梅雨のあなたと夏の俺(長編)

1/2
22人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
     半田夏生(はんだなつき)が寝癖も直さず慌てて教室に入った時には、既に歴史学科のゼミが始まっていた。「初回の授業から遅刻か」などと教師が冗談めかして言うと、途端に教室の空気が和む。夏生も半笑いを浮かべながら友人の上風呂(かみぶろ)忍(しのぶ)の隣に座って、とりあえずボールペンを一本、机の上に転がした。 「では、改めてこれからの日程を説明します」  教師が語り出すと同時に、忍が無言でプリントを夏生の前に突き出す。そこには、教師の言葉と一言一句違わぬ文章が書かれていた。途端に教師の言葉に興味を失った夏生は、横目で忍を盗み見る。  忍はやや浮き出たほお骨の下に手を突いて、意志の強そうな目を伏せて空いた手でシャーペンを器用に回していた。なんとなく同じことをするのが嫌で、夏生は別の暇つぶしを探す。しかし、プリントに落書きをすることくらいしか思い浮かばなかった夏生は、気を紛らわせようと教室を見渡した。  向かい合うように配置された机の向こうでは、一つ上の三年生が並んでおり、夏生の側には同学年の二年生が並んでいる。  二年生の一番端に目を遣ろうとして、見知った顔を見つけた夏生はすぐに視線を逸らした。それから夏生は、殊更面倒そうに机に突っ伏して見せる。隣の忍がちらりと夏生を見て、プリントの端に走り書きをした。 『神田(かんだ)とケンカしたのか?』  夏生は友人の節介に苛立ちながら、わざと汚い字で短く返事を書く。 『別れた』  驚く忍の顔を見ず、夏生は目を閉じて寝た振をした。少し茶に染めた髪が、頬を撫でる。見なくても、夏生には忍の表情が簡単に想像できる。 「夏生は、ほんとに私のこと好きなの?」  置かれたばかりのチーズケーキには目もくれず、神田千秋(ちあき)はそう言って夏生を睨んだ。薄めの化粧をしていても、その目は口以上に強くものを言っている。  夏生はとりあえず、先程チーズケーキと一緒に店員が持ってきたコーラに口を付けた。じん、と舌を刺す炭酸が、場違いなほど快感だった。 「ねぇ、なんか言ってよ」 「……ああ」  めんどくせぇな、と口に出せるほど、夏生は無神経にはなれなかった。しかし、上手い言い訳をすぐに考えられるほど、頭の回転が速いわけでもない。 「付き合い始めてすぐ春休みになったのに、どっか遊びに連れてってくれるわけでもなかったし」 「ああ……」 「こっちから連絡したくても、メールは返してくれないし、電話はいっつも留守電だし」 「うん……」 「うんじゃなくて! なんか言ってよ! 言い訳してよ!」  店内の視線が二人に集中する。千秋がそのことに気付いているのかいないのかも、夏生には分からなかった。 「……なんで?」  少し間を空けて、夏生は心の底から思ったことを口にした。途端、千秋の目元に涙が溢れる。 「言い訳もしてくれないの……? 私のこと、どうでもよくなっちゃったの?」  どうでもいいもなにもないだろう、と夏生は心の中で呆れた。  遠回しに告白してきたのは彼女の方で、意図が分からないまま了承してしまった夏生は、知らぬ間に千秋の中で恋人になっていた。ただ、そうなってしまった以上、一応は恋人らしいことをしてみようと、最初の内は夏生も頑張って彼女に合わせていた。しかし、それも長くは続かなかった。  夏生自身は早々に冷めていたにも関わらず、千秋が周囲へ吹聴したために、夏生の友人達の間では二人が恋人同士であることは知られていた。そうやって外堀から固めようとする彼女のやり方も、曖昧な言葉を勝手に解釈して一喜一憂するのも、夏生は好きになれなかった。  いい加減、はっきりさせるべきであることは夏生にも分かっている。夏生もこの時ばかりは、他人の視線を気にしていられなかった。 「……悪いけど、俺もう、お前には付き合いきれない」 「酷い!」  一際大きな声が、店内に響く。千秋の後方では、女性店員も夏生を睨んでいた。隣の席の女性客も、胡乱げに夏生を見ている。この店内には、彼の味方はいなかった。  夏生は金だけ置いて席を立った。千秋はもう、夏生を引き留めようとはしない。  店を出た途端に、身を切るような冷たい風が夏生の頬を叩いた。苛立たしそうにダークブランの癖毛を掻き回しながら、彼は足早に帰路へ着いたのだった。  再びシャーペンを走らせる音がして、夏生は回想をやめて薄目を開く。 『なんで』  忍は回りくどい訊き方を好まない。そして、こういう時の嘘や冗談も。夏生は彼の、そういうところは気に入っていた。ただ、無意識の内に節介を焼きたがる彼の性格は、場合によっては迷惑だと夏生は思っていた。今がまさに、その時である。 『めんどくせぇ』  自分でも読めないような字で、夏生は答えをいい加減に書いた。 『はぁ? そんなんで別れるなよ』  呆れたと言わんばかりの表情で、忍はそう書いた。 『ベタベタべたべた、うっとうしい』  別れた時の彼女の言動を思い出して、夏生は再び苛立つ。二ヶ月の付き合いで、夏生は彼女に嫌気が差していた。メールや電話をしてくるのも会いたがるのも、可愛いと思えなかった。 『しばらく女はいい』 『偉そうに』 『うるせ、童貞』 『黙れ、カス野郎』 『ひがみ?』 「半田くん」 『誰が』 「……半田くん」 『上風呂』 「半田くん!」  忍、とフルネームを書こうとしたところで、夏生は教師に呼ばれていることに気付いた。 「はいっ? なんですか?」  夏生が慌てて返事をすると、教室中に失笑が漏れる。教師は呆れ顔でプリントを取った。 「これに書いてあるペアでレジュメを作成してもらいます。最初の発表は半田くん、君と栗花落(ついり)くんです。早めに話し合って、二人で作成を進めるように。発表は再来週のこの時間です」 「ついり……?」  音から漢字が想像できず、夏生は自然とそう呟いていた。向かい側の三年生を見渡すと、夏生は端に座った一人と目が合う。  あまり癖のない髪が、軽いお辞儀と共にふわりと揺れる。端正な顔立ちをしている、人形のような青年だった。涼やかな目は、じっと夏生を見ている。その視線を逸らすことは、夏生にはできない。 「栗花落くん、短期大学部とやり方は同じです。少々期間は短いですが、君なら大丈夫でしょう。期待してますよ」  再び、柔らかな髪が揺れる。その一挙手一投足を、夏生は食い入るように見ていた。しかし、栗花落は視線を教師の方へ固定し、もう夏生を見ることはなかった。 「おい、夏生?」 「んあ?」 「昼飯、行かねぇのか?」  その時になってやっと我に返り、夏生は周囲を見渡した。他の学生はかしましく会話をしながら、次々に教室を出ていっている。 「……ああ。うん」 「大丈夫か? ぼーっとして……。馬鹿の癖に風邪引いたのかよ」  いつもなら簡単に出てくる言葉が、今の夏生には上手く使えない。うるせぇ、とだけ言って、夏生は立ち上がった。そして、机の上に転がっていたボールペンを、鞄の中に投げ入れる。 「お前、三時間目は?」  忍に言われて、夏生はできたばかりの時間割を思い浮かべる。 「ない。俺、後は五時間目だけ」 「昼飯は」  どうする、と言おうとして、忍は夏生の背後に視線を向けた。つられて、夏生も振り返る。  ふわりと、髪が揺れた。 「……半田、夏生くん?」  髪と同じく癖のない声が、夏生の耳に届く。夏生が想像したよりも、ずっと低かった。 「え、あ、はい。ついり、さん?」 「ああ。俺は栗花落光(ひかる)。よろしく。調べ物のために、どれくらい時間が取れるか聞きたいんだ。今、少しいいかな?」 「あ……、はい」  忍はそのやりとりを見て、じゃあな、とだけ言って去った。途端、安心したような心細いような、複雑な感覚が夏生を襲う。栗花落は忍の背中をちらりと見てから、視線を夏生に戻した。 「何曜日の何時間目が暇か、この紙に書いてくれるか? それと、メールアドレスと番号、それに自分の興味がある分野を」 「はい」  メモ用紙とボールペンを手渡された夏生は、できるだけ丁寧に言われたことを書き始める。その間、あまり癖のない髪は、微動だにしない。夏生は自分でも説明の付かない焦燥に駆られながら、全てを書き終えてペンを置いた。 「ありがとう」  低く、落ち着いた声が夏生の頭より少し上から響いた。 「これから二週間よろしく頼むよ」 「こ、こちらこそ!」  引っ繰り返った声を上げ、夏生は勢いよく頭を下げる。くすり、と小さな笑い声が漏れた。 「あまり、かしこまらなくてもいい。文学部に在籍している期間では、君の方が先輩だからな。色々と、教えてくれると助かる」  幾分柔らかくなった栗花落の声音が、夏生の耳を心地良くくすぐる。夏生はもっと聞いていたくて、なにか会話をしようと話題を探した。しかし上手い切り出し方が分からず、とりあえず頷いておいた。栗花落は再び、ありがとう、と今度は微笑んだままで言った。 「また、改めて連絡するよ。昼食の時間を奪っしまって、すまなかった」 「いいですよ! どうせこの後、暇なんで!」  勢い込んで夏生が言うと、栗花落は細い目を少し見開く。そして、至極真面目な顔をした。 「差し出がましいようだが、友人との時間は大切にした方がいいと思うぞ」  あまりに真剣な表情をした栗花落に、夏生はなにも言えなかった。ただ、その真剣さに押されて、またとりあえず頷いた。 「さぁ、今からならまだ間に合う」  そう言われて、夏生は半ば追い出されるような形で教室を出た。そして、栗花落の言葉のままに、忍がいるであろう食堂へ向かったのだった。 「……変な人」  夏生は、人気のない階段を下りながら、呟いた。それから、端正な顔立ちを思い浮かべる。微笑んだ顔も、真剣な眼差しも、夏生の心に強く焼き付いていた。 「……くそ、またかよ! やっぱり、俺は」  最後まで口に出すことを躊躇い、夏生は代わりに溜息を吐き出した。踊り出したいような、泣き出したいような、相反した感情が夏生の中でせめぎ合っている。 「駄目だ……。駄目なんだ。これじゃ」  暴れ出した自分の感情の名を知るのが恐くて、夏生は必死になってそれを否定しようとした。だが、高鳴る胸は静まらない。 「……ついり、ひかる」  彼の名を呼んでみると、夏生はようやく落ち着いた。不思議な響きだ、と思った。そして、綺麗な名前だ、とも。 「栗の花が、落ちる……か」  プリントに書かれていた、彼の苗字とおぼしき漢字を口に出す。夏生には、栗の花が落ちるのをなぜついりと読むのか、分からない。不思議な響きを持つ苗字を心の中で繰り返しながら、夏生は最後の一段を下りたのだった。  その日の夕方、同じアパートに住む夏生と忍は、共に帰宅の途についていた。 「おい、ぼーっとすんな」  忍に首根っこを引っ掴まれて、夏生はやっと自分が赤信号を渡ろうとしていたことに気付く。 「どうしたんだよ、お前。今日ずっとぼけっとしてるぞ。またゲームで徹夜したのか?」 「……ああ」 「ああじゃない。どうしたんだって訊いてる」 「……どうって、どうもこうも」  要領を得ない夏生の答えに、呆れた忍は溜息を吐きながら言った。 「今更失恋のダメージを受けてるとか言うなよ。振ったのお前だろ」 「そんなんじゃねぇ!」  突然大声を上げた夏生に、忍はびくりと肩を震わせる。 「……んだよ、いきなり」 「とにかく、あいつは関係ない」  突っぱねられて、忍はむっとしたまま黙り込んだ。彼はそれ以上の追求が無駄であることを、夏生との一年間の付き合いで分かっている。  そうこうしている内に、二人はアパートの前まで辿り着いていた。一階部分のテナントには、〈喫茶西風〉と書かれた看板が掛かっている。その隣に、二階へ向かう階段が伸びていた。 「……ったく、ぼさっとしてねぇで、無事に部屋まで帰り着いてくれよ。男子大学生、階段から落ちて死亡、なんてニュース、面白くもねぇ」 「上風呂クンガ、二階マデチャアント補助シテクレルカラ大丈夫デース」 「なに片言になってんだよ。俺は今からバイトだっつの。一人で部屋まで戻れよ」  バイト? と聞き返した夏生を見て、はぁ、と忍は深い溜息を吐く。心底呆れた顔をして、忍は寝ぼけているとしか思えない友人を睨みつけた。 「言っただろ。休み中に、一階にできた喫茶店でバイト始めたって」 「……そうだっけ?」 「そうだよ。ったく、記憶力まで欠如し始めたのかよ、お前。無事に部屋まで帰れよマジで」  そう言って、忍は夏生の背中を軽く押した。夏生の目の前には、既にアパートの階段がある。 「じゃあな。あ、後、たまにはカップ麺以外も食えよ」 「お前こそコンビニ弁当ばっかだろ!」  最後まで軽口を叩き合って、夏生は忍と別れた。少し間を開け、喫茶店のドアベルが鳴る。その音が随分と遠くで鳴った気がして、夏生は振り返った。忍はもう喫茶店の奥に消えていた。  階段を上る夏生の足は、酷く重い。彼は今日、なにをやっても力が入らなかった。原因を、彼ははっきり自覚している。 「……ついり、ひかる。栗花落、光」  今日、ずっと頭から離れなかった名前を、今一度口に出す。自分自身の感情を、夏生は知りたくなかった。だが、夏生はもう、その感情に気付いている。 「……なんで、俺は……」  無性に腹が立ち、夏生はアパートの壁を思い切り殴った。痛みが苛立ちを僅かながら減らす。  ようやく平常心を取り戻し、夏生は部屋に戻ろうとした、その時だった。夏生がなんとなく視線を向けた小さな路地の先に、名前を呼んだばかりの彼が、いた。 「……栗花落さん」  夏生の声が掠れた。携帯電話を見ながら路地を歩いている栗花落は、夏生に気付かない。  栗花落はそのまま、喫茶店の入り口がある方へ歩いて行った。思わず走り出しそうになるのを堪えて、夏生はゆっくりと階段を下りる。些細な衣擦れすら栗花落に聞こえている気がして、落ち着かない。自分でも気付かない内に、夏生の手は小刻みに震えていた。  ドアベルが鳴る。ドアが閉まる音が響く。そして、しばしの沈黙。夏生は、恐る恐る喫茶店に近付くと、窓越しに中を覗いた。狭い店内に、栗花落以外の客はいない。カウンターに座った栗花落は、夏生の方から背を向ける形になり、表情などは分からなかった。  舌打ちをしてから、夏生は思い切り深呼吸をした。〈喫茶西風〉と書かれた看板を睨みつけてから、意を決してドアを押す。  三度、ドアベルが高い音を立てたのを、夏生は耳にしたのだった。 「いらっしゃいませ」  カウンターの向こうで、ぱりっとしたシャツと黒エプロンを着た中肉中背の男が微笑んだ。だが、夏生の目は彼ではなく、その前に座る人物へ自然と向かっていた。 「半田、くん?」  栗花落は目を見開き、立ったままの夏生へそう言った。夏生はと言えば、店に入ったもののどうすればいいか分からず、とりあえず頭を下げる。 「ん? つーの知り合い?」  男が親しげな口調で栗花落に訊ねる。途端、夏生の中で苛立ちに似た激しい感情が蠢いた。 「ああ。同じゼミの後輩で、半田夏生くん。今度、一緒に発表することになったんだ」 「……ども」  夏生がぶっきらぼうにそう言った時、店の奥の扉が開いた。カウンターの男と同じ、黒いエプロンを着けて現れた忍が、先程の栗花落と同じように目を見開く。 「あれ? ブロくんとも知り合い?」 「一年の時からの腐れ縁です。ここの上に住んでて、学科も同じで」  胡散臭そうに夏生を眺めながら、忍は夏生との関係を簡単に説明した。 「へぇー。まぁ座りなよ、半田くん。今日の分はつーの奢りだから」 「……なんでそうなる」 「後輩に奢るのも、先輩の務めだろ? 大学生ってそういうもんじゃないのか?」 「お前は、大学生を大いに誤解しているぞ」 「そりゃ、俺は専門学校卒ですから」  にやにやと人の悪い笑みを浮かべる男に、栗花落は心底呆れた顔をした。その他愛ないやりとりすら、夏生の心を掻き乱す。必死に平静を装いながら、夏生は栗花落の隣に座った。  むっとしたままの夏生に気付いた男は、彼に水を差し出しながら再び微笑んだ。 「紹介が遅れたね。俺は重永寛弥(しげながひろや)。一応、ここのマスターをやってます。よろしく」 「半田夏生。そこの大学の学生やってます」 「ブロくんの友達で、つーの後輩、ね。俺は、ブロくんの雇い主で、つーとは幼馴染みなんだ。高校まで同じでね……」 「あまり、後輩の前でそう呼ばないでくれ。格好が付かない」  湯気の立つ紅茶に口を付けつつ、栗花落は幼馴染みに文句を付けた。はいはい、と気のない返事をしつつ、重永は続ける。 「こんなだけど根はいい奴なんだ。年増で能面顔だけど、我慢して少し付き合ってやってくれ」 「年増?」  話を聞きながらコップを拭いていた忍が、気になった単語を口にする。そうだよ、と言って重永は頷いた。 「俺とこいつは、今年で三十だから。君らとは十歳離れてることになる。立派な年増だよ」 「三十……?」  夏生は思わず、栗花落の顔を見た。夏生には、困り半分、呆れ半分の表情を浮かべる栗花落が、三十路が近いようには見えない。 「……色々あってな。一度、就職はしたんだが……。ここの短期大学部に、入り直したんだ。だが、結局二年では満足できなくて、今年から編入することになったんだよ」 「へぇ、そうだったんですか。全然、見えないですよ」 「……褒めてもなにも出ないぞ」  邪気のない笑みを浮かべた上風呂の言葉に、そろそろ三十代の大学生は困ったように笑った。 「ブロくん、俺は?」 「マスターは年相応の顔してます。なんか胡散臭いし」 「ひ、酷……。胡散臭いの関係ないじゃないか」 「……そこ、否定しないんだ」  ぼそりと呟いた夏生の顔を見て、重永はにやりと笑う。夏生は、まだこの男が掴めなかった。 「それより、君は上風呂くんに会いに来たんじゃないのか? 俺とばかり話していても……」 「え、違いますよ! 俺は別に」 「じゃあ、なんで来たの?」  満面の笑みを浮かべた重永が、首を傾げて夏生に訊いた。その可愛げのない仕草に苛立ちを覚えつつ、答えに詰まった夏生を、栗花落は不思議そうに見つめる。 「……えーっと、忍に、たかりに?」 「それなら、やはり上風呂くんと話す必要があるのでは?」 「お前、カップ麺以外も食えっつったからって、俺にたかることないだろ。自炊しろ」  口から出任せを真に受けた二人に、慌てて夏生は首を振る。 「誰が……! じゃなくて、その、じ、自炊なんかめんどくせーし」  必死に取り繕いながら、痛いところを突く重永を恨めしく思っていると、当の重永に、 「まぁ、これくらいの年の子なら、それが普通だよなぁ」  というフォローをされて、夏生は溜飲を下げた。 「ヒロ、あまりからかってやるな。……すまないな。これのことはあまり気にしないでくれ」 「これってなんだよー、幼馴染みに向かって」 「マスターの、そういうところが悪いんじゃないですか?」  酷いなぁ、と言いながら、重永は背を向けてコップを拭き続ける忍に目を遣った。その目に既視感を覚えて、夏生は眉を顰める。まさか、と思いながら、忍に酷く優しい視線を送る男の横顔を見つめた。 「……まぁ、ヒロの言うことはともかく、今日くらいは奢るよ」 「別にいいですよ。ほんとはその……、忍がバイトしてるって聞いて、なんとなく入ってみただけですから。栗花落さんがいたのは、びっくりしましたけど」  本当と言いながら嘘を吐くことにささやかな罪悪感を抱きつつ、夏生は平静を装って言った。 「俺も驚いたよ。まさか、この店で二人も同じゼミの学生に出会うとは思わなかったから。妙な偶然もあるんだな」  そう言って再びティーカップを傾ける栗花落の所作には、育ちの良さが表れていた。それは、夏生にはどう引っ繰り返っても手に入れられない、上品さや優雅さといった類のものである。言いようのない不安を感じて、夏生ののぼせ上がっていた頭はさっと冷えていく。先程の罪悪感以上に、夏生の心は落ち込んでいった。 「……半田くん?」 「は、はいっ? なんですか?」  声を掛けられて、夏生は慌てて現実に戻った。重永が、カウンターの向こうからメモパッドを差し出している。 「渡し忘れてたけど、これがメニューだよ。どうぞ、ごゆっくりお選びください」  重永は冗談めかして、恭しくメニューを差し出す。そのわざとらしい所作に、栗花落が口に手を当てて吹き出した。 「やめろ、全然似合わない」 「失礼な、一応英国仕込みなんだぞ」  そう言って、重永は胸を張って見せる。分かった分かった、と言いながら、栗花落は素朴な笑みを浮かべていた。  夏生は親しげな二人のやりとりを見ても、もう苛つかなかった。そして、重永自身に対しても、当初の苛立ちはもう感じなかった。代わって、同情にも似た親近感が夏生の胸に去来する。 「さ、お好きなのをどうぞ」  そう言って笑う重永の自分達への視線と忍へのそれの違いに、夏生は気付いていた。 「それでは、また明日」  結局、閉店時間まで居座って他愛のない話で盛り上がった二人は、閉店準備を始めた重永と忍に追い出される形で店の外に出た。 「また明日、図書館で!」  夏生の返事に、栗花落は手を振る。彼が見えなくなるまで、夏生はその背中を見送った。  そして、夏生は階段へ向かう途中、横目でそっと店内を窺った。重永と忍は、会話をしながら店内を掃除している。  重永の優しい視線に忍が気付いているかどうか、夏生には分からない。その目に、同類にしか分からない悲しみが映っているのも。妙な偶然もあるものだ、と栗花落は言った。全くその通りだと、夏生も思う。こんなところで、同じような想念を持っている男に出会うなど。 「……あぁ、くそっ!」  自分でも知らない内に、夏生は悪態を吐いていた。誰もいないアパートの廊下に、彼の声だけが響く。  夕方、栗花落の姿を見つけた場所まで来て、夏生は立ち止まった。視線を落としても、暗く小さな路地を通る人影はない。  夏生は、空を見上げた。普段の彼なら、絶対にやらない行為だった。月が綺麗だとか星が綺麗だとか、そんなありきたりな感想しか、夏生の頭には思い浮かばない。  栗花落はどうだろう、と夏生は思った。自分とは別世界から来たような、優雅で上品なあの男は、夜空を見上げるという行為が似合っている。夏生はそう思った。そして、その隣に立つべきは、たおやかな女性だとも。 「……馬鹿みてぇ」  足早に、夏生は立ち去った。乱暴に部屋の鍵を開けて、大きな音を立てながらドアを閉める。  わけも分からないまま泣き出したくなって、夏生は荷物を放るとベッドに寝ころんだ。泣くな、泣くなと自分に言い聞かせながら、夏生は目を閉じる。 「……駄目なんだ、俺じゃ……。あの人のこと……、好きになっちゃ……、駄目なんだ」  耐えきれず、夏生は暗闇の中でそっと呟いた。闇は、優しく独り言を包んで、消す。 「俺は、ただの馬鹿な後輩。あの人は、優しくて品のいい、ただの先輩。それでいい」  それでいい、ともう一度夏生は呟いた。零れ落ちそうになる涙を腕で拭いて、電灯を点ける。白い光に照らされるいつもの部屋を見て、夏生は唇を噛み締めた。  嗚咽を止めるには、まだ時間が掛かるなと、夏生は他人事のように思った。  翌日、指定された時間より二十分も早く図書館に着いてしまった夏生は、館内をうろうろしていた。始業直後のこの時間、館内は静まりかえっている。その静寂は、夏生にとってとてつもなく居心地の悪いものだった。  歴史学関係の文献が並べられている本棚の前で、夏生は立ち止まった。本を一冊取り、ぱらぱらとめくる。暇つぶしのつもりだったが、夏生の興味を引くような内容の物ではなかった。諦めて閉じようとした時、見知った漢字の羅列が目に入り、夏生は思わず手を止めた。 「……栗花落」  そっと、口に出す。それから、数ページ前まで戻り、夏生はじっくりと読み始めた。  栗花落の名が出てきたのは、関西に伝わる民話について書かれた箇所だった。播磨(兵庫県)から、京にある公家の屋敷へ奉公に出た、若い男達がいた。彼らは長年良く働いたため、主から褒美を与えられることになった。その内の一人は、主の娘を請う。その男は娘と歌合をして勝ち、晴れて彼女と結婚する、という話だった。その二人の子孫と呼ばれる人々は、今でもその地に住んでおり、彼らの苗字は栗花落である、と本には書かれている。 「……民俗学に興味があるのか?」 「うぇえっ!」  突然の背後からの声に、思わず夏生は声を上げる。 「……声が大きい」  口元に人差し指を当てて、夏生の背後にいた栗花落は小声で言った。互いの髪が触れ合うほどに近い距離が、夏生の鼓動を速める。 「……昨日、書いてくれた紙には、源平合戦と書いてあったが……」 「……え、ああ、この本は暇つぶしに取っただけです」  慌てて、夏生は本を棚に返した。同時に、一歩横に動いて栗花落との距離を取る。 「……そうか。では、予定通り源平合戦に関する文献を探そう。俺は平氏の厳島信仰についての研究を見ようと思っているが、君は?」 「……一応、平敦盛を……」 「……では互いに文献を集めたら、一旦出るか。どこか落ち着ける場所で、話し合おう」  栗花落は言い終えると、黒い革鞄の中から一枚のメモを取り出した。それを片手に、本棚を眺め始める。そのメモには、遠目にも分かるほどびっしりと文字が書かれていた。真剣に本を探す眼差しを、夏生は知らぬ間に見つめていた。夏生にはないその情熱が、酷く眩しく思える。  夏生は、なにかしらの熱意があって歴史学を志したわけではない。単純に、入学できそうな大学を探していて、たまたまこの大学の歴史学科を選んだだけだ。そして、楽そうなゼミを選んだのが、たまたま平安時代を研究している教授のものだった。だから、興味のある分野と言っても、それについて深く考えたわけではない。羨ましい、と夏生は思った。  しばらくそうして栗花落を見ていると、視線に気付いた彼が「どうした?」という口の動きをした。慌てて、夏生は本棚を見上げる。小難しい単語が並ぶ本を見比べながらも、夏生の意識は視界の隅で動いている栗花落へ向かっていた。諦めようと涙しても、一度意識してしまった思いを簡単に無視できるほど、彼は器用ではなかった。少しの間だ、と夏生は自分に言い聞かせる。少しの間だけ耐えれば、すぐにいつも通りの自分に戻れると、彼は信じていた。  それからの二週間は、夏生にしてみればあっという間だった。互いに興味がある分野について話し合い、テーマを決め、参考文献と参考史料を集め、言いたいことを書き出す。それを、ひたすら二人で進めた。毎日のように図書館へ行っては本を読み、暗くなるまで総合研究室で意見を交わし合う。出た疑問点と自分達なりの結論をまとめ、パソコンで打ち出していった。  栗花落は夏生が想像した以上に専門分野への造詣が深く、また決して手を抜かない性格だった。そのため、二人の発表は教師も唸るほど、完成度の高い物となった。 「はい、お疲れさん。これは俺からの慰労品だよ」  授業を終えた夏生は、栗花落に誘われて久し振りに〈西風〉に入っていた。二週間前と同じくあまり人気のない店に入り、二週間前と同じ席に座ると、重永は注文をする前に紅茶とチーズケーキをテーブルに置いた。 「なんだ、今日が発表だと知っていたのか」 「何日か前に、ブロくんから聞いたんだよ。熱心に調べてたみたいじゃないか」  我がことのように、重永は満面の笑みを見せている。栗花落もまた、幼馴染みからの慰労を素直に受け取って、満足げに笑っていた。 「俺にはよく分からないけど、大変だったんだろう? お得意様へのサービスの一環ってことで、遠慮せずに食べてくれ」 「ふむ。お前にしては気が利くな」 「俺にしては、とは失礼なー」 「日頃の行いを鑑みて、その評価の正当性を知るんだな」  堅苦しいことを言いながらも、栗花落はケーキと紅茶をゆっくりと口に入れていく。 「……あれ? 半田くん、チーズケーキは嫌いだった?」  手を付けようとせずに、複雑な顔をしている夏生に気付き、重永は何気なく訊ねた。 「いや……、はは、ちょっとね。やーな思い出があるんですよね。チーズケーキに」 「そっかー。それなら無理強いできないな。ところで、君の誕生日はいつ?」 「へ? いきなりなんですか? 七月二日ですけど」 「へぇ、ならもうすぐ二十歳だね。こっそりあげちゃおうかな」  悪戯っぽく笑い、重永は手元の大きな瓶を持ち上げた。茶色の液体が、瓶の中で揺れている。 「製菓用じゃない、ちゃんとした飲用のブランデーだよ。一仕事終えた後で、しかも金曜日だってことで、一杯どう?」 「飲んだことないんすけど……」 「じゃあ、物は試しだな。ちょっと待っててくれ」  高い位置にある棚を開け、重永は丸いグラスを取り出した。グラスにブランデーを注ぎ、重永は恭しく夏生の前に差し出す。 「どうぞ。レミー・マルタンのV・S・O・Pです」 「れみーまるた?」 「確か、ブランデーの銘柄だったな。……高いんじゃないのか?」  心配そうに幼馴染みを見上げる栗花落だったが、当の重永は一言、「気にしない気にしない」と言って笑った。  夏生はブランデーグラスを口に近付ける。しかし、強い刺激臭に、思わず眉を顰めた。 「なんか、きつそ……」 「飲んでみたら? 意外といけるかもよ?」  微笑む重永に大人の余裕を感じて、夏生は無性に馬鹿にされている気がした。栗花落が大丈夫か、と訊ねてきて、なおさら子ども扱いされている気がしてくる。なにも言わず、夏生は一息でグラスの中身を空にした。 「おー、いい飲みっぷり」 「うっは、苦っ」  思い切り息を吐くと、濃い匂いが夏生の鼻をくすぐった。重永が水の入ったコップを差し出す。夏生は引ったくるようにコップを取って水を一気に含んだ。突き刺されているかのような夏生の舌の痛みは、徐々に軽くなっていく。 「はは、ブランデーはもっと舌の上で転がして、香りを楽しむ物だよ」 「う……、じゃあ次はもっとゆっくり飲みますー」 「……ヒロ、いいのか? もう一杯欲しがっているぞ」  その言い方も子ども扱いされているようで、夏生はむっとした。重永はと言えば、夏生のグラスに再びブランデーを注いでいる。 「どうぞ。この酒は俺の私物だから、お代は要らないよ。本当は、つーと二人で店を閉めてから飲もうと思って、持ってきたんだけどね」 「……粋な計らいだ、と言いたいところだが、俺はあまり酒を飲んだことがないぞ」  今度はちびちびと飲み始めた夏生を横目に、栗花落は困り顔で言った。 「あんまり飲んだことがないって……、つー、仮にも社会人だったんだろ? 飲み会とかなかったのか?」 「……あった。が、極力飲まないようにしていた」 「酒、弱いんですか?」  グラスの中のブランデーを四分の一まで減らした夏生が、しかめ面のまま訊いた。 「いや……、よく分からないんだ。いつの間にか寝てしまって」  困り顔のまま、栗花落は頭を横に振った。 「へぇ、そうだったんだ。うーん、どうしようかな……」 「あんた、知らないのに二人で飲もうと思ってたんですか?」  夏生が呆れながら訊くと、いつになく困った様子で重永は頭を掻く。 「なんとなく、飲めないことはないんじゃないかと思って。もう、いい年だし」 「……父と兄は酒飲みだったが、だからと言って俺も飲めるわけじゃないぞ」 「酒なんて、無理して飲まなくていいと思いますよ」  ブランデーとコップに残った僅かな水を交互に飲みながら、夏生はそう言った。アルコール度数の高い酒を飲んでいても、その顔に変化は表れない。 「半田くんの言う通りだな。気持ちだけ、ありがたく受け取っておく」 「ああ。……でも、ほんとはもう、つーもブランデーを飲んでるんだぞ?」 「……どういう意味だ?」 「その紅茶。ブランデー、入れてみたんだ。気付かなかった?」  栗花落は首を傾げ、半分ほどに減っていたカップの中の紅茶を口に含む。ゆっくりと味わってから嚥下しても、栗花落は首を傾げたままだった。 「酒が入っているのか? 確かに、いつもより味が濃いようには感じたが」 「ブランデーと紅茶は相性がいいからね。海外だと、紅茶に入れるのは当たり前みたいだし。美味いだろう?」 「ああ、これならいくらでも飲めそうだ」  そう言って、栗花落は屈託なく笑った。  三十分後。 「……よく寝てますね」  カウンターに突っ伏して眠る栗花落の横で、夏生は軽く肩をすくめた。彼のグラスは随分前に空になって、そのままだった。  この一時間の間に何人か客が入り、重永は低いが良く通る声で注文を取った。紅茶を入れたり、ケーキを出したりと忙しなかったが、その動作に伴ってどんな音がしても、栗花落は目を覚まさなかった。 「ほんと。疲れてたのかな」 「かもしれないですね。……そんな風には見えませんでしたけど」  そっと、夏生は栗花落の寝顔を覗こうとしたが、少し長めの前髪に阻まれて、彼からはよく見えなかった。 「……で、君はつーのどこを気に入ったんだ?」  夏生は顔を上げる。重永は、優しい笑みを浮かべていた。 「……やっぱ、分かってたんですか」 「そりゃあね。見てれば分かるよ。でも意外だな。驚かないんだ」 「そりゃあ、俺だって見てますから」  重永の笑みが、哀しいものに変わる。ちょっと待ってて、と言って、重永は店の入り口の鍵を閉めると、照明をいくつか消した。 「いいんですか、もう閉めちゃって」 「うん。今日はおしまい」  そう言いながらカウンターに戻ると、重永はもう一つグラスを取り出して、ブランデーを注いだ。夏生のグラスにも注いで、静かに乾杯をする。 「……どこがいいとか、そういうんじゃなくて、ね」  ブランデーを一口飲んで、夏生は滔々と語り出した。 「多分俺のは、ないものねだりなんですよ。この人は、どんなに頑張っても俺じゃ手に入らないものを持ってる。それが、一目見ただけで分かったから、俺は」 「へぇ、一目惚れなんだ」  重永がカウンターに肘を付いて、興味深そうに言った。 「気にするのはそこですか。ったく、話し甲斐のない人ですねぇ、あんた」 「だって、ないものねだりなんて、誰でもやることだよ。でも一目惚れはあまりしないだろう。しかも、あんな無愛想で取っつきにくそうなつーに、なんて。気になるじゃないか」 「俺、愛想いい奴は信用してないんで。それに、自分のペースを守れる人、すげーと思いますよ。……でも、初めて栗花落さんを見た時は、そういうんじゃなくて……」  言葉が見つからず、夏生は本格的に悩み始めた。その間も栗花落は眠ったままで、重永は笑ったままだった。重永がブランデーをゆっくり三口ほど飲んだ時、やっと夏生は口を開いた。 「……やっぱ、よく分かんねぇや。よく分かんねぇけど、好きになってた。誰かを好きなるなんて、そんなもんでしょ。理由がはっきり分かってる方が、なんか胡散臭い」 「そうだな。そんなもんだよな。理由なんてない。好きになるのがただ、男ってだけ、だよな」  自分に言い聞かせるように、重永は呟いていた。この時初めて、夏生はこの小さな喫茶店のマスターが見かけに寄らず余裕のない男だと分かった。  その切なそうな目を見上げ、夏生は寂しげに笑う。 「俺、頑張ってみたんですよ。女に好きになられて、彼氏彼女の真似事して、人並みに女を好きになろうとしました。でも、無理なんです。いちいち送ってくるメールは鬱陶しいし、毎晩掛かってくる電話もうるさいし。会えばあそこに連れて行けだの、あれが食べたいだの、ワガママばっかだし。正直、どうやったらこんなん好きになれるのか、さっぱりでした。それに、傍にいても全然どきどきしねぇ。正直、触りたくなかった。  好きになる理由が分かんねぇのと一緒で、好きになれない理由だって分かんねぇ。女が好きになれないのが異常だってことは、嫌ってほど分かってるつもりです。でも、好きになれないんだから、しょうがない」 「しょうがない、か……。で、君はいつか、つーに言うつもりなのか? 自分の想い」  じっと、重永は夏生の目を見た。夏生は怯むことなくにらみ返し、首を横に振った。 「異常なのは分かってる、っつったでしょ? 言いませんよ。今のままで十分です」 「……そっか」  ぐい、とブランデーを勢いよく呷って、重永は元の笑顔を浮かべた。頬が、赤くなっている。 「俺も、言わないままで我慢できるかなぁ」  遠くを見るような目で、重永はそう言った。 「あんた次第じゃないですか」 「……そう、だね」  肩をすくめて、重永は困ったように笑った。  重永が二杯目のブランデーを注いで、今度は少しだけ口に含む。夏生もまた、グラスをそっと傾けて、ほんの少しブランデーを口に入れた。強い香りが、二人の鼻腔をくすぐっていく。 「……うぅ」  その時、栗花落が呻いて、肩を震わせた。続いて、大きなあくびをする。その普段からは想像もできないほど砕けた表情を見て、夏生は少し吹き出した。 「おはよーございます」 「夜になったばっかりだけどね」  苦笑いをしながら、二人は栗花落の顔を覗き込む。 「……? おはよう……」  まだ寝ぼけている栗花落は、目を擦って二人の顔を見比べた。そして、ああ、と納得したように呟く。 「……また、酒で、寝たのか……」 「変な姿勢で寝てたけど、どっか痛いところない?」  いいや、と言って栗花落は軽く伸びをした。 「なら、今夜はもう帰って家でゆっくりしなよ。もう閉店だから、また寝られちゃかなわない」 「すまない……。……半田くんも……」 「いいですよ別に。マスターといろんな話できたし」  夏生は残ったブランデーを飲み干すと、椅子から立ち上がった。彼に倣って栗花落も椅子から立ったが、足元が覚束ない。 「つー、そんなんで帰れる? タクシー呼ぼうか?」 「……いや、大丈夫……」  そう言いつつも鞄を置き去りにしたまま店を出た栗花落を見て、重永は深々と溜息を吐いた。 「半田くん、よろしく頼むよ。少し酷かもしれないけど」 「……いいですよ。ぜーんぜん、問題ないっす」  それじゃまた、と言って、二人分の鞄を持った夏生は栗花落の後を追った。その背中を、重永は悲しげに見送る。  ドアベルが鳴る。ドアが閉まる音が響く。そして、しばし沈黙が落ちた。 「……言わないままで、我慢できるかな」  誰もいない店内で、重永はそっと呟いた。 「危なっかしいから、送って行きますよ。家、こっちで合ってます?」 「ああ……。すまないな……」  覚束ない足取りのまま、栗花落はふらふらと前を行く。夏生はその少し後ろで、彼の鞄を持って歩いていた。初めて店にやってきた栗花落を見かけた時の路地を行きながら、夏生は改めて自分に言い聞かせる。今のままで十分、今のままで十分、と、呪文のように。  栗花落はそんな夏生を振り返ることもなく、どうにか平衡を保ちながら歩いていた。 「真っ直ぐ歩かないと、転けちゃいますよ」 「はは……、そんなに年じゃない……」  ぞ、という最後の声が引っ繰り返る。傾いだ栗花落の肩を、慌てて夏生は掴んだ。一瞬、邪な感情が浮かびかけたが、夏生は無理矢理、自分を抑えた。 「ったく、しっかりしてくださいよ。やっぱ、タクシー呼びますか?」 「いや、車に乗ったら……、寝る」  そう言っている時点で、もう栗花落の目は半分閉じていた。 「分かりました、分かりましたから、家の前までちゃんと起きててくださいよ」 「……すまない。……歩いて十分くらいだ……」 「へぇ、意外と近いんですね」 「ああ……」  再び船を漕ぎ始めた栗花落の肩を抱え直して、夏生は指示された通りに歩き始めた。右、左、真っ直ぐ、と指示を出すたびに、栗花落の声は小さくなっていく。いくつかの路地を過ぎ、いくつかの道を渡ったところで、彼の目はとうとう閉じてしまった。 「ちょ、もしもし? 栗花落さん?」 「…………ここだ」 「はぁ? ここって」  夏生は、目の前の建物をゆっくりと見上げる。首が痛くなるほどの高さを誇るマンションが、夏生の前にどっかりと鎮座していた。 「ここの……、一一〇一号室……」 「え、ちょっと、栗花落さん?」 「鍵は……、鞄の中……、カード、キーと……」 「ちゃんと起きてくださいよ! 栗花落さん! 栗花落さんってば!」  夏生の叫びも虚しく、栗花落は寝息を立て始めた。ぐったりとのし掛かる栗花落の重さと固さに、今更ながら夏生は、彼も男なのだと実感する。 「ったく、人の気も知らないで……」  聞こえていないことを前提に、夏生は愚痴ってみた。当然、返事はない。溜息を吐きながら、夏生は栗花落を玄関脇に座らせて、彼の鞄を開いた。几帳面に入れられたいくつかのノートと本が詰められているが、中には鍵はない。外側のポケットを開けても、やはり鍵はなかった。  まさか、と思いつつ、夏生は健やかな寝息を立てている栗花落をじっくりと観察した。案の定、スラックスの臀部のポケットが膨らんでいる。 「……マジかよ。鞄の中じゃねぇじゃん……」  夏生は頭を抱えたくなった。栗花落の尻ポケットから僅かに覗いている少し大きめのキーケースは、気を付ければどうにか生地には触れずに取れる。だが、少しでも指先が震えれば、柔らかい肉を押してしまう位置にある。 「……なんの試練だよ、なんの」  誰にともなく、夏生はぼやいた。今のままで十分と、今日何度目かの呪文を唱えながら、栗花落の尻に手を伸ばす。否が応でも速まる呼吸を抑えつつ、恐る恐るキーケースの先を摘んだ。  彼は相変わらずすやすやと眠っている。できるだけゆっくり、夏生はキーケースを引き抜く。 「……ヒロ……、くすぐったい……」  夏生の不意を突いたのは、そんな栗花落の寝言だった。びくりと体が震え、夏生が摘んでいたキーケースが栗花落の臀部を撫でる。 「こら、やめろ……」  制止しながらも、栗花落は笑っていた。夏生の熱は、あっという間に冷めていく。代わりにやって来た強烈な嫉妬と悔しさを必死で抑えながら、夏生は抜き取ったキーケースを握り締めた。付き合ってきた時間の差を妬んだところでしようがないことは、夏生にも分かっている。  栗花落を立ち上がらせ、二人分の鞄を抱え直し、夏生はカードキーを玄関脇のセンサーにかざした。軽い音がして、ドアが開く。栗花落を引きずりながら、夏生は急いでドアをくぐった。  すぐに、エレベーターホールがあった。ギリシャ数字で、十五階までの階数表示がされている。とりあえず、夏生は昇りボタンを押した。 「栗花落さん、一一〇一号室なら、十一階ですか?」 「んー……」 「合ってるんですよね?」 「うー……」 「……つーさん」 「あー……」  宛にならない返事が、夏生の耳をくすぐる。不安になりながらも、夏生はエレベーターに乗り込んだ。そして十一階のボタンを押すと、栗花落と二人分の鞄を抱え直したのだった。  薄暗いエレベーター内に、頼りない照明がドアの窓ガラスから差し込んでは、消える。  好いてしまった人と密室で密着しているにもかかわらず、夏生の心は弾まなかった。至近距離に、一目で釘付けになってしまった端正な顔がある。すぐ横を向けば、触れられる距離にいる。しかし、夏生は身じろぎもせずじっとエレベーターのドアを見ていた。  ほどなく、エレベーターは十一階に止まった。降りてすぐに一一〇一号室があり、夏生は安堵の溜息を漏らす。ゆっくりと栗花落を壁に預けて、夏生はドアの鍵穴とにらみ合った。キーケースに入っていたいくつかの鍵を見比べ、新しめの鍵を取って、鍵穴に差し込んだ。  軽い音がして、ドアはあっさりと開く。開けた途端、古い紙の香りが夏生の鼻をくすぐった。 「……やっぱ、本とか多いんだろうな」  栗花落の豊富な知識を思い出して、夏生はそう口に出していた。しかし、件の物知りはドアの外で寝息を立てている。隙だらけの想い人を抱えて、夏生は室内に入って行った。 「お邪魔しまーす」  一応の挨拶をして、夏生は玄関の鍵を掛ける。栗花落と二人の鞄を抱え直し、周囲を見回した。夏生のワンルームと違い、玄関から廊下といくつかのドアが見えた。とりあえず真っ直ぐに歩いて、正面のドアを開ける。  濃い古本の匂いが、夏生の全身を包まんと溢れ出た。小さく唸って、夏生は立ち止まる。  リビングには、おびただしい数の本が並べられていた。文献や史料集といった研究に関する物だけでなく、小説や写真集、児童書や料理本など、様々な本が大きめの本棚いっぱいに詰まっている。 「すげぇ……」  夏生は感嘆の声を上げた。同時に、僅かながら栗花落を支えていた肩と腕の力も抜けた。  完全に脱力していた栗花落の腕は、ずるりと滑り落ちていく。 「う、わ!」  慌てて引き上げようとした夏生だったが、既に手遅れだった。バランスを失った栗花落は、壁に強かに肩を打ち付ける。夏生の機転でどうにか頭を打ち付けることは免れたが、その衝撃で栗花落もさすがに目を覚ました。  力ない目が、夏生を見上げる。……冷めていたはずの熱が、再び夏生の体を駆け巡る。  そんな頼りない目で見ないでくれ、と夏生は心の中で叫んだ。言葉は上手く出てこない。ごくり、と唾を飲み込む音が響く。 「……半田くん、か?」 「は、はい」 「……家、か?」 「……はい」  栗花落はゆっくり目を擦った。周囲を見回して、見慣れた光景を確認した栗花落は、ふらりとした足取りで歩き始めた。先程くぐったドアから廊下に出て、別の部屋に入っていく。 「え、……栗花落さん?」  後を追った夏生もその部屋を覗いた。栗花落は夏生が部屋の中に入ったことも気にせず、覚束ない足取りで押し入れから布団を引っ張り出している。 「あの、……えーと、寝るんすか?」 「そうだ……。そうだな……、風呂に、入ってない」 「や、そうじゃなくて」 「……そういえば……、なんでいるんだ?」 「は?」  間抜けな顔をした夏生を、栗花落は不思議そうに眺めている。二人の間に、沈黙が落ちた。 「ええと……、栗花落さんを送って?」 「……そうか。……ありがとう」  静寂が、降りる。栗花落の目に、理性の光が灯っていった。布団と夏生を見比べて、やっと今の状況を正確に把握する。夏生の困惑に気付き、見る見るうちにその表情が変わっていった。 「すまない!」 「うひゃあっ!」  突然の大声に、夏生もつられて声を上げた。夏生の様子にも頓着する余裕のない栗花落は、布団を置いて立ち上がると、慌てて部屋を出ていこうとする。 「ちょ、栗花落さん、待って! 落ち着いてください」  ドアの前に立ったままだった夏生は、栗花落の肩を掴んで足を止めた。しかし、栗花落は夏生の想像以上に強い力で、夏生の制止を振り解こうともがく。 「茶くらい出さなければ……」 「いや、ほんと別にいいんで、とりあえず落ち着いてください」 「そんなわけには……。酔って迷惑を掛けたのは俺だ」 「いいですよ、ほんとに。大したことじゃありませんから」  できる限り優しく言いながら、夏生はゆっくりと力を抜いていった。それにつられて、栗花落も次第に落ち着きを取り戻していく。 「……すまないな。なにか、迷惑を掛けなかったか?」 「全然。……歩きながら寝たのには驚きましたけど」  その一言に、栗花落は深く溜息を吐いて俯いた。自責の念に駆られている旋毛を見下ろし、夏生はどうしたものかと頭を掻く。しばしの沈黙の後、栗花落は顔を上げた。 「……もう遅いし、今夜は泊まっていってくれないか? 明日、改めて礼を言いたい」 「そんな! 別にいいですって! 家近いんで。それに……」  ゆっくり眠れる自信がない、とも言えず、夏生は言葉を詰まらせた。 「もしや、明日、用事でもあったのか? すまないな、ヒロが酒を飲ませてしまって……」 「いや、大丈夫です! なんにもないです!」  言ってから、夏生は後悔した。用事があることにしておけば、少なくとも宿泊を断る口実にはなった。しかし、夏生にはそんなことより、栗花落がこれ以上、罪悪感を持ってしまうことの方が辛かった。 「ならば、ぜひ明日、なにかお礼をさせてくれ」 「あー……、ええと……」  上手く断る方法が思い浮かばず、夏生が言葉を探している内に、どんどん栗花落の表情は沈んでいく。栗花落の表情が沈めば沈むほど、夏生の心にちくちくと針が刺さっていく。 「分かりました……。分かりましたから、そんな顔しないでくださいよ……」 「良かった……。とにかく、こっちへ」  穏やかな表情を取り戻した栗花落は、夏生を促してリビングに向かって歩き出す。その背中を見つめ、こっそりと夏生は吐息を漏らした。  夏生は大量の本に囲まれたリビングの真ん中にある、ローテーブルの前に座らされた。柔らかい座布団の上で、落ち着かないまましばらく周囲を見回しながら待つ。  その間、栗花落は隣のキッチンで湯を沸かしつつ、盆や急須、来客用の湯飲みを用意していた。軽やかな陶器の音が、時折リビングまで届く。  今更ながら、栗花落の家に入ってきてしまったのだと、夏生は実感させられていた。リビングには、先程目を奪われた本棚の他にも、衣装箪笥の上に飾られた小さな観葉植物や置物など、細々とした調度品が置かれている。その全てが、夏生の知らない、一人の時の栗花落を知っている。自分だけが異物だと言われているような気がして、夏生は奇妙なストレスを感じていた。  夏生が居心地の悪さに耐えること、数分。 「待たせてしまったな」 「全然。なんか、すいません。変に気ぃ使わせちゃって」 「こちらこそ……、ろくなもてなしもできず、すまない」  急須と二人分の湯飲みをローテーブルに置いて、栗花落は夏生の前に座った。互いに視線の置き場に困って、会話をする余裕もない。自然、沈黙が落ちた。  夏生は、できる限り自然な態度で、栗花落を観察した。初対面の時に感じた、人形のようだという印象は、もうない。そのくせ、人形のように姿勢を正して座る栗花落が、自分と同じく緊張していることが分かり、夏生はつい笑ってしまう。同時に、肩の力も抜けていった。 「すまない、なにか変だっただろうか?」 「いや、違うんです。違くて……。こういうテーブルでお茶を前にして座るの、慣れてなくて。変に緊張してんの、馬鹿らしくなって」 「そうか……」  栗花落の緊張が解れていくのが分かり、夏生の胸に形容しがたい温かさが広がっていく。そっと微笑む端正な顔が、温まった胸を激しく打って、苦しさを伴う喜びを夏生にもたらした。 「その、ここのところ親類以外を部屋に上げたことがなくてな。格式張ってしまったようだ」 「え……? マスターは?」 「あいつも忙しいようで、どうにも都合が付かなくてな。まだ一度も来ていない」  期せずして栗花落の初めてを一つ奪ってしまった夏生に、先程とは違った意味の緊張感が襲いかかる。落ち着こうとして湯飲みを取り、少し熱めの緑茶に口を付けた。 「近くに住む叔母が、よく様子を見に来てくるんだ。だが、基本的には叔母以外は誰も来ない」 「へぇー、仲良いんですね」 「ああ。田舎に住んでいるもう一人の叔母の方も、俺のことを気に掛けてくれてな。こまめに様子を見るよう言ってくれているらしい」  緑茶を啜る栗花落の目が、酷く優しいものに変わる。つられて、夏生の胸にも凪が訪れた。 「仲良いの、羨ましいです。うちなんて、叔母さんとかほとんど会ったことないですよ。母親は、やたら電話してきますけど」 「……心配なんだろう。親にとっては、いくつになっても子どもは子どもだから」  呟くような栗花落の言葉に、僅かな寂寥が混じっていた。気付かない振りをして、夏生は明るく続ける。 「うちの母親が心配してるのは、俺がちゃんと飯食ってるかだけですよ。俺、めんどくさくなるとよく飯抜くんで」 「あまり体に良くないぞ。三食きちんと食べないと……。そういえば、いつだったか君は即席麺ばかり食べていると上風呂くんが言っていたな」 「あ、あれは言い過ぎですよ! 俺だって、米くらい炊きます! それに、あいつだってバイト始める前までは、コンビニ弁当ばっかりだったんですよ!」  最近になって、重永に簡単な料理を習い始めたという忍の言葉を思い出しながら、夏生は必死になって自分の怠惰を否定した。むきになっている夏生を見て、栗花落は思わず吹き出す。 「そういう、つーさんこそどうなんですか?」  膨れつつ夏生は訊ねた。だが、栗花落は返事をせず、きょとん、と夏生を見つめていた。 「……つーさん?」  栗花落は、まるでそれが異国の言葉かのように、不思議そうに繰り返す。 「あ……、すいません。マスターが呼んでたから、つい」 「いや、その……いいんだ。いきなりで驚いただけで……」  白い頬に、さっと赤味が差す。片手で顔を覆って、栗花落は俯いた。火照る彼の頬が、夏生の心音をまた速める。話題を変えなければと思いながらも、夏生は次の言葉を探せないでいた。  再び、しばしの沈黙が落ちる。 「……情けない話を、一つしていいか?」  栗花落はそう切り出して、指の隙間から夏生を窺った。その言葉と同じく、少し情けない顔をしている栗花落へ、夏生は頷いて見せる。 「実は、な。昔から、ヒロ以外にあまり親しい友人がいなかったんだ」 「そう……なんですか」 「対応に困ることを言ってしまって、すまない……。だから、その……、どう接したらいいのか、分からないんだ。不快なことを言ってしまうかもしれない」  夏生は、またしても俯いてしまった栗花落を、どうにかしてしまいたい衝動に駆られる。テーブルがなかったら危なかったかもしれない、と心の隅で冷静に思いながら、夏生は大きく息を吸った。そして、平静を装って笑う。 「別に、ちょっとやそっとで凹みませんよ、俺。だから、遠慮せずになんでも言ってください。忍なんて、毎度散々に言いやがるんで、端から見たら俺達いっつも口喧嘩してるみたいらしいですよ。大体、つーさんは、気ぃ遣い過ぎです」 「そう……、か?」 「そうそう。マスターと話してるみたいに、適当でいいですよ」  そうか、とまた口にして、栗花落は微笑んだ。 「なら、お言葉に甘えて遠慮は止すよ。夏生」    夏生の心臓が、どくりと大きな音を立てる。駄目だ騒ぐな、と理性が必死に声を上げていたが、胸の高鳴りは止まらなかった。夏生にはもう、自分が平静を保てている自信は、ない。  今のままで十分、という呪文は、もう効かなかった。夏生には、彼に惹かれていく自分を止めることはできない。 「……半田くん? すまない、急過ぎただろうか?」 「い、いいです! 夏生でいいです!」  赤くなっている自分の顔を隠すこともせず、夏生は慌てて言った。 「はは、なんだか照れくさいな」  夏生は単に照れているだけだと受け取った栗花落は、困ったように笑う。それに合わせて、夏生もとりあえず笑っておいた。ひとしきり笑い合って、栗花落はちらりと時計を見る。 「ところで、そろそろ風呂を入れようと思うんだが、着替えは俺の物でいいか?」 「へ? いいですよ、そんな」 「しかし……、〈西風〉からここまで俺を運んできたんだ。汗を掻いただろう? 新品のシャツがないか、探してみるよ」  そう言って、栗花落は立ち上がった。 「あの、ほんとにいいですよ! 俺、別に一日や二日着替えなくても……」 「お礼だと思って、受け取ってくれればいい。あまり気にするな」  癖だらけの夏生の頭をぽんぽんと叩いて、栗花落は微笑んだ。そして、そのままリビングを出ていく。優しい手の感触が、夏生の頭から離れようとしない。  栗花落がいなくなっても、夏生は高鳴ったままの心臓がうるさくて仕方がなかった。  無事に新品の衣類を見つけた栗花落が、袋に入ったままのそれを夏生に渡して、十数分後。  夏生は、栗花落の家の湯船に浸かっていた。いつもは自分の部屋のユニットバスで、シャワーを浴びるだけだったため、夏生は随分久し振りに足を伸ばして風呂に浸かっていた。  他人の家とはいえ、一人になって温かい湯に浸かっていると、夏生の心は落ち着いてくる。 「……やっぱ、好きだ」  冷静になって考えても、その答えしか出なかった。十歳年上で、浮世離れしていて、酷い下戸で、人付き合いが苦手で、同性の栗花落を、夏生は好きになってしまった。この想いを秘めたまま栗花落の卒業まで耐えることなど、夏生にはできない。  しかし、想いを告げる時を決めることも、今の夏生にはできなかった。今言って、せっかく近付いた関係を壊したくない。だが、あまり近くない未来にその日を決めたとしたら、それまで待ち続けられる自信もなかった。 「……どうしたもんかな」  小さく呟いて、夏生はたゆたう水面を見つめた。そして、もう一つの問題に気付く。 「…………ほんと、どうすんだよ、これ……」  興奮の証を直視してしまい、夏生は深々と溜息を吐いたのだった。  夏生を風呂場に案内してから、栗花落は寝室に来客用の布団を敷いていた。遠方に住む叔母や従兄弟が遊びに来る時にしか出さないつもりだったため、布団はまだ使っていない。栗花落は丁寧にシーツを掛け、布団を整えた。  その頃になって、ようやく栗花落は平静を取り戻していた。そして、自分の発言を反芻して、随分と恥ずかしいことを言ってしまったと今更ながら後悔する。  同時に、夏生の意外とも思える優しさを思い出して、温かい気持ちが栗花落の心を包んだ。親族と重永以外で、遠慮なく彼に接し、ここまで世話をしてくれた者はいない。礼を言うたびに、「別にいい」を繰り返す夏生が、実は自分より精神的に大人ではないかとすら思えてくる。 「いい子だな……」  ぽつりと、栗花落は呟いた。心の底から、そう思っていた。だからこそ、不安もある。  ゼミや他の授業で見かける栗花落と一緒にいない時の夏生は、忍などの友人と楽しそうにしていた。だが、栗花落を見つけると、夏生は話を止めてまで彼のところにやってくる。彼は調べ物のことを聞きに来ることが多かったが、他愛もない話をしたこともあった。そんな時、自分は彼と友人との時間を奪っているのではないかと、栗花落はいつも思っていた。  夏生には、自分と違って同世代の仲のいい友人達がいて、今までずっと良好な関係を続けていた。しかし、その間に自分が入ってしまうことで、彼らと夏生の距離が空いてしまうのではないかと、栗花落は心配しているのである。  全ての人間と、同じように仲良くできる者などいない。だからこそ、夏生には年の離れた自分ではなく、同じ世代の若い友人を大切にして欲しいと、栗花落は思っている。だが、やはり栗花落は慕ってくれるのが嬉しかった。同時に、心の隅に醜い独占欲が住み着きかかっていることにも、気付いている。 「……どうしたものか」  奇しくも、夏生と同じ言葉を口にしながら、栗花落はそっと溜息を吐いたのだった。  どうにか煩悩を押さえ込み、夏生は風呂から上がった。烏の行水が常だった夏生にしては、かなり長時間の入浴であった。  丈の長いシャツに着替えて廊下に出ると、リビングの電灯はもう消えていた。代わりに、先程栗花落が布団を敷いていた部屋の灯が点いている。夏生は頭を拭きながら、そこに入った。 「お先です」  夏生は、壁に背中を凭せかけて本を読んでいた栗花落に声を掛ける。顔を上げた栗花落は、本を閉じて立ち上がった。 「湯加減はどうだった?」 「ちょうどいいですよ」  ハンドタオルを肩に掛けて、夏生は笑った。 「久し振りに湯船に浸かりましたよ。俺んち、ユニットバスだからお湯溜めるの面倒で」 「ここの風呂でいいなら、いつでも入りにくるといい。茶くらい出すぞ」  少し上から夏生を見下ろす視線は、どこまでも優しい。その優しさに付け入ろうとするほど、強かになれない自分にもどかしさを感じながらも、夏生は笑顔を崩さず栗花落を見上げていた。 「お茶と言えば、つーさんって紅茶派じゃないんですか? さっき、緑茶でしたけど」 「家にあるのは緑茶だけなんだ。ティーセットはあるんだが……」  僅かに、栗花落の表情が曇ったのを、夏生は見逃さなかった。 「つーさん、俺、ほんとは緑茶の方が好きなんですよ。マスターには内緒にしといてください」  殊更に子どもっぽい笑顔を作って、夏生はそう言った。ああ、と返す栗花落にも、ささやかな笑顔が戻る。それから、栗花落は着替えを片手に風呂へ行った。ドアを閉める音がしたのを確かめ、夏生は既に準備されている布団の前に立つ。 「布団の上に座ると、行儀が悪いと思われるよな……。でも、先に入ってるのもな……」  普段ならば絶対に悩まないようなことで、夏生は頭をフル稼働させていた。ああでもない、こうでもないとぶつぶつ呟いていると、リビングの方から小さなメールの着信音が響く。鞄の中に入れたままにしていた携帯のことを思い出し、夏生は立ち上がった。リビングへ向かい、電灯を点けずに鞄を取る。そのまま寝室まで戻ると、鞄の中から携帯電話を取り出した。  メールが二通届いていた。一通は忍で、もう一通は見慣れないメールアドレスだった。とりあえず、夏生は忍のメールを開いた。 『用事があるって言われたからマスターにお前のメルアド教えた』  内容はそれだけで、件名はおろか句読点すら付いていない。夏生も、『分かった』とだけ返信する。二人の間で交わされるメールは、概ねそんなものだった。 「……じゃ、こっちはマスターか」  呟きながら、夏生はもう一通の見知らぬアドレスが表示されているメールを開く。 『重永です。気になったので、ブロくんからメルアド教えてもらいました。あの状態じゃ、つーの返事は望めないからね。つーの様子はどうだった? 無事送り届けられたかな?』 「あの人からだと思うと、心配してんのもなんか胡散臭ぇ……」  わざわざそう口にしてから、夏生は唸った。しばらく重永からのメールを前に考えた後、無事に帰宅したが、諸事情あって泊まることになったとだけ返信した。  そして、改めて布団の前で唸っていると、さして間を空けず再びメールの着信音が響く。 『泊まって大丈夫? 早まらないでくれよ。あいつ、聞く限りでは童貞だから』 「なに、考えてんだ……。あのオッサン」  深々と溜息を吐いて、夏生は頭を押さえた。多大な精神力を払って落ち着かせた熱がぶり返しそうになるのを、重永への恨み言を頭の中で連ねることで必死に抑える。  どうにか冷静になった頭で、重永に罵倒混じりの返信をして、夏生は三度布団と向き合う。  しかし、春の盛りとはいえ夜はまだ肌寒く、その時にはもう外で待つという選択肢は夏生の中で失われつつあった。夏生は肌触りのいいシーツの上に座って、足だけを布団の中に入れた。しかし、横にはならない。それが彼の折衷案であった。  冷えていた布団が、ゆっくり温まっていく。それに連れて、疲労感が夏生の体を襲った。今日は夏生にとって、精神的にも肉体的にも、疲れの溜まった一日だった。疲れと同時に、急激な眠気も夏生を襲う。夏生は今すぐにでも倒れたくなっている体を叱咤し、なけなしの精神力で起きている状態であった。落ちかかる瞼をこじ開け、揺れる上体を無理矢理に起こす。 「……なんで、こんなに必死なんだろ……」  呟いて、夏生は自嘲した。ほんの一月前の、恋愛に冷め切っていた自分がどこに行ってしまったのか、夏生にはもう分からなかった。  次に夏生の意識が戻った時、彼の体は横になろうとしていた。温かな腕が彼の肩を支え、ゆっくりと体を寝かせていく。それが栗花落の腕だと気付いた夏生だったが、既にその時には眠気が彼から喋る力を奪ってしまっていた。頭では「ありがとう」と言おうとしていても、彼の体が言うことを聞かない。意識は、再び薄らいでいった。  上半身が掛け布団で覆われたのを最後に、夏生は睡魔に身をゆだねた。 「休み」  栗花落の声が、夏生の頭にゆっくりと溶け込んでいく。夏生は酷く、幸せだった。 「  さん、おはようございます」 「  よう、光」  遠くから声が聞こえて、夏生は目を覚ました。慣れないシーツの感触が、多大な違和感を彼に与える。寝ぼけ眼を擦りながら、夏生は体を起こした。見慣れない場所と、慣れない布団。ようやく、夏生は昨夜の経緯を思い出す。 「……結局、先に寝ちまったのか」  隣に布団があったはずのところを見ながら、夏生は呟いた。手探りで携帯電話を探すと、時間を確認する。既に、午前も後少しで終わる時間になっていた。 「  れない靴ね。買ったの?」 「  、その……」  玄関の方から、栗花落と夏生の知らない女性の声が聞こえてくる。邪魔しない方がいいと判断して、夏生は再び横になった。 「あら! ほんと?」  突然、女性の大きな声が響き、夏生はびくりと肩を震わせた。 「  さん、まだ寝てるから……」 「  、ごめんなさい。つい……」  自分のことを話す栗花落の声が聞こえて、残っていたはずの夏生の眠気は完全に消えた。夏生は横になったまま、できるだけドアの方へ近付いて耳をそばだてた。 「学年が一つ下ってことは、えーと……今、二十歳くらい?」 「ええ。今年で二十歳だと言ってましたよ」 「じゃ、うちの子と同じくらいね。どんな子?」  ごくり、と夏生は生唾を飲み込んだ。 「いい子ですよ。明るくて、面倒見もいい。少し口が悪いけど、気遣いの上手な子です」  柔らかな口調で、栗花落は躊躇いなく言った。夏生は、そっと安堵の息を吐く。 「そう。光にお友達ができて、ほんと良かったわ。あなた、昔から人見知りが酷かったでしょ? 今まであんまり、お友達の話も聞いたことなかったから……。叔母さん、心配してたのよ」 「……ごめんなさい」 「謝ることじゃないわ。私が勝手に心配してるだけだから。それにね、ほんとは、心配掛けさせて欲しいのよ? ほら、うちの子、さっさとしっかりしちゃって、反抗期もなかったから」  栗花落の叔母が本格的に家庭の事情を話し出した辺りで、夏生は布団に戻った。今更になって、ささやかな不安が彼を襲う。  栗花落が話した夏生の印象は、あくまで表面的なものだ。もしも栗花落が自分の内面を  後ろ向きで、冷めた自分を知ったら、どんな顔をするのだろうと、夏生はぼんやり思った。  玄関の方では、しばらくの雑談が続いた後、挨拶が交わされてドアが閉まった。栗花落は寝室に戻らず、台所へ向かって行った。冷蔵庫を開ける音が、夏生の耳にも届く。  夏生は少し悩んでから、起き上がった。寝癖を手櫛でどうにか整えてから、乱れた布団を直す。布団を畳むべきか否かを悩んでいると、寝室のドアが開いた。 「おはよう。起こしてしまったか?」 「さっき起きたとこですよ。えーっと、もう昼ですけど、おはようございます」  夏生が振り返ると、既に着替えを済ませた栗花落が立っていた。 「先程、叔母が来てな。シチューの余りを少し貰ったんだが、食事はそれでいいか?」 「いいですよ。……昨夜言ってた、よく様子を見に来てくれる叔母さんですか?」 「ああ。料理好きでね。作り過ぎたと言っては、よく持って来るんだ」  困ったように笑ってから、栗花落は食事の支度のために再び台所へ向かった。  夏生はとりあえず二つの布団を三つ折りに畳んで、自分の鞄を持った。リビングに向かう途中、空きっぱなしになっていたドアから台所の中をちらりと覗く。  真っ白のシャツに包まれた背中が、少し窮屈そうに曲がっていた。背の高い栗花落は、頭の上にある収納棚にぶつかりそうになりながら、ゆっくりと鍋の中のシチューを掻き混ぜている。同棲したらこんな感じかな、と思ってしまった夏生は、自分の妄想に虚しさを感じつつ、改めてリビングに向かった。  本と、よく煮込んだシチューの香りが混じるリビングに、夏生は腰を下ろした。学食で食べる昼食以外、毎日カップ麺で過ごしてきた夏生は、シチューを食べるのは随分久し振りであった。夏生がそんなことを考えていると、腹は批難の声を上げた。昨夜は結局、ブランデーと緑茶しか腹に入れていないのを思い出し、夏生は急激に空腹感を覚える。急かすようで悪いと思ったが、耐えきれなくなった夏生はリビングにある台所へのドアを開けた。 「ん? どうした?」 「なんか、手伝えることあるかなーって……ん?」  夏生の鼻が、僅かながら異臭を感じ取る。 「焦げ臭い……?」 「あ!」  栗花落は慌てて、オーブントースターを開けた。しかし、中で焼かれていた食パンは中央が半分以上、黒く漕げていた。とりあえず電源を切り、栗花落は溜息を吐く。 「大丈夫ですよ。ちょっと削れば食べられますって」 「面目ない……」 「あ、それよりシチュー! 混ぜなくていいんですか?」 「あ!」  二人で慌てて鍋を覗き込む。栗花落が少し勢いを付けて混ぜると、少しだけ鍋底が見えた。 「良かった、焦げてないみたいだ」 「……つーさん、料理慣れてないんですね」  近くなり過ぎた距離を自然に離しながら、夏生は言った。 「ああ……。恥ずかしながら、調理実習以外ではろくに料理をしたことがない……。一人暮らしを始めた時に、少しやってみようと思ったのだが」 「あー、あのリビングにある料理本ですか?」 「ああ。結局、ほとんど開いてない」  肩をすくめて、栗花落は自嘲した。 「なんか、意外です。つーさん、なんでもできそうなのに」 「君の前では少し、格好を付け過ぎていたかもな。俺は、そんなに完璧な人間じゃないぞ。  ……昨夜、本当は……、食事のことで君に説教できる立場じゃなかったんだがな」  すまない、と栗花落は付け足した。別にいいですよ、と夏生は返す。昨夜から、二人の間で何度も交わされたやりとりだった。昨日から、栗花落はよくく「すまない」と口にしている。そのたびに、夏生には彼の表情がより人間味を帯びていくように見えた。そして、彼が人形でなくなればなくなるほど、夏生は栗花落光という人間の魅力に強く惹きつけられるのである。 「そろそろ、いいかな。すまないが、そこの食器棚からトースト用の皿とシチュー皿を二枚ずつ取ってくれないか」 「はーい」  シチューの火を止めた栗花落に言われ、夏生は指さされた食器棚を覗き込む。一人暮らしにしては大きめの棚には、同じブランドの同じ色で統一された食器が並べられていた。下手に触って落とさないように、夏生は恐る恐るトースト用の平皿に手を伸ばす。 「あ!」 「うわ!」  突然の栗花落の声で、夏生はびくりと肩を震わせた。伸ばしていた手も震え、皿に当たってがちゃりと大きな音を立てる。慌てて夏生は皿の並びを整え、栗花落の方を振り返った。 「またなんかあったんですか?」 「すまない、その……、パンに塗る物が切れていたのを、すっかり忘れていた。昨日、買って帰るつもりだったから……」 「なんだ……あ、すんません。シチューあるんだからなにも付けなくていいじゃないですか」 「いや、バターだけでもと思ったんだが……。なにからなにまで、申し訳ない……」  しゅんとする栗花落に笑いかけてから、夏生は改めて食器棚の方を向いた。その時、棚の上に置かれた箱に気付く。丁寧な装飾が施された木の箱は、ところどころが剥げ、古びていた。 「どうした? 夏生」  栗花落は、皿を取ろうとしない夏生に声を掛ける。 「いや……、なんか、綺麗な箱があるから、気になって」 「ああ……、それは……」  懐古と寂寥の混じった目で、栗花落は箱を見上げた。躊躇ってから、無理に笑顔を作る。 「それが、昨夜言っていたティーセットだよ。……母の形見なんだ」 「そう……なんですか」  ゆっくり、栗花落は食器棚へと歩いた。夏生の隣で立ち止まり、優しく木箱を撫でる。 「母は、俺が十七の時に病気で亡くなってね。生前はよく紅茶を淹れていたから、これも毎日のように使っていたんだが……。どうしても、俺は淹れる気になれなくて……」 「その……すいません。辛いこと、思い出させちゃって」  栗花落は首を横に振った。そして、優しく微笑む。 「辛くはない。……もう、十三年経つんだ。悲しみも辛さも、薄れてしまった。それに……」  続けようとした栗花落を、携帯電話の着信音が止めた。腰のポケットに入れていた携帯を取り出した栗花落の表情が、一瞬にして強張る。 「すまない、先に食べていてくれ」  それだけ言って、栗花落は足早に廊下へと向かった。その慌てようを、夏生は呆然と見守る。 「  ん、  も言ったはず……」  夏生の耳に、栗花落の険しい声が少しだけ届く。内容はほとんど聞こえないが、栗花落の声の調子は、徐々に強くなっていく。微動だにせず、夏生は初めて聞く栗花落の苛立った声に耳を澄ませていた。電話は中々終わらず、栗花落の声は次第に大きくなっていく。それにつられて、夏生の背筋も徐々に冷たくなっていった。 「  話すことはありません……!」  一際大きな声が響いてから、しばしの沈黙が落ちる。息をするのも忘れて、夏生はその沈黙に耐えた。静寂をそっと裂いた溜息の後、足音が夏生のところへ戻ってきた。ドアを開けた栗花落は、夏生を見て頬を緩ませる。 「待っていてくれたのか。……すまないな」  夏生は首を横に振った。夏生の不安を露わにした表情を見て、栗花落は困ったように笑う。 「……みっともないところを、見せてしまったかな」 「あの……、なんかあったんですか? 電話の人と」  少し考えてから、栗花落は頷いた。冷めてしまった鍋に火を点けて、そっと口を開く。 「電話の相手は、兄の霖(りん)だ。その……、帰って来いと、うるさくてな」 「実家に、ですか?」 「ああ……。まぁ、そうなるかな」  珍しく歯切れの悪い言葉を連ね、栗花落は押し黙った。夏生もそれ以上は追求せず、皿を用意してトーストの焦げを取る。  さして時間を掛けることなく、食事の準備は終わった。いただきます、という言葉が、やっと沈黙を破る。夏生はシチューの鶏肉を口に運び、咀嚼した。 「……その、こんな話をすると、古くさいと思うかもしれないんだが……」  不安顔のまま、栗花落は夏生を窺った。始めたばかりの食事の手を止め、できる限り優しい笑みを浮かべて、夏生は先を促す。 「……俺の実家は会社を経営していて、社長は世襲制なんだ。家長が、必ず社長職に就くと決められている」 「へぇ……、すごいですね。じゃ、つーさんのお父さんが社長さんなんですか?」  栗花落の表情は、一際曇った。拙いことを言ってしまっただろうかと思い、夏生の背中を冷や汗が伝う。 「父は、三年前に……事故死した。それに、俺の大学卒業と同時に、父は兄に社長職を譲っていてな。今は、兄が叔父の補佐を受けながら社長をしている」 「あ……、すいません、また」 「いや、いいんだ。俺も、家の会社に勤めていたんだが、その、色々あってな。兄の反対を押し切って、大学へ通うことに決めた。だから兄は、俺に会社へ戻ってこいとうるさいんだ」  愚痴ってしまってすまない、と栗花落は付け足した。そして、悲しげな目でじっと夏生を見つめる。 「……その……、なんと言ったらいいか……」 「え?」 「いや、……軽蔑、したか?」 「なんで? つーさんは、歴史の勉強がしたかったから会社を辞めたんでしょ? すごいと思いますよ。俺だったら、就職できたらもう大学に入り直そうとか考えないです。そんな情熱俺にはないし、覚悟だってできない」  夏生の言葉と笑顔が、ゆっくりと栗花落の悲しみを解していく。くしゃりと、栗花落は泣き笑いの顔になった。 「……ありがとう……」 「つーさん? 別に、礼を言われることなんてなんもしてないですよ!」 「いいや……。俺は昨夜から、ずっと夏生の言葉に助けられている。……こんな俺でも、嫌にならずにいてくれて、ありがとう」  栗花落は頭を下げた。髪がふわりと、泣きそうな栗花落の顔を隠す。  今すぐにでも彼を抱き締めてしまいたい衝動が、夏生の胸を締め付けた。指先が震え、足がうずうずする。耐えきれない、夏生は心の中で叫んだ。  立ち上がった夏生は、高鳴る胸の音を聞きながら、一歩の距離を縮めた。静かに栗花落の隣に座ると、その広い背中に手を伸ばす。栗花落の熱が、夏生の手のひらを温めた。 「実は……迷っていたんだ」  抱き締めようとして上げた夏生のもう片方の腕を、俯いた栗花落の声が遮る。所在なげに、手は下に下りた。 「辞表を出して……、叔母のところに身を寄せて……、兄の言葉を無視して……、歴史を学ぶことを。叔母達は、お前のやりたいことをやれと言ってくれた。俺も、自分の選んだ道なのだから、後悔はすまいと思おうとした。それでも……」  夏生は背中に当てた手で、優しく栗花落を撫でた。 「心の隅ではやはり、これで良かったのかと考えてしまうんだ。家のためにも、死んだ父のためにも、兄の言うように会社に残っていた方が良かったんじゃないか。兄からの電話を切るたびに、そう思ってしまって……。……でも」  俯いていた栗花落の顔が、僅かに上がる。 「兄の言いなりになりたくないという気持ちもある。父の言いなりになって、なんの自由もなかった母と同じ轍を踏むような気がして、素直に兄の言葉を聞けない。それに兄は……、俺の言葉に耳を貸してくれないんだ。歴史などなんの役にも立たない物を、研究してなんになると……」  憎悪に似た光が、栗花落の目からちらりと漏れる。その冷たい輝きが、夏生の背筋をさっと凍らせた。しばしの沈黙の後、栗花落は顔を上げる。 「……駄目だな。年を取ると、つい愚痴っぽくなってしまう。聞いてくれて、ありがとう」  夏生は栗花落の背中に置いていた手を取って、首を横に振った。 「さ、時間が経ってしまったが、いい加減に食べてしまおう。待たせてすまなかったな」  微笑んだ栗花落は、いつもの優しい目に戻っている。内心で安堵しながら、夏生は元の座布団の上に戻った。  シチューとトーストを少しずつ口に入れながらも、夏生は目の前の想い人の意外な面が頭から離れなかった。家族に対する目にしては、あまりにも冷たい視線。栗花落の中にあるのは、穏やかさだけではない。当たり前のことを、今更のように夏生は思い知らされていた。  それでも、狂おしいまでの愛しさは変わらない。むしろ強くなっていった。庇護欲に似た使命感と、栗花落が本心を自分にだけ漏らしているという独占欲に似た満足感が、栗花落への愛しさを増していく。 「……なんか、嬉しいです」  ぽつりと、夏生は呟いた。 「……ん?」  シチューを口に入れようとしていた栗花落は、首を傾げる。 「つーさんが色々話してくれて、嬉しいです。俺のこと、信頼してくれてるってことでしょ?」 「……そうだな。ふふ、夏生には、なんでも話してしまいそうだ」 「いいですよ、いくらでも聞きますから。シモの話でもオーケーっす」  さっと、栗花落の頬が赤くなる。しまった、この手の話はまだ早過ぎたかと、夏生は自分の焦りを悔いた。慌てて取り繕おうと言葉を探す夏生より先に、栗花落が口を開いた。 「あー、そういう話は……、経験がなくてな。参考にはなるようなことは、なにも言えないぞ」 「べ、別に参考にしたいとかじゃないですよ! 相手がいるわけじゃないし……」 「そうか? 君はモテそうなのに」 「うわ、つーさんがそういう俗っぽい言葉使わないでくださいよ。似合わねぇ」 「ははは、それは褒め言葉と受け取るべきかな?」  からからと笑ってから、栗花落はシチューを口に入れた。夏生は話が逸れてくれたことに安堵を覚えながら、トーストを噛む。 「そういえば……、昨日のお礼は、なにをすればいい?」 「へ? ああ、そういえばそんな話でしたっけ。別に、もういいですよ。泊めてもらった上に風呂も入れてもらったし、飯も食わせてもらってるし」 「そういうわけにはいかない。色々と、愚痴も聞いてもらったからな。なんでもいいから、お礼をさせてくれ」  こうと決めたら栗花落は梃子でも動かないのを、夏生は昨夜のことで嫌というほど知った。どうしたものかと、夏生は頭を悩ませる。 「んー……。じゃ、今度、飯奢ってください」 「そんなことでいいのか?」 「いやいや、俺にとっては死活問題ですよ。仕送り前は特に!」  必死の形相の夏生を見て、栗花落は思わず吹き出した。 「ちょ、笑いごとじゃないですよ!」 「悪い。じゃあ、仕送り前には奢ろう。そういえば、君はアルバイトはしないのか?」 「あー……、ちょっと考えたこともあるんですけど……、なーんか、やる気になんなくて」  それを考えたのが今年の春休みだったことを思い出し、夏生の顔は僅かに曇る。千秋がなにかと言うと金の掛かることをしたがったため、夏生にとっては財布がかなり寂しくなった春休みであった。バイトでもしなければやっていけない、と最初の内は思っていたが、そうやって稼いだ金も千秋によって使わされるのが酷く苦痛に思えて、結局夏生はアルバイトをしなかった。 「つーさんは、バイトしないんですか? なんか、しなくても平気そうですけど」  気持ちを切り替えようと、殊更に夏生は明るく言った。 「まぁ、多少は勤めていた頃に貯めた分もあるからな。ここのマンションも、叔母の家の物だから家賃は掛からない。無駄遣いをしなければ、特に困らないんだが……。実は、学内で史料研究の手伝いをしてみないかと言われているんだ。それに、講演会のテープ起こしも。あまり、割のいい仕事ではないが、やりがいがありそうだろう?」 「へぇー、そんなバイトあるんですね。俺、絶っ対向いてないけど」 「ふふ、良かったら担当の人に紹介しようか?」  慌てて夏生は首を横に振った。授業以外で勉強させられるようなアルバイトは、不真面目な夏生にはとてもではないがこなせる自信がない。 「いっそ、マスターのとこでバイトさせてもらえたら、けっこう気楽なんですけどね。でも、あんなちっちゃい店に何人もバイトは要らないかな……」 「話してみたらどうだ? あれも、君にならそう悪い返事はしないだろう。上風呂くんも毎日来ているわけではなさそうだから、もう一人くらいは雇えるかもしれないぞ」  そう言って、栗花落は自分の携帯電話をスラックスのポケットから取り出した。 「い、いや、いいです! 邪魔しちゃ悪いから!」 「邪魔?」  しまった、と夏生が思った時には、遅かった。栗花落は鸚鵡返しに、夏生の言葉を口にする。 「あの、違うんです! えっと……」 「そうか。あいつ、最近妙に機嫌がいいと思ったら、そういうことだったのか」 「へ?」  栗花落は一人、納得していた。嫌悪感もなく、当然のように頷く。 「つーさん、もしかして……」 「ああ。あれとは付き合いが長いからな。あいつのことは知ってるよ」  さらりと言った栗花落を、夏生は大きく目を見開いて見つめた。踊り出したいくらいに気分が昂揚しているのに、指一本動かせない。後ろ向きだった夏生の心に、希望の光が差した。 「そうか、上風呂くんのことが……。あいつ、また無理をしなければいいが」 「……え? また?」  さっと、夏生の心に冷たい水が浴びせられる。栗花落は夏生の固い表情に気付いた様子もなく、口を開いた。 「実はな、一度、あいつに想いを告げられたことがあるんだ」  困ったような栗花落の笑顔が、一瞬にして夏生の心を地に叩き落とす。 「高校卒業の時に、な。その時は随分悩んだようで、何日もろくに眠れなかったと言っていた。今回も、そんなことにならなければいいが……」 「あの……、一応、聞きますけど……。つーさん、マスターになんて返事したんですか?」  恐る恐る、夏生は訊ねた。答えが分かり切っていても、確かめずにはいられなかった。 「断ったよ。悪いとは思ったが、俺はそういう性癖ではないし、中途半端にあいつに応えて、余計に傷つけることもできない。それにあいつも、駄目で元々のつもりで言ったようだった」 「そう、ですか……」  溜息を吐かんばかりの夏生の表情に、栗花落は首を傾げる。 「どうした?」 「いえ、なんでもないです! マスターって、意外と節操ないんだなって思っただけで!」 「ああいう性質だからな。応えてくれる人を探すのは、大変なんだろう。俺も、いい人が見つかればとは思うがな」  そうですね、と夏生は相槌を打ったが、心は晴れない。  その後の食事は砂を噛むようだった。栗花落との会話をできるだけ不自然にならないようにすることに必死で、夏生はもうなにも考えられなかった。  名残惜しそうな栗花落と別れて、夏生は溜息を吐きながら帰路に着いた。エレベーターを降り、自動ドアとエントランスを抜けると、外は嫌味なほどに晴れ渡っていた。 「……結局、こーなるんだよな……」  ずり落ちてくる鞄を持ち上げもせず、夏生は小石を蹴り飛ばす。突きつけられた現実を受け止めるには、時間が足りなかった。栗花落との距離は、昨日と今日で大幅に縮まったばかりだったのだ。だが、ひょっとして、と思った瞬間には、夏生の希望は断たれた。諦められないと悟った次の日には、諦めざるを得ないと思っている自分が、夏生には酷く滑稽に思えた。 「大体、マスターもマスターだ。先に言っといてくれれば良かったのに」  平然と栗花落への想いを訊ねてきた昨日の重永を思い出し、夏生の苛立ちは募っていった。  一言なにか言ってやらなければと思い、自然と夏生の足は速くなった。昨夜、栗花落に肩を貸して歩いた道程を、その二倍の速さで抜ける。あっという間に、〈喫茶西風〉の看板が見えてきた。夏生は、半ば駆け足で店内へ入った。ドアベルが、悲鳴を上げる。 「いらっしゃい……あ、半田くん」 「夏生……、お前、タイミング悪ぃよ」  忍が残念そうな目で、呆然としている夏生に言った。だが、夏生にはその声は届いていない。 「……なんで、お前がいるんだよ」 「なによ、私の勝手でしょ! いきなり失礼ね!」  千秋の甲高い声が夏生の耳を突く。忍は溜息を吐き、重永は二人の顔を見比べて首を傾げた。 「マスター、私帰ります。上風呂くん、今日はありがとね」 「ああ。じゃあな、神田」  早口にそう言って、千秋は代金を置いて去る。入り口に立った夏生には、目もくれない。  千秋が去ってから、やっと夏生は我に返った。 「おい忍。なんであいつがここにいるんだよ」 「半田くん、とりあえず座ったら? 他のお客さんにも迷惑だし」  重永の言葉に、夏生はカウンターへ向かった。不機嫌さを露わにしている夏生を、テーブルの客がちらちらと見ている。 「はい、お冷や。落ち着くよ」 「……どーも」  水を一息に飲みきってから、夏生は音を立ててコップを置いた。そして、カウンターの奥の忍を睨みつける。 「なんで、あいつがこの店知ってんだよ」  低い声で、夏生は恫喝するように言った。 「それは知らねぇ。今日、初めて来た」 「あのー、俺にも分かるように説明……」  してくれないかな、と言おうとした重永に、夏生は射るような視線を投げつける。 「あいつは、昨日言ってた俺の元カノです」 「あー、はいはい。なにかと鬱陶しいって言ってた……」  重永は昨日の会話を思い出しながら頷く。だが、それを聞いた忍は眉間に皺を寄せた。 「お前、別れたからってそういう風に言うの、どうかと思うぞ」 「んだよ、事実だからしゃーねぇだろ」  吐き捨てて、夏生は視線を忍から逸らす。 「……で、なんで千秋がここに来たんだよ」 「あいつ、栗花落さんが好きなんだと」 「…………はぁ?」  たっぷり間を空けてから、夏生は忍の顔を見上げた。 「なんであいつが。話したことあんのかよ」 「さぁ? なんか、大人の雰囲気で素敵なんだと。で、あの人がこの喫茶店に入るの何度か見かけたから、今日思い切って覗いてみたんだとよ」 「意味分かんねぇ。ストーカーかよ」 「神田のアパートもこの辺だろ、確か。帰り道に見かけたんじゃねぇ?」  忍は肩をすくめ、夏生は溜息を吐いた。 「とにかく、一回話してみたいから、これからここに通うってさ。で、協力頼まれた」 「あいつ、また外堀から固めようとしてんのかよ。めんどくせぇ奴」  心底呆れた夏生は、椅子の背もたれに思い切り体を預けた。全く以て悪いタイミングだ、と夏生は思う。自分が諦めることになった日に、千秋が栗花落に恋をしているという話を聞くなど、彼には悪い冗談にしか思えなかった。 「お前、手ぇ貸してやんのかよ?」 「そりゃ、一応は。でも、どうせ栗花落さんの趣味じゃねぇだろ。ああいうの」 「分かってんならいちいち相手すんなよ。あんな奴」 「わざわざここまで来たんだから、その意気は買ってやるべきだろ」 「分っかんねぇ。お前のその優しさ、どっから来んの」  天井を見上げながら、夏生は吐き捨てる。その時、テーブル席の客に呼ばれて、重永はそそくさとカウンターを出た。何度か頭を下げてから、重永は立ち去る客を見送る。ドアが閉まって、店内が三人だけになったところで、深々と溜息を吐いた。 「半田くんのせいで、お客さんが二人も帰っちゃった……」 「悪ぅございました! これで満足ですか?」 「今日は虫の居所が悪いねぇ、半田くん」  苦笑しながら、重永は夏生の分の紅茶を淹れ始める。 「それにしても、あの子と半田くんが、ねぇ……。水と油に見えるけど」 「あっちが勝手に騒ぎ出して盛り上がってただけですよ。俺はそれに付き合ってやってただけ」  忍の手前、そもそも女を好きになれるはずがなかったという本音を言うわけにもいかない夏生は、殊更ぶっきらぼうに言い放った。重永はむくれている夏生の前に、足元の冷蔵庫から取り出した小さなフルーツタルトを置く。 「まぁまぁ。苛々した時には甘い物、だよ」 「どーも。これ、マスターの奢りですよね?」  それくらいやってくれないと苛立ちは収まらない、と言外にほのめかせる夏生に、重永はにっこり笑って首を横に振った。 「いや、これは君のバイト代から引いとく」 「…………は?」 「つーからの指令が出ててね」  重永は、黒エプロンのポケットから携帯電話を取り出して、画面を夏生に見せる。 『夏生がアルバイトを探している。協力してやってくれ』  画面を見ながらぽかんとしている夏生に、重永が笑いかける。 「ってことで、君もここのバイトだよ。奥の部屋のカレンダーに、暇な日を書いてもらうから」 「そんなんで採用決めていいんですか?」 「ま、縁故採用なんて君で最後だろうし、別に構わないよ。ブロくんも、毎日来られるわけじゃないからね」 「つーわけだ。さっさと仕事覚えろよ」  テーブル席の砂糖を補充しながら、忍は言った。味方が誰一人いない状況だったが、それでも夏生は首を横に振る。 「べ、別にいいですよ! 俺、そんな真面目にバイト探してたわけじゃないんで!」 「えー、うちじゃ嫌? 大丈夫、こう見えてすぐ潰れたりはしないよ。仕事だってそんなに難しいことはさせないから。シフトも自由だし」 「そういう問題じゃないです! ってか、あんたは俺でいいんですか?」  満面の笑みを浮かべて重永は頷く。その胡散臭い笑顔に、夏生の背筋に冷たい汗が流れる。 「大歓迎だよ。半田くんなら」 「だとよ。良かったじゃねぇか」 「ああ、もう!」 「はい、紅茶。やる気出るよ」  タルトの横に恭しく紅茶を置いて、重永は片目を瞑って見せる。胡散臭さが更に増して、夏生は目眩がしてきた。 「いい機会だ、お前もマスターに料理習えばいいだろ? カップ麺ばっか食ってないで」 「別にいいっつーか、そもそもバイトする気ねぇっつの!」 「なにがそんなに嫌なんだよ。お前、サークル入ってるわけでも、栗花落さんみたいに真面目に勉強してるわけでもねぇだろ。暇あるんなら、ちょっとくらい稼いで仕送り減らしてもらえ」  全くの正論を吐いて、忍は砂糖の容器を棚にしまう。重永と二人きりになって延々と恋愛相談をされそうな状況になるのが嫌だとは言えず、夏生は黙り込んだ。 「じゃ、そういうことで。改めてよろしくね。半田くん」 「……もう好きにしてください」  押寄せるような疲労感を隠すこともできず、夏生はそう言って溜息を吐いた。 「いやぁ、快諾してくれて嬉しいよ。つーも喜ぶんじゃないかな」  言いながら、重永はいそいそと携帯電話を取り出す。メールを打ち出した重永を視界の端に捉えつつ、夏生はタルトにフォークを伸ばした。 「で、神田のことはどうすんだよ。お前は」  カウンターを丁寧に拭きながら、忍はどうにか落ち着いた夏生に訊ねた。 「どうって……、どうもしねぇよ。俺がなに言ったって、あいつが聞くはずねぇし」  言い終わり、夏生は紅茶を含む。舌に残る甘さが、紅茶の苦さで打ち消されていった。 「……俺は、神田はお前に未練があるように見えるけどな。栗花落さんのこと話しながら、ずっとお前の文句ばっか言ってたから」 「はぁ? なんでそれが俺に未練あることになんの?」  ぞっとしないことを言い出した忍に、夏生は思い切り嫌そうな顔を見せた。しかし忍は、さして気にした風もなく続ける。 「栗花落さんのこと好きなのに、お前のことばっか話してるんだぞ。変だろ? あいつがあの人をどうこう言ってるのって、当てつけじゃね? 最近お前、あの人とよく一緒にいたから」 「駄目だ、あいつの考えもお前の言ってることも、わけ分かんねぇ。そんなら、お前に行ってもいいじゃねぇか」  やれやれと言わんばかりに、忍は溜息を吐いた。 「俺は対象外なんだろ。……別れた彼女が自分と仲のいい奴と付き合い始めたら、どんなにいい奴でもそいつと気まずくなる。あいつはそれを狙ってるんじゃねぇ?」 「アホくさ! 付き合ってらんねぇ」 「あー、なるほどね」  メールを打ち終わった重永が、突然声を上げた。 「なーんだ。俺はてっきり、三角関係にもつれ込ませようと思ってるのかと」 「いきなり若者の恋バナに入ってくんなよオッサン……」 「失敬な、まだ二十代だぞ。それにしても、そうだよな。そういう風に考えるのが自然だよな」 「三角関係っちゃ三角関係ですよ。栗花落さんは巻き込まれてるだけですけど」  忍の言葉を聞く夏生の心中は、穏やかではなかった。万一にも、栗花落が千秋のことを気に入るとは思えなかったが、その介入が栗花落と自分にどんな変化をもたらすのか、夏生には想像も付かない。一つだけ夏生が言えるのは、決していい方向には向かわないということだった。 「つーが三角関係ねぇ……。ま、あいつにしてみれば人生に一度あるかないかだから、経験しといた方がいいかもね」 「そんな、おたふく風邪じゃあるまいし。そんな必要ないでしょ」  呆れた忍に向かって、重永はもっともらしく首を横に振った。 「いやいや、あいつは色恋沙汰と無縁で生きてきたから、たまにはこういう経験もすべきだよ」 「あ」  重永の言葉に、夏生は自分がここに来る前に苛立っていた理由を思い出した。 「ん? なに?」 「なんだ?」 「いや、どうでもいいこと。マスター、カレンダーってどこです? ちょっと教えてください」  喋りながら食べ終えたタルトの皿を忍に押し付けて、夏生はカウンター越しに重永の腕を引っ張った。 「そこの奥のドアの、左手に……」 「分かんないんで、連れてってください」  そう言いながらも、夏生は重永を無理矢理に奥の部屋へ押し込み、ドアを閉じる。さっさと済ませろよ、という忍の声は、ドアを閉める音に掻き消された。  中に入るとすぐに、夏生は部屋の奥まで重永を連れ込んだ。 「ちょ、強引過ぎるよ半田くん……! 俺達まだそんな関係じゃないだろ?」 「気味悪ぃ冗談言わないでください。俺はあんたに寸分の魅力も感じません……! それよりちょっと言いたいことがあるんですけど」  極力小さな声を出す夏生の目が据わっているのを見て、重永は困り顔を作った。 「んー、ひょっとして、俺今から怒られる?」 「よく分かってんじゃないですか。その通りですよ……!」  重永の胸ぐらを掴んで、夏生は下から彼を睨みつけた。 「あんた、なんでつーさん相手に玉砕したの教えてくれなかったんですか?」 「なんでって……、半田くん、つーになんにも言うつもりがないって言ってたから……。なら、別にわざわざそんなこと言う必要もないだろ?」 「そうですけど……! 俺、さっき一瞬だけ期待しちゃったんですよ……! つーさんがあんたのこと知ってるって言うから、てっきりバイかなんかかと思って……! 俺の期待返せ!」 「それ、八つ当たりじゃないか……!」 「ええ、ええ、そうですよ。せっかく仲良くなって、ひょっとしたらと思った瞬間に振られるの確定したから、あんたに当たってるだけですよ……!」 「開き直らないでくれよ……。まぁ、気持ちは分かるけどさ」  寂しげな目をした重永の胸ぐらを、夏生はそっと離した。彼の苛立ちはもう、ほとんどなくなっている。 「あの時は、俺も必死だったからね。ずっと一緒だったつーと離れなきゃいけなかったし、つーはつーで、お母さんが亡くなってから長いこと塞ぎ込んでたし。想いを告げたら、なんか変わるんじゃないかと思ってさ。ま、あっさり振られたけどね。俺のことは兄弟みたいに思ってる、だからそういう風には見れない、って」  明るい調子で言ってはいたが、重永の目は遠いところを見ている。今、彼の目に映っているのは、夏生には知る由もない、高校時代の二人だった。 「でもね。君ならもしかして、とも思ったんだよ。つーは君を気に入ってるみたいだったから。それに、俺と違って距離が近過ぎるわけじゃない。君にその気があれば……」 「あんたと俺とじゃ、あの人と一緒にいた時間が違い過ぎるだろ……! あんたで駄目なのに、どうして俺ならいけると思えるんだよ……!」  更になんか言おうとした重永を遮り、夏生は強く強く彼を睨みつけた。 「他人事だと思って、適当なこと言うな!」  夏生の叫びが、響く。重永は目を見開いて、夏生を見つめた。 「……俺は、昨日のままで良かったんだ……」  その呟きを掻き消すように、ドアが開く音がした。そこから、不安そうな忍が顔を出す。 「どうしたんですか?」 「ちょっと適当なこと言って、怒られちゃっただけだよ。大丈夫、ケンカとかじゃないから」 「ほんとですか……? 夏生?」  俯いたままの夏生を見て、忍は声を掛けた。夏生はなにも言わず、頷く。 「……ブロくん、もうちょっと掛かるから、悪いけどお店見ててもらえるかな?」 「はい……」  釈然としない表情のまま、忍は表へ戻って行った。ドアが完全に閉まるのを待ってから、重永は夏生の頭を優しく撫でる。 「……ごめんな。君の気持ちも考えずに……」  ぽたぽたと、床に涙が零れ落ちるのを、重永は苦しそうに見守った。  嗚咽もなく、肩を震わせることもなく、夏生はただ涙を流していた。噛み締めた唇から、鉄の匂いが広がる。体の痛みも心の痛みも、夏生にはもう、どうしようもなかった。  思い切り泣いた後、少しだけ気が晴れた夏生は、目の腫れが引くのを待ってから〈西風〉を出た。忍は不審がったが、「少し体調が悪くなった」という胡散臭い重永の説明を聞いて、一応の納得をした後で夏生を解放した。「なんかあったら、必ず連絡しろ」という言葉を付け加えて。その節介が、今の夏生には少し嬉しかった。  アパートの階段を上りきると、夏生は栗花落を見つけたあの路地をちらりと見る。小さな路地はあの時のままだった。違うのは、栗花落がいないことと、夏生の心情だけだ。  大きな喪失感を抱えたまま、夏生は一番奥にある自分の部屋に戻った。鞄を投げ出し、ベッドに横たわる。ダークブラウンの癖毛が、枕の上に広がった。  〈西風〉で初めて栗花落と話した日の夜もこんな気分だったなと、夏生はぼんやりと思った。あの時の数倍は悲しみが増していたが、泣き疲れて、もう涙は出なかった。これで、やっと諦められる。夏生はそう思った。すっぱり諦めて、本当にただの先輩と後輩になれる、と。 「……これでいいんだよな……? つーさん」  呟いてから、夏生は目を閉じた。彼の脳裏に、酷く優しい栗花落の笑顔が蘇る。夏生は、彼の笑顔を曇らせたくなかった。それが、たとえ自分を殺すことになっても、夏生は構わなかった。栗花落が心穏やかに笑っていてくれればそれでいいと、夏生は心の底から思った。そして、自分のこの想いは栗花落にはあくまで他人事なのだと思って、とてつもなく虚しくなった。  馬鹿なことを考えそうになって、夏生は自嘲する。彼の家には、安全カミソリ以外に刃物はない。睡眠薬もロープもない。そしてなにより、彼が突然いなくなれば、優しい栗花落が必ず悲しむことを、彼自身が一番よく知っている。 大きく溜息を吐いて、夏生は寝返りを打った。今夜は、眠れそうになかった。  しばらくそうやって悶々としていると、夏生の知らぬ間に日が落ちていた。我に返った夏生は、起き上がって電灯を点ける。時計を見ると、七時を少し過ぎていた。 「……飯……」  空腹感を覚えた夏生は、流しに向かう。買い貯めておいた即席麺が、いくつか流しの下の棚に入っていた。どれにしようかぼんやりと考えていると、突然チャイムが鳴り響く。 「おい、夏生? 生きてるか?」  ドアの向こうから、忍の声が届いた。のろのろとドアに向かい、夏生は鍵を開ける。 「どうしたんだよ、いきなり」 「それはこっちの台詞だ。上がるぞ」  許可を得ることもせず、忍は勝手知ったる他人の部屋に上がり込んだ。片手には、買い物袋が提げられている。 「お前、まだバイトの時間じゃ……」 「閉店と同時に上がらせてもらった。お前、ちょっとは楽になったのかよ?」  夏生は返答に詰まった。やれやれ、と言って忍は夏生のシャツの首根っこを掴んだ。そのまま、ベッドに連れて行く。 「おら、寝てろ。マスターにお粥の作り方聞いてきたから、作ってやるよ」 「べ、別にいい……」 「ラーメン食って風邪がすぐ良くなるわけないだろ。いいから寝てろって。マスターも、店閉め終わったら様子見に来るって言ってたぞ」  夏生を無理矢理ベッドに寝かしつけ、忍はキッチンスペースに立った。湯を沸かす以外に一切使われていない電気調理器の前で、忍は持参した鍋を取り出すと、粥を作り始めた。 「熱、あんのか?」  ベッドで横になっている夏生に背を向けたまま、忍は訊ねた。 「……ない」 「じゃ、大した風邪じゃないな。……で、なにがあったんだよ」 「……へ?」 「あんな言い訳、話半分にしか聞けねぇよ」  呆れたように、忍は言った。手は動かし続けている。 「なんか、あったんだろ。俺に言えないことか?」 「……くだらねぇことだよ」 「じゃあ、なんでお前はそんなに凹んでんだよ」 「……つれん」 「は?」 「失恋!」  やけになり、夏生は大声で叫んだ。忍はそこで手を止めて夏生の方を振り返り、まじまじと親友を見つめる。 「お前、誰か好きだったのか?」 「……好きだった。でも、俺じゃ対象外だから」  言葉を選びながら、夏生は言った。 「相手に、自分の気持ちちゃんと伝えたのか?」 「お前だったら、振られるの確定しててわざわざ言うか?」 「言う」  きっぱりと忍は言い放った。強い意志を感じさせる目が、遠くから夏生を見下ろしている。 「言ってみなきゃ分かんねぇだろ。誰か知んねぇけど、言う前から諦めるのはどうかと思う」 「言った後、相手と気まずくなったら?」  忍の真っ直ぐさに嫉妬と羨望を覚えながら、夏生は訊ねた。 「気まずくならないように、言い方を考える。そんでも気まずくなったら、その時はその時だ。どうにかして、相手と前の関係に戻る方法を考える」 「お前、ポジティブだよな」  夏生の声が、少しだけ軽くなる。 「お前は後ろ向き過ぎだよ。諦めんの早すぎだ。しっかし神田のことといい、ほんとお前の恋愛って上手くいかねぇな。なんか憑いてんのか?」  非科学的なことを言って、忍は夏生に背を向けた。ほっとした表情で再び手を動かし始める。 「憑き物落とせばどうにかなるようなことだったら、いくらでも神社に行ってやるよ」 「全くだ」  からからと笑って、忍は鍋に蓋をした。それから傍にある冷蔵庫を開けると、買ってきた物を入れていく。 「相変わらずほとんど入ってねぇな、お前の冷蔵庫。コーラだけかよ」 「牛乳切らしてんだよ。文句あっか」  いつものように軽口を叩き合っていると、夏生の気分もゆっくり晴れていった。いい奴だな、と夏生はぼんやりと思う。重永が彼を好きになった理由が、今なら夏生にも分かる気がした。  でも、と夏生は自分に反論した。夏生の感じた、栗花落への狂おしいまでの想いは、忍に対しては抱けない。思い切り抱き締めたいとも、決して傷つけたくないとも、その信頼を独占したいとも思わなかった。夏生があんなに愛しいと思ったのは、栗花落が初めてだった。  黙り込んでしまった夏生を、物を入れ終わった忍が覗き込む。 「……どうした? また凹んでんのか?」 「……うるせ」  忍の言葉通り、また泣きそうになっていた夏生は、わざとらしく寝返りを打って忍に背を向けた。夏生の背中に、本日二度目のやれやれ、が投げかけられる。 「泣きたきゃ泣けよ。別に、気にしねぇし」  そう言って、忍は鍋の様子を見るために電気調理器へ向かった。その素っ気ない優しさに甘えて、夏生はほんの少しだけ涙を流す。ぐす、と鼻を鳴らして、夏生は体を丸めた。  それからしばらく、狭い夏生の部屋に静寂が降りていた。時折、細波が打ち寄せるように夏生の鼻が静寂をそっと破っては、また静かになる。  しばらくそうしていると、チャイムが再び鳴った。今度は忍がドアを開ける。 「や、こんばんは。半田くんの調子はどう?」  夜の闇に包まれたドアの向こうで、エコバッグを提げた重永が笑った。 「わざわざすいません。体は、大丈夫みたいですけど……、精神的にはまだ」 「……そっか。半田くん、ブロくんにも話したんだ」  こくり、と忍は頷いた。重永を部屋に入れて、忍は夏生に、 「マスター来てくれたぞ。後、お粥あとちょっとでできるから、そろそろ起きろ」  と声を掛けた。もぞもぞと布団を剥いで、夏生はゆっくり起き上がる。 「や。さっきはごめんね」  目を腫らした夏生の目の前で、重永は申し訳なさそうに眉尻を下げた。 「いいですよ。俺こそ、八つ当たりしてすいません」 「ううん。俺の言い方が悪かった。お詫びにと思って色々買ってきたけど、口に合うかな?」  そう言って、重永はエコバッグからなんだかんだと取り出す。総菜やペットボトルの茶から、酒やつまみに至るまで、様々な食べ物がローテーブルの上に広げられていった。 「マスター、夏生まだ十九ですよ」  粥の入った鍋を片手に持った忍が、酒を見て難色を示す。 「まぁまぁ、固いこと言いっこなしで」 「駄目です。飲むなら一人で飲んでください」  忍はにべもなく言い放ち、テーブルの上の酒を夏生から遠ざける。 「じゃ、せめてブロくんは飲もうよ。こないだ誕生日だったんでしょ?」 「俺は別に、飲みたくないですから」  二人の言い合いを聞いていた夏生の腹が、きゅうと抗議の音を立てた。 「なんでもいいから食わせてくれよ。腹減ったー」 「分かったから、ちゃんと座れ」  図体の大きな子どもを二人持ったような気分になって、忍は溜息を吐きながら言った。当人達は大人しく返事をして、テーブルに着く。 「なんか、こういうの久し振りだなぁ」 「そうなんですか?」  店から持ってきた大きめのマグカップに粥を入れながら、忍は重永に訊ねた。 「うん。実家には長いこと帰ってないから……」 「イギリスに留学してたんでしたっけ?」 「留学ってほどじゃないんだけどね。単身で渡英したんだ。転がり込んだケーキ屋さんで、泊まり込みでバイトしてたよ。うーん、専門出てからだから、かれこれ八年くらいかなぁ」  遠い目をして、重永は言った。その目の前に粥の入ったマグカップを置いて、忍は夏生の分も入れ始める。 「そういえば、マスターの実家ってどこなんですか?」 「ん? 俺の実家? ああ、半田くんには言ってなかったっけ。岡山(おかやま)だよ」 「へぇ、遠いんですね」  マグカップを受け取って、夏生は何気なく言った。しかし、言ってすぐに引っかかるものを感じて、記憶を辿った。 「そんなことないよ。新幹線通ってるから、割と時間掛からないんだ」 「その割には、帰ってないんですね」 「ははは……、ま、大人には色々あってね」 「……あ、思い出した」  つい、夏生は口に出していた。忍と重永は、不思議そうに唐突なことを言った夏生を見る。 「あ、いや、大学の本に、栗花落っていう苗字の人のことが載ってて、それが確か兵庫の話だったから……。確か、岡山って兵庫の隣ですよね」  曖昧な記憶を引っ張り出しながら、夏生は重永の顔を見る。 「うん、そうだよ。それ、公家さんに仕えてた男が、お姫様をお嫁さんに貰う話?」 「そう、そんな感じの話です」 「つーから聞いたことあるよ。つーの家に伝わってる話も、大体そんな内容だったと思う。けどあいつは、全国各地に伝わってる昔話だからあんまり真に受けない方がいいって言ってたな」  粥をスプーンでつつきながら、重永は苦笑した。ふーん、と興味があるのかないのか分からない反応をしつつ、忍は粥を掬う。そして、夏生は栗花落の話を思い返していた。 「……じゃ、つーさんの実家って、やっぱり相当古いんですね」 「ああ。もしかして、つーの家のことも聞いたの?」  複雑な顔をして、夏生は頷いた。そっか、と呟く重永も、似たような表情になる。 「半田くん、ほんとにつーに気に入られてるねぇ。あいつ普段はあんまり実家のこと喋りたがらないんだよ。周りから僻まれてたし、言いたくなくなるのもしょうがないけど」  自分のことのように寂しそうな目をして、重永は言った。暗くなりつつある雰囲気を変えるため、忍は殊更に冗談めかして言った。 「栗花落さん、マスターより上品ですもんね」 「え、ブロくん酷い。俺だって一応、英国仕込みなのに……。それに、一応つーのお母さんにテーブルマナーとか教えてもらってたんだよ」 「へ?」  意外な人物が話に登場して、夏生は間抜けな声を上げた。 「あれ? この話は聞いてない? 俺ね、小さい頃、よくつーの家に行ってたんだよ。で、行くたびに、つーのお母さんからお茶をいただいてたんだ。つーはあんまり興味なかったみたいだけど、俺はお菓子の作り方とかお茶の淹れ方を教えてもらってた」 「じゃあ、マスターの原点は栗花落さんのお母さんなんですか?」  粥を飲み込んでから、忍は訊ねる。 「そうだなぁ……、まぁ、原点と言えばそうなるかな。俺、ああいうお母さんに憧れてたんだ。俺の両親は共働きであんまり家にいなかったから、お茶の時間とかなかったし」 「俺の実家にもありませんよ、そんな優雅な時間。そもそも、昼に家の中に人がいねぇ」  うんうん、と総菜の鯖の照り焼きを噛みながら夏生が何度も頷く。 「俺は羨ましいと思ってたけど……、昔から、つーは嫌がってたんだ。他の人と違うの」  缶チューハイを開けて、重永は一口だけ飲んだ。ふぅ、と息を吐いてから、夏生の目を見る。 「着る物も、持ってる物も、仕草も、全部がどこか他の人と違ってたから、つーはいつも敬遠されてた。それに、つーの家の会社に働きに出てる人もたくさんいたからね。表立っていじめる奴はいなかったけど、遠慮して本気で仲良くしようとする奴もいなかった。  俺も最初の頃はつーのこと、よく分からないけど嫌な奴だと思ってたよ。周りがそう言ってるし、実際にあいつは、今考えると些細なことなんだけど、いろんなことが周りと違ってた」  酷く辛そうな目をして、重永は呟いていた。いつもの飄々として掴みどころのない彼は、今この場にはいない。 「でもね、つーと話してみたら楽しかったし、それに昔からいろんなことを知ってたから、あいつといると飽きなかったよ。他の奴にはないものを持ってるから、いつも新鮮だった。ま、他の奴にそう言っても、俺も変わってるからってことで流されちゃったんだけどね」 「マスターも昔から変わってたんですね」 「え、今変わってる? 普通だよー」  忍が溜息を吐いて首を横に振ると、重永は不服そうな顔をしてもう一口チューハイを啜った。  そんな二人の様子も、夏生の目には映っていなかった。昨夜、栗花落が言っていたことが、夏生の脳裏を過ぎる。    昔から、ヒロ以外にあまり親しい友人がいなかったんだ。  そう言って俯いた栗花落の顔は、夏生にはよく見えなかった。恥ずかしがっていたんだと思っていたが、今にして思えば、彼はあの時、本当は辛そうな顔をしていたのではないか。夏生はそう考えて、酷く悲しくなった。彼との距離を縮めるために、彼の古傷をえぐるようなことをしてしまったのではないかと思い、夏生の胸に後悔の波が押寄せる。 「……夏生? どうした?」 「え? あ……、うん。つーさん、……辛かっただろうなって、思ってた」  いつになく素直な夏生の態度に、忍は目を見開く。 「お前、なんか丸くなったな。いや、栗花落さんのことに関してだけか?」 「べ、別にそんなんじゃねぇし!」 「いーや。お前、栗花落さんに対してだけは、妙に素直だし妙に大人しい!」 「ははは、まぁ懐いてるってことじゃない?」  重永の的外れなフォローを聞き流しながら、夏生は忍の前での自分の栗花落への態度を思い出そうと必死に頭を働かせる。確かに、忍の言う通り、栗花落と初めて出会ったゼミ初日から今日まで、夏生はあの年上の優しい先輩の前ではいつも爪を引っ込めていた。それが恋心から来るものだと忍は知る由もないが、だからと言って夏生には上手い誤魔化しができない。 「うー……」 「まぁ、なんとなく分かるけどな。あの人、雰囲気が穏やかだから、喋ってると毒気抜かれる気がするし」  唸る夏生に、忍は粥を掬いながら言った。しかし、スルメを噛みながらそれを聞いていた重永は、不満を露わにする。 「えー、そう? 俺あんまり抜かれないけど。それに、あれでつーもけっこうきっついよ。そりゃ、俺以外にはあんまり言わないけどさ」 「それは、マスターには遠慮がないからじゃないですか? 付き合い長いから」 「いや、それはそうだけどさ……。そうやっていつまでも遠慮してるから、あいつ友達少ないんだよ。まぁ、仕方ないかなーとは思うけど」    なら、お言葉に甘えて遠慮は止すよ。夏生。  嬉しそうな、それでいて甘く囁くような栗花落の声が、夏生の脳裏に蘇る。その声を思い出すだけで、胸の高鳴りは復活した。夏生の少ない語彙では喩えようのない喜びが、一瞬にして体の中を駆け巡る。しかし、すぐに失恋の悲しみが戻ってきて、体の熱を冷やした。どんなに彼を想っても、自分の想いは届くはずがないと、夏生は自身に言い聞かせる。 「おい、夏生? お前またぼーっとしてるな」 「へ? ああ、なに?」 「茶、いるか?」 「緑茶なら欲しい」  頷いた忍は、ペットボトルの緑茶を選んでキャップを開けた。ほとんど物が入っていない食器棚からプラスチックのコップを二つ取り出し、自分と夏生の分を入れる。 「ほらよ」 「さんきゅ」  夏生はコップに入った緑茶を呷る。昨夜栗花落の部屋で飲んだそれとは比べ物にならないほど、安っぽい味がした。その味が今の自分にお似合いな気がして、夏生の目に再び涙が浮かぶ。 「……夏生?」 「……見んな……!」  顔を覗き込んできた忍から逃れるように、夏生は俯いた。三角座りをして、膝に顔を押し付ける。ぽたぽたと、雫がジーンズに落ちて、染みを作った。  忍はなにも言わず、夏生の肩を軽く叩いた。空になったコップに、もう一杯緑茶を入れる。缶チューハイを空けていた重永は、そっと夏生の頭を撫でる。 「我慢しなくていいよ」  茂中の言葉で、堰を切ったように夏生の目から涙が零れ落ちる。二人の優しさが夏生の涙を後押しして、もう肩の震えも嗚咽も我慢できなかった。泣け泣け、という忍の声が聞こえる。重永の手が、何度も夏生の頭を撫でる。声を上げて、夏生は幼い頃のように泣きじゃくった。  泣きながら、心の中で何度も栗花落の名を呼んだ。恋してしまったことへの強烈な罪悪感と、それでも変わらない、強い愛を込めて。  思い切り泣いて、泣き疲れて、夏生は自分でも知らぬ間に眠っていた。そして、目が覚めた時にはベッドの上にいて、外はもう明るくなっていた。部屋は二人が来る前よりも綺麗に片付けられ、テーブルの上には置き手紙がある。 「……鍵はポストから中に入れておいた……、総菜の残りは冷蔵庫に入ってる……、また泣きたくなったら呼べよ……、忍、重永」  全文を音読してから、夏生は力なく笑う。昨夜泣き過ぎて、夏生の目は腫れていた。瞼を上げることすら今の彼には辛い。それでも彼は笑った。大丈夫、と夏生は自分に言い聞かせる。 「……もう、泣かねぇ」  夏生は今なら、口に出せばどんな辛いことでもどうにかなる気がした。根が単純な夏生は、そう考えると俄然やる気が出てきた。置き手紙をテーブルに戻して、思い切り伸びをする。  ついでに軽いストレッチをしてから、夏生は朝食のためにヤカンで湯を沸かし始めた。カップ麺に昨日の総菜が付けられるというだけで、少し特別な朝食になる気がして、夏生の気分は更に上昇していった。  鼻歌交じりに朝食の準備をしていると、床に投げ出されていた携帯電話が今更のように抗議の悲鳴を上げ出す。 「こんな時間に誰……、え?」  夏生は目を疑った。着信は、栗花落からだ。極力、平静な声が出せるようにと、夏生は思い切り深呼吸をしてから通話ボタンを押す。 『……もしもし? 栗花落だ』 「はい」 『おはよう。起こしてしまったかな?』 「いえ、さっき起きたとこですよ。飯作ってました」  電話の向こうの声は、いつも通り穏やかだった。自分もいつも通りの声が出ているか不安を覚えながらも、夏生は努めて平然と会話を続ける。 『そうか。やっぱり邪魔をしてしまったかな?』 「いいですよ。どうせ、湯沸かしてるだけなんで。それより、どうしたんですか? 急に」 『いやな、ヒロから、君を雇ったという話を聞いたから……。少し色々あって、電話をするのが今日になってしまった。すまない。その……、俺は、ヒロの伝手でなにかアルバイトを探してやれと言ったつもりだったんだが……。もし無理矢理雇われたなら、断ってもいいんだぞ?』 「……まぁ、いいです。マスターの恋愛相談聞くことになるかと思うと、ちょっとめんどくさいですけど……。家から近いし、マスターにも慣れてるし、とりあえずやってみますよ」  言いながら、夏生は壁に背を預けて座った。視線の上には、電気調理器とまだ温まっていないヤカンがある。 「わざわざありがとうございます」 『いや、俺のせいで不本意な仕事をしなければならなくなるのは、悪いと思ってな』 「強引なのはマスターの方なんだから、つーさんが責任感じることないですよ。それより、俺のバイト中はあんまり来ないでくださいよ。なんか、恥ずかしいんで」  できる限り優しく、夏生は距離を取ろうとした。ずっと孤独だったという栗花落のことを思うと完全に離れられないが、かといって近過ぎる距離に耐えられるほど、夏生の心は強くない。 『……そうか。それは少し残念だな。ヒロには、君をねぎらいに来てやれと言われたんだがな』 「あの人、まーたそんなこと……。別にいいですよ、そんなわざわざ来なくても。マスターが言うほど、しんどくなさそうだから」  重永がなにも考えずにそんなことを言ったのか、それとも夏生へのささやかな優しさのつもりなのかは、分からなかった。ただ、夏生にはその優しさが、酷く辛い。 「忍のいる時に来ればいいですよ。それか、マスターが一人の時に」 『そうだな……。君が嫌なら、仕方ないか。なんだか、弟の就職が決まったみたいで、少し浮かれてしまっていたよ』  弟、という単語にずきりと夏生の胸が痛む。    俺のことは兄弟みたいに思ってる、だからそういう風には見れない、って。  重永の寂しげな声が、夏生の脳裏を過ぎった。夏生も彼と同じで、栗花落の中では兄弟のようなものだったのだと、今更のように思い知らされる。 『……夏生?』 「あ、はい。なんですか?」 『いや……、なにか不快なことを言ってしまっただろうか?』  栗花落の不安そうな声で、夏生はやっと自分が黙り込んでいたことに気付いた。 「いえ、ちょっとまだ寝ぼけてるみたいです。すいません」 『構わないよ。電話を掛ける時間が早過ぎたようだな。その、すまない、慣れていなくて……』 「いいですよ。俺がダラダラ寝てるからいけないんです。あ、お湯沸きそう」  ヤカンの口から吹き出される白い湯気を見て、あえて夏生はそれを口に出した。 「じゃ、飯食うんでこれで」 『ああ。また明日、授業で』 「……はい。……ん? つーさん、ちょっと待って!」  大事なことを思い出し、夏生は慌てて声を上げた。 『どうした?』 「大したことじゃないんですけど……。つーさん、同じゼミの神田千秋って奴、知ってます?」 『……ええと、すまない。夏生と上風呂くん以外は、まだ名前を覚えていないんだ。人の名前と顔を覚えるのは苦手で』  夏生は電話口に掛からないように、安堵の溜息を漏らした。万に一つの可能性でも、栗花落が千秋と近い関係になるのは、夏生には許せなかった。 「そいつ、つーさんの後をつけてるかもしれないんで、気ぃ付けてくださいね」 『ん? そうなのか? なぜ?』  いまいち状況が理解できていない栗花落は、呑気にそう訊ねた。 「忍の話だと、つーさんが店に入るの見たからって、こないだ自分も入ってきたらしいです」 『うーん、ヒロの店に客が増えるのは、俺としても嬉しいが』 「そういう問題じゃないです! ストーカーかもしれないんですよ!」  大真面目な夏生と違い、栗花落は電話の向こうで笑い声を上げた。 「笑いごとじゃないです!」 『いや、すまん。でも、夏生や上風呂くんならともかく、俺みたいな男に好意を持つなんて』 「ありえます! あんた、俺から見ても……!」 『ん?』  夏生は口元を覆った。言ってはならないことを口走りそうになっていた自分を、必死になって自制する。 「とにかく、気を付けてください! 特に〈西風〉に入る時は、周りに注意してくださいね!」 『とは言っても……、俺は彼女の顔も体型も髪型も覚えてないんだが』 「顔は人並みです。化粧薄目でちょっとやせ形で、髪は明るい茶色、肩くらいまであります」 『詳しいな。タイプなのか?』 「まさか! あんなの、こっちから願い下げ!」  ははは、と栗花落はのんびり笑った。彼にしてみれば、子犬が吠えているようにしか思えないのだと痛感しつつも、夏生は警告を止めない。 「あいつ、付き合ったら最後、散々我が儘言われるんですから! マジでできるだけ近付かないでくださいよ!」 『十歳も離れているんだから、俺にとってはそういう対象にはならないよ。心配するな』 「あんたには対象外でも、あっちには対象かもしれないじゃないですか!」  必死になって言い募る夏生に、栗花落は笑うのを止めて訊ねる。 『やけに気にしているな。本当に好きなのか?』 「違いますって! その……、そんな話を聞いたことがあるだけです!」  付き合っていたと言うのが憚られて、夏生は嘘を吐いた。 『まぁ、なんにせよ今は恋愛に現を抜かすつもりはないよ』 「なら、いいんですけど……」  手応えを感じない栗花落の反応に脱力感を覚えながらも、夏生は無理矢理に自分を納得させた。しかし、不安は拭えない。どうしたものかと頭を掻いていると、ヤカンが悲鳴を上げた。 「やべ、沸騰した!」 『ああ、そういえば朝食を摂るんだったな。では、俺はそろそろ失礼しよう』 「はい。ほんと、気を付けてくださいよ!」  分かった分かった、と呑気に言ってから、栗花落は電話を切った。不安を残したまま、夏生も電源ボタンを押す。 「ほんとに分かってるのかな、あの人……」  呟いてから、夏生は深く溜息を吐いた。自分の魅力に気付かないところが余計に可愛いと思ってしまう自分に、夏生はとてつもない虚脱感を覚える。  しばらくこんな気分が続くかもしれないと考えて、夏生は更に深々と溜息を吐いたのだった。  明朝、あくびを噛み殺しながら、夏生は大学へ向かっていた。昨日再び襲ってきた痛みを忘れるためにひたすらゲームをし続けていたせいで、あまりすっきりしない朝であった。  学校までの短いようで長い距離をのんびり歩いていると、少し先で信号待ちをしている背の高い後ろ姿を見つける。見間違いようもない、白いシャツとふわりとした癖の少ない髪が、春の暖か風の中で揺れている。  夏生が受ける授業は栗花落とは違っていたが、声くらいは掛けようと思って歩みを早めた。  後数歩で栗花落に追いつくというところまで、夏生が辿り着いた時だった。射るような視線を感じ、夏生は後ろを振り向く。 「……げ」  思わず夏生は声を上げる。その視線の主は、夏生が最も出会いたくない相手、千秋であった。  後ろにいた千秋は足早に夏生を追い抜くと、少し前にいた栗花落に「おはようございます」と満面の笑みを浮かべながら挨拶した。夏生は、キャラ違うだろ、と言ってやろうとしたが、栗花落が挨拶を返した後で首を傾げていることに気付いてやめた。千秋の方は栗花落に声を掛けただけで満足して、颯爽と先へ行った。 「つーさん」 「ああ、おはよう」 「おはようございます。あいつが、昨日言ってた神田千秋です」 「ああ……、えーと、同じゼミの?」  また小首を傾げて、栗花落は確認するように言った。 「そうです。つーさんのストーカーかもしれない奴!」 「ははは。それはない」 「あーりーえーまーすぅー!」  ないない、と言いながら、栗花落はからからと笑った。その危機感のなさに、夏生の心労はいっそう大きくなる。 「気を付けてくださいね、マジで」 「分かった分かった。それより、いつからバイトに入るんだ?」 「今日の四時間目が終わってからですよ。ほんとに恥ずかしいんで、来ないでくださいね」  夏生が念を押すと、栗花落は残念そうに頷いた。 「ああ。君が嫌なら行かないよ。その代わり、なにか困ったことがあったら、俺に言ってくれて構わないからな」 「大丈夫ですよ。マスターなら、俺も遠慮せずに色々言えるんで。どっちかって言うと、マスターが遠慮せずに色々言ってきそうで嫌ですけど」 「そうだな。あいつも、君には心を開いているようだし。……でも、少し驚いたよ。あいつは自分が……その、そういう性質だとは、あまり他人には言わないんだ。正直、初対面の時はあまり仲が良いようには見えなかったから、そんな話をしているとは意外だった」  栗花落はそう言って、優しく笑った。夏生も笑ったが、背中には冷や汗が流れる。自分も重永と同じだからすぐにカミングアウトをしてくれた、とはとてもではないが夏生には言えない。  自分もゲイと言っても、栗花落が夏生を軽蔑するようなことはないと、今なら彼にも分かっている。しかし、それを伝えてしまった時、自分の想いを隠しきれる自信は夏生にはなかった。  他愛のない話をしている内に、二人は大学に辿り着く。正門は授業に出る学生で溢れていた。 「じゃ、俺はあっちなんで」 「ああ」  軽く栗花落に手を振って、夏生は彼と別れた。自分の授業がある教室へ行こうとした夏生だったが、ふと気になって後ろを振り向く。栗花落が取っている授業の教室が、夏生のいる場所から見えた。そして、その教室の窓際に座る、千秋の姿も目に入る。 「……あいつ、つーさんと同じ授業取ってんのか」  夏生の胸に、ゆっくりと不安が広がる。今の段階では、栗花落が千秋のことを気に入る可能性はかなり低かったが、もしも彼女が夏生のように彼を慕い始めた時もそうだとは、夏生には思えない。人付き合いをあまりしたことのない栗花落が、夏生にそうしたように彼女にも心を開くかもしれないと思うと、夏生は強烈な嫉妬に駆られた。  たとえ夏生がどんなに栗花落との距離を縮めても、男である彼には限界がある。しかし、女である千秋には、その限界を超えるための前提条件が満たされている。夏生にはそれが、決して自分には満たすことのできない、しかし必要最低限の条件だと思えた。  女になりたいとは一度も思ったことのない夏生だったが、この時、彼は初めて女が羨ましくなった。なんの躊躇いもなく栗花落に近付くことができ、なんの罪悪感もなく栗花落を愛することができる千秋に、夏生は敗北感に似た思いを抱く。  朝から重い気持ちを抱えながら、夏生は教室に入ったのだった。  夏生はその日、一日中ずっと気分が晴れないままだった。食堂で忍達と昼食を摂っている時は空元気を通したが、授業などで一人になると途端に気分は暗くなった。  ぼんやりとしている内に時間は経ち、夏生が我に返った時にはもう、バイトに入る時間が近付いていた。慌てた夏生は、小走りで、〈西風〉へ向かう。正門を出て、今朝方、栗花落に出会った交差点まで来た時だった。見知った後ろ姿を見つけ、夏生は足を止めた。少し悩んでから、思い切ってすらりとした背中に追いつく。 「つーさん」  夏生が声を掛けると、栗花落は少し驚いてから優しく笑った。 「今からバイトか?」 「はい。つーさんは、もう帰るんですか?」 「そのつもりだ」  言ってから、栗花落は周囲を見回し、声を潜た。 「朝話していた、神田さんなんだが」 「……はい?」 「……その、少し困っている」  栗花落のその言葉が、夏生の心を急激に晴らしていく。夏生は安堵が顔に出ないよう、内心では必死になって、難しい顔を取り繕った。 「なぜか、行く先々に彼女がいて……。挨拶をしてくれるのはいいんだが、その後で妙に視線を感じるんだ。どうも、友好的ではない気がするんだが」  友好的ではない、という言葉が、晴れ上がったばかりの夏生の胸に不安をもたらす。栗花落の気のせいだと思う自分と、忍の言う通りかもしれないと思う自分が、心の中でせめぎ合った。 「はは……、マジでストーカーじゃないですか、それ」 「ああ……。なにか、彼女の気に障ることをしただろうか」    あいつが栗花落さんをどうこう言ってるのって、当てつけじゃねぇ?  一昨日の、忍の言葉が蘇る。まさか、と思いながらも、夏生は背筋が冷えるのを感じた。 「思い当たることがあるのか?」 「いえ……、全然。あの、この話はあんまり人に言わない方がいいですよ」 「一応、そのつもりだ。俺の気のせいだったらいいが……」  そう呟いて、栗花落はそっと溜息を吐いた。 「もしなんかあったら、絶対に言ってくださいよ。なにができるか分からないけど、あいつになんか言うくらいはできるんで」 「なにもないことを、祈ってるよ」  朝と立場が逆になった栗花落は、困り顔のまま笑った。 「では、な。バイト、頑張れ」 「はーい。また明日」  〈西風〉の前で、夏生は栗花落に手を振った。背の高い後ろ姿が消えるまで見送ってから、夏生はドアを開ける。ドアベルが音を立てると、カウンターに座っていた客が素早く夏生に視線を向けた。軽く首を傾げる夏生を見て、その客は分かりやすく落胆の溜息を吐く。 「はぁ……。また別の人……」 「マスター、なんなんですか? この失礼な人」  カウンターで苦笑している重永に、夏生は半ば怒り半ば驚きながら訊ねた。 「こんにちは、半田くん。この人はね……」 「あ、大変失礼しました! 僕、栗花落驟(しゅう)と申します」  重永の言葉尻を奪い、太い縁の眼鏡を掛けた小柄なその客は、童顔に満面の笑みを浮かべながら言った。その意外な苗字に、夏生の目が点になる。 「つ、栗花落……? まさか」 「うん。つーの従弟さんなんだって」  先程の栗花落と同じように、困ったような笑みを浮かべて、重永は言った。それとは対照的に、好奇心旺盛な目をした驟は、無遠慮に夏生を眺める。 「マスターさん、この方も光兄さんのお知り合いですか?」 「そうですよ。あいつのゼミの後輩の、半田夏生くん。今日からうちでバイト始めるんです」  その説明を聞いた驟は、途端に目を輝かせる。 「じゃあ、光兄さんの今の家も知ってます? 僕、今日明日中にそこを突き止めないと、会社クビになっちゃうんです!」 「は、はぁ?」 「霖兄……じゃなかった、社長がうるさいんですよぅ! 光兄さんの住んでるところだけでも調べてこい、それができなきゃクビだって! でも、社長が何度電話しても、光兄さんは自分の家のことを教えてくれないみたいだし、大体、帰ってこいって言っても聞いてくれないみたいだし。それで僕が出張でこんなところまで来て、探偵まがいのことをやってるんです!」  早口でまくし立て、嘘泣きをしながら驟は紅茶を呷った。呆気に取られた夏生は、ぽかんとしたままなにも言えない。 「大体、こんなの秘書の仕事じゃないですよ。いくら僕がこないだ大学出たばっかりで社会勉強が足りてないとはいえ、それくらいは分かります。てゆーか、新卒なのになんでわざわざ姫津(ひめつ)からこんなところまで出向みたいなことしなきゃいけないんですかね? そりゃ、社長は忙しいから易々とここまで来られないのは分かりますけど……」 「あー、半田くん、とりあえず奥の部屋に荷物置いて、エプロン付けようか」 「は、はぁ……」  まだ一人でぶつぶつと文句を言っている驟を置いて、夏生は奥の部屋に入った。手早く荷物を置き、ハンガーに掛けてあったエプロンを付ける。そのまますぐに店に戻ったが、驟は相変わらず愚痴を続けていた。夏生がカウンターに入る間も、口を休めることはない。 「他の人達は土産よろしくーとか呑気に言ってる癖に、僕の話は全然聞いてくれないし、光兄さんはここのお店に寄ってくれないし、もう僕どうしたらいいんですかね? やっぱり、クビなのかなぁ……。こんなことでクビになったら、父さんになんて言われるか……」 「……一応、つーにはメールしたんで、おいおいこっちに来ると思いますよ」 「ほんとですか? わざわざありがとうございます! マスターさん、いい人ですね!」 「……なんなんだ、この人」  きらきらした瞳で重永を見上げる驟を見て、夏生は再びそう呟いていた。その言葉を気にした風もなく、驟は残り僅かになった紅茶を飲み干す。 「あ、でも、僕がいたら、むしろ来ないんじゃないかなぁ。だって、一応僕も光兄さんを連れ戻すためにここに来たと思われてるだろうし……」 「え? そうじゃないんですか? 霖さんのお遣いでしょう?」  意外な顔をしている重永を見て、驟は大げさに首を横へ振った。 「違いますよぅ。そりゃ、社長にはそう言われてますけど、僕としては光兄さんには戻って欲しくないんです。僕って一応、ちょっと間が空いてますけど、光兄さんの後釜なんで」 「なるほど。つーが帰ったら仕事が取られちゃうんですね」 「そうなんです! せっかく給料も待遇もいい秘書課に配属されたのに、一月(ひとつき)足らずで転属なんて、絶対に嫌ですもん。せめて一年くらいは、光兄さんには頑張って欲しいんです。……ま、僕が後一年も保つかどうかは分かんないですけど」  ぼそりと後ろ向きなことを呟いた時、驟の目が暗い色をしたのに気付いて、夏生は眉を顰めた。驟はそれに気付くことなく、再び愛嬌のある表情を作る。 「でも、光兄さんを連れ戻すか、最悪住所だけでも聞き出さなければ会社に戻るなって言われてるんですよぅ。タイムリミットは明日まで! 僕、光兄さんのメルアドも知らないし、電話したって出てくれたこと一度もないのに! 酷いと思いません? 半田さん」 「うえっ? ああ、そうですね……」 「どうにかこの近くだってことは分かりましたけど、まさかマスターさんが光兄さんの家を知らないとは思ってなくて! だって、越してきたばかりとはいえ、幼馴染みなんですよ? てっきり、もう家に上がったことがあるかと思ったら……」  わざとらしく溜息を吐いて、驟は頭を抱えた。 「そういえば、さっきも聞きましたけど、半田さんは光兄さんの家を知ってますか?」 「え……、あー」 「知ってるなら、教えてください! 光兄さんには、あなたに聞いたとは言いませんから」  カウンターまで詰め寄ってくる驟に驚き、夏生は半歩身を引く。 「まぁまぁ驟さん、落ち着いて。半田くん、とりあえず皿洗いよろしく。もし割ったら給料から天引きだから、気を付けてね」 「あ、はい」  重永の助け船に乗り、夏生は驟から離れて流し台へ向かった。ちぇ、と子どもっぽく拗ねる驟は、夏生より三つも年が上だとは到底思えなかった。  夏生が皿洗いをやっている間に何人か客は入ったが、栗花落がやって来る様子はなかった。そして時間が経てば経つほど、驟の不安は大きくなっていき、愚痴もエスカレートしていった。 「もう駄目だ……。夕方になっちゃったのに、光兄さん来てくれない……。やっぱり僕、クビになるんだ……。栗花落の人間でこんな早くに辞めさせられた人なんて、僕一人も聞いたことないよ……。父さん、怒るだろうなぁ……。下手したら絶縁かも……!」  カウンターテーブルに突っ伏したまま、驟は力なく呟いていた。既に彼の中では、自分の秘書としての椅子はなくなっている。 「うーん、可哀相になってきたな。半田くん、ちょっとつーに電話してきてくれない?」  重永は後ろ頭を掻きながら、乾いた皿を棚に戻していた夏生へそう言った。 「え? マスターは電話しないんですか?」 「君、一人で留守番できる?」  質問に質問で返されて、夏生は言葉を詰まらせる。 「できません……」 「そういうこと。奥の部屋は電波が悪いから、外に出ていいよ」  行ってらっしゃい、と笑顔で言われて、夏生は複雑な表情のまま外へ出た。ポケットに入れっぱなしにしていた携帯電話を取り出し、栗花落に電話を掛ける。  何度かコール音が続いた後、『夏生?』という栗花落の声が聞こえた。 「つーさん、今どこですか?」 『ああ、その……、家の近く、だ』 「え? 家、帰ってないんですか?」 『あ、ああ。ちょっと、な。それより、どうしたんだ? バイト中じゃないのか?』  含みのある言い方が気になったが、夏生は重永に頼まれたことを優先させることにした。 「マスターからのメール、見ました?」 『いや、まだだ。どうしたんだ?』 「つーさんの従弟さんの、驟って人が店に来てるんです。つーさんの住所が聞きたいとかで」  驟の名を聞いて、栗花落の声色が変わる。 『驟が? ……それは、兄の命令でか?』 「みたいですよ。住所聞けなきゃクビになる、って言ってました」 『……まさか。驟がクビになるはずがない。あいつの父親は兄の後見人で、実質的に会社の方針を決めている人物だ。兄が驟をクビにしたくても、叔父が許しはしない』 「へ? じゃ、クビになるクビになるって言ってるのは、全部嘘ってことですか?」 『兄がそう言ったから、あいつもそれを真に受けているんだろう。あいつはまだ若いから、その辺のことはまだよくく分かってないかもしれない。とにかく、そっちへ行っていいんだな?』 「はい。お願いします。……あの、ところで、なんで家に帰ってなかったんですか?」  栗花落はしばし沈黙する。夏生の耳には、規則正しい衣擦れの音だけが届いていた。 「……つーさん?」  しびれを切らし、夏生は栗花落を呼んだ。次に聞こえてきた栗花落の声は、囁くような密やかなものだった。 『……その……、途中で、神田さんに出会って、な。立ち話をしていた』 「はぁ?」  今朝からよく聞く名前を更に口に出され、夏生は思い切りしかめ面をした。 『……正直、助かったよ。なにを話していいか分からなくて、困っていたところだった』 「あんな奴、相手にしなくていいですよ! いるとややこしくなるんで、連れてこないでくださいね」 『そのつもりだ。では、〈西風〉で』  はい、と言って夏生は電話を切った。しかし、困惑した栗花落の声が聞こえなくなっても、苛立ちは紛れない。歩道の縁石を一蹴りしてから、夏生は店内に戻った。 「半田さん、どうでした? 連絡つきました? ついたって言ってください! 僕の人生が掛かってるんですぅ!」  大げさに叫びながら、驟は椅子を立って夏生に詰め寄った。その剣幕に押され、夏生の苛立ちは吹っ飛んでいく。 「つきました、つきましたから、ちょっと落ち着いてください!」 「ほんとですか! ありがとうございます!」  夏生の手を握って激しく上下に振り回す驟は、飛び跳ねんばかりに喜んでいた。そのテンションの高さに、夏生は軽い目眩を覚える。 「やった! 僕のクビが繋がる! ねぇ、光兄さんはいつ頃こちらに着くんですか? 今日中ですよね?」 「えーっと……、すぐに来るそうですよ」 「わぁ、ほんとありがとうございます! 給料入ったら、姫津産の巨峰送りますね! 美味しいんですよ~! あ、半田さんの住所も教えてください!」 「分かりましたから、手ぇ離してくださいよ!」  ごめんなさーい、と言って驟は手を離した。自由になった手を引っ込め、夏生は溜息を吐く。 「ここに書いてくださいね」  椅子に座った驟は、黒い手帳とボールペンを取り出し、夏生に差し出す。前のページに書かれている丸文字に再び目眩を感じながらも、夏生は住所を書いていった。 「ありがとうございます。半田さんは命の恩人です」 「んな、大げさな……」 「そんなことないですよぉ。もし僕がクビになったら、きっと父さんに家を追い出されます。そしたら多分、生きていけないです」  仮定の仮定を想像し、驟は両腕を抱く。眼鏡の奥の目に怯えの色を見つけた夏生は、先程の栗花落の言葉を思い出しながら口を開いた。 「あの、つーさんに聞きましたけど、驟さんのお父さんって会社の偉い人なんですよね? つーさんは、あんたのお父さんがあんたをクビにさせないって言ってましたけど」 「……そんなこと、ないですよ。あの人は本家の二人には優しいけど、僕には小さい頃から厳しいんです。どんな失敗も許してくれなかったし、礼儀作法だってうるさく躾けられたし。もっとも、僕はご覧の通りの人間なんで、父さんはとっくの昔に僕を見限ってますけどね」  自嘲して、驟は何杯目かの紅茶を呷った。眼鏡が曇って、夏生からは彼の目が見えない。 「うちの会社って、社長秘書は必ず一族の男から選ぶ決まりがあるって、光兄さんから聞きました?」  驟は悲しい笑みを顔に貼り付けたまま、夏生に訊ねる。夏生は首を横に振った。 「なんだか、初代の社長が秘書と不倫して大騒動になったとかで、それ以来ずっと社長秘書は栗花落の苗字を名乗る親族の男がなってるんです。霖兄さんの場合は、光兄さんが大学を出るのに合わせてお父さんから社長職を譲られたんで、ずっと光兄さんが秘書だったんですよ。で、その光兄さんがいなくなってしまって、何人か親戚から秘書を付けたみたいなんですけど……」  深々と溜息を吐いて、驟は俯いた。 「霖兄さん、とにかく秘書に多くを求める人なんで、誰も長く続かないんですよ。霖兄さん自身は光兄さんがいいみたいだから、仕事の合間を縫っては光兄さんにしつこく電話してるし。そりゃ、誰だってやる気なくなりますよね。それで、僕にお鉢が回ってきたんです」 「へえ。そりゃまた。霖さんって、つーのことそんなに気に入ってたんですねぇ」  コップを拭きながら、重永は意外そうに言った。 「ええもう。光ならそれくらいできた、光はそんなことしないって、毎日毎日、耳にタコができるくらい言われてますよ。僕は大学を出たばっかりでまだ慣れてないし、元々気が利かないしで、いつも散々です。ただ、霖兄さんは僕の父さんにはそういう話をしないみたいなんで、家でのお小言がないのは助かってますけど」 「ふーん。俺、あんまり霖さんとは話したことないんですけど、つーからも霖さんの話は聞かなかったから、てっきり仲が悪いのかと思ってましたよ」  重永の言葉を聞いた驟は、うーん、と唸ってから首を傾げた。 「光兄さんは、別にそこまで霖兄さんを気に入ってるってわけじゃなさそうですけどね。だって、霖兄さんが大事だったら、会社を辞めて大学に入り直したりしないでしょ?」 「じゃあ、霖さんがつーに執着してるだけ、ってことですか?」 「多分。ま、僕も何年も光兄さんと話してないから、そこのところはよくく分からないです」  二人の会話を聞いていた夏生は、まだ見ぬ霖に漠然と親近感を持ち始めている自分に気付いた。まさか、と浮かんできた考えを否定したが、夏生の中にある不安は消えない。 「こんな話してたことは、光兄さんには言わないでくださいよ? さっきも言いましたけど、一応僕は光兄さんに帰ってきて欲しくないんで、あんまり不安要素を増やしたくないですから」 「ええ。それにしても、待遇がいいとはいえ、辛い仕事なのによくく頑張れますね」  感心する重永を見て、驟は少し照れながら笑った。 「僕、父さんのせいでお小言には昔から慣れてるんですよ。だから、霖兄さんの文句だって、あんまり気にならないんです。それに、ほんと言うと営業とか経理とかの仕事より、秘書の方が楽だと思ってるんですよ。僕は霖兄さんと来客の方の顔色を窺うだけでいいですからね。  まぁでも、予想に反して、何時間も掛けてこんなところまで出てくる羽目になりましたけど」  驟がわざとらしく溜息を吐いた時だった。軽やかな音を立てて、ドアベルが響く。三人の視線が、ドアに集中した。その視線の先で、すらりとした影が店内に入る。 「光兄さん、久し振り! 良かった、来てくれたんだ!」  立ち上がった驟は、栗花落に駆け寄った。だが、手を取ろうとして背後にいる人物に気付く。 「……えと、どちら様ですか?」 「あー、その……」  栗花落の目が泳ぐ。その背後に見知った人物がいることに気付き、夏生は全身に鳥肌が立つのを感じた。 「同じゼミの後輩で、神田千秋さんだ。……たまたまそこで会って、話し込んでいた」 「初めまして。神田です」  余所行きの笑みを浮かべた千秋が、笑っていない目で夏生を射抜く。その鋭い視線に対し、嫌悪感を露わにした夏生は、ぷいとそっぽを向いたのだった。  栗花落と千秋は、カウンター席の驟の隣に座った。困惑している栗花落と、にこにこしている神田におしぼりを渡してから、夏生は苛立ちを抑えるためにそっと息を吸って、吐いた。 「光兄さん、そちらは……もしかして?」  カノジョ? と声に出さず口を動かす驟に、慌てて栗花落は首を横に振った。 「違う。たまたま帰り道が一緒になっただけで、別にそういう関係では……」 「そうだよねー。あー、びっくりした! 光兄さんが女の子と一緒に入ってくるんだもん」  驟は先程までの丁寧さをなくし、砕けた調子でからからと笑う。その様子を見て、夏生は目を丸くした。 「その……、神田さん、先程も言ったが、これから身内の話をするから、君にはつまらないと思うんだが」 「さっきも言いましたけど、私もここの紅茶が飲みたくなったんです。気にしないでください」 「……紅茶の味なんて分かるタマかよ」 「夏生、うるさい。あんたに言われたくない」  けっ、と吐き捨て、夏生はまたそっぽを向く。千秋は済まし顔をして、コップに口を付けた。 「えーっと、場所、変えた方がいい?」 「いや、ここでいい」  きっぱりとそう言って、栗花落は驟の方に体を向けた。 「それじゃあ、さっそく本題に入るけど……」 「俺の住所、だったな。……悪いが、教えるわけにはいかない」 「……そう言うと思ってた。けど、僕だってそう簡単に引き下がれないよ。人生が掛かってるんだから」  眼鏡の奥の目が、じっと栗花落を見つめていた。幼さの残る顔には不似合いな、強い視線が栗花落を射抜く。 「正直僕は、あなたに帰ってきて欲しくない。辛くても、せっかく与えられた僕だけの仕事を失いたくない。けど、ここであなたの住所を聞き出せなかったら、結局は同じことだ」  驟の真剣な瞳を見返し、栗花落はゆっくりと口を開いた。 「……お前が兄さんを補佐してくれていることには、感謝している。俺が投げ出した仕事をこなせる人間が、やっと現れてくれたことにも、な。だが、兄さんはまだ、俺の復帰を諦めていない。今、お前に住所を教えたら、あの人は必ず俺のところまでやって来るだろう。強引で俺の話を聞こうとしないあの人のことだ。無理にでも連れ戻そうとするかもしれない。お前には申し訳ないと思うが、そんなリスクは冒せない」  栗花落の表情は暗く、沈んでいた。その時、夏生は自然と、一昨日、家族のことや会社のことを口にした時の彼を思い出していた。 「じゃあ、霖兄さんがもし光兄さんのところに行くって言い出したら、すぐに連絡するよ。それに、できる限り僕も光兄さんに協力する。それでも、駄目?」 「だが、それが兄に知れたら、それこそお前は辞めさせられるんじゃないか?」 「でも、もし霖兄さんが強引に光兄さんを連れ戻したら、結局僕は辞めさせられるでしょ? それなら、多少危なくても光兄さんに協力します」  栗花落は黙り込んで、目を閉じた。驟は真っ直ぐに従兄を見据え、次の言葉を待っている。  しばしの沈黙の後、栗花落はそっと頷いた。 「仕方ない。そうしよう」 「……ほんと? ありがとう、光兄さん!」  緊張が一気に解れた驟は、満面の笑みを浮かべて勢いよく栗花落の手を握った。苦笑しながらも、栗花落は驟の手を握り返す。 「良かった~! これでとりあえず、クビが繋がるよ。兄さんにも、今度お給料が入ったら巨峰送るね。あ、白桃の方が好きだっけ?」 「気にするな。元はと言えば、俺のせいでお前に苦労を掛けているんだ。むしろ、俺がなにか感謝の気持ちを送りたい気分だよ」 「え? ほんと? じゃあ鳩サブレがいいな! 僕、大好きなんだよねー」 「こら、調子に乗るな」  二人の笑い合う姿を見て、夏生は肩の力を抜いた。そして、自分になにができるわけでもないのに、栗花落家のことに酷く気を揉んでいたことを自嘲する。 「話は終わったみたいだね。いつもの、淹れといたよ。神田さんも同じでいいかな?」 「はい。ありがとうございます」  千秋が口を開いたことにより、栗花落と夏生の表情が僅かに翳った。栗花落は困り顔に、夏生は怒り顔になる。 「栗花落先輩はお兄さんと仲が良くないんですか?」 「……ああ。まぁ、色々あってな」  そう言って、栗花落はお茶を濁した。それ以上の詮索を避けようとする態度を見て、驟は興味深そうに二人を眺める。 「私も兄弟とあんまり仲良くないんですよ。あんまり気にしなくてもいいと思います」 「はは……。そうだな」  的外れな励ましをする千秋を見るのが嫌になって、夏生は布巾を片手にテーブル席へ向かった。狭い店内では声が聞こえないところまで行くことができないが、視覚だけでも二人から離れたかったのである。 「半田くん、テーブル拭き? じゃあ、ちょっと早いけどついでにテーブル締めちゃって。この霧吹き掛けて、隅々まで拭いてくれたらそれでいいから。テーブルにあるお砂糖のポットは、こっちまで持ってきてね」  カウンターの向こうにいる重永から霧吹きを受け取り、夏生は丁寧にテーブルを拭いた。作業に集中すると、二人の会話も気にならなくなるのが不思議だった。時折夏生の耳に入るのは、栗花落の声ばかりだ。あまり聞かない、多分遠慮を含んだ物言いが、夏生の心に強い憤りを呼び起こす。今彼は、自分が千秋と話している時以上に苛立ちを感じていた。 「あの、お話中のところ悪いんだけど、そろそろホテルに戻る時間なんで、とりあえず光兄さんの住所をここに書いてもらえないかな?」  驟が口を開いたのは、七時五分前のことだった。〈西風〉は閉店直前だったが、相変わらず千秋が栗花落に話しかけている最中であった。 「ああ、すまない。待たせてしまって」 「いいよ、珍しいものが見られたし。光兄さんが女の子とまともにお喋りするなんて、十年に一度あるかないかじゃない」 「へぇー、そうだったんですか。栗花落先輩ってシャイですもんね」  反論する気力のない栗花落は、溜息を吐いて驟の手帳に書き込み始めた。  先程から見ていられなくて、夏生は教えられたばかりの閉店作業をこなしながら、自分にできることがないかを考えてみた。しかし、普段あまり使わない頭を目一杯働かせても、千秋を無理矢理追い出すことくらいしか案が浮かばなかった。自分の発想力のなさに頭を掻きむしりたい気分になっていた夏生を、売り上げ金の整理をしていた重永がこっそりと手招きする。 「……なんですか?」 「……あのさ。失恋直後で悪いけど……」  重永はそっと夏生に耳打ちした。危うく声を出しかけた夏生の口を、重永が素早く塞ぐ。 「他に方法が見つからないんだよ。君も、あいつの困り顔はもう見たくないだろう?」 「……分かりました。……俺も、他になんにも思い付かないし……」  それにもう諦めはついてるんだから、と夏生は自分に言い聞かせる。そして、殊更に明るい表情を作って栗花落達の方を向いた。 「つーさん、概論の授業でちょっとよく分からないところがあったんで、教えてくれません?」 「え? ああ。構わないが……」  突然口を開いた夏生に、千秋は一瞬、きつい視線を浴びせる。しかし、ほっとした表情を見せた栗花落を悲しそうに見た後、すぐに千秋は笑顔を作る。 「私も、今日の授業で分からないところあるんです。また今度教えてください」 「あ、ああ……」  再び困惑する栗花落だったが、先程よりは表情が幾分か明るい。 「はは、つーは大人気だねぇ。さて、勉強熱心な半田くんに免じて、今日はこれで上がっていいことにしよう。お疲れ様」 「え? あ、はい。お疲れ様です」  夏生の帰宅が決まると、千秋は荷物を持って椅子を立った。すぐに会計を済ませ、 「栗花落先輩、また明日!」  と言って颯爽と立ち去っていく。あまりに早い引き際に、残っていた男達は皆、しばらく呆然としていた。 「……えーっと、僕も帰るね」 「……ああ」 「なんかあの子、いろんな意味で大変な子だね」 「ああ……」 「具体的になにしたらいいかはさっぱりだけど……、頑張ってね、光兄さん」 「…………ああ」  驟の力にならない励ましを受けて、栗花落は疲れ切った声で返事をした。慣れない年下の女性との会話ですっかり憔悴した従兄の肩を、驟は気遣うように優しく叩く。  鞄を持って立ち上がり、驟は夏生の方を向いて笑った。 「マスターさん、半田さん、今日はありがとうございました。これからも光兄さんと仲良くしてあげてくださいね」 「は、はい」 「もちろん」 「保護者みたいな言い方は止してくれ。一応、お前より七つは年上なんだぞ」  栗花落が抗議の声を上げると、驟は珍しく大人びた苦笑を浮かべた。 「はいはい。光兄さん、あんまり年齢を笠に着ちゃ駄目ですよ」 「……分かってる。今日は、ありがとう」  にこりと笑って、驟は頷いた。弾みで少し眼鏡がずれたが、気にせずにレジへ向かう。会計を済ませて、会社の名前で領収書を切ってから、驟はドアを開けた。 「それじゃあ、さようなら。今度来る時は、仕事でじゃないことを祈ってます」 「お待ちしてます」 「また、な」  ドアベルが寂しげに鳴り響く。笑顔のまま、驟は暗くなったドアの外へ去っていった。  騒がしかった二人がいなくなったことで、途端に沈黙が際立つ。 「ほら、つーと半田くんも、出た出た。片付けの邪魔だよ」 「え、マスター、ほんとに帰っていいんですか?」 「さっき言ったでしょ? 今日はこれでおしまい。閉店作業は、また今度教えるよ」 「……ほんとに? どういうことだ?」  栗花落は訝しげに二人を見つめる。後ろ頭を掻きながら、夏生はばつが悪そうに口を開いた。 「さっきの、嘘なんです。あいつ、あのままほっといたら、つーさんが家に帰るまで付きまといそうだったし」 「……そう、なのか。ヒロ、お前も共謀してたのか?」 「発案は俺だよ。彼女、半田くんのこと相当嫌ってるみたいだったから、彼の家に行くとなったらさすがにもうついて来ないだろうと思ってね」  しれっと種をばらして、重永は売り上げを革袋に入れる。その飄々とした背中を呆れながら一瞥して、栗花落は夏生に向き直った。 「とりあえず、ありがとうと言っておこう。だが、彼女は余計に気を悪くしたんじゃないか?」 「ほっときゃいいですよ。あんなの」 「だが……、一応、君の知り合いだろう? 関係を改善しろとまでは言わないが、俺のためにこれ以上悪くする必要もない」 「俺は別にいいです。これ以上ないってくらい、あいつのこと嫌いだし。それに、あいつも同じくらい俺のこと嫌いだろうし。だから……」  夏生はそこで、吐き出そうとしていた悪口を止める。  栗花落の顔は、辛そうに歪んでいた。まるで自分が傷つけられたかのように。 「ご、ごめんなさい……」  他に言葉が見つからず、夏生はそう口に出していた。 「謝るのは俺にじゃない。彼女にだろう?」 「けど……! つーさんが、困ってたから……」 「……確かに、困っていた。だが、彼女の気が済むまで話に付き合うつもりではいたんだ。彼女の好意は少し押し付けがましいが、煩わしいほどではなかった」  夏生はなにも言えない。栗花落はじっと、夏生を見つめている。二人の間に、気まずい空気が流れた。その空気を、溜息を吐いた重永が破る。 「なら、その案を言い出した俺も、彼女に謝らないとね。つーが困ってたから、あなたが帰るようにし向けましたって」 「……そういう言い方は、好きじゃない」 「でも事実だろう? あそこで半田くんがああ言わなかったら、彼の言う通りきっと彼女はずっとお前に付きまとってた。お前はしたり顔で半田くんに説教をする余裕もなく、ストレスと疲れを溜めて、週の始めから憂鬱な気分で布団に入ることになってた。違うか?」  今度は、栗花落がなにも言えなくなった。やれやれと言わんばかりに、重永は肩をすくめる。 「お前は、誰にでも好かれようとし過ぎだよ。困ってるならはっきりそう言えばいい。無理に他人と合わせる必要なんてないだろう?」  重永は真っ直ぐな目で幼馴染みを射抜く。そのいつになく真剣な目に、栗花落はたじろいだ。 「……簡単に他人の好意を無碍にすることはできない」  揺らぎかかっている意思をどうにか言葉にしてから、栗花落は俯いた。 「好意って言ってるけどさ、押し付けられてるって思ってしまった時点で、もうそれはお前にとっては好意じゃないよ。こういう時に大切なのは、相手がどう思うかじゃない。お前がどう感じたかだ。困ってたんだろう? 押し付けがましいと思ってたんだろう? お前がどんなに自分に嘘を吐いても、傍から見てたら無理してるのは分かったよ。だから、俺は半田くんに嫌な役目を任せた。半田くんも、引き受けてくれた。お前は、この好意は無碍にするのか?」  立て板に水の如く、重永は滔々と言い連ねた。 「……それは」  栗花落は言葉を濁す。だが、こと人間関係に関して引き出しの少ない彼には、反論できる材料がない。言い淀む栗花落の姿はいつになく弱々しかった。夏生はまた、見ていられなかった。 「あの、マスター、もういいです」  耐えきれず、夏生は首を横に振って言った。 「マスターの提案とはいえ、俺が嘘吐いたのは事実です。あいつに会ったら、謝っときますよ」 「半田くんは、それでいいの?」  言外に様々な意味を含ませて、重永は夏生に訊ねた。夏生は躊躇いなく頷く。 「つーさん、帰りましょ? 俺、荷物取ってくるんで、ちょっと待っててください」 「ああ……。すまない、夏生。……ヒロも」  いつものように「いいですよ」と言って、夏生は奥の部屋に入った。彼の姿が消えてからも、栗花落はじっとドアを見つめていた。 「……ねぇ、つー。最後に、これだけは言わせてよ」  重永は、少し肩を落としている幼馴染みの背中へ、言葉を投げかける。 「お前はもっと、自分に素直になるべきだよ。……家を出るって、決意した時みたいにね」  力なく、栗花落は頷いた。 「……今日は、すまなかった」  外に出るなり、栗花落はそう言って夏生に頭を下げた。 「や、やめてくださいよ! 別に、つーさんはなにも悪くないんですから」 「だが、おかしな理屈で君を叱ってしまった。本当に、申し訳ない」 「それも、千秋を思ってのことでしょ? つーさんが優しいからですよ」  いいや、と言って栗花落は頭を振った。 「優しいんじゃない。ただの自己満足だ。……ヒロに言われて気付いた。俺は、彼女に嫌われたくなかっただけなんだ。俺だけじゃなく、夏生も。だから、君が彼女を悪く言っているのを聞きたくなかったし、君が彼女に嫌われているのも辛いと思った。……全ての人が仲良く、なんて不可能だと分かっているのに、自分の周りにいてくれる人間は、皆親しくなって欲しいと思っていたんだ。……とんだ、傲慢だな」  安っぽい街灯の下で、栗花落は寂しげに自嘲した。儚げなその姿に、場違いにも夏生の胸は高鳴る。諦めたはずの想いが戻りそうになって、夏生は必死に己を抑えた。 「……夏生?」 「な、なんでも! それより、遅くなっちゃいましたね。早く帰らないと。腹減りましたよ」  強引な話題の変更が、夏生の焦りを如実に表わす。栗花落は少し下にある夏生の目線に合わせて、寂しそうに彼を見つめた。 「……俺のことが、嫌になったか?」 「ち、違う! 違います! 嫌になんて……。ただ、ほんと、今日は色々あり過ぎて、ちょっと疲れただけです。なんかもう、早く帰ってシャワー浴びて寝たい、みたいな……」 「そうか……。すまないな、俺のせいで」  夏生の頭に向かって、栗花落の白い手が伸びる。その手に触れられた時の感触を思い出して、夏生の心臓は暴れ出した。駄目だ、忘れろと、夏生は心の中で叫んだ。だが、溢れ出す感情は止まらない。抱き締めてしまいたい衝動を抑えようと、夏生は固く目を閉じ、手を握り締めた。  だが、しばらく待っても栗花落の手は彼の頭に降りてこない。恐る恐る、夏生は目を開けた。  栗花落の手は、もう降りていた。泣き出しそうに歪んだ栗花落の顔が、無理矢理笑みを浮かべている。夏生の心は、冷水を浴びせられたように冷えていった。 「……つー、さん?」 「すまない。また子ども扱いしようとしていた。驟に年を笠に着るなと言われたばかりなのに」  栗花落の手は、夏生と同じように強く握られていた。ただでさえ白い手が、握り締めたことでいっそう白くなっている。 「これでは、嫌われて当然だな。その……、すまないな。この間から、子ども扱いしてばかりで。十歳離れていても、君ももう二十歳なんだから、頭を撫でられるような年ではないよな」  夏生は、違う、とは言えなかった。言ってしまったら、せっかく抑えていた感情が言葉になって出ていってしまうような気がして、口を開けなかった。  なにも言えない夏生を見て、栗花落は目を閉じる。 「……その……、すまない。馴れ馴れしく、してしまって」  吐き出すようにそう言ってから、栗花落は目を開いた。次の瞬間にはもう、初めて会った時のように人形めいた表情の彼に戻っていた。 「つーさん……?」  寒気が、夏生の背筋に走る。 「さようなら」  栗花落は夏生に背を向けて、春の闇の中へと歩き出した。すらりとした背中が、夏生の視界からゆっくりと消えていく。追い掛けなければいい、と夏生の理性は言った。このまま追い掛けなければ、夏生はこれ以上彼を想って苦しむことはなくなる。彼を想うことで栗花落を苦しめなくてすむ。近過ぎる距離を、簡単に空けることができる。これでいいのだ、と理性は叫ぶ。  だが、夏生は走り出していた。  このまま、ここで栗花落と別れてはいけない気がした。取り返しのつかないものを、失ってしまう気がした。自分も、栗花落も。  〈西風〉へ向かう栗花落を見かけた小さな路地で、夏生は彼に追いついた。その後ろ姿は、少し肩を落としている。 「つーさん!」  栗花落は立ち止まった。しかし、振り返ろうとはしない。 「……どうした?」  いつもより低い声で、栗花落はそう言った。夏生はゆっくりと、栗花落の白い手を取る。  ぴくりと、栗花落の手が震えた。 「俺、つーさんのこと、嫌ってない。俺は……、あんたのこと」  どくりと、夏生の胸が大きく鳴る。なにを言おうとした、と夏生は自問した。言ってしまったら、夏生には取り返しがつかない。栗花落は動きを止めた夏生を振り返って、盗み見た。  その時に、夏生は見てしまった。切れ長な目元に、小さな涙の玉があるのを。    夏生の衝動は、もう抑えられない。  夏生は栗花落を引き寄せ、すらりと伸びた背中を強く抱き締めた。 「俺は、あんたのこと好きだから!」  背中に叩きつけるように、夏生は叫んだ。 「……え?」  栗花落の目が、見開かれる。涙の粒が、ぽろりと零れ落ちた。  途端、途方もない後悔が、夏生に襲いかかる。突き飛ばすように栗花落から離れ、夏生は踵を返して走り出した。栗花落が夏生を呼んだが、振り返ることはできなかった。  夏生は、アパートへの道程を駆け抜ける。大した距離ではないのに、夏生は滝のような汗を流していた。追い立てられるように自分の部屋の前まで来て、汗に濡れる手で鞄から鍵を取り出す。手が震えて、鍵が上手く挿せない。携帯電話の着信音が鳴った。画面も見ずに、夏生は栗花落からだと思った。冷たい汗が、夏生の体をガタガタと震わせる。春の盛りだというのに、夏生は歯の根が合わなかった。  がちゃり、と大きな音を立てて、鍵が開いた。着信音はまだ、鳴り響いている。夏生は震えながら部屋の中に入り、普段は滅多に掛けないチェーンを手に取った。軽い音を立てて、チェーンが落ちる。それから鍵を掛けて、崩れ落ちるように夏生はへたり込んだ。 「言っちまった……」  夏生は天井を見上げる。電灯の点いていない部屋は、酷く暗く、月明かりもほとんど差し込まない。夏生の知らない間に着信音は途絶えていて、夜の静寂が、夏生の耳を痛いほど刺した。 「はは、は……」  夏生は力なく笑った。乾いた笑い声が、部屋の中に響く。 「……困ってるだろうな」  驚いて見開いた栗花落の目を思い出して、夏生は寂しげに呟いた。 「困らせたくなかったのに」  声に出してみると、その言葉は夏生の胸をゆっくりと締め付けていった。目の奥から涙がせり上がってくる。一昨日、何日分もの涙を流したと思ったのに、夏生はまた泣き出していた。  望みのない想いを告げても、栗花落は夏生を軽蔑することはないと、彼にも分かっている。しかし、重永のように想いを告げた後も彼の友人であり続けるには、夏生と栗花落の間に流れた時間は短過ぎた。そして、夏生の想いは育ち過ぎていた。  彼のことを、ただの優しい先輩として、ただの年上の友人として見ていたことなど、夏生には一度もない。見ようとしていたが、結局は一度としてそんな風には見られなかった。夏生は、栗花落の友人として傍に居続けられる自信はなかった。 「……どうして……、俺は、男を……、つーさんを、好きになったんだろ」  しゃくりをあげながら、夏生は自分に問いかけた。 「……どうして、友達、じゃ、駄目なんだろ……。それが、フツウ、なのに」  何度も何度も、同性を好きになるたびに問い続けていたことが、今更のように夏生の胸に沸き上がる。 「……畜生……!」  怒りに任せて、夏生はドアを強く殴った。 人は旅立っていった。  
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!