イチくんというひと

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焼きそばを食べる頃には大学生たちの胃袋も落ち着いてきたらしくジョッキを持ってイチくんの元にやってきた。 将来海外を目指したい彼らはイチくんにいろいろと話を聞きたいのだろう。 イチくんもヘラをお箸に持ち替えていたので私は彼らに席を譲って田口さんたちのいるテーブルに移動した。 「お疲れさま。鉄板のそばは暑かったでしょ」 田口さん夫婦に労われ、凍ったグラスに入ったレモネードサワーをもらう。 調理していたイチくんほどじゃないけれど、私の身体も少し火照っていた。 キンキンに冷えた炭酸とレモン果汁が喉に刺激を与えながら身体に染みていく。その後を蜂蜜の甘みとジンのアルコールが追いかけてきた。 「はぁー身体に染みます~」 シュワシュワする泡ののど越しが実に気持ちいい。 「ふふふ。二人いいコンビネーションだったわね。何か話せた?」 「引退後鉄板焼きのお店を出せるかな、とかですかね」 「ドイツに行く前に引退後の話か」 私の返答に田口さんが苦笑した。 「・・・・・・実際アイツも不安なんだろうな。ここ数年は怪我があったりして日本代表も外れたし。ましてや初めての海外、言葉の壁もあるし。いつも軽い調子で本音を話さないから誤解されやすいけど、引退後の話をしてしまう程度には不安を抱えているだろう」 ・・・・・・。 そうだよね。不安がないはずはないんだ。 新しい環境で結果を残さなければいけない世界に生きていて、身体一つ、たったひとりで日本を離れるんだから。 「伊都ちゃん」田口さんがちょっと小声になる。 真剣な様子に私も背筋を伸ばした。 「伊都ちゃんといるときのイチはリラックスしているように見えるんだ。二人が付き合ってないのはわかってるし、伊都ちゃんに何かを強制するつもりはないけど、もしも、もしもアイツが何か言ってきたら真面目に話を聞いてやってくれるか。雑談ならそれでもいい」 「・・・・・・そうですね。はい。私でできることなら」 私が頷くと「頼んだ」と田口さんはホッとしたように肩の力を抜いた。 私のところになんか連絡は来ないと思うけど、もしなにかあればきちんと話を聞くつもりだ。 もちろん。 突然ぱんぱんっと店内に手拍子が響いた。 「デザート早い者勝ちだぞ-!」 店主の大声が響いて私も田口さんの奥さんも同時に立ち上がって叫んだ。 「「店主のおすすめスイーツ盛りキープでっ!!!」」
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