古書と鯨と夏の海

1/29
7人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ
5d0d7860-e027-4b2e-aefc-9af7061cd196 【古書と鯨と夏の海】  あれは、何の香りだったのだろう。  幼い頃の記憶――幼少時、祖父の家で過ごした思い出を辿る時、京香(きょうか)の脳裏には、何よりも先にその室内の芳香が蘇る。  宮城県の三陸海岸、牡鹿半島の港町にある父の実家――京香の祖父の家は『お屋敷』と言っていいほど、大きく、広く、風格のある建物。そのお屋敷の奥座敷の周辺には、夏になると独特の匂いが漂うのだ。  お香のようだけれど、南国の果物のような甘さも感じられる、なんだか不思議な芳香。妖しげで、どこか心惹かれる匂い。その匂いの記憶が鼻孔の奥に感じられた後、祖父の屋敷の奥座敷に保管されている様々な品が、まるで映画のように京香の頭の中に現れては消える。  まずは思い浮かぶのは、珍しい海産物。  サメの顎の骨に、カジキマグロの鼻先の部分。クジラのヒゲや、大きな脊椎の骨。桜色の珊瑚に、タツノオトシゴの干物。多種多様な美しい貝殻。南洋産らしき貝から、辺りの海岸に見られるアワビの殻まで。  漁具もある。  梁から吊るされたスイカのようなガラス玉は、昔の漁業の定置網に使われた浮き。長年、漁船の備品だった大きなランタンが五つ。  それに、かつては捕鯨船で使われていたという銛の先端の部分。錆びているけれど、柄をつければすぐにでも使えそう。こういうのは、銃刀法とかの法律に触れないのだろうか、思い出すたび、少しばかり心配になる。  他には大工道具。山仕事で使われていた手斧に、幅の極端に広い鋸。それに様々な大きさの鉋に、金槌、墨坪、曲尺に左官用の鏝。  農具も幾つか。足踏み式の脱穀機に、昔話のサルカニ合戦に出てくるような大きな木の臼。これらは、県内の農家で、実際に使用されていた骨董品だ。それに、学校の保健室にある体重計みたいな大型の台秤。  また、他では見た事のない珍しい鉱物が五十ほど。大きさはビー玉程度のものから、漬物石位のものまで。  白、黒、赤、黄、緑、多彩な色の自然石に、何かの生き物の化石と思われるもの、金属の結晶が付着しているものも。それらの一部は、和紙に丁寧に包まれたり、恭しく木箱に入れられたりしている。  三陸海岸の周辺では、多種多様な珍しい鉱物が見つかるのだという。  これらの石は、おそらくはこの家、端坂(はしざか)家の先祖が、近辺の山や海辺を歩いて拾ってきたか、それとも付き合いのあった人々から譲り受けたのか。あるいは京香の祖父――忠蔵(ちゅうぞう)が、知り合いの船乗りから貰ったのものも含まれているのかもしれない。  そんな数ある鉱物の中でも、特に京香の記憶に焼き付いているのは、紙に包まれた黄色い石。小学生に上がる前、この石を包んでいる和紙を開いて祖父に酷く叱られた事があったからだ。  様々な物品が置かれた奥座敷の、さらに奥、梯子のような急な階段を上った先に、二つの扉がある。右側を開けると、そこは和洋折衷の装飾がなされた祖父――忠蔵の書斎。  畳敷きの六帖間だが、奥の壁一面が窓になっており、天気が良ければ、そこからリアス式海岸の一角、突き出た岬と小さな漁港、砂浜、仙台湾の島々の光景が一望できる。  窓の傍の低い机には、古めかしいダイヤル式の黒電話が置かれ、部屋の奥には、ハンガーに掛けられているのは、白い帽子と袖の四本の金色のラインの入った洋服、それに望遠鏡に古いタイプの羅針盤も飾られている。壁には、日本近海から太平洋の周辺の船の航路が詳しく描かれた海図。かつて祖父が乗務していた船の写真。  これらは皆、忠蔵が大型船の船長だった記念の品だ。  左側の扉の先は、数多くの書物が納められた部屋。三面の壁に本棚が備えつけられ、様々な本がところ狭しと並べられている。  本棚の仮名で目立つのは、やはり船舶の航行についての専門書。それに輸出入や関税に関する本に、海の写真集や三陸地方の自然や文化の研究書。多彩な写真がふんだんに使われている百科事典。  英語の本も何冊か。それらの表紙は、どれもひどく色褪せていて、見た目だけでかなり古いものと分かる。とりわけ目を引くのは、白い表紙にアルファベットの文字が書かれた大きな洋書。これは、日本では『はくげい』と呼ばれる小説だと、京香は忠蔵から教えられた。  そう。忘れてはならない。  香り――京香の記憶を喚起するあの不可思議な芳香もまた、この家に収められているものの一つ。  京香の幼い頃の思い出は、三陸の海と山、うす暗い部屋の棚に並べられた様々な物品、それにあの甘い香りによって彩られているのだ。 02e58bab-8a5d-454f-b5b2-b2bc9427b408
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!