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25 ひよっ子、誘拐される
しかし、それから三日経っても、五日経っても、ナイルは現れなかった。
ヤンを連れて来たのに、この様子では今後も彼が来る可能性は低いだろうと、六日目にはそう判断し、城に帰ることにする。
「肩透かしだったねぇ」
アンセルが欠伸をしながらボヤく。油断は禁物だ、と睨んだレックスに、彼は「まだ俺を働かせるの?」と唇を尖らせた。なんでも、昼間だけでなく、夜中にも近辺を見回っていたと言うから、レックスのアンセル使いはそこそこ荒い。
「幼なじみのよしみで付き合ってるけどさ、そういうとこだよ? だから友達俺くらいしかいないじゃないか」
「……」
しっかり文句を言いつつも、何だかんだ付き合っているアンセルは、ひとがいいと思う。けれどレックスはいつもの無表情だ。ヤンは笑った。
「お二人とも、仲がいいんですね」
主従とか関係なく付き合える関係は、ヤンにはないものだ。羨ましいと思い笑うと、レックスは頭を下げた。途端にヤンの身体はカッと熱くなる。
彼のお辞儀が求愛行動だと知ったいま、どう受け止めていいのか分からなくなった。狼狽えてなにも言えずにいると、唐突に寒気を感じ、身構える。
「みーーっけ!」
そして次の瞬間には腰を抱かれ、空中に浮いていた。慌てたようなレックスとアンセルが急激に小さくなっていくのを見て、自分がさらわれたのだと気付く。
「ちょ……っ! 離して! ……離せ!」
そのままヤンは担がれた。ものすごい勢いで走っているのはやはりナイルだ。軽々と生えている木々を避け、そのまま深い森へと走っていく。
「暴れんなー? 気配消してやっとヤンに近付いた、俺様の苦労がなくなる!」
「させるか!」
ナイルがそう叫んだと思ったら、すぐ近くで声がした。ハッとするとアンセルが隣にいて、ガチン! と剣がぶつかる鈍い音がする。
「ひいぃ……っ」
走りながら剣を交え始めた二人に、ヤンは悲鳴を上げるしかなかった。下手に暴れたら自分が傷付くかもしれないし、担がれた状態では何もできない。
「帰る素振りをすれば現れる……レックスの言う通りだったな!」
アンセルはそう言いながら、ナイルの足元を剣で薙いだ。それを軽く躱した彼は方向を変えてまた走っていく。
このままでは連れ去られてしまう。ナイルはその習性から体力と俊敏性は高いし、長引けばレックスたちが不利になる。それに、目の前に『家族』に手を上げた本人がいて、何もしないでいるのは嫌だ。
「離せよ!」
ナイルがアンセルから離れた隙に、ヤンは暴れて背中を叩く。帯剣していたダガーもこの体勢では取れないし、懸命に足をばたつかせてもがいた。
「だーから暴れんなって」
「ナイル! 僕はアンタに付いて行く気はない!」
ヤンは思いつく限りの罵詈雑言をナイルにぶつける。しかしナイルは気にした風もなく、笑いながら走っていく。
「希少種も台無しな言葉遣いだな。口には気をつけろよ? 俺様が本気になればあの雁もハシビロコウも、すぐに片付けられるんだぜ?」
ナイルの脅しにヤンの動きが止まった。ナイルならやりかねないし、実際前科がある。だから彼の場合、脅しではなく本当にレックスたちを傷付けることは、安易に想像できた。
「レックス様たちまで手にかけたら、許さない!!」
ヤンがそう叫ぶと同時に、剣戟音が耳をつんざく。ナイルは大きく身を翻して、ヤンは振り落とされそうになった。しかしヤンを振り落とさないよう堪えたナイルは、立ち止まることなく走る。
「待て!」
レックスの声がした。安定しない体勢で何とか顔を上げると、レックスとアンセルが追いかけて来ているのが見える。
さすがは騎士団長と副団長、表情にこそ焦った様子もなく、冷静にヤンをどう取り返そうかと考えているような顔だった。しかし相手はナイル、ここまで少しもダメージを与えられていない。
――自分も動かないと勝てない、と思った。
「離せ! ……このっ!」
「うわっ。だから暴れんなっ!」
その言葉と同時に、ふくらはぎに激痛が走る。視界が一瞬暗く落ち、息を詰めてナイルの背中に爪を立てた。猛烈な痛みに頭がクラクラし、ヤンは意図せず動けなくなる。
「死なねぇから安心しろー。ただ、逆らったらどうなるかは示しとかないとな」
「ひな鳥ちゃん!!」
アンセルの焦ったような声がした。左足に走った痛みは一ミリも足を動かせない程で、吊ったように固まっている。脂汗が額から噴き出し、歯を食いしばって痛みに耐えていると、ナイルは立ち止まって振り返った。
落ちてきた汗で視界が霞んだけれど、ヤンの目の前に現れたのは崖だ。ナイルは崖を背にし、ジリジリと後ずさっている。
「さあここまでだ。ひな鳥ちゃんを返してもらおう」
アンセルの今までにない低い声がした。レックスも声はしないがそばにいるのだろう。
(どうしたらいい!?)
正直ここまでナイルがするとは思わなかった。これは完全に敵を見誤ったヤンたちの落ち度だ。――ナイルのヤンへの執着心を見誤った結果だ。
「ナイル……」
霞みそうになる視界を瞬きをして堪える。ヤンに呼びかけられて上機嫌に返事をしたナイルは、ヤンの尻を撫でた。
「おおどうした? ヤンはこれから俺様の巣に帰って、番にしてやるぞ。新婚生活楽しみだなっ」
そんなのはごめんだ、と言おうとしたけれど、それを言ったらナイルの恋心を否定することになる。彼を逆上させずにこの場を切り抜けるには、一旦言うことを聞いた方がいいと判断した。
「そうだね。……そんな訳でレックス様たち、ここは引いてもらえませんか?」
ナイルの肩に担がれている体勢では、レックスたちの様子は分からない。けれど、ヤンを傷付けずに気を配りながら、ナイルと戦うのは分が悪い。
だから自分のことは諦めてくれ。そう思った。
「やっぱり、卑しい身分の僕では、従騎士は荷が重すぎました。今後はナイルが大事にしてくれると思いますし、レックス様も面倒がなくなるので都合がいいでしょう」
「ひな鳥ちゃん……」
すらすら出てくるのは嘘だ。本当はレックスのそばにいたい。優しいアンセルともっと話をしたい。二人の顔が見えなくて本当によかったと思う。見えてしまったら、泣けて嘘をつくどころじゃなくなるから。
「ヤン……」
ナイルが感動したような声を上げている。傷付けてごめんな、と言ったが、そもそも番にするつもりなら傷付けるなよ、とヤンは思った。
「という訳で俺様たちは相思相愛。これ以上邪魔すんな」
そう言うと、ナイルはさらに後ずさりする。え、とヤンは慌てたが、ここは堪えてナイルに従う素振りを見せないと。
「まぁ、少し世話になったからな。別れの挨拶くらいは許してやる」
ナイルは余程嬉しかったのだろう、ウキウキした声音でヤンを促した。自分を担いだまま降ろしもしないくせに、とナイルの警戒心の高さとズル賢さに腹が立つ。
「レックス様……」
ヤンはナイルの背中を目を見開いたまま見つめ、レックスを呼ぶ。あっという間に視界が揺れ、涙が零れ落ちた。
「……必ず迎えに行く」
「……っ」
普段、それほど口数は多くないレックスだが、その分彼の言葉には重みがあった。騎士団長という立場にいるということもあるだろうけれど、いつだって彼は真っ直ぐ伝えてくれていた。
本当は、ナイルを振り切って今すぐレックスの胸に飛び込みたい。けれど足を怪我しているから、それはリスクが高い行動にしかならないだろう。
(……はい……!)
ヤンは心の中で返事をする。再会した時は……その時はきちんと互いの気持ちを確認しよう。そう決める。
「…………さようなら。……ありがとうございました」
ヤンが震えた声で言うと、ナイルはその場で軽く後ろへ跳躍した。当然後ろには地面がないので、崖下へと落ちていく。
強烈な浮遊感に気持ちが悪くなりながらも、ヤンはこれでよかったはず、と嗚咽を堪えるしかなかった。
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