イチくんというひと

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お肉のお皿を配って戻るとイチくんはステーキ肉に続いてエビを鉄板に並べていた。 「ねえ、主役なのにどれだけ焼くつもり?」 「んー、さすがにずっとは焼くつもりはないよ」 「そう言ってもまだビールしか飲んでないでしょ」 今日はステーキ肉、有頭エビ、ホタテ、イカを焼いた後、お好み焼きと焼きそばを焼く予定なのだとか。 「じゃあさ、伊都ちゃんが合間に俺の口に入れてよ。そしたら焼ながら食べられるじゃん。伊都ちゃんも一緒につまんでいいからさ」 「はあ?」 「腹減った。でも日本を離れたら暫く鉄板焼きなんてできないし。焼きたい、でも食べたい」 イチくんお得意のきゅるるん顔で私の顔を覗き込んでくる。 わかりやすくわざとやっているところが憎らしい。 ううううううー 「伊都ちゃん、今日俺の送別会だよね。伊都ちゃんも俺を応援するために来てくれたんでしょ。いやー、疲れた、お腹空いた。でもヘラから箸に持ち替えて食べるヒマとかないし困ったなあー。お腹空いたなー」 非常にめんどくさいことを言い出したイチくんに冷めた視線をお返しする。 「送別会の主役が餓死しそう~。こんなに頑張って焼いても主役が口にする頃には冷め切ってるなんて~オレ可哀想。主役なのに。美味しい料理も美味しいタイミングでオレに食べられたいって思ってるはずなのに~」 ああーもうほんっとにめんどくさい。 同じテーブルにいる引退した先輩Jリーガー二人はイチくんのこんな様子には慣れているらしくげらげらと笑いながらビールを飲み、イチくんの焼いたお肉を美味しそうに食べている。 「伊都ちゃん、イチに食わしてやってくれよ」 それ私じゃなくてもーーーと言いかけたけれど、一般人の私如きが人生の先輩であるお二人にイチくんの給餌を押しつけるのはどうかと思いなおす。 他のテーブルを見ても今日の参加者は田口さんのフットサルチームメンバー限定で、給餌をお願いできそうなのは大学生の山本くんと小杉くんくらいだけど、彼らもただの大学生じゃない。 ユース時代に日の丸を背負って世界で戦い将来有望視されている普通じゃない大学生だ。 もちろん人妻の田口さんの奥さまにお願いするわけにもいかない。 腹黒い笑顔であーんと口を開ける『弟にしたいJリーガーナンバーワン』を前にがっくりと肩を落とした。 はーい、負け。もう負けでいいや。 「そんな目で見ないで、もうっ。ーーーーはいはい、どーぞ」 海鮮を焼いているイチくんの口にさっき焼いたお肉を箸でつまんで放り込む。 「おおー、ウマイ。やっぱ俺って才能あるよな。なあ店出せると思わない?」 そう思うよねと聞かれ返事に困った。それは確かにその通り、私もそう思う。 けれど、これからブンデスリーガに行くと言っている人に鉄板焼きの料理人の才能があるといっていいものかどうか。 それはまるで失敗したら帰ってきて料理人になればいいといっているような気がして非常に躊躇う。 私の考えすぎかもしれないけど。
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