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第24章
私を好きだと言ってくれたその人はその町の名家の跡取りでした。それで私などとはとても結ばれる身分ではなかったのです。親に反対され引き裂かれ、そしてその人は分家の娘を娶ることになりました。
実はそれでも私たちはある場所で二人で会っていたのです。そこは町の奥にあって背の高い木々が鬱蒼とした場所でした。そこには山から流れて来た水が川となり滝になって、それが高い所から低い所へ流れ落ちていました。
私たちはその流れ落ちた水が溜まって大きな池になったところからその大きな滝を見上げるのが好きでした。子どもの頃はよく友達とその滝を見に訪れましたが大人になってからは誰も行かない場所になってしまったので、二人が内緒で会うには絶好の場所だったのです。
その大きな池の深さは膝くらいまであって、靴を脱いでその中に入ると夏でもとても冷たく感じられました。私たちはその大きな池の淵にしゃがんで上から落ちて来る滝をじっと見ていたのです。そこは滝の轟音だけが聞こえる世界です。それ以外の全ての音はその音に打ち消されてしまうのです。ですから私たちには会話は必要ないのです。もし何かを言ったとしてもそれが相手に届くことはないからです。だから黙っていても平気なのです。
そこでは頭上から流れ落ちて来る水が延々と続き、私たちの時間を永遠のものにするような錯覚に陥りました。まるで時が止まったようでした。二人で寄り添うようにそこに腰を下ろし、そして耳を聾する滝の爆音が私たちをその空間に閉じ込めると二人だけに永遠の時が訪れたような気持ちになれました。
「心中って来世で幸せになれるための儀式だって知っていたかい?」
「心中?」
「うん」
日が落ちかけて私たちだけの時間が終わる時、いつもは黙って歩く帰り道にその人がそんなことを言い出しました。私は何の話だろうと思っているとその人はその先を続けました。
「嫌かい?」
私はその人が私に心中をしようと誘っているのかと思いました。けれど私は今のこの関係で十分幸せだったので来世がどうだとかいうことには興味がなかったのです。それで私はその話に乗ることはなかったのです。
「こんなことを続けていて申し訳ない」
何度かその心中の話が出た時、その人が急に私に謝りました。それでその人が私に心中の話をしたのはその申し訳ないという気持ちからだと悟りました。
「申し訳なくなんかありません」
「でもこれで幸せかい?」
「ええ」
その人には私の気持ちが理解出来なかったようです。その人は私を妻にして子を産ませ、そしていつも一緒にいて何不自由ない生涯を私に送らせることが幸せだと思っていたようでした。
しかし私たちのそのような生活はいつまでも続きませんでした。私たち二人がその滝つぼで会っているところを町の者に見られてしまったからです。それはかつて子どもの時にそこで一緒に遊んでいた幼馴染でした。その人がその場所を思い出し、懐かしさのあまりにそこを訪れた時に私たちがそこで逢引をしているところを偶然見てしまったのです。
事態は急転しました。その人は二度と自由な時間を与えられることはなくなってしまったのです。そしてそれは私にしても同じでした。その人の父親が私の両親にきつく注意をしたからでした。私の両親はその人の父親には経済的にどうしても従わなくてはならない関係でした。それで両親からその人とは今後絶対に会ってくれるなと言われたのです。
私はその人と時折そこで会えれば他には何もいらなかったのです。ですがその些細な幸せを奪われてしまいました。そうなると急に彼が恋しくなりました。もう二度と会えなくなると思うと、その人の一部だけではなく、その全てが愛おしくなり、同時に全てが欲しくなったのです。そしてその時頭に浮かんだのはその人が言った来世の話です。
「これ、若旦那さんから預かって来ました」
私達が会うことを禁じられてから一週間が経った頃でした。その人のうちの下男がそう言ってその人からの手紙を私に持って来ました。そこには今夜八時にいつもの場所で会いたいと書かれてありました。私はその人がきっと心中をしようと言い出すのだろうと覚悟をして、その待ち合わせ場所に向かいました。
「本当に心中をしたら来世で幸せになれるの?」
「うん」
「幸せってどんな幸せ?」
「どうなんだろう。きっと生まれ変わって、そして今度は一緒になれるっていうことじゃないかな」
「私ね、ずっと幸せだったのよ。ここでたまに会えるだけで十分幸せだったの。でもそれが禁じられてしまって、そうしたらそれまで満足していたものでは我慢出来なくなってしまったの」
「どういう意味だい?」
「それまではたまにこうして会うだけで十分だったのに、あなたの一部の時間を共有するだけで満足出来たのに、それがあなたの全てが欲しくなってしまったの」
「それは元々そういうことだったのではなくて?」
「え?」
「元々僕の全てを欲しかったのに、自分を偽ってその一部を得るだけで満足するように自分を欺いていたんじゃなくて?」
「欺いていたなんてとんでもない。私はあれで本当に十分だった。あなたが申し訳ないって言ってくれたけど、あれで私は十分幸せだったの」
「そうなんだね」
「うん」
「あそこ」
するとその人が目の前の滝を指差してそこを見るように言いました。
「あの上から飛び降りたら、そうしたら一緒になれるかな」
そこには水煙を上げながら膨大な水が上から下へと流れ落ちていました。あの上からその流れに身を任せて飛び込めばそれが私たちを勝手に運んで行って、その水が砕け散る場所で私たちもばらばらになってしまうと思いました。そしてその後は目の前に広がっているあの池の中に溶け込んでしまってそれでやっと私たちは一つになれるのだと思ったのです。
「滝の下で激しく砕けた水はこうやってここまで来ると静かな水になっている」
そう言ってその人は私たちが座っている場所からその手を伸ばして静かに水面を触ったのです。するとその人が触った場所から波紋が遠くの方まで広がりました。
「私たち来世で幸せになれる?」
「きっとこの静かな水面のように波風立たずに安寧な暮らしが出来るさ」
「うん」
「だから次に生まれて来たら必ず一緒になろう」
それから私たちはそこから元来た道を戻り、その途中から林の中に分け入りました。笹の葉が時々頬を打ち、そのたびに私はある思いに駆られました。
(これはいけないこと?)
しかしその思いも私の先を行くその人の後姿を見て、もう二度とその人を見失ってはいけないのだと思ったのです。
私たちはやがて滝が雪崩落ちる場所に到着しました。
「来世で結ばれて、そして子どもが生まれたら、そうだなあ、女の子なら早紀という名にしよう」
「もし男の子だったら?」
「いや、女の子が欲しい」
その時のその人は本当に女の子が生まれてくることを切に願っているようでした。それで私はその言葉を素直に受け入れたのでした。
「はい」
「でももし男の子だったら。そうだな君がその子の運命を決めていいよ」
「運命?」
私は一瞬何のことかと思いました。
「ごめん。名前の話だったね」
「うん」
「男の子だったら、その名前は君が決めていいよ」
「私が決めるの?」
「うん」
「じゃあ、崎」
「崎?」
「うん」
「変わった名前だね」
「ええ。でも女の子なら早紀だっていうから」
「男でもさきか」
そう言ってその人が笑いました。
「崎は幸から来ているの。だから幸せになって欲しいと思って」
私たちはとうとう崖の淵に立っていました。もう迷うことは何もありませんでした。滝の轟音が二人の会話を全て禁じてしまいました。それでその人は私を一瞥すると、その左手で私の右手を強く握りました。それで私はその手に引き寄せられてそしてその眼下に飛び込む心の準備をしたのです。
ところがその瞬間その人は私の左手を強く引いて、そして私を抱きしめました。すると滝から舞い上がっていた水煙が私たちを丸ごと包み込んでしまったのです。私はその時思いました。やがて私たちがずぶ濡れになってしまう前にここからこの滝つぼに飛び込んで、あの下になみなみと溜まっている水と同化するのだと。
その人はしばらく私を抱きしめると一旦私を引き離し、そして再びその左手を私の右手に重ねました。そして今度こそ前に進もうとしたその時でした。私たちはいつしか後ろからやって来ていた数人の男たちに強引に引き戻されてしまったのでした。
それから私とその人は一切会うことが叶わなくなりました。町の人は勿論のこと、私の両親も私を見る目が変わりました。私はなんとかその人に連絡を取りたいと色々と手を尽くしましたがどれもだめでした。実はその時、私はその人の子どもを宿していることを知ったのでした。
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