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タッちゃんとは小学校で同じクラスだった。
ある日タッちゃんはヒロキ君と喧嘩する。殴ったりはなかったけれど教室中の子供たちが立ちすくんだ。なにが理由かは知らない。タッちゃんは泣きだした。タッちゃんはヒロキ君に「タッちゃんなんかたいしたことねえ」と言われ「泣けばいいと思いやがって」とも言われた。
先生がやってきてタッちゃんとヒロキ君を怒った。
タッちゃんは泣きやんだけどずっと下を向いていた。
帰りにタッちゃんはあたしに近づいてきて「きょう、ひま?」ときいてきた。あたしは「うん」と返事をした。
「いっしょに遊んでくれる? 家にかえってから僕の家にきてくれる?」
タッちゃんはあたしの方をみずに話していたけど、あたしはうれしくなった。
「うん、遊ぼう。あとでいくね」
タッちゃんは下を向きながら帰っていった。
今日はタッちゃんと遊ぶ。なにして遊ぶんだろう。ゲームかな。ゲーム得意じゃないんだけど。早足で家に帰るとランドセルを投げすて母に「ともだちの家に行ってくる」と叫び、すぐに家をでた。
タッちゃん家の場所は知っていた。
昔、タッちゃん家はうちの隣だった。タッちゃんに妹が生まれ広い家に引っ越して行ったのだ。学校で会えば話はするがタッちゃんの家へいくのは久しぶりだった。というか一緒に遊ぶという習慣は完全になくなっていた。
タッちゃん家から、あたしの家は遠い。でもその長い道程をあたしはときどき休み、ほとんどを走った。着いたら丁度たっちゃんが玄関から出てくるところだった。
「タッちゃん!」
呼ぶと、タッちゃんはポカンとした顔で「あ」と言った。タッちゃんは一人じゃなかった。タッちゃんの後ろにもう一人いて、それは今日タッちゃんと喧嘩して「タッちゃんなんかたいしたことねえ」と罵ってたヒロキ君だった。
タッちゃんは困った顔をした。ヒロキ君はあたしを睨んだ。
「これからゲームしに行くんだ。男だけで遊ぶから…女子はだめだよな」
タッちゃんは後ろを振りむいてヒロキ君に同意を求めた。
「いいから行くぞ」
ヒロキ君は玄関からでてきて、あたしの立っているところまでくると「オトコオンナ。変な名前」と囁いた。タッちゃんも慌ててでてきた。すれ違ったけど、なにも言わずタッちゃんはそのまま行ってしまった。
あたしの名前は男みたいで、そのせいでよくからかわれていた。
その後のことは覚えていない。
友達の家に行ってくる、と言ってでてきた。すぐに帰宅すると母に勘ぐられるのでどこかで時間をつぶしてから帰ったのではないか。
次の日、タッちゃんは何事もなかったかのようにヒロキ君とじゃれあい、いつも通りだ。ヒロキ君がタッちゃんに「サッカーしよう」と誘う。何人かの男子も一緒になって校庭へでて行く。しばらくするとざわめきがきこえてくる。
それからタッちゃんに避けられるようになった。
小学校も終わりに近づくといつのまにか男子と女子、関係性が変化している。誰かが誰かを好きになっている。中学生になるとその関係性はさらに進む。つきあいだす子がでてきた。
中学生になったヒロキ君はモテだした。
ヒロキ君は部活でサッカーをやっていた。走りまわっているヒロキ君を見ようと校庭の隅に女の子の固まりができだした。ヒロキ君はいつも怒った顔で女の子達には見向きもしなかった。女の子に話しかけられても返事もしない。ときどき女の子からなにか渡されていたようだったけど受けとってはいないようだった。
タッちゃんは少しおとなしくなる。
班長になって困った顔をしながら皆をまとめたり、囲碁部に入って、休み時間は二、三人の男子と喋っていた。タッちゃんとヒロキ君は今はそれほど絡まない。私とタッちゃんとヒロキ君は同じクラスだ。
二人組の上級生女子が「ヒロキの席どこ?」と、教室に入ろうとしていたあたしにきいてきた。
「窓側の一番後ろです」とあたしは縮こまって答えた。ヒロキ君が説明しやすい席でありがたかった。真ん中ら辺とかだったらとっさに説明ができなかっただろう。本当は窓側の一番後ろの席は別の子の席だったが、ヒロキ君が恐喝して奪いとったのだ。
「いないね、ヒロキ」
「教室くればつかまると思ったのに」
「まあいいか。ヒロキのクラス、かわいい子いないってわかったから」
「ホント、ブスばっか。よかったじゃん」
「ヒロキとられる心配、無だね。無だよ」
上級生は髪を金色に染めていた。なのに髪の根本は黒かった。スカートは短くたくしあげられ、ゴテゴテと飾り立てたスマホを手に帰っていった。
これほど校則をやぶったなりをしているのに、よくここまで歩いてこれたものだと感心した。先生は彼女等に注意をしないのだろうか。諦められているのだろうか。
「…っぶねえ」
ヒロキ君が焦った顔でクラスメイトとあらわれた。どこかにかくれていたのだ。
「モテるなあ」
「なにおまえ、もうやっちゃったの?」
「やってねえよ。つきあわないって言ってんのにしつこいんだよ。下級生の教室までくるかあ」
「ヒロキ、おまえ、このあいだ同級生に告られてなかった? あっちとつきあうの?」
「ことわったよ」
「もったいねえ。かわいかったじゃん」
「かわいくなんかねぇよ。うんざりだ。放っておいてほしい」
ヒロキ君は「どけ」と言いながらあたしの肩にぶつかって教室に入って行った。「邪魔な女だ」と睨まれた。
ヒロキ君は窓側の一番後ろの席に座る。あたしの席はヒロキ君の前だ。緊張するのでなるだけ後ろは向かないように過ごしている。背中がバキバキになって辛い。席替えを早くしてほしい。この席からタッちゃんの後ろ姿を眺めることができなかったらとても耐えることができなかった。
あたしは誰とも喋らず、本を読むふりをしてタッちゃんを眺めている。
二年生になったらヒロキ君とはまた同じクラスになったが、タッちゃんは違うクラスになった。
クラスにアニメや漫画に夢中な2人組の女の子達がいる。班決めのときは彼女達の班に入れてもらっていた。先生が「好きな人同士でグループをつくりなさい」と言うとき、あたしはどうしたらいいのかわからない。ただただ困った。クラス中が歓声で慌ただしいなか、ぼーっとしていると彼女達がいつも声をかけてくれた。
「一緒の班にならない?」
それでいつも助かった。
修学旅行のときも彼女達と同じ班になった。
だからあたしは勘違いしてしまった。
旅行先でもずっと一緒の行動かと思ってしまった。
「まだお風呂行ってなかったの。早く行かないと入れなくなっちゃうんじゃない?」
修学旅行にきている。彼女達と同じ部屋になった。あたしは部屋で本を読んでいた。ほかほかと湯気がたっていそうな彼女達に言われて初めて気がついた。そういえば道中、彼女達は二人だけでお喋りしていた。あまり話をふられなかった。
「お風呂広くて気持ちよかったよ」
背中で言葉をききながらタオルや下着を小さなバッグに詰め、急いで部屋をでた。
清潔で、広い、人の少ない風呂場であたしは恥ずかしかった。彼女達に受け入れてもらったような気がしていた。班に入れてもらっただけで感謝しなければ。彼女達が入れてくれなければあたしはどこの班に入ることができない嫌われ者として、教室で晒し者になっていただろう。それだけは嫌だった。
お風呂をでてなんとなく部屋にもどりにくく、ロビーの椅子に座っていた。
お爺さんが灰皿の吸殻をあつめたりテーブルを拭いたりしていた。定位置があるらしくガタガタと椅子を揺らす。そしてあたしを見ながら「あんた、おとなしいなあ」と首を傾げた。言い終わると、返事を返す前に去って行った。
そうか。
そうなのか。
あたしはそんなふうに見えるのか。
お喋りなつもりはないけれど、無口なつもりもなかった。
部屋へもどろうと椅子から立ちあがった。
男子が集団で騒いでいる。
ガラス戸から外を眺めている。
指さしながら笑っている男子もいる。
タッちゃんもいた。子供でも大人でもない声を響かせながら楽しそうに友達とふざけている。タッちゃんをみたので少し元気になった。
廊下へでて階段を上がると踊り場で抱きあっているカップルがいてギョッとした。あたし達の年齢でこんなことを、と、誰が通るかわからない場所でこんなことを、で二倍驚く。そして三番目に驚いたことに男の方はヒロキ君だった。女子の顔はみえない。ヒロキ君の背中に必死になった腕が絡みついていた。
二人は突っ立っているだけで少しも動かない。
こっちを振り返らないで、と願いながら通りすぎようとしたがヒロキ君に睨まれてしまった。ものすごい目だった。
あたしは急足でその場を離れた。
ヒロキ君はずっとあたしを睨んでいた。
修学旅行が終われば受験シーズンだ。
あたしはそこそこ勉強ができたのでそこそこの高校へ入ろうとしていた。
タッちゃんとはおそらく違う高校になる。
そうしてあたしは目指していた高校へ入る。
高校生活はとても楽だった。初めてまともな息ができた気がしたのでそれまでは緊張して過ごしていたのだとわかった。生徒達は皆、もの優しい。
でもここにはタッちゃんがいない。タッちゃんはうちの中学から一番進学する人が多い高校へ行った。
そこそこの高校をでたあたしはさらにそこそこの大学へ入った。
大学では薄ぼんやりと毎日を過ごした。
薄ぼんやりだったのに就職活動はうまくいき、わりと大手の会社へ入ることができた。
この頃には裏切りも、失恋も、人生の一通りを体験していた。だからと言ってそれが教訓になるかというとそうでもないことはのちにわかった。よほどのことがない限り、あたしは身に沁みない。
会社の自販機の前でヒロキ君が缶コーヒーを飲んでいた。
吃驚した。
すぐにヒロキ君だと気がついた。すっかり大人で、紺色のスーツを着て髪は以前より短くなっている。中学のときからモテる人だったけど今も現役続行の佇まいだ。
とりあえずここから去ろうとしたが間にあわなかった。ヒロキ君が「あ」とあたしをみて言った。
そんなに親しくしていたわけじゃないのによくあたしの顔がわかったな。中学を卒業してからけっこう経っているのに。というかヒロキ君、あたしのことが嫌いだったんじゃなかったっけ。気がついても無視してくれればよかったのに。飲み物なんか買いにくるんじゃなかった。
頭のなかでは凄まじいスピードで思惑が乱れとんだが、あたしの口からでた言葉は「おひさしぶりです」だった。
ヒロキ君は片手でコーヒー缶、もう片方の手を頭の脇でひらひらさせながらあたしに近づいてくる。ヒロキ君の笑顔なんか初めてみた。
「ひさしぶり。ここに勤めているんだよね? すごいところに勤めているね。いい大学に入ったんだ。優等生だったもんな。今でも連絡とりあってるやついる? 中学の同窓会、一回もきたことないけどなんで? ひょっとして連絡網まわってきてない?」
あわあわしていたら「電話番号、教えて」とスマホをだしてきた。「次の同窓会の連絡まわすから」
ヒロキ君はこんなに喋る人だっただろうか。まあ、あたし以外には喋っていたのかもしれない。でもヒロキ君の有無を言わせぬ物言いは懐かしかった。
じつは同窓会開催の葉書は一度だけ届いた。
迷って、欠席に◯をつけて返した。タッちゃんに会いたい気持ちはあったが中学のとき友達が一人もできなかったのだ。行って、誰と喋ればよいのだ。
葉書は以後二度とこなかった。
ヒロキ君はあたしの電話番号をとり込むと「本当に俺のことおぼえてる? 山志田浩紀だよ、俺の名前。漢字わかる?」と言うのでヒロキ君の名前をスマホに打込んだ。ヒロキ君は「よくおぼえていたなあ」とあたしのスマホ画面をのぞいた。
それから「連絡するよ」と言い、また手をひらひらさせながらエレベーターのほうへ去っていった。
どうか同窓会が開催されませんように。
ところが同窓会は開催されないのにヒロキ君から連絡が入った。しかもメールではなく電話だった。あたしは電話にでてしまう。
「今日、ノー残業デーだよね? 予定ある?」
嘘なんかすぐにでてこない。正直になにもないと答えた。
「じゃあ」とヒロキ君は言う。
「夕飯を一緒にどう? なにが食べたい? 和食とかは? 飲めるよね」
適当に食べてすぐに帰るんだ。宗教か政治団体か、あるいは鍋でも売られるのか。ヒロキ君ならいくらでも食事の相手なんかいるだろうに。
ヒロキ君はうちの会社と取引のある会社の営業だった。うちの会社が商売したがっていた会社にヒロキ君はコネがあった。なので人脈をつかってうちの会社に売り込みをかけたそう。
ヒロキ君はうちのお偉いさん方に食い込んでいるらしかった。部長とゴルフにも行っているらしい。会社の近くにあるランチの安くておいしいカフェを教えてもらった。
「金原さんと何回か行ったな。ほら、受付の美人。飲み会のとき、いつも総務の木内主任の隣に座ってる」
「知らない。そうなの?」
あたしは飲み会に行かない。だからなにも知らないのか。
ヒロキ君はあたしよりうちの社内のことに詳しかったし、人間関係もそれなりに築いていた。そんなにうちの会社にきていたのに今までよく出会わなかった、と自分の行動範囲に感心した。
「今度、ランチへ行こうよ」
久しぶりのヒロキ君は愛想がいい。昔のヒロキ君とは大違いだ。あたしが取引先の人間だからかな。それとも鍋を売る前のリップサービスかな。
「嫌いな食べ物とかある?」
「しいて言えば魚。でも食べられないわけじゃない。綺麗に食べられないから一緒に食べる人が不愉快かなって」
ヒロキ君は「変わってないなあ」と、にこにこした。
ヒロキ君はなぜこんなにおだやかにあたしと喋っているのか、ききたいことはあったけど角がたちそうでとても口にはだせなかった。
「アニメやマンガ好きだった、女子の二人組覚えてる? 中学で同じクラスだった。仲よかったよね」
「修学旅行で一緒のグループになった子達かなあ」
「たぶんそう。あの子達、マンガ家になったんだよ」
「えー」
「それぞれが絵と話を担当してマンガを仕上げてて、今度、アニメになるらしいよ。同窓会で話きいてびっくりした」
「すごいねえ」
「すごいよ。主人公は孤高の美人で君がモデルだって」
ちょっとよくわからない。
「一人でも平気で、なんでもよく知っていて、かっこいい、って言ってたよ。憧れだったって」
「それはあたしじゃない。別な人と間違えてる」
「君だよ。綺麗でスタイルがよくて、まっすぐな長い髪を肩にたらして。『長髪は三つ編みにしてこい』って先生に言われたら『三つ編みにできるならそうしてる。編むことのできない髪質もあるんです。私の髪がそうです』って啖呵切って。あれは今でも同中のやつと会うと話題にでる」
髪型のことで注意を受けてそんなふうなことを言ったことは覚えている。あたしの髪は剛毛なので、束になると曲がることを良しとしない。でも綺麗とスタイルいいというのはどうだろう。
「信じてないな。褒め言葉を信じない」
「そりゃあだって」
あたしはもう酔っていた。緊張で、間をもたせるあまりぐいぐいいってた。
ヒロキ君の喉仏がごくりと日本酒をながしてゆく。ヒロキ君はあの頃とはまるで違っていて、やさしそうに笑っていた。きいても大丈夫なような気がした。今ならきけるような気がした。
「あの、日狩達也君は今どう…」
とたんヒロキ君の顔が昔にもどった。怖い顔してあたしを睨む。怖い顔したまま怖いことをあたしに告げた。
「日狩は結婚したよ」
空気がひゅるんと一瞬で冷えた。
「子どもが二人いるシングルマザーと結婚して、親に勘当された。接待で行ったキャバレーで知りあったって」
「そうなんだ」
「俺はやめろって言ったんだ。まだ若いのにそんな苦労することないって。でもあいつ、子どもがでない身体なんだって。『得した』って言ってた。『苦労なく二人も子どもが手に入った』って。大学のときからつきあってた彼女と結婚しようとして、籍をいれる前に病院で検査したらわかったんだって。彼女は子どもがほしかったから別れたって」
タッちゃんは幸せになっていると思っていた。たしかに幸か不幸かタッちゃん自身にきかないとわからないけど、アクシデントのない、親の保護がなくなるなんてことのない生活をおくっていると思っていた。
「でようっか」
あたしのほうをみることもなくヒロキ君は席を立った。財布をだしたが「俺がさそったから」とヒロキ君がすべての支払いをすませた。
やはりくるべきではなかった。断ればよかった。せめて夜空に星がみたかったが空はどんより曇っていて、皆このようなときどうやって解決するのか、タッちゃんのことなんかきかなければよかった。
「ごめんなさい、あたしの分まで払ってもらっちゃって」
飲んでいた店は住宅街にあった。店をでると人通りが少なかった。
「いいよ。そのかわり次おごって。ランチに行こう」
ヒロキ君はおだやかにそう言ったけど次はない、と思った。焼き菓子とかお茶とか軽くて消えるものを後日買って渡そう、と思った。
「ひょっとして、次はないなとか考えちゃってる?」
妖怪サトリを思いだしたけど解決にはならない。
「わるかったな」
ヒロキ君が歩きはじめた。
「俺、日狩とちょい、もめたんだ。好んで苦労を背負い込むことなんかないだろう? しかも今、奥さん、キャバレーやめて定時制高校に通ってて、なにもかも日狩が金だしているんだよ。ああ、べつに内緒の話じゃない。日狩のやつ、同窓会で言ってたから皆知ってる」
夜はまだそれほど深くない。なのに街は誰もいなくて深夜のよう。ヒロキ君と二人、夜の底を歩く。
「大丈夫。日狩君、しっかりした人だ。そのうち良い方向におちつくよ」
「そうだな」
ヒロキ君があたしをみて「日狩のこと、まだ好きなの?」ときいてきた。
「小中学校の頃、好きだったよな。気持ち、持続してる?」
貧血になりそうだ。というか貧血で倒れたい。
「ずっと目で追ってた」
「うん。そうだね、追ってたね」
早く帰りたい。
「なあ」
ヒロキ君が近づいてくる。
他人の家からこぼれる光と夜行灯で照らされる。月は朧。
「今、つきあってるやついる?」
「あー、いないね」
「いないんだ」
「うん、いない」
「そうか、じゃあこんなことしてもいいよな」
ヒロキ君がぐいっと近づいてあたしの背中に手をそえた。
耳元に息がかかる。
あたしは酔っている。
小学校のときから好きだった。幼すぎて好きという気持ちがわからなかったから、悪態ばかりついていた。中学後半のとき高校は別になりそうだと気がついて告白をしようとしたが、サッカーのマネージャーに修学旅行で告白されてしまった。断ったのに「一回抱きしめてくれたらあきらめる」と言われ、抱きしめているところをみられて焦った。マネージャーだから無下にできなかった。
「同窓会できいたんだ。あの企業にいるって。どうにか潜りこめないか、人脈つかいきった。本当は社内で何回もみかけてた。でも声をかける勇気がなくて」
同窓会なんか一回も行ったことないのに。
情報ってどこからもれていくんだ。
さっきまで逃げようとしていたのにヒロキ君の好きがあたしの皮膚に浸透してくる。ずっと、ずっと好きだったと言ってくれた。そりゃ脳が酩酊するよ。
いとおしいもののようにそっと唇にふれてきたので全面的に身体をあずける。ヒロキ君はそれを了承と受けとったのだと思う。抱き方に少し暴力がまじってきてあたしは優越感でいっぱいになった。
だから、
だからしかたがないではないか。
恋ではなくても。
アイロンのかかったひんやりとしたシーツを背中にヒロキ君は「バージンだと思ってた」と言った。
なんじゃそれは。
「俺が初めてだと思っていたのに」
帰るかな。
「聖母じゃなくてすいませんでした」
「ごめん。俺以外の男にふれていてほしくなかった」
「あたしは山志田君があたし以外の女とセックスしてても許すよ、心ひろいから」
立ち上がってベッドから離れようとしたら腰にしがみつかれる。
「ごめんって」
肺のなかの空気を吐きだしてからヒロキ君の髪の毛をくしゃくしゃにした。
あたしは大人になった今でもコミュ力不足だが人生もやや長くなってきて、それなりの出来事もこなせるようになった。だからヒロキ君があたしのことを「好き」と言ったからってセックスをしたからって、おつきあいが始まるかというと、そうでもないことを知っている。あの人は今、の懐かしさだけでこうなってしまったかもしれないし。
ところが「次、いつ会える?」と、ヒロキ君がきいてきた。
「今度は金原さん達も誘おうか。何食べたいかきいておくね」
「まって。なにそれ。俺、牽制されてるの」
「いやだなあ、もう。あ、今なら余裕で終電間にあう。山志田君は? 終電何時?」
「帰るの?」
「そりゃあ帰るよ。明日も会社あるし」
「怒った?」
「なに、怒るって。怒ってないよ。早く帰ろう」
わざとらしい溜息をついて、ヒロキ君はのろのろ立ちあがった。
「俺、なんかだめだった?」
「だめってなに」
「なんか嫌なところさわっちゃったとか」
「へんなとこさわるのはセックスだもん、あたりまえだよ。それより帰ろう。てか、あたしは帰るよ」
素早く服を身に着ける。財布から適当な紙幣をとりだしテーブルに置いた。ヒロキ君もあわててシャツを手にとったがあたしのほうが早い。『じゃあまた』は違うと思うので「お疲れさまでしたー」と言ってドアに突進した。ヒロキ君がなにか言っていたようだった。
ヒロキ君が出入りしている部署はあたしの仕事とはあまり接点がない。以後、会わなくても仕事はまわる。
酔いが醒めると冷静になって、恥ずかしくなった。
冷たい風が頬をなでると冷静さに磨きがかかった。
忘れようと思った。
なかったことに決めた。
ところがヒロキ君はしょっちゅうあたしの部署に顔をだしにくる。ぐいぐいくる。
ヒロキ君は部署の女の子と雑談してから帰る。こちらの方をちらちらみてくるが目があわないよう、パソコンをずーっといじっている。この状態がずっと続くのかと思うと気が滅入ってきた。
小学校から好きだった?
そんなに長く?
本当は恋人がいるのではないか。得意先であたしをみかけて仕事に有利になるように近づいただけでは。どうしてあたしなんか。
もう今日は帰ろうとロビーを通りすぎたら、受付にいた金原さんが駆けよってきた。
「あの、山志田さんのことなんですけど」
かわいい顔をしているなあ、と見惚れてしまった。こんな容姿だったら「好き」と言われてすぐにその言葉を信じられるだろう。あたしはあたしに自信がない。
「あの人、いい人なんですけど」
金原さんは左右を見渡してからあたしの耳まで唇を近づけ、こう言った。
「手がはやいんです。うちの会社の女の子にも何人か手をだしているんですよ。一回か二回やったらおわりで交際まで発展させないというか、そういう後腐れのない女選んでいるというか、まあ人選の目はたしかだからスキャンダルにはならないんですけど。あたし達も遊びだってわりきっているし」
気の毒そうにあたしをみる。
「でも」
言いよどむ。
「先輩はそうじゃないでしょう?」
心の底から心配してくれている。いい子だ。
「ちょっと噂になってますよ。山志田さんが先輩ねらってるって。わるい人じゃないんですよ、山志田さん。でも先輩のような真面目な人にはきついかも。それにあの人、皆には言ってないけどあたし知っているんです。総務の主任からきいたんですけど」
「総務の主任って、木内さんのこと?」
にこにこしながらヒロキ君が会話に入ってきた。
「木内さん、お子さんが生まれたらしいですね」
金原さんの顔がゆがんだ。
総務主任の木内さんは妻帯者だ。
「愛妻家ですよねえ、木内さん。うちの会社の近所に奥様の好きな和菓子屋があって何回か差し入れしたことありますよ」
「あ、そうなんですか」
すでに金原さんの顔からけわしさが消えている。
「じゃあ先輩、そういうことですので事後処理はおまかせしますね」
受付にもどる金原さんの背中を見ながらヒロキ君は言う。
「金原さんっていっつもイラついててさ、あたりがきつかったなあ」
金原さんは主任の木内さんと不倫しているのだろう。
「金原さんとはそういう関係?」
「あー」
ヒロキ君はうすく笑った。
「そうだね、この会社に入り込めるんならなんでもやったから。でも俺、担当をはずされたんだ。今、引き継ぎしてる」
「引き継ぎ?」
「うちの社長の息子がこれからはここの担当になる。俺は担当をおりるよう言われた」
「んん?」
「息子にまわすから俺の得意先よこせって、うちの社長に言われたんだよ。そのかわり俺は役職がついて給料もあがる」
だから、とヒロキ君は言う。
「もうここにはこない」
「こない」
「うん、こない」
会社のロビーはとうにぬけてなぜか二人で歩道を歩いている。まだ会社の関係者に出会う可能性がありそうな地域だ。夕焼けが、一歩、歩くごとに少なくなってゆく。知ってる。夜の帳がおりてくるってやつだ。
ヒロキ君はあたしの隣でずっと喋っている。
ここの会社に食い込むの大変だったんだ。それをかっさらいやがって。あのボンボンが仕事まわせるわけない。気のきかないやつなんだ。大学だってあまりいいとこじゃなかったから一年だけ留学して、最終学歴はそこの大学名を言うんだ。でも正式入学じゃない。その大学は姉妹校をもっていてそこに在籍してたってだけ。でもボンボンが数年したら社長になるんだよなあ。会社つぶれないかな。転職考えてたほうがいいかな。どう思う?
「そしたら、ボンボンはお飾り社長としておいといて山志田君が采配をふるいなよ。その頃には山志田君、出世して権限もってるよ」
「なんだそれ」
「大丈夫だよ。山志田君が功労者だって皆知ってるよ。ボンボンがうちの会社きてもすぐに山志田君、呼び戻されるよ。そんなあまい会社じゃないって、うち」
ヒロキ君が「ははっ」と笑った。
ヒロキ君が距離を縮めてきていた。ヒロキ君の匂いがしてくる。もうすぐ月だってみえてくる。
まってろ月。
あたしも心を決める。
「なあ」
ヒロキ君があたしの肩を抱いたのであたし達は立ち止まった。
「俺、失恋ってわけじゃないよな」
うん、と返事をしてからヒロキ君のワイシャツに顔を埋める。
「本望だ」
ヒロキ君がつぶやく。
月が煌々と。
ヒロキ君があたしの脇の下の匂いを嗅ぎたがるのでデオドラントスプレーを買ってみたが不評で「匂いは原始的なのが好きなんだ。人工的なのは好きじゃない」と言う。かんべんしてくれ。変態の恋人ができようとは。それともあたしの許容量が少ないのか。世間では恋人同士、脇の下の匂いを嗅ぎあうものなのか。
「いや、俺の脇の下の匂いは嗅がなくていいよ」
「あたりまえでしょう。嗅ぎたくないよそんなの」
「失礼な女だな」
言いながらヒロキ君はベッドであたしの脇の下に顔を埋めている。なんかもうそれで幸せになるのだったらあたしが我慢しようか。
「腕しびれてきた」
「あ、ごめん」
ヒロキ君が体重を乗せてきて今度はあたしのおっぱいの下にくっついた。
「重い」
「次点でここの匂いも好きなんだ」
どうしたらよいのか。
「山志田君ってモテなさそう」
「そうだな、好きにはなってもらえるけどそれだけだな。交際まで発展しないというか。俺、誰ともつきあったことないんだよね」
「うそでしょう?」
「ほんとほんと。交際までいかない」
「それは吃驚」
「なあ? 俺も吃驚だよ。一回か二回、デートしたりセックスしたりすると向こうから疎遠になってきたり、俺から連絡とらなくなったり」
「そのような女性達が大量にいたわけだ」
「いたね、大量に」
「なんでそんなことに」
「さあ? タイミングがわるい?」
ヒロキ君に好意はあるけど大好きというわけじゃないので、過去に嫉妬もわかない。友情九割でつきあっているので楽だ。
「なー」
「なに?」
「ふつうこう言うこと話したらヤキモチとか妬いてくれるんじゃないの?」
「あー」
「あー、ってなんだよ」
「ごめん」
「あやまんないで。なんか俺もあやまっちゃいそうになるから」
「ごめん」
ヒロキ君が社内ではつきあっていることを内緒にしてほしい、と言う。あたしもとくに広めたいとは思っていなかったし、得意先の女に手をだすってまずいことだろうと了解した。でもどう考えてもバレてるよね。とりあえず金原さんは知っているよね。
あたしは喋らないつもりだけど意味なんかあるのだろうか。
「アニメが評判になったから今度は舞台になるんだって」
「アニメ?」
「ほら、あの二人組で漫画家やってる」
「ああ、修学旅行で一緒の部屋だった」
「うん。でも権利問題でお金はあまり入ってこないらしい。先週末の同窓会にあの二人きてそう言ってたって」
「先週末に同窓会あったの?」
「え? うん。行きたかった?」
「まさか」
「俺も連絡はきたけど行かなかった」
「どうして?」
「どうしてって、いや、同窓会行ってたのは少しでも君の噂きけるかな、と思って行ってただけで、はあ、俺、こういうこと言うの苦手」
そして『次の同窓会の連絡まわすから』と言ったのは、あたしの電話番号を知るためだったことも教えてくれたので、気持ちが舞い上がった。
でも、うちの会社にヒロキ君はもうこない。
引き継ぎは完全に終わってボンボンが我が社の担当となった。ボンボンは意外と気が利いてそつがない。受付の金原さんも「つかえるのが入ってきましたねえ。山志田さん、すぐに忘れられちゃいそう」と言っていた。これはヒロキ君、目測誤ったなあ。先日の言葉は単なる愚痴だったなあ。
ボンボンはあたしのところにまで「これからお世話になります」と真面目な顔で挨拶しにきた。あまり笑わない人だと思った。
ボンボンの評判がいいことをヒロキ君に言うと「なんでだよお」とくやしがる。言葉をにごして伝えりゃいいのにあたしもこのようなことを言うのだ。
「でも役職もらえたんでしょ」
「うーん、まあ、もらえたことはもらえたけど」
ヒロキ君が実家住みなので、あたしのアパートで会うことが多い。あたしは一人暮らしだけど料理なんてできないからヒロキ君がバジルと、トマトと、モッツァレラチーズをパスタにからめている。なんてお洒落なものをつくる男なんだろう。いったい何人の女がこのパスタを試食したのか。和食はちゃんと出汁をとるし、餃子は皮からつくる。うちのキッチンの戸棚は調味料でパンパンだ。
「でもなあ。前は会社に会いに行けたのに」
「あたしに?」
「そうだよ。あんなに会えたのに」
ヒロキ君は会社帰りにうちに寄るようになったが絶対に泊まらない。今日も食べたらすぐ帰るだろう。泊まってほしいような帰ってくれてホッとするような。あたしの気持ちもよくわからない。
「あの…」
ある日、ヒロキ君の会社のボンボンがあたしに話しかけてきた。ボンボンはうちの会社にすっかり慣れてきて無表情に社内をとびまわってる。やはり仕事は相当できるよう。誰も彼も褒める。ヒロキ君のことはもう誰も口にださない。
「このようなことをきくのは心苦しいのですが」
話がある、と廊下を歩いているときに言われたので目の前の空いている会議室に二人で入り込んだ。話はすぐすむと言われた。
「うちの山志田と個人的なつきあいがありますか?」
まさかそんなことをきかれるとは思ってもみなかったので狼狽えた。
「え? あの、山志田さんって御社の山志田さんですか?」
「はい、我が社の山志田です」
「えー、あ、はい。はい。おつきあいさせていただいてます」
どう答えるのがよかったのか突然すぎてわからなかった。いや、突然じゃなくてもわからなかっただろう。
ボンボンはものすごい顔をした。顔の筋肉が動いているところなんか見たことなかったので吃驚した。
「山志田は結婚しています」
「あのおっしゃっている意味が」
「山志田には妻と子がいます。彼には家庭があるのです」
世界がぐにゃりと崩れた。
「やっぱり」とボンボンは言う。
やっぱり、とあたしも思った。
「知らなかったんですね。夫婦仲はよくないそうですが子供は二、三歳になるそうです。妻子があるのに御社の数人の女性社員とつきあっていることがわかって、山志田は社にもどしました。かわりに僕が担当となって日参させていただいてます。本当にもうしわけない」
騙されていたわけですし山志田を訴えますか、ときかれた。
「いえ、そんな、訴えるなんて」
「結婚していることを知らされなかったわけですし弁護士を入れたら勝てますよ」
「ちょっとまってください。弁護士とか大袈裟」
「大袈裟ではないです。あなたは不倫していたわけですから山志田の奥さんから訴えられてたかもしれないんですよ」
手先が冷えてきた。
「どうしようもない男なんですよ。調子がよくていい加減で。社長のお気に入りだったから今までなんとかなってきたけど」
急にボンボンが「大丈夫ですか」と言ってきた。
「真っ青ですよ。救護室ってありましたっけ。人を呼んできたほうがいいかな」
「大丈夫です。そこの椅子に座って少し休みます」
ボンボンが椅子をもってきて座らせてくれた。
「誰を呼んできてほしいですか。嫌でなければ横になれる部屋まで僕が抱えて行きますが」
「本当に大丈夫です。しばらく休んだらよくなりますから」
ボンボンは椅子をさらにもってきて並べ「失礼します」と言って、あたしを椅子に寝かせた。スーツの上着を脱いであたしにかけてくれた。そしてあたしの手を両手で包んだ。とてもあたたかい手だった。
「大丈夫ですよ。よくなるまでついていますから」
ボンボンいい人だなあ。
「僕、男ですけどこんなことされて不愉快じゃないですか? 大丈夫ですか? やはり女の人呼んできたほうが」
ヒロキ君よりよっぽどいい人だ。
「妹が貧血でよくたおれるんです。だから妹がたおれたときと同じようにしているんですけど、俺、男なんだけど大丈夫かなあ。こんなことしちゃって。妙齢のお嬢さんに」
ああ、あたしもう妙齢のお嬢さんじゃないのに。
「ありがとうございます」
「唇の色がもどってきましたね」
ボンボンがホッとしたように言った。
「昨日、あまり寝てかったんです。だからかな」
「そうですか。今日はちゃんと寝てください。吃驚しました」
「はい、早く帰って寝るようにします」
「きついことを言ってしまって」
「いいえ、親切にしていただきました。ご厚意をありがとうございます」
「山志田には僕のほうからも言っておきますが、すみません。別れてください。こんなときに言うのもどうかと思いますが、以後、二度とこの話はしません。山志田夫妻は子供が成人するまで別れないという約束をしているそうです。訳ありのようですがくわしくは知りません。プライベートに入り込むのは苦手なんですが、すでにプライベートではなくなってきているので」
「はい」
「先ほどは貶してしまいましたが山志田はコミュニケーション能力の高い男で仕事ができるやつなんです」
「はい」
「夫婦仲はわるいけど子供のことは可愛がってて」
この人の恋人だったらこんな目にあわなかったかも。
「僕の妻もじつは山志田のファンで」
なるほど。いい男はすでに売れている。
ボンボンはあたしの顔色がよくなるまでいてくれた。
そうして。
そうして、ボンボンがうちの会社にきたとき少しの雑談をするようになった。
ボンボンのスマホの待ち受けは奥さんで、なかなかの美人だ。
ヒロキ君からは連絡が途絶える。とくになにもしなかったがボンボンがヒロキ君に言ってくれたのだと思う。ヒロキ君はあたしのアパートになにも置いていなかったので別れたらそれっきりだった。複雑な香辛料はすべて捨てた。どうせあたしにはつかいこなせない。
受付の金原さんとはときどきランチへ行くようになった。
金原さんは不倫をやめたのだそうだ。
「生産性がないですよね、不倫って。オヤジにあたしはもったいない。あたし可愛いし。若くてお金もってて優しい男みつけることにします。合コン一緒に行ってあたしの引き立て役やってくれませんか」
金原さん、嫌いじゃないなあ。好きでもないけど。
「行くわけない」
「行きましょうよ。あたしが男みつくろってあげますって。今度は失敗しないように」
金原さんにはなにも言ったことがないのだが、なんでもよく知っていた。ヒロキ君のことをボンボンの耳に入れたのは彼女かもしれない。
あたしの世界はまだまだ灰色でなにもかもが怠かった。
ひどい気持ちがいつまでたっても抜けないので、あたしが如何にヒロキ君のことを好きだったか確認できた。
本当に好きだったのだ。
あたしは。
ヒロキ君のことが。
気をつけていないとすぐに涙がでてきてしまうので困った。そのうち涙はひとけのないときだけにでてくるようになり人体の不思議を思い知る。
きっと忘れられる。これは忘れるのに三年かかると思って一年で忘れられる。
ヒロキ君。
屑のヒロキ君。
あたしを騙していたヒロキ君。
あたしのことが小学校から好きだったヒロキ君。
料理上手なヒロキ君。
思い出のなかで笑ってろ。そこからもうでてくるな。
空の色が青だったことに気がつくようになった頃、知らない番号から電話があった。放っておいたらショートメールがきた。
『日狩達也です』とあった。
タッちゃんから会いたいと言われたので、休日の昼下がりにファミレスでまちあわせた。数年ぶりなので顔がわかるのかと心配したがわかるものだった。タッちゃんはタッちゃんだった。
「ひさしぶり」
本当にひさしぶりのタッちゃんはお父さんお父さんしていた。ヒロキ君は家庭の匂いのしない男だったなあ。お洒落でいつも身綺麗にしていた。だからあたしみたいなのがひっかかってしまうわけで。
「ちょっと太っちゃって。いや、ちょっとじゃない。使用するベルトの穴がどんどん先になっていってる」
「ちょっとふっくらしたかな」
「あははは、言葉やさしい」
タッちゃんは笑ってから「山志田が」とあたしの目をみた。
「なんか迷惑をかけたらしいね」
やっぱりそっちの用事か。ヒロキ君に頼まれたのかな。いや、ヒロキ君の奥様から、ってこともあるか。
「このあいだ連絡がきて会ったんだ。同窓会で会ったら話もしたけど個人的なつきあいはなかったから吃驚して。宗教か、鍋売られるかどっちだろうって思った」
ヒロキ君と会うことになったとき、あたしもそう思ったことを思いだし少し笑った。
「俺も鍋売るために連絡してきたと思ってる?」
「そういやそうだね。これから鍋のセールスに入るの?」
「いや、鍋じゃないんだけどさ」
タッちゃんはプレゼント用に包まれた箱をとりだした。
「なになに?」
「中身知らない。山志田からあずかってきた」
青いストールだった。
とても美しい色だった。
「これもらったら、なんかの集会に行かなくちゃならないとか?」
「山志田は無宗教だと思うよ。違うよ。買っててわたそうと思ったら会えなくなったから、って、山志田にたのまれたんだよ」
そうか、ヒロキ君とはもう会えないのか。ものすごく年数がたったらまた会えるような気がしていた。そうか、会えないのか。
「わるかったって」
「うん」
「本当に好きだったって」
「うん」
「初恋だったんだって、山志田の。それからずーっと好きでい続けてたんだって」
「嘘だ。結婚してたじゃない」
「あーあれは出会い系で一回会った女性が妊娠したので籍入れたんだよ。女性の年齢がけっこう上で、妊娠はこれが最後になりそうってごねられたらしい。山志田もいい歳して独身だったし親がね、孫の顔がみたいってあれでね、山志田がおれたんだ。双方好きあってというわけじゃないからあまりうまくいってないらしい。山志田もちょくちょく浮気してた。でも初恋の人とむすばれた、というのがバレて、奥さん、慰謝料請求するって言いだして。山志田にこの箱わたされて愚痴られた。でも子供はかわいいって。成人するまでは良いお父さんやるんだって」
「そっかあ」
「同窓会でも山志田、愚痴ってたんだ。奥さんとうまくいってないって。俺もシングルマザーのキャバ嬢と結婚して親から勘当されたって愚痴ったな。でも、皆、シングルマザーのキャバ嬢と結婚ってところに同情してくれたようだけどそうじゃないんだよ。親の度量の狭さが俺は嫌だったんだよ。俺の奥さん、高校生のとき妊娠しちゃって親ともめて、彼氏の実家へ逃げて、高校は退学して、出産して、彼氏が高校卒業して職についてから別所帯もって、次の子も生まれて、それから彼氏に捨てられたんだ。彼氏、実家にもどって大学に入りなおしたって。奥さんも自分の親に相談したら少しの金わたされて『二度とこないでくれ恥ずかしい』って言われたんだって。バツイチ女が子供二人かかえたうえ高校中退だもんな、水商売しかないよ。そんな人生おくってきたのに人に気をつかえるいい人なんだ。強い人なんだよ」
そういう人を選んだタッちゃんこそ強い人だと思った。タッちゃんは立派な、尊敬できる、すばらしい人なのだ。
「幸せそう」
「うん、幸せだよ。奥さんの子供もかわいいよ。いい子ではないけどかわいいよ」
よかった。
「山志田からのそれ、大事にしてやって。きっと名前にちなんだ贈り物だ」
「名前って?」
「ほら」
と、タッちゃんは言った。
「海青だから」
うみお、とタッちゃんは言ってくれた。
「あたしの名前、覚えててくれたんだ」
「なに言ってんだよ、幼馴染だろ俺たち。小学校も中学校も一緒だったじゃない。俺、昔、うーちゃんって呼んでたよね」
あたしは自分の名前が嫌いだった。幼い頃「変な名前」とからかわれた。そしたらタッちゃんが「うみおって呼ばれるのが嫌なら、うーちゃんって呼ぶね」と言ってくれて、それからあたしはずっと、うーちゃんだった。
「海青っていい名前だよね。ご両親のセンスがいいんだね」
「あはは、ありがとう」
「山志田の奥さん、髪の毛、直毛なんだ。きっとそれで会う気になったんだと思う。うーちゃんも髪、直毛だもんね」
「まさかあ」
「ほんとだって。あいつ初恋こじらしてアタマおかしいんだ」
アタマおかしいは本当にそう。
会話が少し途切れたらタッちゃんが「でようか」と、卓上のレシートに手をのばした。
「割り勘にしよう」
「俺、転勤が決まったんだ。引っ越すんだよ。転勤先遠いんだ。もう簡単に会えないと思うからおごらせて」
タッちゃんとはもう会えないだろう。ヒロキ君が最後に会える機会をつくってくれた。タッちゃんがよい人とめぐりあってよかった。
「じゃ、ごちそうさま」
「うん」
「元気でね」
「うーちゃんも元気でね。こんなことになってしまったけど山志田いいやつなんだ。馬鹿でアタマおかしいけど。本当はうーちゃんぐらいしか山志田のこと受けとめることできないと思ってる。出会いがもう少し早ければよかったのに」
「出会いはずいぶん前だったけどね。初めて会ったのは小学校だった」
「それもそうか。うーん、じゃ、タイミングか」
「縁がなかったんだよ」
「さみしいなあ」
それからタッちゃんは「許してやって」と言った。
どう答えたらいいのかわからなくて「あはは」と笑ってごまかした。
店をでて「それじゃあまたね」と別れの挨拶をして、背中を向け歩き始めたとたんタッちゃんはスマホをとりだし耳に当てた。ヒロキ君に電話しているんだろう。ヒロキ君の声、もう一度ぐらいききたかったな。
ぷとんぷつんと縁が切れてゆく音がした。
うちに帰ってたくさん泣く。明日も泣く。明後日も泣く。次の日は、どうかな。悲しみはずっとあってもそのうち沈んでゆく。
ヒロキ君が呼んでくれたように自分で「うみお」と声をだしてみる。
うみお。
いい名前じゃないか。素敵な名前。なぜあんなに自分の名前を嫌っていたのか。
白いクレヨンで下手くそに描かれたような雲。
青い空。
さようならと振った手がとても遠い。
じゃあね、元気でいてね。
あたしもなるだけがんばる。
おれは気にくわない。
タッちゃんがうみおのことを急に『うーちゃん』と呼ぶようになった。なんでだろう。『うみお』の方がいいのに。タッちゃんとうみおは幼馴染だから仲良しなのはしかたないとしても『うーちゃん』はないんじゃないか。だいたい男のくせに女と仲良いとかありえない。
休み時間、今日もタッちゃんがうみおと話している。タッちゃんがなにかおもしろいことを言ったようで、うみおが笑っている。
むかつく。
話おわってうみおは教室をでて行った。タッちゃんがこっちへきたので「うーちゃんと仲いいなー」と言ってみた。タッちゃんはおびえたような顔をしたので「結婚するのかなー」とも言ってみた。
「あんな男みたいな名前の女。どこがいいんだ?」
「そういうこというのやめろよ。うーちゃん気にしてるんだから」
タッちゃんがムッとした顔したのでおれもムッときた。
「かばうんだ。結婚式には招待しろよ。友人代表でおれがスピーチな。みっなさあーん、日狩達也君のーぉ、結婚相手のうーちゃんはー」
大声でそう言ったら教室に残ってた連中が「うーっちゃんって誰?」と集まってきた。
「タッちゃんの結婚相手」
「やめろよ」
タッちゃんが真っ赤になっておれの服をつかんだのでやりすぎた、と気がついた。
「タッちゃん、手はなせ」
「ケンカなんかするなよ」
クラス中が騒ぎだし引っ込みがつかなくなってきておれは怒鳴った。
「気持ちわりいんだよ。なにいちゃついてんだよ。学校でやるな」
教室がしーんとなり、タッちゃんはなにか言おうとして口をあけたけどなにも言わず、みるみるうちに涙があふれ、おれは後悔した。おれはいつもこうだ。やってから後悔する。
あやまらないと。タッちゃんにあやまらないと。どうしよう。でも皆の前であやまるのは嫌だ。あとでこっそりあやまりに行こうか。
ぐわんぐわんになっていたら、教室の入り口で真っ青になって立っているうみおがいた。
どこからみられていた? いや、今この状態だってみられたら困る。どうみたっておれが悪者だ。うみおがみてる。よけい今あやまりたくない。やっぱりあとでだ。放課後、タッちゃん家に行こう。家まで行って、タッちゃんが一人のときにあやまろう。それで言うんだ。学校で女と仲良くしてるとろくなことにならない、って。タッちゃん家とおれの家は近い。帰って、ランドセルおいて走ればすぐだ。
うみおなんかと仲良くするな。
ちゃんと言う。
ちゃんと言える。
うみお。タッちゃんなんかと仲良くするな。
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