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「葉月ちゃんは耳ざといのね」
静寂を破ったのはミストレスだった。
このヒトは私の名前まで知っているのか。
ミストレスは調理場の椅子から立ち上がり、しっかりとした足取りで私のそばまで歩み寄った。高齢の女性とは思えないほどの早足だった。
「どうか、怖がらないでいてくれると嬉しいわ」
青みがかった灰色の目が不安に揺れている。
ミストレスはそのまま自分の髪に手を添えて、お団子を解いた。重力に従い、白くて長い髪が、さらさらとミストレスの肩へ流れていく。
それが終わると今度はマフラーに手をかけた。真っ白いマフラーの下、隠されていた細い首があらわになる。私はそれを見て息を呑んだ。
年齢によるしわ――と呼ぶには、あまりに生々しい痕だった。
縄とはまた別の、極細い何かで首を絞めたように見える。年数を経ても消えないのか、その痕はまだほんのりと赤かった。
「それは、誰かに? それとも自分で?」
ミストレスは答えなかった。代わりにマフラーの端を持って自分の前へ掲げる。真っ白いマフラーが垂れ幕みたいにミストレスの姿を隠す。意図が読めない。
困惑していると、マフラーの向こう側で、ミストレスがこちらへ息を吹きかける音が聞こえた。それは冷房よりも冷たい吐息だった。下手したら凍えてしまうのではないかと戦慄するほどだ。私は恐怖心からとっさに目を閉じた。
「目を開けてちょうだい。あなたに危害を加えるつもりはないわ」
おっとりとした声だった。口調が違う。それでも耳なじみのある声だった。
「はな、こ」
まぶたの裏に思い浮かべた名前をささやく。
同じ人間だと思っていたかった。だから頭の片隅に無理やり追いやっていた。でも呼んでしまった。もう引き返せない。
ゆっくりと目を開ける。
眼前の人物はマフラーを肩に羽織り、力なくほほ笑んでいた。着替えた、いや変身したのだろう。その身にまとっているのは割烹着ではない。白いワンピースだ。
髪の色は白から銀へと変化していた。
そう。装いこそ違うものの、その姿は霜月花子そのものであった。
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