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第30章
「もしもし」
それは二人がその屋敷の門から道路に出ようとした時だった。一人の老婆が影山たちを呼び止めた。
「このお宅に何か用でしたか?」
「あ、はい」
影山はその声に立ち止まるとその老婆と向かい合う形になって話を始めた。
「おばあさんはこちらの方ですか?」
「私はここの者ではありませんが、ここにゆかりのある者です」
「それは具体的にはどういうご関係なのでしょう」
「ここの先代の主人は私の息子です。徳久の母親が私です」
「あ、そうだったんですか」
「すみませんね、うちのものがいつも不快な思いをさせておりまして」
するとその敷地から逃げるように急ぎ足で歩いていた友野が、その老婆の声が耳に入った途端その歩みを止めて、そして影山の元に急いで戻って来た。
「ご無沙汰しております。友野でございます」
「あら、友野さん」
「はい、友野でございます。覚えていてくださいましたか」
「ええ、それで今日はどんな御用でいらしたのかしら?」
「私たちはこちらに一樹さんのことをお伺いに来たのです」
「まあ、一樹さんのことですか?」
「ええ、おばあさんは一樹さんのことをご存知ですか?」
「はい。元々うちの一族もこちらとは遠縁でしたので、一樹さんのことは小さい頃から存じていますよ」
「では一樹さんがどうしてこちらからいなくなってしまったかもご存知でしょうか?」
「勿論です。それは結子さんと駆け落ちをしてしまったからですよ」
「一樹さんは駆け落ちをした先で亡くなってしまったと聞いたのですが、どうしてこちらのお墓に入れなかったのですか?」
「それはだって駆け落ちをしてしまったのですからね。自ら家を捨てたのも一緒でしょう?」
「では行田駅の近くのお寺に溝卸家のお墓がありましたが一樹さんはあちらに埋葬されているんですね?」
「はい。あちらの溝卸家のお墓に入っていますよ」
影山はまるでその老婆を誘導するように巧みに質問をしてその答えを引き出して行った。
「あのお墓はこちらのおうちのお墓とは違うんですか?」
「この溝卸の本家のお墓はこの屋敷の敷地の中にあります。ちょうどこの母屋の裏側です」
「そうなんですね」
「それはたいそう立派なお墓なんですよ。石碑は五輪塔の形をしています」
「墓石に帽子がかぶさったようになっているあれですね?」
「ええ、その石碑は蓮の花のような九蓮花で支えてあって、敷地は玉垣で囲われているんです」
「それはたいそう立派なお墓ですね」
「ええ、それに入り口には門柱があって、空気抜きや灯篭、そして法名塔までこしらえてあるんです」
「こちらの溝卸家はたいそうなお大尽だったんですね」
「ええ」
「でもそれにくらべてあちらのお墓は、申し訳ありませんがかなり見劣りしますが」
「だってあちらは分家の墓だから」
「分家のお墓なんですか?」
「ええ、それとご病気で亡くなられたお人も入れられているのよ」
「するとあのお墓は溝卸家で病気になって亡くなられた男性が埋葬されているものなんですね?」
「はい」
「なるほど、それで溝卸家という銘があのお墓にはあったんだ」
「はい。墓石には溝卸家の墓とありましたでしょう?」
「ですが一樹さんのお父さん、つまり惣一さんですが、この方はあのお墓には入っていないと伺いましたが」
「惣一さんは病が発症する前に自害なさいました。ですから病気で亡くなったことにはならなかったのですよ」
「なるほど」
「あのお墓の横に小林家のお墓もありましたでしょ?」
「え、ええ」
するとその老婆は立て続けて話を始めた。
「あちらも溝卸家の分家さんなのよ」
「小林家も溝卸家の分家なんですね?」
「そう。それで分家同士あそこに並んでいるの」
「なるほど」
「あの小林家のお墓には溝卸家と違ってその病で亡くなった人もそうでない人も一緒に葬られているの。それでお隣の溝卸家のお墓が病になった男性のお墓、そして小林家のお墓が病になった女性のお墓というふうになってしまってるの」
影山はその老婆の話にじっと耳を澄ませていた。
「昔、溝卸家の跡取り息子だった一樹さんと結子という小作の娘が好き合ってしまったの。徳久はそれを反対してね。身分が違うって。それで二人は駆け落ちをしてしまったの。そしてその駆け落ち先で一樹さんが亡くなっても駆け落ちをしたからには本家の墓には入れられないと徳久が言ったの。それであそこにあの墓に入れられてしまったの」
影山はその老婆の話がループしてしまっていたのを知っていた。しかしどんなことでも謎の解明のヒントにつながり得るというのが影山の信条だった。それでその老婆には構わず話させておいたのだった。
「それであの隣の小林家の墓というのは元々一樹さんと一緒になるはずだった娘のおうちのお墓なの」
影山は老婆の話が微妙に先ほどの話と違っていることに仄かな期待をよせていた。
「ではそういうお人が一樹さんにはいたんですね?」
「ええ、でも一樹さんが駆け落ちをした後、その娘は実家に戻されてしまったのよ。いつまでもその家と関係のない女をそのうちに置いておくことは出来ないでしょう?」
「はい」
影山は今までの話をまとめるつもりで再びその老婆に質問をした。
「溝卸家は男性が人を好きになるとその病気が発症するのですね?」
「はい」
「そして小林家は女性が人を好きになるとその病気が発症するのですね?」
「ええ。ですから寧ろ一樹さんと小林家の娘が一緒にはならなくて幸せだったと思うの。一樹さんは別の女を好きになってそれで駆け落ち先で亡くなってしまったけど、久美さんはそういう末路を迎えなくて済んだんだから」
「その女性は久美さんていうんですか」
「ええ、小林久美っていいました。あの子、当事はきっと一樹さんのことを好きだったんだと思うの」
「それはどうしてですか?」
「あの子の目がそれを正直に語っていたから」
影山は今その人はどうしているのだろうと思った。
「でもどうしてその二人が許婚同士になったのですか?」
「だってそうすれば家が絶えるでしょ?」
「え?」
「徳久にとって一樹さんのことが邪魔だったのね」
「なるほど」
「自分の息子の悪口は言いたくないけど」
影山はその後の一樹の処遇、そして徳久の息子を跡継ぎにした構図がこの時に見えた。
「溝卸の名字には謂われがあるのよ」
「どんな謂われですか?」
「溝という字は、せせなぎとも読むのはご存知?」
「いいえ」
「せせなぎは、せせらぎと同じなの」
「そうなんですね」
「ですから溝とは浅瀬の水の流れをいうんです」
「はい。わかります」
「そして卸すとは問屋が小売に売り渡すことをいうの。だからこういうことなのかしらね」
そこで老婆は一呼吸置いた。
「浅瀬の流れは薄い血脈を表して、卸すとは自分では売らずに他人にそれを売らせるということ。つまり他人の血を混ぜることで溝卸の血を薄めたものをほそぼそとつないで行こうということかしら」
「それは血が濃いとその病が発症しやすくなるということでしょうか?」
「この辺りでは溝卸家も小林家もそこらじゅうに親戚がいるの。だからもしそれらの者同士が一緒になってそして子が出来たらそれが男でも女でも生きながらえることは難しいでしょう?」
「なるほど。ですから溝卸家は小林家の者と結びつかないように、そして小林家の者は溝卸家の者と結びつかないようにしていたのですね。そうすれば、生まれて来た子は性別によっては長く生きながらえることが出来たわけですね」
「溝卸の血を引く者でも人を好きにならなければあの病にはならないというの。ですから今もこうして溝卸の家は続いているの」
影山はそれであの本家の奥様が鉄火面のような顔つきをしていたのかと思った。
「ごめんなさい。年寄りの長話に付き合ってもらってしまって」
するとその老婆は急にそわそわと落ち着きがなくなった。
「いいえ、こちらこそたいへんためになりました。ありがとうございます」
「それではお気をつけてお帰りください」
「はい。ありがとうございます」
「ところであなた方はどなたでしたか?」
「私は影山といいます」
「影山さん?」
「どちらの影山さんだったかしら」
「東京から来た影山です」
「東京?」
「はい」
「じゃあ、あなた若いお嬢さんのお知り合いがいないかしら?」
「若い女性ですか?」
「ええ、探偵さんみたいなことをしている方」
「影山さん、鈴木さんのことじゃないですか?」
その老婆が誰のことを聞いているのだろうと影山が思っていると横から友野がそう言った。
「はい。鈴木という助手がいますが」
「そうそう。助手の方でしたね」
影山は前回鈴木を行田に連れて来たときにこの老婆にどこで見られたのかと思った。
「その方にもよろしくお伝えください」
影山と友野はもう一度その老婆に頭を下げるとあの大きな門をくぐって外に出た。
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