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公園を突っ切り少し歩くと、あまり手を加えられていない小さな丘がある。丘の上にぽつんと置かれたベンチに、思ったとおり初音の後ろ姿があった。
あのベンチに座ると隣町がすっかり見える。この時間はおもちゃの積み木のような家々が、夕焼けでオレンジに染まる。そんな光景は私も好きな景色だった。少しずつ夜のベールがかかり、ぽつんぽつんと家々の電灯が灯り始める。
夕焼けに染まったあとの暮れていく時間が嫌いになった時期があった。大病を患い、そのせいで仕事の第一線を引かざる得なかった頃。あのベンチに座り、オレンジに染まる隣り街を見ながら、自分の人生も斜陽へと傾いていると思った。加えて山のねぐらに帰っていくカラスの鳴き声が、人生の終幕へと誘っているようでどうしても好きになれなかった。
今思えばいじけた考えだったのかもしれない。
「初音」
紫色の毛糸の帽子を被った背中に声をかけると、初音ははじけたように振り返る。
「やっぱりここに来ていたのね。あなたは本当にこの場所が好きだから、きっとここだと思ったのよ」
ベンチに座ったまま体を捻り振り返りながら言った初音にゆっくりと近づくと、彼女は少し横にずれて私の座るスペースを空けてくれた。
「夕焼けが始まる時間だね」
隣り街を見下ろしながら、ひとつ深呼吸をした。
大病のために閑職にまわされた当初はそれが辛かった。だが質素であってもゆっくりとした時間を初音と共に過ごせたことを思うと、私たちにとっては決してマイナスではなかったと思う。
黙ったまま染まる街並みを見ていた視線の先に、カラスの群が映った。数羽がカアカアと鳴き声を上げながら渡っていく。
「やはりあの声はあまり好きでないな」
初音に言うのでもなく、独り言のように呟いていた。
「どうして?」
ここ最近は初音が妙に若々しく見える。いや、幼くさえ見える。
「もの寂しいだろ。斜陽という言葉に似合いすぎている」
初音の方を見ながら言った言葉を聞いて、彼女はくすくすと笑った。
「あれはね、喜んでるのよ」
「喜んでいる?」
「そうよ、お昼の間はそれぞれが別々に街のいろんなところにいたけれど、この時間になるとまたみんなでお山に帰れるから。『みんなに会えて嬉しいよ、今日もみんなとお家に帰れて嬉しいよ』ってね」
カアカアと鳴きながら、群れをなして夕焼けの中を飛んで行くカラスたちに向かって、初音が胸の前で小さく右手を振っている。
その姿を見ていると、そんな解釈もあるのかもしれないと思えた。
ベンチの上にたらりと垂らされた初音の左手を取った。冷たい。
「そろそろ手袋をしなくちゃいけない季節だよ」
冷たい手を握りしめて言った。
「手袋をしていたら、あなたにこうして手を握ってもらえなかったわ」
そう言ってまたクスクスと笑う初音の後方では、そろそろ夕焼けが終わりかけている。
ふと気がついて、持参した大きなストールで初音の身体を包んだ。
「冷えてくるから、そろそろ帰ろうか」
「これはあなたがかけなくちゃ、病み上がりなんだから熱が出ては大変」
そう言いながら、初音はストールを外して私にかけようとする。
「私は大丈夫だよ、君が冷えてしまう」
小さな手を止めて、もう一度彼女の肩にストールをかけようとしたとき、初音はストールの片方を私の肩にまわした。
「ねっ、二人で包るともっと暖かいのよ。お互いの体温で暖かくなるの。雪山で遭難したらそうしなきゃ」
無邪気に言って得意そうに微笑む顔を見ながら、
「雪山で遭難したことがないから、よくわからないな」
と返した。
「それは私もないわ」
初音はそう言って、またクスクスと笑った。
私が病み上がりだったのは、もう十年近く前だ。大病後、閑職に回されてからもしっかりと勤め上げ、無事に定年を迎えた。
初音の時間は、あの頃まで遡り止まっている。
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