおろす。そうすると、彼女の部屋にひらひらと泳いでいた海色のひかりは薄ぼんやりとし、蒼い暗闇が訪れる。
夜目に慣れているイシハは、外にいる時と変わらずに狭い自室で行動できた。
そして胡坐をかいて、腕に抱えた卵をそっと足と足の間に下す。
(やっぱり光ってる……)
卵は、脈打つように、蒼い光を放っていた。一定の間隔を置いてひかるたびに、殻の表面に血脈のような紺色が浮かび上がる。
イシハは目を瞠って、それを見つめたまま卵の頂点から下を、ゆっくりと撫でていく。ざらりと確かな手触りのする卵の殻と、確かな命を感じるあたたかさ。彼女の広げた褐色の、細い指の間からもれいずる青いひかり。得体のしれないものであったが、イシハは癒されていった。満ちては引いてゆく穏やかな波のように、彼女の心を濡らして。
気が付けば、イシハは卵を抱きかかえて丸くなって眠っていた。
朝が来たことを知ったのは、部屋の入口にかけた水色の布越しに、朝餉の準備をする婦人たちの、かちゃかちゃと賑わう物音が聞こえてきたからであった。
「えっ……と、寝坊」
イシハはゆっくりと瞼を上げ、琥珀色の瞳を煌めかせた。卵が自分の腕の中にあることに、この上もない幸福を感じて。
群れから離れた婦人のひとりがこちらにぱたぱたと裸足の足音を響かせながらやってくる音が、半透明でかるく歪んだ乳白色の硝子のピアスをつけた耳に染み込む。
婦人が戸口の布を持ち上げるのと、イシハが飛び起きるのは、ほぼ同時だった。うなじで固く結んだ黒いみつあみが跳ね上がる。
「イシハ! 何ぼやっといつまでも眠ってるんだい! もうとうに女衆の朝の仕事は始まってるんだよ」
「は、はい。ごめんなさいっ」
婦人はふん、と鼻を鳴らすと、イシハへと怒りを投げるようにさっと布を下ろした。
布の先がからんと丸まり、暗い部屋に青の残像を浮かべた。
イシハは仕事用の紫陽花色の前掛けを腰で結んで脚に下ろすと、自室から出て、はたはたと女衆の仕事場へ向かおうとしたが、卵をそのままにしてしまっていたことに気付き、ふたたび自室へ戻った。
部屋の奥底、冬に上から支給される『暖炉石』という、炎のように熱い石を置くために掘られた穴に、そっと卵を置き、目立たぬ黒の布を被せた。
卵の存在が暗闇に溶ける。
半透明の白い石の長机の前で、女たちは担当しているそれぞれの魚を捌いていた。
イシハは女と女の間に空いた『六』という番号が、石に掘られた箇所の前に慌てて入る。
隣の女に肩を軽く叩かれ、嗜められると、イシハはかるく謝り、首を一度左右に振って自分の仕事に集中した。
いつも通り魚を手と小刀で捌いていると、ぼんやりと日々の自分の暮らしを思う。
ここ『海底の国』は閉じられた世界だ。
海に沈んだ国で宗教的な独裁政治が開かれている。ここに住まう褐色の民族は、『オサ』という権力者に従わざるを得ず、ほとんどの者が下働きとして一生を終える。
この国に生きる者たちは静かに日々を送る者ばかりだ。目立つ行動をした者や、『オサ』に逆らった者、海を泳いで別の国へ移ろうとこころみたものは、いつの間にかいなくなっている。そのことに触れる者も、追求する者もおらず、淡々と自分に与えられた仕事をこなし、一日を終えるだけだ。
この薄暗い水底で。
イシハも目立たぬ存在として国の中に溶けて生きていた。やりたいこともなく、ただ日々生きていることに感謝し、海の底で暮らす。そうして年頃になれば『オサ』が決めた国の中の男の元へ嫁ぎ、国の子を産み、老いて死ぬ。それが自分の一生だと自負していたし、これまで生きてきて疑問を抱くことすらなかった。
自分の生き方に焦点を移していたら、いつの間にか魚を捌く手は、魚の銀色の鱗を撫でていた。
そのことに気づいた隣の婦人に注意され、イシハは慌てて己の意識を、魚の頭蓋や、薄桃色の魚肉の中に埋もれる白い小骨だけに向ける。
今日も仕事は終わった。一日の終わり。夕暮れもない世界で、イシハは自室で両腕を広げて横たわり、海に揺蕩う海獺のように過ごしていた。仕事用の前掛けは戸口を入った少し先で脱ぎ捨て、上衣も脱ぎ捨て、下に着ていた肚兜があらわになる。胸と腹を覆い、背中がぱっくりと開いた黒の肚兜は、そのまま仰向けになれば、床を覆う黒くなめらかな石にぴったりと背中がつく。
そのほどよいつめたさを心地よく感じる。
「ふう……」
イシハはまぶたを閉じて薄い腹から息を吐いた。
長いみつあみは水流紋のように床に広がっていた。
左を向き、伸ばした左手のゆびさきを見やると、その先にあるもののことを思い出した。
「あっ」
まつげを震わせ、がばりと勢いよく起き上がる。
腰を屈め、黒い布をさっと上げ、穴に隠していた卵を空気にさらした。
朱色の斑を持った、灰色の卵はそこに静かに息づいていた。
両手でそっと卵を持ち上げ、あぐらをかいて体全身で抱きしめる。
「よかった……」
変わらぬ温度に、イシハのまなじりには透明な涙が盛り上がっていた。
こんな感情は初めてだった。誰かの無事を願い、再会を心から喜ぶ感情は。
卵の上に片頬をつけると、自然とまなじりから雫が溢れ落ち、暗闇色に染まってゆく。
イシハはまぶたを閉じ、うすく微笑んだ。
「私の……赤ちゃん」
卵を上から下へ穏やかに撫でると、腕を重ねてきゅっと抱きしめた。
イシハがこの国の中で一番求めていたぬくもりが、そこにはあった。
「魚の捌き係の娘が、密かに妖怪の卵を育てている」
その噂は、この狭い海底の国で広まるのは、早かった。噂の最初の輪は小さなものだったが、それが大事となってしまったのは、『オサ』の耳にも入ってしまったからだった。
『オサ』は海底の国の者たちの隠し事を許さない。
拷問の後、イシハは洞の奥深くにある黒曜石で作られた牢獄へ卵ごと入れられ、七日後、卵と共に頭を割られることとなった。
牢に入れられている間、イシハは片時も卵から離れようとはしなかった。あぐらをかいて組んだ両脚の上に卵を乗せ、包み込むように抱いていた。水底に住まうという、伝説の龍の嘆きを鎮めるために紡がれたこの国伝統の歌を、子守唄として卵に歌って聞かせた。
水も食事も摂らず、意識が朧になってきた五日目の夜、イシハはある異変に気付いた。
「卵が……孵化しようとしている」
灰色の殻をまとい、静かにあたたかくそこに生きていた卵が、一定の間隔を置いて、どくん、どくんと初めて会った時のような蒼いひかりを放ち始めた。体温は、甘い恋をしたかのようにさらに熱くなり、卵の中に眠る命をよりあざやかに感じさせていた。
イシハの琥珀色の瞳の水面にも、その青は透明にうつしとられて揺れる。
くちびるや肌が枯れていこうとしているイシハの体に、それはあたたかな真水で濡らされたような心の効果をもたらした。
目を見開いたまま、卵の頂点から下を、片手を広げてゆっくりと撫でていく。イシハのてのひらに、卵の生々しい熱がはっきりと伝わった時、イシハはこの新しい命を、なんとしてでもこの世に誕生させたいという強い意志に駆られた。
「生かさなきゃ……この子を。私はこの子の母親なのだから!」
牢の天井からひとつ空いた穴から、海の光が漏れていた。そこを丸い硝子で塞がれているのだ。
イシハは顔を上げてそれを見つめた。彼女の褐色のなめらかな頬を、ゆらゆらと水色の波紋が撫でていく。
眸は燃えるように枯れ葉色に溶け、筆で描いたような太く黒い眉は寄せられ、彼女の勁さをあらわにしていた。
胸に幾重か巻かれた青いレースを剥ぎ取り、牢の細かな凸に引っ掛けるようにして上へと登ってゆく。
卵は残されたレースごと胸に巻き、片腕で大切に抱いて。
こめかみには汗の粒が浮いていたが、拭ってくれる手もない。牢に入れられる前に殴られた衝撃で解かれたみつあみは、背に流れて黒く扇のように広がり、はらはらとはためいて、イシハの華奢な体を覆っている。
卵を抱いたまま岩を登るようなものなので、イシハの腕の筋肉は張り、彼女の体に痛みをもたらしていた。意識を保つために強い力で噛み締めた口からは、歯が割れて血がくちびるにひとすじ流れている。
「あっ」
足を踏み外して落ちそうになったが、彼女の頭より上に引っ掛けていた布にぶら下がる形で、なんとか落ちずに済んだ。すべり落ちそうになった卵をふたたび片腕で薄い胸に押し付け、かたく抱きしめる。
耳にかけていた長い前髪がはらりと落ち、汗の粒が牢の中に垂れる。
ふー、ふーと鼻の穴を大きく開け、猛る犬のようになっていた。身のうちに住まう心臓は大きく脈を打ち、全身に血を巡らせている。
(これが生きているという感覚)
今、イシハはこの上なく自分の命が爆ぜているのを感じていた。なめらかな肌の上に、透明な汗の粒が浮かんでいる。
全身が敏感に、鋭利になっていた。
「貴様! 何をしている!」
イシハがはっと気づいた時には、もう遅かった。
牢の前に『オサ』を筆頭に、人がたむろしていた。どれも海底の国の重役ばかりだった。
白い髭を、床につくほどに長く伸ばし、剃った頭の後ろで長く伸ばした白い髪を揺蕩わせるように結っているのが、この国の『オサ』の男だ。まだらな青をした袖の長い着物は、海を象徴している。
「あの女を捕らえた後、今すぐにでも卵と共にこの場で頭を割れ」
オサはそう言い、周囲の屈強な男たちに顎で示す。
男たちは怒号を上げると、牢を蹴破り、続々と中へ入ってきた。
男たちが着ている黒の甲冑は、大きな鱗を重ねたような形をしていた。動くと玉虫色の光沢が現れた。甲冑の間から肩や胸の筋肉が剥き出しになっている。
イシハは、はっと目を見開き、体勢をととのえると、蜘蛛が這うように四肢を伸ばして壁に張り付き、天へ駆け上がった。そして硝子窓に指先がたどり着くと、衣の中へ隠してい黒曜石のかけらで、二、三度叩き、窓を砕いた。
それを見上げた男たちの口から驚きの声が漏れるのと同時に、海を空のように切り抜いていた硝子窓から、その薄青の破片と共に、しゃらり、という音を立てて、海水が牢の中へ降り注いできた。最初は雨のように、ついでそれは滝のように勢いを増した。
降る海水を浴びて、イシハの腕の中の卵はより熱を増す。
(熱い……。さらに熱を増している)
イシハは肌の感覚で、卵がもうすぐ孵化することを感じ取った。
目を閉じると、勢いよく硝子窓に首を突っ込んだ。
体が穴に残った硝子の破片で傷つくのも厭わず、無理やり卵ごと上半身を海の中へ押し出した。
まぶたをきつく閉じ、生ぬるい海に身がひたる感触とともに、足がぐん、と引っ張られる感覚がした。乾いて大きないくつかの手が、重なって、彼女のうすい足の皮膚に食い込んでいる。
「行かせるかぁ! 下賤の小娘がぁ!」
下から男たちが登ってきて、イシハを引きずり戻そうとしていた。
イシハは右目を失明していた。硝子を割った時に、破片が彼女のまぶたを裂き、琥珀色の眼球を傷つけたのだ。
避けたまぶたや、体の傷から流れる血の紅が、蒼い海の中で、霧のようにふわりと漂う。
潮が体に触れると、細かな痛みで電流が走るようだった。
息もままならない。口を開けると、潮ばかり入ってくる。
苦しみに顔を歪める。
目から溢れるものが、血なのか涙なのかもわからない。
腕の中で抱いていた卵が、ふつふつと沸騰するように熱くなった。
イシハは卵を腕から離し、海に揺蕩わせようとした。海の中で孵化して生きることができる生命体なのかわからないが、このまま自分と共にとらえなおされ、殺されるよりも良いと思ったからだ。
歯を強く噛んでいた口を開けると、血と共に息のあぶくが海に上がる。
(いけ……)
イシハは想いを込めて、両腕を広げ、そっと卵を海へ放った。
卵はイシハから離れる。
イシハは閉じていた目を開けた。
潮で眼球が傷つこうとも、構わなかった。
今まで腕に抱いてきた卵が、宙に浮かんで遠く離れようとしている。この果てのわからぬ広大な海の中へ。
イシハの目の前が揺れる。
それは涙なのか、それとも海の水に触れているからなのか、もうわからなかった。
(どうか、お前がこの海の世界で、私の手を離れても、孤独でも、ひとりでも生きていけますように。私といた時間を永遠のものとして、いつか生きる中で思い出してくれますように。私とお前が出会えたことは、運命であったと、いつか遠い未来で誰かが思ってくれますように)
卵がひときわ明るい水色のひかりを放つ。
意識が深海へ溶けようとしていたイシハには、それが宙へ浮かぶ青い星のように見えた。
卵がぷちぷちという音を立てて、殻を割る。
イシハは、いつの間にか恍惚とした表情をしていた。海に、彼女の長い黒髪がわかめのように揺れて流れていた。
目の前に、一瞬青い火花が弾けたようにまたたき、やがて均一な深い紺色に染まると、夜空の真ん中に放り出されたような黒だけが広がり、イシハの体を心地の良いお湯のような熱が包み込んだ。
この上ない極上の感覚だった。
恋した男の肌。
自分を産んで愛してくれた母親の肌に、血潮ごと溶けるような。
イシハの腹の中央が、一瞬熱くうなり、意識は紺色の水の底に沈んで、消滅した。
孵化した卵は、イシハを食らった。
卵から現れたものは、青く大きな花のような生命体だった。半透明の体に、明滅する青のひかりの血潮が流れている。
卵から孵化した瞬間、花は、傍にいたイシハの血に反応し、花弁を広げて頭からがばりと彼女を食らった。
そしてイシハが割った牢の硝子窓の中に根を伸ばし、そこに根付いて咲く花となった。
洞の中に伸ばされた根は、イシハの脚を掴んでいた男たちに付着すると、その血を吸い取り、自身の栄養とした。
イシハを食らってしばらく、花の中でイシハの血肉が消化され、青い花は真っ赤に染まってゆらゆらと明滅していた。時折花弁よりも青い藍色の葉から、気泡のような泡が上がり、紺色に溶けて消えていった。
現在、花の咲いた場所は、国の者たちが神として崇め奉り、祈りを捧げる場所となっている。
薄青い根にはいまだに血肉を吸われた男たちの残骸があり、苦痛を浮かべた顔や、何があったのかわからぬまま死んでいった顔が、幽霊画のように根に彫られて不気味に浮かんでいる。
『海底の国』の外に住まう海の住人たちは、青い花を、海底の目印としている。洞穴から繋がる透き通るような大きな青い花が、突き出て咲いているところが、『海底の国』。
重役の手下を殺され、力を失った『オサ』の元で虐げられていた人々は、青い花によって外への通路を得て、今よりも自由に生きられるようになった。
「イシハさま……」
青い花の根の元へ、褐色の肌をして、薄青色のレースの衣装を身に纏った幼い少女が、両手を組んで祈りを捧げる。
牢であった場所の天井は広げられ、大きな硝子窓から、より澄んで透明になった海を通して、月のひかりが干された絹布のように、ひらひらと揺れて降り注ぐ。
少女の褐色の富士額にも、なめらかな月色の光沢はあらわれていた。
勇気を持って『オサ』に逆らったイシハは、踊り子たちの間で、女神として崇め奉られている。
少女は青い花の下でつま先を立て、片足をあげてくるくると踊る。うなじで固く結んだ長い黒のみつあみが、円を描くように薄闇の中で揺れていた。
きゅっと足首と手首で萎むレースのたわみが揺れる様を、踊る彼女を見かけた国の者は「海の中に咲く青い花」と例えて、仕事の手を止めて楽しんでいた。特に終わりにうっ、と突き出したくちびるの先まで右手を挙げて、人差し指と親指を紡いで円を描くポーズが、彼女の踊りの特徴であった。
海の中に生み出される、小さなちいさな太陽が。
青い花は、少女が踊っている間、海の中で普段よりも大きく、その花弁を揺らしていた。
薄青の花弁の周りには、銀色の小魚の群れが、まるで雨宿りをするかのように、集まってはまた、終わりのない広大な海へと流れてゆく。
(終わり)
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