間違える、こともある

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 いつからだろう、僧が気づいたときには少女はすでにそこにいた。  昼下がりの駅前は人影もまばらだった。電車の乗降にあわせて時おり人が行き交うことをのぞけば、車寄せに面した広場にいるのは自分だけだと、僧は思い込んでいた。  少女はベンチに深く腰をかけ、空を見上げていた。小春日和で、心地のいいそよ風が吹いていた。風の感触を確かめるように少女は目を閉じた。すると涙が、音もなく頬をつたっていった。音のないがゆえに胸に響く光景であった。  僧は驚き、かぶり笠を少し持ち上げ、見入ってしまった。少女は目を開く。僧の視線に気づいたのか、立ち上がり歩み寄ってきた。口元には微笑が浮かんでいた。 「なにをしているんですか。朝からずっとここにいますよね」  少女は法衣すがたの僧をものめずらしそうにながめた。年頃は成人して間もないくらいだろうか、色のはっきりした黒髪が肩まで伸びて、彼女の小さく白い顔のまわりでゆれている。 「托鉢ですよ」  足元の鉢に目を落とし、手振りの鈴を少し鳴らしてみせた。少女は感心したようにうなずきをくりかえした。どこか眠たげでもあった。 「ジングルベール、って?」  少女には酒に酔っている人の独特の間があった。酔客にからまれることはこれまで何度か経験していた。みな一様に、思考が言葉になるまで少しの間があるのだった。あるいは論理の飛躍や、共感を強く求める寂しさの発露、もっといえば心に思い浮かべたことをそのまま表出したようなわがままさがあった。  少女は僧に向かって手をあわせ、強く目を閉じた。なおも微笑は浮かび続けている。 「ねえ、わたしのお願い、叶えてくれますか」 「お願い、ですか?」 「今、この空に虹をかけてよ。そしたら、わたし、元気になると思うの」  僧は困ったように笑った。 「あなたはなにか思い違いをしていらっしゃる」 「そうなの、わたし、間違えてばかりなの」  話しているうちに少女の声は泣き始め、見る間に涙があふれだした。 「振られたんだよ、さみしいよう」  声をあげ泣き続ける少女をどうにかベンチに導き、互いに腰を下ろした。二人のひざが少し触れ合った。 「冬に虹は出ませんよ。ましてや、こんな晴天の日に。空気が乾燥しているので、虹が出るとしたら、それこそ奇跡のようなことです」  少女は少し泣きやんで、僧の顔をまじまじとのぞき込んだ。 「お坊さん、わたしとおない年くらいじゃないですか」 「そうかもしれません」 「なにか、もっとお話をしてください」 「……あなたはさきほど、間違えた、とおっしゃいましたが、後悔してもしかたがありませんよ。執着を手放すことです」 「わたしはつないだ手を離されたんですよ……お坊さん、お説教が下手ですね」  少女から思いがけず笑顔がこぼれた。僧は少し救われた気がした。 「修行の身なので」 「言い訳はいけませんね」 「そうですね」  電車が到着したのか、駅舎から次々と人がはき出された。僧は、つられて深いため息をつきたくなった。 「奇跡を、待ってはいられない。それはほんとうに、そうかもしれませんね」  少女はつぶやきながら、こちらに向かって歩いてくる少年に手を振った。少年は少女と、続けて僧に気づき、困惑しながら言った。 「なにやってんだよ、ねえちゃん」 「むかえに来てあげたんだから、もっとありがたがってよ」 「すみません、この人」少年は僧に軽く頭を下げた。「最近、シュウカツがうまくいかないからって、朝からお酒のんじゃって。おれの学校にまでついてこようとするし」  僧はきょうだいの姿を見比べて、ため息をついた。徒労と安堵がないまぜになったような深いため息であった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加