幸せな五秒間

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幸せな五秒間

それから毎朝僕は、ジョギングしている柊宇を見るため六時前にはスタンバイ。 部屋の窓の前に立ち、そわそわとして心待ちにする。 窓を開けたら声を出してしまいそうだから閉めたまま、柊宇が走ってくる方向を窓にぴったりと顔をつけて必死に覗いた。 通り過ぎるのは時間にして五秒もない。それでもその時間が僕にとっては、一日の中で一番嬉しい時間だった。 通り過ぎる時に親指を立てて見せたり、ピースをしてくれたり、ガッツポーズをしてくれたりと、それだけで途轍もなく幸せ。 元気な柊宇が見ることができて、僕も元気をもらえる。走り去る柊宇の背中をいつまでも見送った。 逢ってるわけじゃないよね、連絡だって取ってない、だからいいよね、大丈夫だよね。 この五秒間が、今の僕の最大の幸せ。 ある朝、いつものように走ってくる柊宇を見届ける僕。 ピタリと柊宇が僕の家の前で止まって、僕の部屋を見上げた。 (柊宇っ!) 思わず窓に思いきり手を当ててしまって、バンッと大きな音を立ててしまう。 ジッと僕を見上げている柊宇、僕だってジッと柊宇を見ていた。 じんわりと涙が込み上げてきて、窓に張り付いた。 柊宇、柊宇…… すぐそこに柊宇がいる、今すぐにでも飛んでいきたい。 その時、コンコンと部屋をノックする音に、僕は慌ててカーテンを閉めた。 「唯生? 起きてるの? なんか大きな音がしたけど」 「う、うん!空気の入れ替えをしようと思って、窓ガラスに手をぶつけちゃったんだ」 「開けるわよ」 母親がドアを開けると、「随分早起きね」なんて少し驚いた顔をする。 「う、うん…… 早起きして、べ、勉強しようかなって…… 」 「あら、いいことだこと。頑張って」 母親が部屋のドアを閉め、下におりて行ったのを確認して窓のカーテンを開けると、そこに柊宇はもういなくて、ひどくガッカリとしてしまう。 でも、柊宇と目が合った。 僕を見ていた、全然変わらないかっこいい柊宇。僕は…… 大丈夫だったかな、今さらになって髪の毛を手で直してみたりした。 立ち止まってくれたのはその日だけで、翌日からはまたハンドサインやポーズ見せてくれるだけの柊宇だったけれど、それでももちろん、僕はすごく嬉しくて幸せを感じた。 雨の日も風の強い日も、休むことなくジョギングを続ける柊宇を僕は毎朝見届けた。 レインウェアを着て走る柊宇、強い向かい風に前傾姿勢になって走る柊宇、本当に強い人だと心から思う。あの人に愛されているんだと思うだけで、そのたび僕は背筋が伸びる。 僕の受験の日が近づき、指定校推薦とはいえ油断はできない、日に日に緊張が高まってきたそんなある日、風邪を引いてしまう。 昨日から熱が出て体のふしぶしが痛い。 それでも柊宇は見たい。いつものように目覚ましで起きて、ふらふらになりながら柊宇を待った。 厚手の上着を羽織り、ぼーっとする頭で外を見る。 いつもあっという間に走り去っていく柊宇が、ピタリと止まり、驚いた顔をして見上げている。 どうしたんだろう、柊宇、だめだよここで止まっちゃ…… なんて思っていたとき、柊宇が自分のおでこを指さし、ひどく心配そうな顔を見せる。 あ、いけない、おでこに冷却シートを貼ったままだった。 慌てて剥がして、元気だよって僕がガッツポーズをして見せた。 眉間に皺を寄せ、仁王立ちをして僕を見ている。 あ、やりとりしちゃった…… だめだよ、柊宇にひらひらと手を振り、早く行くようにと仕草で示した。 それでも心配そうにずっと僕を見ていると、ハッとしたような素振りをして慌てて走り出そうとしてくれたけど、様子が変だ。 まもなく母親が外に出てきたのが分かり、僕も驚き、どうしようかと狼狽えた。 バレてしまった、柊宇が毎朝ここを走っていて、それを僕が見ていたのがバレてしまった、どうしよう。 母親が柊宇に声を掛けたようだ。 柊宇が立ち止まって振り向き、頭を下げている。ドキドキとどうしようかと思う気持ちで二人を見守っている僕。 ほんの少しの会話が終わると、また母親に頭を下げて柊宇が走り出した。 何を話していたんだろう、気が気じゃない。 下におりてもいいかな? でもそれじゃあ、ここを走っている柊宇を僕が見ていたのを肯定することになるよね、どうしようかと悩んでいるとコンコンとドアをノックする音。 母親だろう、ドクドクとする胸がまた熱を上げてしまっているようで、フラフラとしてしまう。 「唯生? 開けるわよ」 「…… う、ん」 「熱下がってないんでしょう? 早くベッドに入りなさい」 まだ窓の前に立ったままの僕に母親が呆れたように言う。 「真伏くんにね、ただの風邪だから心配しないでって伝えたから」 「え? 」 「知ってたわよ、毎朝真伏くんがここを走ってるの。そして唯生が見てるのも」 「………… 」 どうしよう、約束を破ったことになるのかな? そんなことを思い、何も言えずに黙ったままの僕を母親が睨みつける。 「逢ったわけじゃないし、話したわけでもないから大丈夫でしょう? まぁ、お母さんは知らなかったことにしとくわよ。真伏くんのお母さん怖いし、面倒くさいもの」 「…… ありがとう、お母さん」 「早く寝て、風邪を治しなさい、受験まであと少しよ」 「うん…… 本当にありがとう」 嬉しくて、母親の前で涙が込み上げてきたのが恥ずかしい。 それを隠すため、急いでベッドに入って僕は頭まですっぽりと布団を被った。
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