89人が本棚に入れています
本棚に追加
超短編SS『恋蛍ーこいぼたるー』
□◆□◆□◆□
龍二は今日も拓海を撒き、ドライブデートをすべく、
千鶴をアパートまで迎えに来た。
「龍二さん、また拓海さんを置いてきたんですか?」
「デートするのに拓海は邪魔だろう?」
少しだけ呆れる千鶴。
だが、龍二はお構いなしだ。
「千鶴、何処か行きたいところはあるか?」
「特にはないんですけど…」
いつも要望を口にしない千鶴が、珍しくほんの僅かだが、遠慮が滲んだ。
龍二は、その心の裡を出させる、最恐の言葉をかける。
「千鶴、行きたい所を言わないと、このまま買い物だぞ?」
「海が見たいです」
『買い物』の殺し文句に、千鶴が即答する。
「海?」
「海じゃなくても…いいんですけど…ぁの、あまり…そういう所へ行ったことが無いので…」
しどろもどろな千鶴に、
「そうか、分かった」
龍二はそっと頬を撫で、目的地へ車を走らせた。
やって来た、誰もいない海原。
梅雨前の、すっきりした青空。
砂浜の白に、波際の白。
そして見渡す限り青い、凪の海が広がっていた。
「わぁ、綺麗」
「千鶴、裸足になるか?」
「いいですか?」
千鶴は、その場で裸足になる。
砂の少し暖かい、ざらざらした感触が気持ちよかった。
龍二も同じように裸足になり、膝下までスラックスの裾を上げた。
千鶴の手を取り、波打ち際に行こうとする。
「よし、行くぞ」
「え、入るんですか?」
千鶴は、何も準備していないことが気になり、躊躇する。
「大丈夫。さっき拓海に気取られて、持ってくるように言っておいた」
「ふふ。拓海さんも、振り回されて大変ですね」
大丈夫ということで、千鶴は遠慮なく波打ち際に踏み込んだ。
千鶴の真っ白な足先に、サワサワと優しい波が絡む。
少し冷たい感触が、千鶴の身体を清めていく。
瞳を閉じて、すぅっと深く息を吸うと、
潮の香りがまた心地よかった。
「龍二さん、連れてきてくれてありがとうございます」
「何もない、ただの海だがな」
千鶴は、ふるふると首を振る。
「私、これまで本当に何も感じて来なかったので…」
「これからは好きなだけ感じればいい。どこまででも連れていってやる」
「ふふ、龍二さんは本当にやってしまうから困ります」
千鶴の視線が龍二のそれと交わる。
龍二は、そんな千鶴の身体をその腕で囲った。
「俺がしてやりたいから、仕方がない」
「私は、龍二さんがいてくれればそれでいいんです」
千鶴は、龍二の懐で可愛く笑う。
その瞳には、控えめだが龍二に対する恋心が滲む。
「そうか…それなら大丈夫。俺が、千鶴の傍を離れることはない」
「私も龍二さんの傍に、ずっと…」
千鶴がそっと龍二の頬に触れると、龍二の瞳が優しく揺れる。
その視線に映るのは、千鶴の姿だけ。
それが千鶴の心の平穏の源だった。
龍二のキスが降ってくる。
触れるだけの柔らかなキス。
まだ慣れない千鶴だが、気持ちが伝わるキスは、
千鶴の心のキズを癒してくれた。
名残惜しそうに離れると、龍二の顔に苛立ちが乗った。
「…?龍二さん?」
千鶴をキュッと抱き締めて、睨みつけるように振り向く。
「拓海、早い」
「早くないし、勝手にいなくなるな。俺の仕事を増やすな」
その声のする方へ、千鶴が視線を向けると、
拓海が、荷物を持って仁王立ちしていた。
「拓海さん、すみません。私が海って言ってしまったので…」
「大丈夫だよ。千鶴ちゃんの我儘は、ワガママには入らないから」
拓海がそう言って、タオルを出してくれる。
「ありがとうございます。龍二さん、そろそろ戻りましょうか」
「いいのか?拓海が来たからといって、合わせる必要はないぞ?」
「いいえ、充分堪能しましたから。また、連れてきてください」
「そうか。じゃあ帰るか」
こうして、二人のドライブデートは、拓海の乱入で終わりを迎えた。
千鶴は、龍二の心遣いが嬉しかった。
龍二はこうして時間を作っては、
千鶴をあちこち連れ出してくれる。
それは、これまで独りで生きてきた千鶴が、
したくても出来なかった、ささやかな願い。
それを、龍二はどんな小さなものでも取り溢すことなく、
千鶴のために、ひとつ残らず叶えていった。
そんな龍二に対して、千鶴の心に灯る『恋蛍』
その情は、千鶴らしく慎ましやかな、
だけど、情熱的な恋心だった。
ー 終幕 ー
では、本日のお目汚しはこれにて…。
R06.06.07
最初のコメントを投稿しよう!