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「ああ、朝顔の池に用があったんですか。ここからなら……そうね、歩いて三十分くらいかかるかしら」
ミストレスが納得した様子でうなずいた。さらに、思いがけず有力な情報まで教えてもらえて、内心で感謝する。
「願い事は何かしら」
「えっと、それは――」
「進路? 高校最後の夏休みですものね」
口ごもったのもつかの間、違和感を覚えた。
ミストレスはいま何と言った。高校最後と、言わなかったか。
『お嬢さんは中学生? それとも高校生?』
『あ……高校生です』
少し前の会話が脳裏に浮かぶ。
私は確かに高校生であると答えた。高校三年生であるとは言っていない。
ヒトトセの女子制服は、学年によってリボンの色が異なる。もしも、私が制服姿で来店したならば、辻褄は合う。でも今日は私服である。あの会話だけでは、ミストレスには私の学年までわからなかったはずだ。
「……どうして、私が高校三年生だと思ったんですか?」
「あらやだ。もしかして間違っていたかしら。ごめんなさい、わたしったら。春秋高校の子だと聞いて、この時期だから三年生だと思ったのよ」
まるで歌うような、軽やかな口調だった。
椿茶でうるおっていた口の中が渇いていく。背筋に冷たい汗が伝う。それでも私は、勇気を振り絞って口を開いた。
「……私は、ヒトトセの生徒であるとは……言っていません」
その瞬間、調理場で穏やかにほほ笑んでいたミストレスが真顔になった。
店内に静寂が訪れる。重苦しい。冷房の効いた空間が、さらに冷えたように錯覚してしまう。早くここから逃げ出したい。でも足が動かない。終業式の日、男性に追いかけられた記憶が、頭に浮かんでは消えていく。
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