1 夢の中で

1/1
前へ
/13ページ
次へ

1 夢の中で

僕の目の前には夫がいる。 「どうした? そんなにまじまじと見て」 「えっ、僕、見てた?」 消防士をしている逞しい彼が、屈託ない笑顔で答える。 「うん、なんか心ここにあらず? みたいな。お前にしては珍しいから、ちょっと可愛くてさ、ううん、だいぶ可愛くて抱きしめたくなった。ほら、おいで?」 「うん!」 夫に抱きついた。はぁ、幸せ。彼の香りに包まれて、いつまでもこうしていたい。 「好き、大好き」 「ああ、知ってる」 彼が笑いながら言う。 「本当に? 僕死ぬほど好きだよ」 「死ぬなんて軽く口にするなよ、死なれたら俺は悲しい。でもその気持ちは死ぬほど嬉しいかな」 「うん!」 夫は僕をもっとぎゅっと抱きしめる。いつもより強い抱擁に、僕はふいに不安になる。彼を見上げると、僕を見て悲しそうな顔をした。 「どうしたの?」 「(れん)、お前はいつまでも俺の光でいてくれ。決して色あせないように」 「え?」 「俺は、お前が幸せになって、それで心残りのない生き方をして全うしてほしい」 どうしてそんな悲しい顔でそんなことを言うの? 「僕は幸せだよ、僕の隣にいてくれて、あなたと(つがい)になれて。幸せしかないから。何をそんなに不安そうな顔をするの?」 「俺も、そう言ってくれるのが嬉しかったんだけど、でもお前、俺がいない世界で生きていけないんだろ」 「当たり前でしょ、僕の唯一なんだよ。あなたのいない世界なんて考えられない」 夫はそっと僕にキスをする。いつだって僕たちはずっと一緒、キスも、抱擁も、当たり前にある世界。当たり前にある……? え。 「わかってるだろ、もう俺はいないって」 「やだ、やだ、それ以上言わないで……」 僕の瞳からは涙が零れる。それを夫が手でそっとぬぐった。 「愛してる、(れん)。俺の大事な光」 「僕だって愛してる!」 涙が止まらない。どうして嬉しい言葉をもらっているのに、悲しい涙が出てくるの? 「それは、お前がそろそろ現実に向き合う時間だからだよ」 まるで僕の心の声が聞こえたかのように、僕の思考に続く言葉を口にする夫。 「現実でしょ、ねぇ、そう言ってよ! 僕を置いていったなんて嘘だよね?」 「蓮……、俺たちはいつだって一緒だ。だからお願い、俺を想うならごはん食べて? ちゃんと寝て、元気な体でいて欲しい」 「無理だよ、無理。僕はもう、こんな世界に生きられない!」 僕の頬を両手で包み込む大きな手、この手が好き。顔が近づく、彼の全てが好き。彼なしで生きられない。そんなの初めからわかっていたじゃないか。彼は、僕を真摯な目で見つめる。 「蓮……愛してる」 「じゃあ、僕を置いていかないで……お願い。あなたの元に行くことを許してよ」 「うーん。そうだな、じゃあ俺が迎えに行くから、それまで待っててくれる?」 本当に迎えにきてくれるの? 夫は、今年やっと雪が降ることを知って、今日はこんなにはっきりと話してくれるのかな。 「もし、クリスマスに、もしも雪なら……」 「そうだ! 俺、今夜は生姜焼きが食べたい。蓮の生姜焼きはスタミナがつくし、とにかくうまいし! ねぇ、久々にもし、作ってよ」 僕の言葉を最後まで聞かずに、話を変えてきた。急に子供みたいな顔で、今夜のおかずの話をする。 ――そんなこと言ったって、もう食べられないじゃないか! それとも、この夢の世界にずっと僕をいさせてくれる? 「食べられるよ。お前いつも俺の分までごはん作ってくれるの、ありがたいって思ってる。お願い、今日は絶対生姜焼きな!」 そう思ってくれるなら、なんでいつも食べてくれないの。 「食べてるよ、マジで俺の嫁の飯は最高なんだって、こっちで自慢ばかりしてる!」 まるで本当に経験したかのように楽しそうに笑う夫。僕の心の声に普通に答えているし。 「わかったよ、今夜は生姜焼き沢山つくるね」 「ああ、期待してる! さぁ、俺の可愛い蓮。お前も一緒に食ってくれよな。それ以上痩せるのは禁止だからな」 「もう! わかったよ」 いつの間にか笑顔になる僕。こうやって彼はいつでも悲しみの僕を喜ばせる。それを見たら満足した顔で、いなくなるんだ。 いつもその繰り返し。 そして僕の瞳は開く。 彼のいないに戻る時間だった。目を開くと、大きなダブルベッドに横たわっていた自分を確認する。一人で寝るには大きすぎる。いつも目覚めると隣を見る癖は、彼が生きている頃から変わらない。 「今日はやけにリアルに僕の夢に出てきたね」 ぼそっと独り言をつぶやく。 「僕の願いを知って、それを止めに来たの?」 もちろんもう返答はない。それは……僕が現実の世界に戻って来たから。夢から覚める時間だった。いつも空しくて悲しくてしかたない。 夫がこの世を去って、いつからか僕の夢に出てくる彼と幸せな時間を過ごしていた。でもそれは僕が見る願望であって、現実世界に彼がいないことを毎朝思い知る。 今日も、この世界で僕は生きている。 彼のいない世界で。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

443人が本棚に入れています
本棚に追加