梅雨のあなたと夏の俺(長編)

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 今日の後始末と明日の準備を終えた重永が、奥の部屋で自分の荷物をまとめていた時だった。鍵が掛けられた店のドアが、激しい勢いで叩かれた。 「なに? 押し入り強盗?」  ぞっとしながら、重永は恐る恐る部屋から出る。ゆっくりとドアに近付くと、いっそう激しくドアが叩かれた。ドアベルは小刻みに鳴り、ドアノブはがちゃがちゃと音を立てている。 「……つー!」  血相を変えた幼馴染みが犯人だと気付き、重永は慌ててドアの鍵を開けた。倒れ込むように、栗花落は店内に入る。 「どうしたんだ?」 「……夏生、……夏生が」  栗花落は重永の腕に縋り付いた。夏生の名を聞いただけで、重永は事態を理解する。 「とりあえず、落ち着いて状況を説明して。水あげるから」  強張っている栗花落の腕を離し、重永は彼を座らせた。ミネラルウォーターのペットボトルを冷蔵庫から取り出し、栗花落の前に置く。水を一口飲んでから、栗花落は俯いた。長めの前髪が、重永から彼の表情を隠す。 「なにがあったの? ここ、出てから。なんか、近くで大声が聞こえた気はしたんだけど」 「ここを、出てから……、夏生と話していて。夏生に、悪いことをしたと思ったから、謝ろうと……。でも、夏生は、早く帰りたがっていて……。俺と、話すのが、嫌になったのかと……」  相槌を打ちながら、重永は優しく次を促した。 「また、頭を撫でようとしてしまって……。夏生が、まるで、殴られる前みたいに、体を硬くして……。そんなに、俺に触れられるのが、嫌なのかと……。俺は、また……、人に、嫌われたのかと……」  栗花落の声が震える。カウンターに、小さな水溜まりができていた。 「ヒロ以外に……、初めて、友と呼べる人が……できたと、思ったのに……、俺が、偉そうにしてたから、……夏生、は、俺を、嫌いに……」 「……つー、無理しないでいいよ」  優しく、重永は栗花落の指通りのいい髪を梳いた。ぐす、と栗花落の鼻を啜る音が響く。 「……泣きそうに、なって、……泣くまいと、思って、我慢、して……、夏生に、さよならを言って、別れたんだ。だが……、我慢、しきれなく、て……。少しだけ、泣いた。自分が、嫌になって。そうしたら、夏生が……走ってきて、嫌ってない、って……」  好きだって、と消え入るような声で栗花落は呟いた。重永は自分の予想通りだったことを知り、やりきれない気分になる。 「……夏生、は、走っていってしまって……。電話にも、出てくれなくて。俺、は……酷い勘違い、を……。夏生は、お前と、一緒で……。なのに、俺は……、夏生は、フツウの……、神田さんの、ような……、女の子が、好きなんだと……。俺は、俺は、あいつを、知らない間に、傷つけて……。だから、きっと……あんな態度を」 「つー、落ち着いて。多分、違うよ」  え、と言いながら、栗花落は顔を上げる。人形のような顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになって、切れ長な目は真っ赤になっていた。苦笑して、重永はティッシュ箱を渡す。  鼻水を啜り、涙を拭いて、栗花落は幼馴染みの次の言葉を待った。 「……俺は、ね。初めてつーと半田くんがここに来た時から、なんとなく彼の気持ちは分かってたつもり」 「そんな、前から?」 「うん。一目惚れだって、言ってたよ。こないだ、お前がここで寝てる間に」  そうだったのか、と小さな声で栗花落は呟いた。 「お前が半田くんといた時に、なにを言ったかは知らない。けど、ここでお前と喋ってる時の彼は楽しそうだった。お前の言葉に傷ついてるなら、そんな風にお前の傍にはいられないと思う。ずっと好きで、けど好きって言うわけにはいかなかったから、我慢してたんじゃないかな」 「……我慢?」 「そう。好きって言わないように。お前、あの子に高校卒業の時、俺がお前に振られたって話したろ。元々彼は、お前に好きだって言うつもりはなかったみたいだけど、その話を聞いた後の半田くん、大泣きしてたぞ。幼馴染みの俺で駄目だったってこと、なんで教えてくれなかったんだーって。お前が、ゲイに理解があるから、てっきり受け入れてくれるかと思ったって」  神妙な顔をして、栗花落は考え込んだ。それには構わず、重永は続ける。 「今のままで十分だったんだ、って言われたんだ。その時。ほんの少しの期待も要らなかったんだろうね。お前の傍にいられたら、それで良かったんじゃないかな。お前が好きだってこと、言わなくてもさ。けど、今日お前が泣いてるのを見て、我慢ができなくなった。そんなところじゃないか? お前の涙、破壊力あるからね」  冗談めかして言うと、栗花落はふっと笑った。痛々しい赤い目が、少し細くなる。 「だが……、これでもう、本格的に嫌われてしまったな」 「ちょっと待って、なんでそうなるんだよ?」 「……俺の前から、走って逃げていった。言いたくなかったことを、俺が言わせてしまったからだろう? ずっと、我慢していたことを……、俺が不甲斐ないばかりに、言わせてしまった」  再び、栗花落は俯いた。大げさなまでに深い溜息を吐いて、重永は形のいい頭をやや勢いをつけて殴る。ごっ、と鈍い音がした。 「な、にをする!」 「お前こそ、なに言ってるんだ! 半田くん、お前になんて言った? お前が好きだって言ったんだろ! それがなんで、お前を嫌いになることに繋がるんだよ! 逆だよ逆! ったく、お前はほんっとーに鈍いな!」 「だが、夏生は俺の言葉に傷ついたんだろう! 大泣きしたんだろう! どうしてそんな、酷い人間を好きなままでいられる!」 「仕方ないだろ! 好きになったんだから!」  栗花落は目を見開いた。重永から告げられたかのような衝撃が、栗花落の次の言葉を奪う。 「好きになったものは、どうしようもないんだよ。諦めたくても、そう簡単には諦められない。俺も、彼だって、何度も何度も諦めようとしたはずだ。お前の言うような、フツウの恋愛ができない俺達みたいな奴らは、人の何十倍も頑張って、好きになった相手を諦めようとしてきた。けど、諦められないんだよ。好きになっちゃったんだから。お前の言う、当たり前のことにいちいち傷ついたって、好きなことには変わりないんだよ!」  いつになく激しい口調で、重永は叫んだ。再び、栗花落の切れ長な目に涙が浮かぶ。嗚咽を抑えながら、栗花落は口を開いた。 「……あいつは、そうやって……何度、俺を諦めようとして……、苦しんだんだ……? たった、二週間と少しの付き合いで……、あんな風になるまで、何度……」  両手を握り締め、栗花落はその手を額に近付けた。祈るように目を閉じると、涙がぽろぽろと零れ落ちた。しばらくそれを見守ってから、重永はそっと切り出す。 「……ねぇ、つー。彼の気持ちも、大事だけどさ」  ゆっくり、栗花落は赤い目を開く。 「お前、気付いてる? さっきから、彼を傷つけたこと気にしてるけど、彼の気持ちを受け入れるかどうかについては、一言も言ってないよ。お前の気持ちはどうなんだ? 半田くんはなにも聞かずに逃げていったんだろ? ちゃんと、返事しなきゃいけない。振るなら振るでさ」 「……振る……?」 「……振らないの? 俺の時みたいに」  重永はそう訊ねた。だが、栗花落は即答できず、言葉を探す。 「……振る、のか? 俺は」 「そんなの、俺が知るはずないだろ。お前が考えろよ」 「……考えてる。……考えてる、が……」 「傷つけずに振る方法を?」  栗花落は首を横に振る。 「じゃあ、なにを悩んでるんだ。お前はゲイじゃない。それは、お前が一番分かってるだろ」  栗花落は首を、ゆっくり縦に振った。だが、再び言葉を探して沈黙する。 「……つー」  優しく、そして寂しげに、重永は黙り込んだ幼馴染みに話しかけた。 「振らないんなら、もう答えは決まってるんじゃないのか?」 「だが……! 俺は……、ゲイじゃ、ない」 「それが? お前はもっと自分の気持ちに素直になるべきだって、さっき言っただろ。ゲイじゃないからなに? 自分に嘘吐いて、彼になんにも言わないつもり? 酷い矛盾だよ。それは」  不安そうに、栗花落は顔を上げた。重永は、その白い額を指先で弾く。 「行っておいで。半田くんの部屋に。二階の突き当たりだよ。彼、多分泣いてる。お前の話を聞いてくれないかもしれないけど……、俺は言うべきだと思うよ。お前の素直な気持ちをね」 「……ああ」  ティッシュを一枚取って、栗花落は思い切り鼻を噛んだ。形のいい鼻が、赤くなっている。 「行く前に、顔洗った方がいいな。せっかくの男前が台無しだ」 「……構わない。……ありがとう。ヒロ」  鞄を持って、くしゃくしゃの顔のまま、栗花落は立ち上がった。袖で涙を拭ってから、笑う。 「行ってくる」 「うん。行ってらっしゃい」  手を振って、重永は栗花落を見送った。彼は振り返ることなく、真っ暗な外へ出ていく。  すらりとした背中が見えなくなってから、重永はそっと溜息を吐いた。棚からブランデーの瓶とコップを取り出して、静かに酒を注ぐ。今日の彼は酷く、飲みたい気分だった。  二階の突き当たりの部屋からは、灯が漏れていなかった。部屋に戻っていないのではないかと不安になりながらも、栗花落はドアの前に立つ。  すぅ、と大きく息を吸って、栗花落は姿勢を正した。そして、祈るような気持ちでチャイムを鳴らす。緊張感のない音が、響いた。それから、沈黙が落ちる。途方もない静寂が、栗花落の耳を痛いほど刺す。耐えきれなくなって、栗花落はもう一度チャイムを鳴らした。 「……夏生、いるか? いるなら、開けてくれ。話したいことがあるんだ」  しばしの沈黙の後、ゆっくりと鍵を開ける音が響いた。ほっとして、栗花落はドアノブに手を伸ばす。だが、ドアは僅かしか開かなかった。チェーンが引っ掛かる、固い音が響く。 「夏生?」 「……悪いけど、ここで言ってください」  固い声が、栗花落を迎えた。少し掠れている。 「顔を見て、話がしたい」 「俺は……、嫌です」 「……顔を見るのも、嫌になってしまったか?」  泣き出しそうになりながら、栗花落はできるだけ優しく言った。 「あんたは……ずるい……!」  夏生の声が震える。 「……嫌いになれるわけ、ない……! あんたを困らせるの、分かってて……でも初めて会った時から、ずっと好きだったんだ。あんただってもう、分かったでしょ? なのになんで、そんな訊き方するんですか!?」  栗花落が今まで聞いたことのない、夏生の声だった。いつもの、明るく生意気で、口が悪くても優しい、栗花落のよく知る後輩の声ではなかった。 「すまない……」  それ以外に言葉が見つからず、栗花落は絞り出すように謝罪の言葉を口にした。 「もう、ほっといてくださいよ。俺は、マスターと違って、あんたに振られて平気な顔できない。さっきまでみたいに、あんたの隣にいられないんです」 「夏生」 「俺は! 最初から、あんたのことが好きだった。今更ただの仲のいい後輩になることなんてできない。……だからもう、ほっといてくれよ! 忘れさせてくれよ、あんたのこと……!」  膝をつく音が、栗花落の耳に届く。しゃくりを上げる夏生の声も、栗花落の耳を叩いた。  そっと、栗花落も膝をついた。ドアの隙間から、暗い部屋の中を覗き込む。 「夏生、俺の話も聞いてくれ。……お願いだから」 「嫌です。答えは分かってます。これ以上、俺を追い詰めないでくださいよ……」  死にたくなる、と夏生は小さな小さな声で呟いた。栗花落の耳はその声も、拾ってしまった。 「……死なせない。俺は、お前を死なせたくない」 「可愛い後輩だから? 弟みたいに思ってるから? やめてください。俺、あんたが思ってるほどいい奴じゃない」 「違う!」  声を荒げた栗花落に驚き、夏生はなにも言わなくなった。静かになった部屋の中へ、栗花落は白い手を伸ばした。柔らかな癖毛が指先に触れる。手が払われなかったことに安堵しながら、栗花落はそっと夏生の頭を撫でた。 「お前だから、だよ。半田夏生だから、俺はお前を失いたくないんだ」  諭すように、栗花落はゆっくりと言った。だが、夏生は激しく頭を振る。 「やめてください……! 優しく、すんな! 同情でも、誤解したくなる……!」 「同情じゃない」  栗花落はきっぱりと言い切った。 「じゃ、あんたもゲイになったってこと? 冗談じゃない! あんたはどう考えたってゲイじゃない。男を好きになったりなんてしない。あんたは、男相手じゃ……!」 「……俺にも、よく分からない。ただ、俺はお前に、傷ついて欲しくない。お前を、これ以上傷つけたくない。それに、お前に、嫌われたくない……」  栗花落の言葉を最後まで聞かず、夏生は白い手を乱暴に部屋の外へ追い出した。ドアが音を立てて閉まる。どう言えば、夏生が素直に話を聞いてくれるのか見当も付かず、栗花落は俯いた。その耳に、チェーンを外す音が届く。  驚きながらも安堵した栗花落は立ち上がって鞄を持った。しかし、彼がドアを開ける前に、夏生が勢いよくドアを押し開いた。 「……夏生?」  暗闇の中で栗花落を見上げる夏生の目には、雑多な感情が入り混じっている。睨みつけるようなその強い目に、栗花落は言葉を失った。  無言で、夏生は先程のように白い手を掴み、自分の元へ勢いよく引き寄せた。倒れ込むように栗花落が部屋の中に入ると、鞄が重い音を立ててフローリングを転がった。夏生は素早く鍵を掛け、栗花落を押し倒して上に跨る。夏生は両足で栗花落の太ももを挟み、両手で栗花落の肩を押さえた。  暗がりの中で、夏生の顔が近付いてくることに気付いた時には、もう栗花落の唇は奪われていた。  夏生の唇は噛み付くような乱暴さで、栗花落のそれを蹂躙する。初めて知った激しくも柔らかな感触が、栗花落の思考をぐちゃぐちゃに掻き乱した。何度も何度も、夏生の唇は栗花落を嬲った。耐えきれなくなって栗花落が口を開いて息を吸おうとした隙に、夏生の舌が彼の口内に入り込む。突然襲いかかった別種の感触に、栗花落はますます混乱した。自分の物ではない唾液が、栗花落の舌を刺激する。歯列を、歯茎を舐めるざらりとした感触を追い出そうと、栗花落は必死に舌を動かした。  だが、動かせば動かすほど、夏生の舌は執拗に栗花落の舌を絡め取ろうとした。幾度目かの攻防の後、ようやく外の空気に触れた栗花落の舌を、今度は夏生が自身の口内へと強引に誘う。  栗花落はどうしたらいいのか分からなくなり、抵抗をやめた。夏生が自分の舌を吸うのに任せて、力を抜く。ぞわそわと体に不思議な感覚が走り、頭の奥が酷く熱かった。  しばらく夏生は栗花落の舌を吸っていたが、突然場違いなほど軽い音を立てて、唇は離れていった。その拍子に、一滴の涙が栗花落の頬に落ちる。 「……これで、嫌いになれた?」  夏生は泣きながら、笑っていた。栗花落は、必死になって頭を振る。夏生の表情は見る見るうちに歪んでいった。 「……なんで、だよ。嫌いになれよ! 嫌なんだろ! 迷惑だろ! 俺は、いつだってあんたをこんな風に押し倒したかったんだ! 俺は、あんたに勃ってるんだ! 気持ち悪いだろ!」  いっそう強く頭を振って、栗花落は体を起こそうとした。だが、がっちりと夏生の両手足に押さえられている栗花落の体は、微動だにしない。そして、自分の股に温かいものが当たっているのを、栗花落は今になって気付いた。 「嫌いだって、言ってくれよ……! 気持ち悪いって、言ってくれよ……! あんたのこと、諦めさせてくれよ……!」  ぽたぽたと、夏生の涙が栗花落の頬を叩いた。縋るように、夏生はもう一度、栗花落と唇を合わせた。酷く優しく、頼りない口付けだった。  栗花落はどうにか腕を動かして、夏生の頭に触れた。先程と同じように、優しく癖毛を撫でる。何度も何度も頭を上下する白い手が、夏生をゆっくりと落ち着かせた。夏生は、体の力を抜き、覆い被さるように栗花落の体に倒れ込む。重いな、と思いながらも、栗花落は手を止めなかった。  夏生は唇を離し、栗花落の胸に顔を埋めた。しゃくりを上げながら、白いシャツに包まれた胸の上で泣き続ける。栗花落は片手で夏生の背を抱いて、片手で相変わらず頭を撫で続けた。  どれほどの時間そうしていたのか、二人には分からない。夏生が泣き止んだことに気付いて、栗花落は手を止めた。夏生を抱きながら、体を起こす。夏生の目が、不安そうに栗花落を見上げていた。母を見失った幼子のような顔をした夏生に、栗花落は優しく口づける。  すぐに離れていった栗花落の唇を、夏生は揺らぐ瞳で追い掛けた。その瞳を真っ直ぐに見つめて、栗花落は笑っていた。 「夏生」  少し低い、優しい声が、夏生の鼓膜を震わせる。 「話を、聞いてくれるか?」 「……はい」  大人しく、夏生は頷いた。 「先程お前に好きだと言われた時、な。俺は真っ先に、お前を傷つけてしまったと思った。お前がヒロと同じだったなんて、考えもしなかったから……。きっと、俺は自分では気付かない内に、お前に対して、無神経なことを言っていただろうと。それが、とても……、恐かった」 「……恐かった?」  囁くように、夏生は訊ねた。 「ああ。お前を傷つけてしまったことが、とても恐かった。お前に嫌われたと思って、目の前が真っ暗になった。どうしていいか分からなくて、お前の後を追い掛けることもできずに、〈西風〉に……、ヒロに頼った」  夏生の表情が、一瞬にして暗くなる。憎悪に似た色が、その目に浮かんだ。 「……頼む、怒らないでくれ……。他に、なにをしたらいいか分からなかったんだ。あいつは、俺の話を聞いて、……俺に、自分の気持ちに素直になれと言った。振るつもりがないなら、答えは分かっているはずだと」 「……はい」  夏生は心を落ち着けて、次の言葉を待っていた。二人の視線が、絡み合う。 「俺は、ゲイじゃない。お前と同じじゃない。……でも、俺は、お前が好きなんだと思う。今はまだ、……曖昧な言い方しか、できないが……、でも、そうとしか自分の感情を説明できないんだ。お前を傷つけたくなくて、お前に嫌われたくなくて、……傍にいて欲しいんだ。後輩としてでも、弟のような存在としてでもない。俺は、半田夏生に、一緒にいて欲しい」  目に涙を溜めながら、夏生は頷いた。栗花落はふっと自嘲する。 「夏生、今でもまだ、こんな不甲斐ない俺を好きでいてくれるか?」 「……当たり前ですよ」  夏生は栗花落に頬をすり寄せた。耳たぶに唇を寄せ、囁く。 「不甲斐なくて、人付き合いが下手で、鈍感で、浮世離れしてても……、俺は、つーさんの全部が好きだから。笑って、泣いて、怒って、悲しむ、人間の栗花落光が好きなんだから」  そう言って夏生が目を閉じると、涙が栗花落の髪に落ちた。雫は白い首筋を伝い、シャツに吸い込まれていく。 「……夏生、……ありがとう」 「それ、こっちの台詞。……ありがとうございます。俺なんか、好きになってくれて」  栗花落はゆっくりと、夏生の言葉に首を振る。 「……あまり、自分を卑下しないでくれ……」  悲しそうに、栗花落は囁いた。返事をする代わりに、夏生は栗花落を強く抱き締める。子どものように必死な夏生を、栗花落は優しく撫でた。  ゆったりとした時間が流れる。二人は互いの吐息を聞きながら、抱き締め合っていた。怒濤のような告白劇の熱は、すっかり落ち着いている。  突然、あ、夏生が声を上げる。同時に、きゅうと腹が鳴った。 「……腹、減りました」 「そういえば、俺も」  ぐぅ、と栗花落の腹も鳴る。二人は互いに笑い合って、そっと体を離した。 「カップ麺しかないけど、食べます?」 「……うーん。他にもなにか買いに行かないか? 足りないと思う」 「確かに……。なーんか、色々あり過ぎて、余計に腹減ってる気がします」  言いながら、夏生は電灯を点けた。いきなり明るくなった視界を慣れさせるため、二人はしばし目を細める。目が慣れてきて、改めて互いの顔を見た二人は、同時に吹き出した。 「お前、目が真っ赤だぞ。鼻も赤い」 「つーさんもですよ! 綺麗な顔が台無し!」 「綺麗? 俺が?」  不思議そうに首を傾げる栗花落に向かって、夏生は猛然と頷いた。 「綺麗ですよ! 俺、初めて会った時から、人形みたいだと思ってました」 「……そんな風に言われたのは、七五三の時以来だが……」 「し、七五三って……。俺にとっては綺麗なんですー。感覚がずれててすみませんでしたー」 「はは、拗ねるな拗ねるな」  ぐしゃぐしゃと癖毛を掻き回して、栗花落はからからと笑った。真っ赤になった目で睨み上げても長くは続かず、結局夏生も笑い出す。 「こんな顔じゃ、外に出られないな」 「出前……、取るのはもったいないですね」 「構わないぞ。この間のお礼に、食事を奢る約束だっただろう?」 「あれ、昼飯の話ですよ?」 「昼も夜も大して変わらないだろう。それとも、ヒロに買い出しを頼んでみるか? 店はほとんど閉め終わっていたようだから」 「だ、駄目! 絶対駄目!」  慌てて夏生は叫んだ。栗花落が取り出そうとしていた携帯電話を引ったくり、後ろ手に隠す。 「どうしたんだ?」 「せっかく……、つーさんの気持ち、分かった日だから……。他の人、部屋に入れたくない」  視線を逸らして、夏生は拗ねたように言った。 「……ああ、なるほど」 「な、なにがなるほどなんですか! 今の流れで!」  唐突な栗花落の一言に、夏生は思わず叫ぶ。当の栗花落は、一人でしきりに頷いていた。 「いや、どうしてお前を子ども扱いしてしまうか、今ので分かった気がしたんだ。お前、独占欲が強いだろう」 「え、まぁ……、多分」 「すぐに拗ねる振をする」 「馬鹿にしてんですか!」 「で、すぐ怒る」  悪戯っぽく栗花落は笑った。頬を膨らませ、夏生はくすくすと笑い続ける栗花落を見上げる。 「二十歳近いと言っても、まだまだ子どもだな。お前は」 「あのね、これでも一応性欲のピークの真っ最中なんですよ! ガキ扱いしないでください!」  投げつけるように携帯電話を返しながら、夏生は叫んだ。 「ああ、そういえばそんな話を聞いたことがあるな。嘘か本当か知らないが。だが、自分の欲を抑えることができるのが大人だと……」  そこまで言った時、ふと栗花落の脳裏に先程の激しい口付けが蘇る。 「……つーさん?」  中途半端に言葉を切って、俯いた栗花落の顔を、夏生は下から覗いた。その頬どころか耳まで赤くなっているのを見て、にやりと笑う。 「もしかして、さっきの思い出した?」 「…………ああ、そうだ」  消え入るような声で言って、栗花落は手で顔を覆った。夏生は、笑いが止まらない。 「なーんか、反応が初々しかったけど……。まさか、二十九年も生きてて、さっきのが初めてとかじゃないですよね?」 「……申し訳ないが、……初めてだ」  溜息を吐いて、栗花落はぼそりと言った。どうしようもない独占欲が、夏生を満たしていく。夏生は背筋を伸ばして、栗花落の耳元に口を寄せた。 「可愛いなぁ」 「……三十路前の男を捕まえて、可愛いはないだろう」 「可愛いですよ。他の誰もそう思わなくたって、俺には可愛いんです。あんたがそんなに可愛いから、我慢するの大変だった」  できうる限りの落ち着いた声で、夏生は囁く。 「こないだ、家に行った時も……」  続けかけた夏生の言葉を、きゅうと言って腹の虫が遮る。夏生の耳元で栗花落が吹き出した。 「ムード、台無しだな」 「もう、いいです! 顔洗って、コンビニ行きましょ!」 「分かった分かった」  苦笑する栗花落を引っ張って、夏生はユニットバスに向かった。少し錆びた鏡の前に立って、鏡に映る互いの顔を見た二人は、再び笑い合う。順番に、水で勢いよく顔を洗うと、二人の火照った目や鼻がゆっくり冷えていった。  栗花落にタオルを渡し、夏生はふと真顔になった。 「……つーさん、ごめんね。……さっき。酷いこと、いっぱい言いました」 「ああ」  タオルで顔を拭きながら、こともなげに栗花落は相槌を打った。 「……それに、いっぱい泣かせた。ごめんなさい」 「俺こそ、すまない。ヒロから聞いたよ。一昨日、大泣きしたんだろう? 俺が、変に期待を持たせたから」 「あれは……、つーさんは悪くない。マスターがその話、先にしててくれたら……」  ゆっくりと、栗花落は頭を振る。 「ヒロの理解者ぶって、偉そうなことを言った。でも、お前の気持ちは理解できてなかった。俺が悪いよ」 「……ごめんなさい」 「お前が謝ることじゃない。気にするな」  殊更乱暴に、栗花落は夏生の頭を撫でた。俯かされた夏生は、小さく頷く。 「……好きになって、ごめんなさい」 「どうして?」 「俺もあんたも男だから。結婚できないし、子どもできないし、周りから変な目で見られるし」  それに、と続けようとした夏生の頭を、栗花落はやや勢いをつけて殴った。ごっ、と鈍い音がして、夏生は慌てて顔を上げる。 「いって! なにすんですか!」 「今更、そんなことで悩むな。それくらい俺にも分かっている。覚悟も、しているつもりだ」  真っ直ぐな目が、夏生を見据えていた。 「俺も、お前と同じ道を歩むよ。だから、存在したかもしれない別の未来は、もう必要ない」 「……うん」  縋るように、夏生は栗花落の肩に顔を埋めた。優しい温もりが夏生の不安を癒していく。  二人は互いの体温を感じながら、しばらくの間そのままでいた。 「うぇ、もうこんな時間。つーさんは、明日って一時間目からありましたっけ?」  部屋の外に出た夏生は、携帯電話で時間を見て驚いた。もう、深夜と呼べる時間帯であった。 「俺は三時間目からだが……、夏生は?」 「二時間目から……。起きられるかな」 「起こしてやるよ」  不安そうな夏生に、隣を歩く栗花落が笑いかける。しかし、夏生は慌てて頭を振った。 「いいですよ! ってか、今夜は帰ってくださいね! うち、布団一つしかないんだから」 「泊まってはいけないのか? そのつもりだったんだが……」 「駄目! あんな狭い布団で、男二人が寝られるわけないでしょ」 「そうか……」  残念そうに、栗花落は小さく呟く。ちくりと、夏生の心が痛んだ。そして、揺れる。 「……うーん」 「ん? まだ〈西風〉が明るいぞ?」  階段を下りたところで、栗花落は不思議そうに〈西風〉の方を見た。店内は、栗花落が出ていった時と同じように、灯が点いていた。 「マスター、まだ帰ってないんですかね? 確か、家はチャリでもけっこう遠いところにあるとか言ってましたけど」  言いながら、夏生はドアの方へ向かった。そっと、ドアのガラスから店内を覗く。二人の見知った人影が、夏生の目に入った。 「……忍? あいつ、なんで」 「上風呂くん? なら、入らない方がいいかな。……邪魔になるかもしれない」 「そうですね」  二人はできるだけ静かにドアを離れた。最寄りのコンビニまで、最低でも十分は掛かる。街灯で照らし出された住宅街を、二人はのんびりと歩いた。 「つーさん、さっきキス初めてって言ってましたけど」  思い出したように、夏生は口を開く。 「……ああ。友人がいなかったんだ。恋人など望むべくもないだろう」  自嘲して、栗花落は軽く肩をすくめた。 「じゃ、童貞なんですか?」 「……悪いが、そうだ」 「へーぇ。ふーん」 にやにやと笑みを浮かべる夏生を直視できず、栗花落は少し赤面しながら前を見続けた。 「そういうお前はどうなんだ」 「童貞ですよ」  夏生はさらりと言った。 「一回、女を好きになろうとして、ちょっと付き合ってたことがあったんですけどね。そういう雰囲気になったら途端に萎えるんですよ」 「……萎える」 「キスくらいはしましたけどね。なんか、不味かった」 「不味い……」 「口紅かリップクリームか知らないですけど、すっげー味がして! 吐きそうになりました」 笑いながら、夏生は舌を出す。神妙な顔をして、栗花落は唸った。 「やはり、お前はモテるんじゃないか」 「……はい?」  栗花落の口から彼に似合わない単語が出て、夏生は思わず間抜けな声を上げた。 「この間、そんな話をしただろう」 「あー」 「試しに付き合おうと思える程度には、相手がいたというわけだな」 「……つーさん? なにが言いたいんですか?」 「いや……、好いた相手に、そんな風に思われてしまう女性が、少し可哀相だと思ってな」  寂しそうに、栗花落はぽつりと呟いた。夏生は、殊更明るい表情で彼を見上げる。 「なーんだ。やきもち焼いてくれるかと思ったのに」 「そこまで狭量ではないよ」 「……狭量でいいのに」  少し残念そうな夏生の頭を軽く小突いて、栗花落は空を見上げる。スモークの向こうで、星がぼんやりと輝いていた。 「……星が綺麗だな」 「へ?」 「星。綺麗だ」  言われて、夏生も空を見上げる。しかし、なんの感動も沸かない。 「別に、いつも通りでしょ?」 「そうか? 最近、曇りが続いていたから、久し振りに星が綺麗に見えたと思ったんだが」  栗花落の言葉を聞きながら、夏生は既視感を覚えた。星空と栗花落が、一つの線でゆっくりと繋がっていく。 「……なんだ。つーさんも、案外情緒ないじゃん」 「ん?」 「なーんでも。俺、そろそろ限界です。ちょっと急ぎましょ?」  にっこりと笑って、夏生は早足で歩き出した。小首を傾げつつも、栗花落は後を追う。  二人の歩く道筋を、月明かりが優しく照らしていた。  なんだかんだと買って、上機嫌の二人がアパートに戻った時、〈西風〉の電灯はもう消えていた。奥にひっそりと存在する小さな自転車置き場には、重永の自転車はない。 「マスター、帰ったみたいですね」 「そうだな。……あいつも、上風呂くんと上手くいくといいが」 「……そうですね」  夏生も、今は素直にそう思える。起こりうるはずがないと思っていたことが起きて、彼の心は急速に上向いていた。スキップしそうなほど明るい気分で、夏生は階段を上りきる。苦笑しながら、栗花落は後に続いた。夏生は足早に部屋の前へ向かい、ポケットから鍵を取り出す。すぐに鍵を開け、栗花落が辿り着く前に電灯を点けた。 「改めて……、いらっしゃい。つーさん」 「……お邪魔します」  玄関で、照れくさそうに栗花落は笑った。栗花落の分のビニール袋を受け取って、夏生は彼をテーブルに着かせる。栗花落は正座をして、夏生の部屋をゆっくりと見渡した。 「狭い部屋で、驚いたでしょ」  ビニール袋から夕飯を取り出しながら、夏生は苦笑した。だが、栗花落は首を横に振る。 「いや、部屋が綺麗なことにびっくりした」 「うわ、しっつれいな! これでも、整理整頓くらいできるんですからね。……ま、物が少ないから、あんまり整頓する必要もないんですけど」  栗花落の前に箸とコンビニ弁当を、自分のところにスプーンとグラタンを置をきながら、夏生はそう言った。コンビニで温めたグラタンは、既に少し冷めている。 「俺はこうはいかないな。すぐに物を溜め込んでしまう」 「ああ、あのいっぱいの本ですか? それと、なんかいろんな置物」  コンビニ弁当のビニールを剥がしつつ、栗花落は頷いた。 「本は気に入っている物だけだが、置物はほとんどが土産物なんだ。小さい頃から、ほとんど旅行らしい旅行をしたことがなかったから、叔母達が不憫がってな。どこかに旅行に出るたびに、なんだかんだと買ってきてくれたんだ。捨てるに捨てられなくて、ああなった」  微笑む栗花落と自分の間に総菜を置いて、夏生はグラタンのビニールを開けにかかった。 「ふーん。なんか、つーさんって叔母さん達に可愛がられてますね」  グラタンの蓋を開け、夏生はホワイトソースの匂いを嗅いだ。先日、栗花落の家で食べたシチューとは、比ぶべくもない安っぽい匂いであった。 「あの人達は、もう自分の子どもにはほとんど手が掛からないから、余計に俺を構いたがるんだ。それに……母さんの遺言は『霖と光を頼む』だったから、それを守ってやりたいんだろう」  遠い目をして、栗花落は呟いた。口元には、優しい笑みが浮かんでいる。夏生は、温かい記憶の海を漂っている栗花落の顔を見ながら、グラタンを口に運ぶ。 「……なぁ、夏生」  遠い思い出から、近くの夏生に視線を戻して、栗花落は口を開いた。 「なんですか?」 「もし、お前に暇があったら、でいいんだが」  そう前置きして、栗花落は一旦箸を置く。夏生も手を止めて、栗花落の視線を受け止めた。 「今年の夏、一緒に俺の故郷に帰らないか?」 「……え?」  思いも寄らない提案に、夏生は目を丸くした。 「心配するな。会社に戻るわけじゃない。……墓参りをしたいんだ。母さんの十三回忌だから」 「あー、それで……。でも、お兄さんが……」 「ああ。だから、驟に法事の日付と時間帯を聞こうと思っている。その時間なら、兄は家から出られないはずだ」  そう言いながらも、栗花落の目は寂しさを隠せなかった。 「……こそこそ隠れるように帰るのは、正直辛い。だが、俺は栗花落の家を捨てる覚悟で出てきた。だから……、もう、堂々と故郷に帰れるとは思っていない。お前には少し面倒かもしれないが、付き合ってくれるか?」  悲しい笑みを浮かべ、栗花落はそう訊ねた。夏生は躊躇いなく頷く。 「もちろん、喜んで。……それまでに、つーさんが俺に飽きてなかったらね」 「それに関しては問題ない。お前が俺に幻滅していなければ、大丈夫だ」  二人は笑い合った。止めていた手を、再び動かし始める。  時間は、ゆったりと流れていった。  喋りながら食べていると、必然的に食べる速度は遅くなる。日付が変わるような時刻になって、やっと二人は夕飯を食べ終えた。 「……もう、こんな時間か」  少し重くなった瞼を上げながら、栗花落は腕時計を見た。 「帰って、くださいね?」  必死に理性を働かせ、夏生はできる限りの強い視線で栗花落を見つめる。 「分かっている。これを食べたら帰るよ」  眠そうな目で笑って、栗花落はビニール袋の中を探った。シックなパッケージのレーズン入りチョコレートを取り出し、丁寧に紙を剥ぐ。 「ここに、簡単な寝具を持ってきてもいいか?」 「駄目です。そんなもん置ける余裕ないです」 「掛け布団だけでも」 「駄目です」  有無も言わさず、夏生は頭を振る。寂しげに夏生を見てから、栗花落は銀紙を剥取り始めた。 「……そんなに、俺を泊まらせたくないのか?」 「はい。布団、ずっと洗ってねぇし、風呂も狭いし。大体着替えがないでしょ? 俺の服じゃ、つーさんには小さ過ぎる」 「洗ってないと言っても、こちらに来てまだ一年だろう? それに、風呂もシャワーだけで十分だ。着替えなら、自分でちゃんと用意する」  栗花落はそう反論してから、板状のチョコレートを一口食べる。栗花落の口内に、甘くほろ苦い香りが充満した。 「とりあえず、今夜は駄目です。家、そんな遠くないんですから、ちゃんと帰ってくださいよ」 「……分かっている。これを食べたら帰る」  既にぐらついている夏生の心を、栗花落のいつになく細い声が大きく揺らした。 「あの、ね、つーさん」 「ん?」  二口目を咀嚼しながら、栗花落は首を傾げた。頬が、少し上気している。 「俺、あんたを傷つけたくないんです。だから、今夜は、絶対に帰ってください」 「……どうして?」 「どうして、って……、あんたに、無理させたくないから……」 「無理?」  栗花落の三口目は少し、今までより大きい。夏生はごくりと生唾を飲み込んで、栗花落の口元をじっと見つめた。 「あんたは知らないかもしれないけど……、その、男同士って、色々、負担が大きいんですよ」 「……なんの?」 「なにって……、その」  夏生が口ごもっている内に、栗花落は瞼を落とした。弾かれたように瞬きをして、栗花落は重い瞼をどうにか開ける。 「俺も、ちょっと調べただけだから、経験あるわけじゃないけど……。その、なんか、ジェルみたいなのがなかったら、めちゃくちゃ、痛いとか……」 「……うん」  とろりとした目が、夏生を見ていた。栗花落は頬を染めたまま、四口目を咀嚼し始めた。 「その、あんたは嫌かもしれないけど……、俺、あんたに突っ込みたいから……、だけど、あんたを傷つけたくないから……」  栗花落の喉仏がゆっくりと動く。口の端に付いたチョコレートを舌で拭いて、栗花落は五口目を口に入れる。 「だから、ね。とにかく、今は駄目なんです」  レーズンの入ったチョコレートが、嚥下されていく。ただそれだけのことに、夏生は酷く煽られていた。僅かに残った理性が、本能を邪魔するように口を動かす。 「あの、あんまり眠いようなら、送っていきますから」 「……ん」  手に持っていたチョコレートをテーブルに置いて、栗花落はこくりと頷いた。 「つーさん?」 「……ん?」  栗花落の目は、ほとんど閉じられている。夏生は今更になって、栗花落が食べているチョコレートのパッケージを見た。 「アルコール度? って、これ、ラム酒入ってるじゃないですか! ちょっと、つーさん!」  慌てて立ち上がり、夏生は栗花落の上気した頬を軽く叩く。しかし、栗花落は笑ったまま目を開けなかった。 「まさか、わざとじゃないよな?」 「んー……」  正座していた栗花落の体がぐらつき、ゆっくりと絨毯の上に倒れた。だが、栗花落はそのまま横になって、すやすやと寝息を立て始める。深々と溜息を吐いて、夏生は栗花落の脇に手を差し込む。重い体をどうにか持ち上げ、夏生は夢の世界に旅立った恋人をベッドに寝かせた。 「……そんなに泊まりたかったの? それとも、天然?」  指通りのいい髪を弄りながら、夏生は囁いた。返事はない。また溜息を吐いて、夏生は長身に布団を掛けた。それから夏生は物をどけてテーブルを畳み、押し入れから夏用の掛け布団と毛布を取り出す。テーブルがあった場所にそれらを敷いて、夏生は服を脱いだ。寝間着代わりのスウェットに着替え、電灯を消す。  少し迷ってから、夏生はベッドの傍に膝をついた。気持ちよさそうに眠る栗花落の頬に、そっと唇を寄せる。 「……これ以上は駄目だ。やめとこ」  必死になって自分に言い聞かせ、夏生は急いで布団に入った。目を閉じると今夜のできごとが蘇ってくる。様々な想いを確かめつつ、夏生もまたゆっくりと夢の世界へ向かったのだった。  栗花落が目を覚ました時、まだ外は薄暗かった。 「……結局、寝てしまった……」  昨夜の曖昧な記憶を辿りながら、栗花落はぽつりと呟く。チョコレートを食べ始めた辺りから、記憶がなかった。  起き上がって体を伸ばしてから、栗花落は周囲を見回した。すぐに、絨毯の上で毛布と薄い掛け布団に包まれて熟睡している夏生を見つけ、優しく微笑む。  音を立てないようにベッドを下りて、栗花落は夏生をゆっくり抱き上げた。自分が寝ていた場所に彼を横たえると、栗花落は夏生の使っていた布団を畳んで絨毯の上に座る。静かに日課のストレッチをこなしてから、窓の外を見遣った。見知らぬ風景が、目の前に広がっている。 「今日は、やめておくか」  夏生が自分の家に来た朝もこなしていたジョギングを諦め、栗花落は視線を部屋の中に戻す。  夏生が言う通りあまり物がない部屋であった。三段の本棚に入っているのは教科書と小説が少し、それに漫画が数冊、ゲームソフトが数本。開けっ放しにしてある押し入れには、同じく三段になっている小さな衣装ケースしかない。キッチンスペースは特に物が少なく、調理道具はヤカンだけだ。後は、テレビとゲーム、ノートパソコンが端に置かれているだけだった。 「……男子学生の一人暮らしは、こういうものなんだろうか」  思わずそう呟いて、夏生の顔を確かめる。心地良さそうに寝息を立てている夏生は、当然ながら返事をしない。  栗花落は長い足を折って膝をつき、横になっている夏生をじっくりと眺めた。目を閉じていると、栗花落にはいつも以上に幼く見えた。少年の面影を残す夏生の若さが、栗花落には少し羨ましかった。この頃の自分はどうだっただろうと思いながら、栗花落は柔らかな癖毛を梳く。  至近距離で夏生を見ていても、栗花落はあまり興奮しない。夏生のように、口付けたいとも思わなかった。やはり自分はゲイではないのだと、改めて栗花落は確認する。 「……この想いは、なんなんだろう」  そっと、栗花落は呟いた。夏生への想いの名を、栗花落は知らない。傷ついて欲しくない、傷つけたくない、傍にいたい。男同士なら、この想いは友情と呼ぶべきなのかと思いながらも、栗花落には違和感があった。かといって、開き直って愛だとも呼べない。とても曖昧で、中途半端な想いだなと、栗花落は自嘲した。  それから少し悩んで、栗花落は夏生の唇に優しく触れた。かさついているが、柔らかな感触が栗花落の指先に伝わる。昨夜の乱暴な口付けを思い出し、栗花落は一人赤面した。彼にとっては、あまりにも衝撃的なファーストキスであった。 「……夏生……」  恐る恐る、栗花落は夏生の名を呼んだ。夏生は相変わらず、すやすやと寝息を立てている。栗花落は呼吸を整え、ゆっくりと夏生の唇に自分のそれを近付けていった。あまりに近くなる距離に耐えられず、目を閉じる。  唇が、触れた。柔らかな感触を確かめるように、二度、三度と栗花落は不器用に唇を動かした。自分の心音が上がっているのが、興奮のためなのか緊張のためなのか、彼には分からない。  音もなく顔を離し、栗花落は自分の唇を拭った。背徳的な行為をしている気がして、罪悪感と奇妙な満足感が栗花落を包む。 「……すまない」  眠り続ける夏生にそう言って、栗花落は立ち上がった。静かに歩いて、転がったままになっている自分の鞄から携帯電話を取り出す。重永からのメールが二件、届いていた。 『どうだった? 落ち着いたら連絡ください。俺は、しばらく店にいます』  一件目はそれだけで、昨夜、栗花落が夏生の部屋に入ってすぐに届いていた。しかし、二件目は日付が変わった頃に届いたメールだった。 『ブロくんに、怒られちゃった。話したいことがあるから、暇だったら今日店に来てよ』 昨夜、〈西風〉の中にいた忍のことを思い出し、栗花落は首をひねる。忍が重永のことを怒る理由が、思い付かなかった。 とりあえず携帯電話をしまい、栗花落は寝ている間も付けっぱなしにしていた腕時計を見た。まだ、早朝と呼べる時間だったが、彼の目はすっかり覚めている。早朝に目を覚まし、ストレッチ、ジョギングをこなしてから、軽くシャワーを浴びて、朝食を摂って大学へ向かう。このリズムができあがっている栗花落は、なにもすることがないこの状況に耐えられなくなってきた。  なにか朝食を、と思ってキッチンスペースに立ち、静かに棚を開ける。カップ麺と米以外には、なにもなかった。傍にある冷蔵庫を開けたが、こちらはコーラと牛乳、そして昨夜栗花落が食べていたレーズン入りチョコレートと、夏生がデザートにと買った豆乳プリンしかない。 「……聞いてはいたが……。とてつもなく不安になってきたな……」  自分も人のことをとやかく言えるほど料理をしているわけではないが、栗花落は改めて夏生の食生活について考え始めた。しかし、歴史学と文学、最初の大学時代に学んでいた経済学や経営学の知識で占められている栗花落の頭では、夏生の食生活を改善する方法は思い浮かばない。今度、以前買った料理の本を読み直そうと思いつつ、栗花落は再び携帯電話を取った。インターネットでなにか使える情報はないかと思い、ボタンを押していく。  しかし、インターネットのページを開いていた画面は突然切り替わり、着信を表示した。鳴り響く着信音に驚き、栗花落は相手も確かめず急いで通話ボタンを押す。 『光。私だ』 「……兄さん。ちょっと、待ってください」  栗花落はできる限り音を立てず、しかしできる限り早く、部屋の外に出た。静かにドアを閉め、壁に背中を凭せかける。 『もういいか』 「ええ……」  心が沈んでいくのを感じながら、栗花落は目を閉じる。 『驟とは会ったか?』 「ええ。相変わらず、元気そうですね」 『……あれは、うるさ過ぎる』  やや辟易した声で、霖はぼそりと言った。久し振りに聞いた人間臭い兄の言葉が、栗花落の心を少しだけ軽くする。 「驟は、頑張っているみたいですね」 『今のところは、な。だが、あいつも長くは保たん。気が利かん上に、落ち着きがない』  いつもと同じような話の流れに、今度は栗花落が辟易し始めた。この後、霖が言う言葉も、彼には簡単に予想が付く。 『……帰って来い。お前以外の誰であっても、私の秘書は務まらん』 「言ったはずです。俺はもう、姫津には帰りません。仕事にも戻りません」  予想通りの言葉と、いつも通りの返事。栗花落は、霖にも聞こえるように溜息を吐いた。 「多少気が利かなくても、驟は機転が利くし、根は素直な頑張り屋です。俺よりずっと、兄さんの補佐に向いていますよ」 『お前がそう思っているだけだ。私には合わん』 「兄さんが頑固だからですよ。いい加減、諦めてください」 『お前こそ、いい加減に帰って来い。……あの人の、法事もある』  付け足すような兄の言い草に、栗花落は苛立ちを覚えた。 「……母さんには、悪いと思っています。でも、分かってくれるはずです」 『仕事を放り出して故郷を出ることを、か? くだらん』 「あなたにはくだらなくても……! 俺と、母さんには大切なことだった。俺は、母さんの代わりに、必ずこの大学を卒業します。その後のことも、考えてあります」  ふ、と霖は鼻で笑う。これも、栗花落兄弟にとってはいつもの流れ通りだった。 『学者にでもなるつもりか? そうやって、くだらんことに時間を費やして死ぬつもりか』 「少なくとも、家のためだけに生きて死ぬよりは、よほど充実した人生です」 『光……、お前はいつから、そうやって現実を見なくなった?』 「現実を見ていないのはあなたです。俺が帰ってくるなんて夢想は、もう捨ててください」  会話は、いつものように平行線だった。決して交わることのない二人の意思が、電波を通して真っ直ぐに走っていく。 『とにかく、仕事を片付けて、一度そちらに行くつもりだ』 「けっこうです」 『お前がなんと言おうと、必ず行くぞ。……電話では、埒が開かん』  それだけ言って、霖は電話を切った。深々と溜息を吐いて、栗花落も携帯電話を畳む。荒んだ気分を晴らそうと、栗花落は青い空を見上げた。  ぼんやりと空を眺めていた栗花落の耳に、突然ドアの蝶番の軋む音が届いたのは、それから十数分後のことだった。 「夏生?」  栗花落が声を掛けてそちらへ振り向くと、泣きそうな顔をした夏生がいた。 「どこ、行ったかと思った……」 「お前になにも言わずに、消えたりはしないよ。……すまないな、心配を掛けた」  栗花落が寝癖の付いた頭を掻き回すと、夏生はやっと笑みを浮かべた。 「つーさん、なんで外に出てたんですか?」 「兄から電話があってな。起こしたらと悪いと思って、外に出た」  話しながら、二人は部屋に戻る。 「やはり、こちらに来るつもりらしい。……どうしたものか」 「あの、こないだから気になってるんですけど……」 テーブルがない分、少し広くなった絨毯の上にあぐらを掻いて、夏生は正座をした栗花落を見上げた。 「つーさんのお兄さんって、なんでそんなにつーさんを連れ戻したいんですか?」  昨日の重永と驟の会話を思い出しながら、夏生はそう訊ねた。 「あの人は……、昔から、自分の思い通りにならないことなんてないと思って生きていたからな。あの人は、他のことと同様に俺も思い通りにしないと気が済まないんだよ」 「……そうなんですかね? 俺、話聞いてると、妙に親近感が沸くんですけど」 「親近感?」  鸚鵡返しに訊ねて、栗花落は夏生の言葉を待つ。少し悩んでから、夏生は口を開いた。 「会ったことないし話したことないから、はっきりと言えないんですけど……。もしかして、つーさんのこと独占したいんじゃないかって。……なんか、同じ匂いがします」 「それはないよ。見合いだったが、あの人にはもう妻も子もいる」 「つーさん、ゲイも色々ですよ。自分のこと隠すために、偽装結婚する人もいます。それに、もしかしたらバイかもしれないし」  そんなことはないだろう、と言って栗花落は苦笑する。しかし、夏生には笑えなかった。 「とにかく、俺は故郷には帰らない。あの人の言葉には耳を貸さない。この話はおしまいだ」 「……はい。すみません、勝手なこと言っちゃって」 「気にするな。あの人のあの態度では、誤解されても仕方ない」  栗花落はぽつりと呟いた。気遣わしげな夏生の視線に気付き、栗花落は苦笑する。 「大丈夫、いつものことだ。そんな顔をしなくていい」 「……うん」  縋り付くように、夏生は栗花落に抱きついた。 「あのね、つーさん。俺……、自分の気持ち受け入れてくれた人、初めてだから、……上手く言えないけど、すごく、不安なんです。なんかのきっかけでつーさんが離れていったら……」 「夏生?」  優しく、栗花落は自分の胸元に頬を寄せる夏生を呼んだ。 「ごめんなさい。でも恐いんです。つーさんを信じてないわけじゃないけど、さっき部屋にいなかったから、落ち着いて考えたら、やっぱり男同士は嫌になったんじゃないか、って……」 「……逃げたと思った?」  こくりと、夏生は頷いた。 「鞄あったから大丈夫だって分かってたけど、それでも不安でした。つーさんの顔見るまで」 「……すまないな。せめて、部屋の隅で電話をしていれば良かった」 「ううん。……ごめんなさい。なんか、信用してないみたいで」  首を振って、栗花落は優しく夏生の頭を撫でた。  心地良い手の感触をぼんやりと感じながら、夏生は目を閉じた。漠然とした不安感が、夏生の心を締め付ける。想いが通じ合ったばかりなのに、もう夏生は栗花落と離れた時のことを考えていた。それが遠い未来のことなのか、近い未来のことなのかは、今の彼には分からない。だが、とてつもなく現実味を帯びているような気がして、夏生はまた泣きたくなった。 「夏生、俺の故郷は……姫津はいいところなんだ」  突然、哀愁を帯びた口調で、栗花落はそう言った。夏生は後ろ向きな想像を一旦やめて、栗花落を見上げる。 「自然が多いから空気は綺麗だし、交通の便も悪くない。食べ物も美味しい。それに、街全体が穏やかで、とても静かなんだ」 「えーっと、田舎ってことですか?」 「一言で言ってしまえば、そういうことだ。田舎は嫌いか?」  夏生は首を横に振る。 「今年の夏が、もし無理だったとしても……、いつか、一緒に行きたい」 「……はい」  こくりと頷いた夏生の表情は、相変わらず暗い。夏生は、いつか、を想像すことに、酷く臆病になっていた。  その日、夏生は十分な余裕を持って二時間目の授業に赴き、夏生と共に部屋を出た栗花落は、一旦自宅に戻った。そして、シャワーを浴びて昼食を摂り、一息吐いてから三時間目の授業を受けるため、大学へ向かった。  鞄を片手に、穏やかな春の日差しを浴びながら、栗花落は殊更ゆっくりと大学への道程を歩いていく。南風がさらりとした髪を優しく弄り、栗花落の頬をくすぐった。  昨日、行き帰りのどちらも夏生と出会った交差点まで来て、栗花落はそっと微笑んだ。とても短い時間だったが、ああやって声を掛けてくれて、一緒に歩いてくれる友人がいてくれることが、栗花落にとってはとてつもなく嬉しかった。  最初に入学した地元の名門大学には、同郷の出身者が多く、彼と親しくしようとする人間はいなかったし、ひたすら経営学や経済学と秘書の検定合格のための勉強をしていたため、余所から来た人間と仲良くなる機会も彼にはほぼ無かった。この頃から夏生に会うまで、栗花落には傍にいてくれる友人は一人もいなかったのだ。 「……昨日までは、友人だったのにな」  明るく笑っていた夏生を思い出しながら、栗花落はぽつりと呟いた。  今朝、目を覚ましてから、夏生の表情はあまり晴れないままだった。栗花落が他愛もない話をすればいつものように笑ったが、それが終わればまた夏生は暗い顔に戻っていた。どうすればいいのか分からず、栗花落はただ話しかけることしかできなかった。 重永に相談してみようと思った時、栗花落は今朝方見た彼からのメールを思い出した。上風呂になにを怒られたのかは栗花落には分からなかったが、とにかく今日は重永に会いに行こうと心に決める。そんなことを考えながら、正門までやってきた時だった。 「栗花落先輩!」  前方にいた女性達の内の一人が、甲高い声で栗花落を呼ぶ。昨日ひたすら聞き続けたその声に、びくりと肩を震わせながらも、栗花落は無理矢理に笑顔を作った。 「こんにちは! 今日は三時間目からですか?」  千秋は正門を出て、栗花落の前に来た。香水の匂いが、栗花落のところまでほのかに香る。 「……ああ」  他に言葉が見つからず、栗花落はそれだけ言う。 「三時間目って、歴史地理学の授業ですか?」 「そうだ」  なぜ知っているんだろう、と薄ら寒さを感じながらも、栗花落は頷いた。 「じゃ、途中まで一緒に……」 「栗花落さん?」  千秋の言葉を遮り、見知った顔が二人の間に入った。 「上風呂くん……。今日は、夏生と一緒じゃないのか?」  安堵しながら、栗花落は上風呂に話を振った。 「あいつなら、いつもの面子と一緒に食堂で飯食ってるんじゃないですかね? 俺、今日はこの後ずっと休講なんで、今からバイト行きます」 「そうか。俺も後で顔を出すよ」 「お待ちしてます。あ、それと、夏生にも声掛けてくれますか? マスターが、話あるって」 「……え? あ、ああ」  不思議そうに頷いた栗花落を見届けて、上風呂は去っていく。出鼻を挫かれた上に、夏生の名前を出された千秋は、上風呂の背中を睨みつけた。 「そういうことだから……、悪いが、俺はもう行くよ」 「……はい」  残念そうな千秋の顔にちくりと胸が痛んだが、栗花落はそれ以上なにも言わず立ち去った。千秋のことよりも、重永が自分と夏生を店に呼ぼうとしていることの方が栗花落には気になっていた。教室に入ってから、栗花落は携帯電話を取り出す。 『授業が終わったら、〈西風〉まで来てくれ。ヒロが、話があるそうだ』  それだけ打って、栗花落はメールを送信した。携帯電話をしまい、栗花落は教室へ向かう。  昼休憩は、まだ半ばであった。  三時間目、四時間目の授業を終えて、栗花落はいつものように正門から大学を出ようとした。そこに癖毛頭を見つけて、自然に笑みを浮かべる。 「夏生」  栗花落が声を掛けると、夏生は母を見つけた幼子のように安堵した。 「つーさん、授業終わりました?」 「ああ。先に行ってくれて、良かったのに」 「どうせなら、一緒に行こうと思って。それより、マスターの話って……」  歩き出しながら、夏生はさっそく重永のことに触れた。 「詳しいことは聞いていない。ただ、……上風呂くんに怒られた、と言っていたが……」 「忍に怒られた? なんで?」  栗花落は首を横に振り、分からない、と呟いた。 「昨夜、二人で店にいた時のことだろうが、それについても詳しい説明はなかった」 「直接会って話さなきゃいけない、大事なこと、か。……俺達のこと、ですかね」 「だろうな」  二人はしばし、会話もなく考え込んだ。ゆっくりと歩く二人を、同じく帰路に着く学生達が追い越していく。 「……つーさん、もしマスターが、今でもあんたのこと好きって言ったら、どうします?」 「夏生? あいつは、上風呂くんが」 「だから、もしもです。もしも、まだつーさんのこと、好きだったら」  栗花落は眉を顰めていっそう考え込んだ。そうしている内に、遠くに〈西風〉が見えてくる。 「……答えは、変わらないと思う」  後少しで〈西風〉の前、というところで、やっと栗花落は口を開いた。 「ヒロは、たった一人の友人で、兄弟みたいに思っていた。それは今も変わっていないし、これからも変わらない。だから、もう一度あの日のように言われても、俺は同じ答えを返す」  夏生はなにも言わず、じっと栗花落の目を見上げた。揺るぎなく、それでいて優しい瞳が、夏生を見つめ返した。 「だから、不安がらなくていい。誰がなにを言おうと、お前の元から離れたりしないよ」 「……うん」  朝のように暗い顔になっていた夏生に、栗花落はにこりと笑って見せた。  〈西風〉のドアは、もう目の前だった。 「いらっしゃい……、お、来た来た」  二人の予想に反して、重永は嬉しそうに親友とその恋人を手招いた。ティータイムを少し過ぎた店内は、閑散としている。 「ブロくん、お水とおしぼりお願い。あ、いつものお茶でいい?」 「ああ。どうしたんだ? 随分と楽しそうだな」 「そりゃあね」  無邪気な笑みを浮かべ、重永は紅茶を淹れ始めた。栗花落と夏生は、顔を見合わせる。 「……忍、どうしたんだ? あの人」 「話聞けば分かる」  忍もそれ以上なにも言わず、水とおしぼりを置いた。さして時間を置かず、重永はある程度の準備を終え、改めて二人の方に向き直る。 「まずは、おめでとう」 「……ああ」 「ありがとうございます」 「そうそう、ちょっと待ってね。えーっと……、あったあった。これ、二人にプレゼント」  足元に隠れている業務用の冷蔵庫を漁って、重永は二つの小さな箱を取り出した。 「……チョコレート?」 「そ。つーの好きなレーズン入り。半田くんのも同じだよ。昨日、酔っぱらったまま作ったから、味の保証しないけど。後で、二人で食べなよ」 「今では駄目なのか?」 「うん。……話、聞いてくれたら、今日は二人とも帰すからさ」  重永の笑顔が少し翳る。忍が気遣わしげに重永を見ていることに気付き、夏生は眉を顰めた。 「昨夜つーが行ってから、俺ずっとここで飲んでたんだ。やたらと酔いたくなってね」 「……そうだったのか」 「うん。……そしたら、まだ店に灯が点いてたから、ブロくんが不思議がってね。中に入ってくれた。で、しばらく話を聞いてもらってたんだけど」 「ちょ、ちょっと待ってください!」  立ち上がらんばかりの勢いで、夏生は叫んだ。 「それ、どこまで話したんですか?」 「……全部。ごめんね、勝手なことして」  さっと、夏生の顔から血の気が引いた。恐る恐る、忍の顔を窺う。忍は初めて見る夏生のびくついた姿に、ぷっと吹き出した。 「別にお前が男を好きになろうが女を好きになろうが、俺には大したことじゃねぇよ」 「……けど」 「誰彼構わず吹聴する気もない。……惚気られても困るけどな」 「……うん」 「……言ってみなきゃ、分かんなかったろ」 「ああ。……分かんなかった」  この間の会話を思い出し、夏生はやっと笑った。 「えーっと、それでね。……ブロくんに話を聞いてもらいながら、自分がなんでこんなに凹んでるんだろうって思ってたら、ね」 「栗花落さん」  忍は真っ直ぐな目で栗花落を見据えた。 「俺、マスターは、まだあんたのことが好きなんじゃないかって、言ったんです。で、それなら凹んでないで、あんたも素直に気持ち伝えてこいって、怒りました」 「……そう、か」  そっと、栗花落は視線を逸らした。彼の目に、チョコレートの入った箱が映る。夏生は不安そうに、栗花落の横顔を見つめた。 「……ブロくんに言われて、確かにそうかもしれない、とは思ったんだ。俺も。なんで半田くんなら良くて、俺は駄目だったんだろう、って思ったのは事実だったし。けどね」  重永は、ゆっくり顔を上げた栗花落を覗き込んだ。 「そういうなんでより、嬉しい気持ちの方が勝ったんだよ。お前がやっと、好きになれる人を見つけられて、俺がいなくても独りぼっちじゃなくなったことが、嬉しかったんだ。凹んだのは事実だけどね。どう言ったらいいんだろう? 兄弟を取られた気分、ってこんなんかな?」 「……ヒロ、それは……」 「結局、俺もお前と一緒だったってこと。ずっと、お前のこと兄弟みたいに思ってたんだよ。……あの頃の俺は、それを無理矢理、恋愛感情だと思おうとしてただけだって、今更気付いた」  肩をすくめて、重永は笑った。 「俺、お前が大事だよ。幸せになって欲しい。独りにしたくない。もう、傷ついて欲しくない。けど、お前を幸せにするのは俺じゃない。だから……」 ぺこりと、重永は夏生に向かって頭を下げた。なにも言えず目を見開く夏生に、下を向いたまま重永は言った。 「半田くん。つーのこと、よろしく」 「……はい」  重永はゆっくりと顔を上げた。照れくさそうに鼻を掻いて、すぐに二人に背を向ける。 「お茶、今淹れるから。飲み終わったら、今日は帰って二人でゆっくりしなよ」 「ああ。……ありがとう。寛弥」  栗花落は嬉しさと寂しさが綯い交ぜになった顔で、笑った。その複雑な表情を見て、夏生は無性に泣きたくなる。重永の想いも栗花落の想いも、夏生には痛いほど分かってしまった。 「おい、しっかりしろよ! 半田夏生!」  びくりと、夏生は肩を震わせた。弾かれるように、突然叫んだ忍を見上げる。 「お前にはまだ、神田のことが残ってるんだ。こんなとこでうじうじしてんなよ」 「……うん。ありがとな」 素直に礼を言った夏生の頭を軽く小突いて、忍は笑みを浮かべた。  二人が帰った後、重永はそっと溜息を吐いた。 「……ね、ブロくん。ちゃんと言えたよ」  振り向きもせず、重永はぽつりと呟く。砂糖の袋を棚に戻しながら、忍は頷いた。 「整理、付きましたか?」 「ああ。すっきりしたよ。発破掛けてくれてありがとう」  ティーカップを流しに置いて、重永は笑う。その横顔を見て、忍は安堵の表情を浮かべる。 「ねぇ、整理、付いたからさ」  丁寧にスポンジを泡立てながら、重永はゆっくりと口を開いた。 「……今度こそ、君を好きになっていい?」 「……マスター」 「ごめん、やっぱ今のなし。ちょっと節操なさすぎるよな」  すぐさま自分の言葉を撤回して、重永は乾いた笑い声を上げた。その胸ぐらを引っ掴み、忍は強引に重永と向き合った。 「はっきりしろよ。……俺に、また怒鳴られたいんですか?」 「……いいや。けど、君は受け入れてくれないんだろう?」  忍は口ごもる。重永にとって、それは分かり切った答えだった。 「こんな風に見られるのが嫌なら、バイト辞めてもかまわないよ。俺も、もう君にこんなこと言わないから」 「マスターは、それでいいんですか……?」 「いいよ。……慣れてるから。罵倒されないだけマシ、かな」  忍はゆっくり手を離した。一つ咳をして、重永は改めて忍を見つめた。 「バイトは辞めません。……矛盾してるかもしれないけど、あなたのこと、ほっとけないから」 「……うん。ありがとう。やっぱりブロくんは、男前だね」 「は、はぁ?」  突然、いつものような惚けた口調に戻った重永を、忍はまじまじと眺める。しかし、本人はさして気にした風もなく、鼻歌を歌いながら皿洗いを始めた。 「男前なバイトくんが構ってくれるから、俺って幸せ者だねぇ。まぁ、振られちゃったけど」 「なに言ってんですかあんた……」  いつものように溜息を吐いて、忍は糊の効いたシャツに包まれた背中を見つめ、微笑んだ。  〈西風〉を出て開口一番、栗花落は、俺の家に来ないか、と言った。 「いいですよ。あ、じゃあ着替え取ってくるんで、ちょっと待っててください」 「俺も行こう」 「すぐ終わるから、ここで待ってて。わざわざつーさんまで階段上ることないですよ」  そう言い捨てて、夏生は駆け足で階段を上っていった。颯爽と去っていく後ろ姿を見送って、栗花落は苦笑する。そして階段にそっと腰掛け、ぼんやりと暮れなずむ街並を眺めた。 「栗花落先輩」  突然の声に、びくりと栗花落は肩を震わせる。少し離れたところに、千秋が立っていた。 「夏生を、待ってるんですか?」  泣きそうな顔で、千秋は訊ねた。なぜ彼女がそんな表情を浮かべるのか分からず、栗花落は訝しげに頷く。 「……栗花落先輩、隣、いいですか?」  寂しげに、千秋は少し離れたところから訊いた。 「夏生が戻ってくるまでで、いいんです」 「……ああ」  千秋は足早に栗花落の隣へ向かうと、すとんと腰を下ろす。 「栗花落先輩は……、夏生の好きな人、知ってますか?」  どきりと、栗花落の心臓が鳴る。どう答えたものか分からず、栗花落は黙り込んだ。 「上風呂くんに聞いたんです。夏生にも、栗花落先輩にも、好きな人がいるから……、だから、あんまりちょっかい出すなって言われちゃって」 「……ああ」 「でも、分からないんです。栗花落先輩はあんまり他の人と喋ってる様子がないし、夏生も私と別れて以来、前以上に男同士でつるんでるし」  別れた、という単語を聞いて、栗花落は目を見開いた。しかし、彼の様子に気付かず、千秋は小さな声で続ける。 「……それに、栗花落先輩と夏生も、どんどん仲良くなってるし。……むかつくくらい」 「それは、……すまない」 「なんで栗花落先輩が謝るんですか?」  射抜くような鋭い視線で、千秋は栗花落を見据えた。 「……邪魔を、した」 「……ほんとですよ。とっても邪魔」  明るい口調で、千秋は言った。しかし、その目には涙が浮かんでいる。 「あいつ、私といた時より、栗花落先輩と一緒にいた時の方がずっと楽しそうだった。こっちは振られたばっかりで、気が緩んだらすぐ泣いちゃうくらい凹んでたのに」 「……君は」 「だから腹いせに、あいつから栗花落先輩を取ってやろうと思って」  悪戯っぽく、千秋は笑った。涙がぽろりと零れ落ちる。 「神田さんは、夏生のことを……?」 「……あんな奴! 口悪いし、態度悪いし、冷たいし、癖毛だし! ……嫌な奴、なのに」  止めどなく溢れる涙を拭うこともせず、千秋は消え入るような声で言った。 「……私、まだ、あいつのこと、好きなんです」  顔を覆って、千秋は俯いた。コンクリートの階段に、涙の雫が吸い込まれていく。  なにも言えず、栗花落は俯いた彼女を見つめた。哀れみや同情抜きで、栗花落は彼女になにか言葉を掛けたかった。だが、なにを言っても、自分では彼女の傷を癒すことができないのを、栗花落は痛いほど分かっていた。 「夏生……、最初は、もう少し、優しかったのに……。どうして、すぐに、冷めちゃったのか……、私、分からなくて……。なに、しても、なに、言っても、ろくに、返事してくれなくて」  しゃくりを上げながら、千秋は掠れた声で続けた。 「あんな奴……、なのに……、どうして、私、好きなんだろ?」 「……夏生、は……」  え、と千秋は口を開いた栗花落を見上げた。 「……夏生は、努力しようと、思ったんじゃないだろうか。……君を、好きになろうとして」 「努力しなきゃ、私のこと好きになれなかった、って言うんですか?」 「夏生には、努力が必要だったんだと、思う」 「努力しなきゃいけないくらいなら、最初から私と付き合わなきゃ良かったじゃないですか!」  赤くなった目で、千秋は栗花落を強く強く睨んだ。 「あいつは……、あいつは」  口を開こうとした栗花落の背後に、影が差す。どさりと音を立てて鞄を置き、夏生は栗花落を後ろから抱き締めた。千秋と栗花落は、呆然と夏生を見つめる。 「俺は……、この人が好きなんだ。……男しか、好きになれないんだ」 悪い、と夏生は小さく付け加えた。千秋の顔が、見る見るうちに歪んでいく。 「なによ、それ……!」 「……まともに、なろうとした。だから、お前と付き合ってみた。けど駄目だった」  真っ直ぐ千秋を見て、夏生は言った。そっと腕を解いて栗花落を離すと、千秋の隣に座る。 「好きになれなかった。……どうしても」 「なによ! なによそれ! 私は実験台? 私じゃなくても良かったんじゃない!」  否定も肯定もせず、夏生は千秋を見つめた。酷く、優しい目だった。 「……ごめん」  ゆっくり、夏生は頭を下げた。千秋は言葉を失い、ひたすら涙を流す。空はますます暗くなり、互いの顔も見えにくくなっていく。 「ねぇ……、どうして私、あんたなんか、好きになったの?」  ぽつりと、千秋は呟いた。自問とも取れるその言葉を聞いて、夏生は顔を上げる。 「好きになるのに、理由なんかない。……好きになれないのも、理由なんか要らない。俺がお前を好きになれなかったのも、つーさんを好きになったのも、……理由なんて、ない」 「……馬鹿みたい」 「知ってる。けど、俺はそうだった。今までも、……多分、これからも」 「ほんとに、馬鹿みたい」  千秋は、隣に座る夏生を見て、笑った。そして、マニキュアを塗った指先を握り締め、夏生の頬を思い切り殴った。 「ってぇ~! てめ、なにすんだよ!」 「うるさい! あんたみたいな奴にはね、私の気持ちなんて、殴んないと分かんないわよ!」 「か、神田さん?」 「栗花落先輩は、ちょっと黙っててください」  ぴしゃりと言われて、栗花落は思わず、はいと答えた。 「勝手なこと言って私のこと振り回しといて、ホモでしたってオチ? 冗談じゃないわよ!」 「ホモって言うな! ケンカ売ってんのか!」 「わけ分かんない! あんたのことなんて、最初っから、なーんにも、分かんなかった!」  再び殴りかかろうとする千秋を懸命に押さえて、夏生は叫んだ。 「俺も、お前が分かんねぇよ! 最初から、なーんにも、全く!」 「じゃあなんで付き合ったのよ、馬鹿!」 「お前が勝手に盛り上がってたから、それに乗ってやっただけだっつの!」 「はぁ? ふざけんじゃないわよ! 乙女心をなんだと思ってんの!」  立ち上がった千秋は、七分丈のジーンズに包まれた足を上げ、つま先で夏生のみぞおちを蹴り飛ばす。夏生が怯んだ隙に、千秋は夏生の頬を平手で強かに打った。 「ってぇえ……」 「あー、すっきりした」  言葉通り、清々しい顔をして千秋は立ち上がった。両手を払い、鞄を持ち上げる。夏生と栗花落は、座ったまま彼女を見上げた。 「もうおしまい! あんたのこと追っ掛けるのも、栗花落先輩を取るのも、もうやめる。なんか、意地になってる私が馬鹿みたいじゃない」 「心配しなくても馬鹿だし」 「あんたに言われたくないわよ、馬鹿!」 「ま、まぁまぁ」  再び殴りかかろうとした千秋と、臨戦態勢になりかけた夏生の間に栗花落が入った。 「とにかく、もうあんたとは金輪際関わらないわ。労力の無駄! ……栗花落先輩、ごめんね。巻き込んじゃって」 「なんだよその扱いの違いはよ……」 「イケメンにはそれなりの敬意を払うべきじゃない」 「けっ、これだから顔しか見てねぇ馬鹿は」 「夏生」 栗花落の咎める声に、夏生は渋々口を噤んだ。千秋はぷっと吹き出してから、夏生と栗花落にそれぞれ視線を送った。 「それじゃ、私はこれで。……お幸せに」 「……待てよ」 「心配しなくても、もうあんたとは関わり合いたくないから、こんなこと誰にも言わないわよ」  踵を返そうとした千秋に、栗花落は軽く頭を下げる。千秋は、目を見開いた。 「神田さん、……ありがとう」 「……栗花落先輩、私は別に」 「……ありがとう。夏生を、好きになってくれて」 再び、千秋の顔がくしゃりと歪む。しかし、泣き出す前に千秋は踵を返した。振り返ることなく、千秋は夕暮れの向こうに去っていった。  数日後、久し振りに夏生が〈西風〉に出勤すると、にやにやと嫌な笑みを浮かべて重永が彼を出迎えた。夏生がエプロンを付けて表に出ると、さっそく重永が傍にやって来る。 「……なんですか、気持ち悪ぃ」 「え、酷いなぁ。いつも通りだよ。それより……」  彼我の距離を極端に縮めた重永は、夏生の耳元に口を寄せる。 「こないだはどうだった?」 「…………はぁ?」  大声を上げた夏生を、テーブルの客が胡乱げに見る。すぐに頭を下げて客が視線を戻すのを確かめてから、夏生は客に見えないように重永の首元を引っ掴んだ。 「どういう意味ですか、それ?」  できるだけ小さく、低く、ドスの利いた声で、夏生は十歳年上の店長を締め上げる。 「だって、こないだはつーの家に泊まったんでしょ? なんにもなかったってことは……」  さっと、夏生の頬に赤味が差す。期待に満ちた重永の目を、慌てて夏生は睨みつけた。 「別に、なんにもありませんでしたよ! つか、なんで泊まったこと知ってるんですか?」 「あ、あのチョコ二人で食べてねって言ったし、出てすぐ、つーの家の方に帰ってったし……」 「俺、着替え取りに行くために一旦部屋に戻りましたけど」 「あ、違った、ほら、君達が帰ってから、しばらくしてね、その、二人でつーの家の方に歩いていくのが見えたから」 「歯ブラシ買いに行ったんで、遠回りしました」 「え、あ、はは……」  夏生の白い目から逃れようと、重永は必死に視線を彷徨わせる。叱られた子どものような重永の反応に、夏生は大げさに溜息を吐いて見せた。 「あんた、あのチョコに酒入れてたでしょ」 「あ、分かった?」 「やっぱり! 分かりにくい味にしやがって! 食っても気付かなかったじゃないですか!」 再び大声を上げた夏生に、客の視線が集まる。慌てて手を離し、夏生はまた頭を下げた。 「で、どうだったの?」  襟元を正しつつ、重永はこともなげに訊ねた。 「……どうもこうも。ぐっすりでしたよ、つーさん。親友から貰った好物食べて、ね」 「えー、それだけ? もうちょっとなんかないの? 若い癖に」 「うっさいわオッサン。要らん世話すんな」  夏生からぞんざいに言われた重永は、懲りた風もなくちぇーと呟いた。 「もっとがっつけよー、若者ー。オジサマ達は若くないんだから、今の内に食べちゃわないとすぐに老けてっちゃうぞー」 「いかがわしい言い方すんな。俺はあんたと違って、慎重派なんです」 「勢いって大事だよ?」 「……なんか、マスターが言うとなんでもかんでも卑猥に聞こえる」  溜息を吐いて、夏生は溜まっていた皿洗いに取りかかる。ランチタイムには遅く、ティータイムには早いこの時間、皿洗い以外に大した仕事はない。自分でこなせる作業をさっさと済ませていた重永は、皿洗いをする夏生の背後にぴったりくっついた。 「で、ほんとのとこ、どうなの?」 「しつこい」 「照れちゃってまぁ、可愛いねぇ」 「あーんーたーなぁ!」 「もしかして、半田くんのがネコ?」 「はぁ? 猫がどうかしたんですか?」  駄目だこりゃ、と呟いて、重永は肩をすくめる。とにかくうるさい人がいなくなって安心した夏生は、皿洗いに没頭した。 夏生が皿洗いを終える頃には、ランチの客は完全にいなくなっていた。少し気の早いティータイムにやって来た客が、重永と会話を楽しんでいる。手持ち無沙汰になった夏生は、どうしたものかと考えながら腕を組んだ。  その時、重永のエプロンに入っていた携帯電話が、激しく震え出す。顔を顰めて客に詫びを入れると、重永は携帯電話を取り出した。しかし、自分では出ず、夏生にそれを渡す。 「つーからなんだ。ちょっと外出て、用件聞いてくれない?」 「はーい」  言われるままに店外へ出て、夏生は通話ボタンを押した。 『ヒロ、夏生に代わってくれ。あいつが出てくれないんだ』  開口一番、栗花落はそう言った。酷く、せっぱ詰まった声だった。 「夏生です。携帯鞄の中でした。で、どうしたんですか? 慌てて」 『……さっき、驟から電話があって』  栗花落の声が、沈む。 『兄がこちらに来る日取りが分かった。六月十日から、一泊。……俺の、誕生日だ』  絞り出すような声が、夏生の耳に届く。 「……つーさん、その日は、俺の部屋にいたらいいですよ。会えなかったら、お兄さんもさすがに諦めるでしょ?」 『……そう、だな』 「つーさん?」  栗花落はしばし沈黙した。それから、ゆっくりとこう言った。 『……やっぱり、話し合おうと思う。……兄さんと』 「……え?」 『逃げてばかりでは、いけないと思うんだ。……だから、話してみようと』 「でも、話聞いてくれないって、言ってたじゃないですか!」  強烈な不安が、夏生を襲った。膝が、震える。 『面と向かって話せば、分かってくれるかもしれない』 「そんなの、賭みたいなもんじゃないですか! 俺は反対です!」 『大丈夫だ。帰るつもりはない』 「けど、つーさんのお兄さんも、あんたを放って帰るつもりはないんでしょ! 話し合いなんて、やる意味ないですよ!」 『夏生……』 「絶対駄目! 会わないでください!」 『夏生!』  突然、栗花落は声を荒げた。弾かれたように、夏生は体を震わせる。 『お前の不安は分かる。だが、先延ばしにしていては、いつまで経っても俺達はあの人を恐れたままだ。いつか、向き合わなければならない。これは、いい機会だと思うんだ』 「俺、達?」 『……夏生、頼みがある』  栗花落は、噛み締めるように言った。 『俺と一緒に、兄と会ってくれ。あの人を、二人で説得しよう』    ドアベルがゆっくりと鳴った。携帯電話を握り締め、夏生は店内に戻る。重永は先程まで会話していた客の精算を済ませ、見送ってから、夏生に声を掛けた。 「半田くん?」  無言で携帯電話を突き返した夏生を見て、重永は首を傾げる。 「どうしたの?」 「……つーさんの、お兄さんが来るって」 「……そっか。いつ?」 「再来月……、つーさんの誕生日」  夏生は俯いて、床を睨んだ。不安は際限なく彼を包み、雁字搦めにしていく。 「マスター、どうしよう……。一緒に、会ってくれって、言われた」 「霖さんに? ……そりゃ、また酷なことを」  ティーカップを流しに置いてから、重永は夏生の肩に手を置いた。 「俺もあんまり話したことないけど……。霖さんは、多分、君達二人のことを許さない」  重永はいつになく真剣な目で、夏生を見つめる。 「霖さんは、つーの話を聞いてる限りじゃ、かなり頑固で現実的だ。生産性のないことなんて、一切興味がないタイプだよ。そんな相手と話し合おうとしても、聞く耳持ってくれないと思う」 「けど……、じゃ、どうしたらいいんですか」  夏生の揺れる瞳が、縋るように重永を見上げる。 「……一番なのは、会わないことだけど……。一緒に会ってくれ、って言われたんなら、つーはもう霖さんと会うつもりなんだろ? だったら、覚悟を決めて準備するしかない」 「準備、ったって……、なんにも思い付きませんよ。俺、頭悪いし」 「それに関しては、俺よりつーと話した方がいいだろうね。まだ時間があるから、じっくり話し合ってみたら?」  釈然としないまま、夏生は頷く。重永の言う通り、これ以上は栗花落と話さなければ埒が明かないことだった。 「……今日は、早めに上がる?」 「いえ、閉店までいます。仕事まだ全然覚えてないし。……今はなんにも考えずに、体動かしたい気分です」 「……そっか。じゃ、頑張ってもらおうかな」  にっこり笑って、重永は放置された大量のコップを指さした。  ランチタイムから溜め込んでいたコップを夏生が拭き終わると、重永は次におしぼりの洗濯を言い渡し、その合間に備品と食材のチェックの仕方を教えた。時間を掛けてチェックを終えた夏生に、次はテーブル席に置いてある砂糖の補充をさせた。そうこうしている内に洗濯が終わり、重永は脱水が終わった大量のおしぼりの畳み方を教えて、ひたすら夏生におしぼりをまとめさせた。単純作業に没頭していると、もやもやしていた夏生の頭は徐々に晴れていく。 「……どう? ちょっとは落ち着いた?」 「はい。……ありがとうございます。マスターも、たまにはいいことしてくれますね」 「失敬なー。オジサマはいつも、若者の味方だよー」  いつものように軽口を叩いて、重永は夏生の頭をぽんぽんと叩いた。 「ここが正念場だからね。俺ができることは限られてるけど……、愚痴くらいなら、聞くからさ。……あんまり、根を詰め過ぎないように」 「……はーい」  返事をしてから、ふっと夏生は真顔になる。 「マスター、俺、つーさんと一緒にいていいんですよね?」 「不安?」  素直に夏生は頷いた。 「自信持って、いいんだよ。つーは君が好きだ。君もつーが好きなんだろう? だったら、一緒にいればいい」 「はい……」  栗花落がするように、重永は思い切り夏生の癖毛を撫で回した。栗花落に撫でられる時のそれとは違った心地良さが、夏生の心を優しく支える。  大丈夫なのかな、と、ぼんやりと夏生は思った。  時は、否応なしに流れていく。霖のこと、栗花落家のこと、会社のこと、栗花落光にまつわる様々なことを聞き、話し合いながら、夏生は栗花落と共に霖が到着する日を待った。しかし、これといった方策は思い付かなかった。 「ねぇ、つーさん」  霖の到着を二日後に控えた日の夜、栗花落の家へ泊まりに来ていた夏生は、皿を洗っていた彼を後ろから抱き締めた。身長差の関係で、夏生は栗花落の肩に顔を埋める形になる。 「どうした?」  この一ヶ月で夏生からの接触にすっかり慣れた栗花落は、手を止めずに声を掛ける。 「……恐い」 「兄が、か?」  顔を埋めたまま、夏生は頷いた。栗花落の腰に回していた手に、力がこもる。 「どう考えても説得できる気がしないんです。霖……さんのこと。聞けば聞くほど、恐くなる」 「……そうだな。またいつもみたいに口喧嘩になって、それで終わりかもしれない。下手をすれば、ここを引き払われて、無理矢理にでも連れ帰られるかもしれない。あの人なら、十分にやりかねないからな」  洗い終わった皿を篭に片付けながら、栗花落はゆったりと言った。 「つーさんは、恐くないんですか?」 「恐いさ」  がたりと音を立てて、篭の中の皿がずれる。それを直しながら、栗花落はそっと口を開いた。 「でも、耐えられる。……独りでは、ないからな」  タオルで手を拭いてから、栗花落はやっと振り返った。迷子のような目で見上げてくる夏生を、優しく抱き締め返す。 「……もしお前が、兄になにも言えなくてもかまわない。隣にいてくれたら、それだけでいい」 「うん……。ごめん、頼りなくて」  ゆっくりと、栗花落は頭を振った。 「俺こそ……。傍にいてくれて、ありがとう」  栗花落は柔らかな癖毛を撫でながら、優しく囁いた。心地良さそうに、夏生は目を細める。温かい手の感触が、揺れている夏生の心を緩かに落ち着かせていった。しかし結局、夏生はなにをすればいいのか分からないままだった。 『おはようございます』  六月九日の早朝、栗花落は夏生より先に起きて、日課のジョギングに出ようとしていたところを、驟の電話に捕まった。電話口から響く驟の声は、疲労が色濃く表れていた。霖からの電話は、来訪の日を告げてから一月以上、全く掛かってこない。代わりに、驟がたびたび電話を掛けては、栗花落に近況を報告していた。 「……どうした? また眠れなかったのか?」 『そうなんですよぅ。霖兄さん、明日のためにものすごいスピードで仕事終わらせようとするから、僕まで寝てる暇なくって。今から寝ますー』 「そうか……。では、こちらには予定通り来られそうなのか?」 『ええ。残ってるのは、留守の間の伝達事項くらいなので。明日の朝一の新幹線でそちらに向かいます。到着は……何時頃かな? まぁ、昼頃には光兄さんの家まで行けますよ』  ふぅ、という栗花落の溜息を聞いて、驟は苦笑する。 『大丈夫ですよ。僕も光兄さんの味方だから。数の上ではこちらが有利です』  的外れなことを言いながら、驟はからからと笑った。だが、栗花落の気分は晴れない。 「ああ……。そのこと、なんだが」  珍しく歯切れの悪い従兄の言葉に、驟は訝しげな声を上げる。 「ずっと言いそびれていたんだが、夏生も同席してもらうつもりだ」 『へ? 友人代表ですか?』 「……ええと」  強い躊躇いが栗花落から言葉を奪う。告白の恐怖を、今更のように栗花落は実感していた。 『光兄さん、一族の問題に半田さんを巻き込むのは、ちょっと可哀相だと思いますけど……』 「その……、無関係では、ないんだ」 『え? 実は親戚だったとか?』 「いや、そういうわけではないが」  誤魔化すのも躊躇われるが、告げるのも躊躇われ、栗花落はなにも言えなくなった。黙り込んだ栗花落にしびれを切らし、驟は口を開く。 『確かに半田さんは、光兄さんと僕を取り次いでくれた恩人ですけど、それとこれとは話が別なんじゃないですか?』 「……違うんだ、驟。そういうことじゃない」 『じゃあ、なんで? ……僕、半田さんに迷惑掛けたくありませんよ』  これ以上、栗花落には誤魔化せない。ごくりと、栗花落は生唾を飲み込んだ。一旦、携帯電話を耳から遠ざけ、空を見上げて息を吸う。 「驟、……夏生は、俺の……恋人だ」 『………………は、ぁ? あの、兄さん?』 「……二度も言わせるな」 『あのー、冗談だったらちょっとタチが悪過ぎるんじゃないですかね?』  栗花落は溜息を吐いて、沈黙した。驟は嘘であることを期待していると、栗花落にも分かっている。だが、彼はなにも言えなかった。 『え、あ、実は半田さん、あんな外見だけど女の子とか! そういえば名前も女の子っぽいし』 「失礼な言い草をするな。あいつは正真正銘男だ」 『だって、男ですよ! そんな、兄さんがホモだったなんて……』 「……ゲイ、かどうかは、自分でもよく分からない。だが、俺にとってあいつは大切な人間だ。将来にも当然関わってくるだろう。……だから、同席を頼んだ」  腹を決めて話してしまえば、栗花落は落ち着くことができた。しかし、予想外の告白をされた驟は、あわあわと言葉にならない声を漏らしている。 「とにかく、そういうことだ。言うのが遅れてすまなかった。兄さんにも、伝えておいてくれると助かる」 『え、無理ですよぉ! どんな顔して伝えればいいんですか! 自分で伝えてくださいよぉ!』 「……俺も、どんな顔をして告げたらいいのか、分からないんだ」  絞り出すような従兄の声に、今度は驟が黙り込む。 「……だが、お前の言う通りだよ。やはり、自分で伝える。人任せではいけないな」 『光兄さん……、僕、なんて言ったらいいか……』 「軽蔑したか?」  いいえ、と驟はすぐに返した。しかし、次の言葉が続かない。 「驟、……すまないな。お前には迷惑を掛けてばかりだ」 『全くですよ……。もう、どうしてこんな、急に……』 「味方をする気が、なくなったか?」  悲しげに笑って、栗花落は訊ねた。だが、驟は再び、しっかりとした声でいいえ、と答えた。 『いいえ、味方しますとも! 僕の仕事と命が掛かってますからね。兄さんがゲイだろうとホモだろうと関係ありません!』 「ははは……。頼もしいな」 『とにかく、絶対に折れちゃ駄目ですよ! 頑張って、霖兄さんを説得しましょうね』  ああ、と応えて、栗花落は頷いた。驟は軽い挨拶の後、電話を切る。  どんよりとした曇天を見上げてから、栗花落はスウェットのポケットに携帯電話を入れた。軽く準備運動をしてから、ゆっくり走り出す。  だが、どんなに走っても、もやもやとした気分は晴れる気配がなかった。  夏生が目を覚ました時、隣の布団はもう畳まれていた。 「毎日、よくやれるなぁ」  ぼやくように言って、夏生は布団の中で体を伸ばす。寝起きの気だるい体に、ゆっくりと血が巡っていった。 「俺も、走ろうかな」  高校卒業以来、運動らしい運動をろくにしてこなかった夏生の腕は、すっかり筋力が落ちていた。細くなった二の腕を見て、夏生は溜息を吐く。普段はシャツに隠れているが、夏生と違って栗花落の体は適度に筋肉が付いていた。すらりとした肢体には、無駄な肉は付いていない。 「……いい体、してんだよな」  夏生は彼の鎖骨や二の腕、綺麗に伸びた背中を思い出し、ぽつりと呟いた。それだけでは終わらず、スラックスに隠れた臀部や、時折シャツから覗く胸、そして引き締まった腰までが夏生の思考を支配する。  どくり、と大きく胸が鳴った。  想いが通じ合って、一ヶ月と少し。霖のこともあって、夏生は未だに自分の性欲のことを栗花落に言い出せないでいた。栗花落は栗花落で、初めて夏生の部屋に泊まった時のことをほとんど覚えておらず、また彼が男に性欲を感じないこともあって、全くその話には触れなかった。 「……まだ、帰ってこないよな?」  携帯電話で時間を確かめ、夏生は恐る恐る部屋を出る。逸る気持ちと裏腹に、ゆっくりと夏生は脱衣所へ向かった。脱衣篭には、栗花落の寝間着代わりのシャツが脱ぎ捨てられていた。  夏生は、そっとシャツに手を伸ばした。 「ただいま……ん?」  ジョギングを早めに切り上げて帰宅した栗花落は、寝室のドアが開けっ放しになっていることに気付いた。寝室を覗いたが、布団に夏生の姿はない。 「夏生? 起きたのか?」  トイレの電気も点いておらず、ますます栗花落は訝しんだ。いつもならば、栗花落が声を掛ければ夏生は家のどこにいても返事をする。悪い予感が、栗花落を襲った。 「夏生!」  台所にも、リビングにも人がいる気配はない。焦る気持ちを抑えて、栗花落は諦め半分に脱衣所のドアを開けた。 「……あ……!」 「……え?」  栗花落は、彼のシャツを握り締めて座っている夏生と、目が合う。ばつが悪そうに、夏生は目を逸らした。 「夏、生?」 「……早かった、ですね」  シャツで隠しながら、夏生はスウェットを引き上げた。 「……え、と、……ごめんなさい」  呆然としている栗花落と目を合わせようとせず、夏生はシャツを脱衣篭に戻した。 「あの、汚れてないんで……。……あー、その、気持ち悪い、ですよね?」 「夏生、その……なにを」 「……ごめんなさい。こんなこと、して」  さっと立ち上がり、夏生は外へ出ようとした。だが、栗花落は狭い脱衣所のドアの前で立ち竦んだまま、動かなかった。 「あ、朝ご飯、食べましょうよ? その前にシャワー浴びます? 俺、作っときますよ……」 「夏生」 「つーさん、どいてくれないと外に……」 「夏生、その……、ずっと、我慢、してたのか?」  栗花落は夏生の肩を抱いた。びくりと、夏生の体が震える。真っ直ぐな栗花落の目を避けて、夏生は下を向いたまま言った。 「……別に、そういうわけじゃないですよ。つーさんだって、経験あるでしょ? 朝は大体、こんなもんです。その、ちょっと、馬鹿なこと考えちゃっただけで。あの、さっきも言ったけど、ほんと汚してないんで……」 「夏生、こっちを向いて言ってくれ」 「嫌です。ほんと、勘弁してください……」  夏生は身を捩った。しかし、栗花落はいっそう強く夏生の肩を抱く。 「どうして、言わなかったんだ? お前、まさか今までずっと……」 「別に、大丈夫なんで……」 「なにが大丈夫なんだ。辛そうな顔を、している」 「……お願い、どいてください」  固い声で、夏生はきっぱりと言った。栗花落の手が、僅かに緩む。 「今、こんなことでどうこう言ってる時じゃないでしょ? ……だから、いいんです」 「だが……、それではお前が苦しいだけだ。それに、もし俺が連れ帰られたら……」 「……え?」  夏生は頭を上げた。見る見るうちに、その顔がくしゃりと歪む。 「もし、なんですか? つーさん、もしかして……」 「……違う、もしもの話だ。俺は別に」 「じゃあ、なんでそんな話するんですか! つーさん、帰りたくないんでしょ? 傍にいてくれるんでしょ!」  栗花落は言葉を詰まらせた。 「ねぇ、なんか言ってよ……!」  なにも言えない栗花落を前にして、夏生の表情が、なくなっていく。 「でも、そうですよね。もし、あんたが連れ帰られたら……。下手したら、二度とあんたに会えないかもしれない」  夏生の声色が、ゆっくりと低くなっていく。栗花落の脳裏に、暗いドアの向こうから聞こえた、夏生の低く掠れた声が蘇った。 「……今だけ、かもしれない」  独り言のように、夏生はぽつりと呟いた。栗花落の手は、もう力を失っている。  夏生は、栗花落の顔を強引に引き寄せた。噛み付くような口付けが、二人の思考をあの日の夜へと連れ戻す。 「な、つ……き」  どうにか、栗花落は夏生の名を呼んだ。だが、夏生は返事の代わりに荒い口付けを寄越す。未だに慣れない強烈な快感に、栗花落の膝が震えた。気に留めることなく、夏生は更に口付けを深くする。ぴちゃぴちゃと、卑猥な水音が脱衣所に響いた。  抵抗する暇もなく、栗花落の膝は崩れ落ちた。  目を覚ましてから、体が鉛のようだ、と栗花落はぼんやり思った。夏用の薄い布団が掛かっているのに、栗花落の体は熱を持ったままだった。そして、体中が痛い。特に、腰と臀部の痛みはたまらなかった。あれからかなり時間が経っているのに、未だに痛みは収まらない。終わった直後に吐いたにも関わらず、腹が減らないのが栗花落には不思議だった。  夏生は、寝室にはいなかった。行為が終わった途端に我に返った夏生は、彼の体を洗うと、服を着せて布団に寝かせてから部屋を出た。その間、ずっと泣きそうな顔のままで、夏生は栗花落と目を合わせようとしなかった。  時折、衣擦れの音が廊下から栗花落の耳に届いた。その音だけが、栗花落に夏生の居場所を知らせる。今は、寝室のドアの前にいた。 「……また、傷つけて、しまったな」  掠れる声で、なんとか栗花落は言葉を発した。赤黒い痣の付いた腕を持ち上げて、涙が零れそうになった目に押し付ける。しっかりしなければ、と栗花落は自分に言い聞かせた。夏生の心が折れそうになっている時に、なにもしてやれない自分が不甲斐なかった。  夏生の中に潜む、暗い欲望を引きずり出したのは、間違いなく栗花落の言葉だった。強い後悔が、栗花落の胸をきつく締め付ける。嗚咽を必死に堪え、栗花落はぐっと喉に力を入れた。今、夏生に自分の泣き声を聞かせたら、もう夏生は帰ってこない気がしたのだ。  体中が、痛む。心も、痛む。栗花落は、掛け布団を噛み締めて、必死になって声を堪えた。  しばらくそうしていると、微かな電子音が寝室の方まで響いた。栗花落の携帯電話の、着信音であった。廊下にいる夏生の密やかな足音が、脱衣所へ向かう。彼の携帯電話は、朝着ていたスウェットに入ったままだった。  そっと、ドアが開く。栗花落は泣き顔を隠すため、慌てて夏生に背を向けて布団を被った。 「……あの、つーさん……、電話、ここに置いときますね」  張り詰めた声で、夏生は恐る恐る言った。携帯電話を入り口の傍に置き、栗花落の背中を見つめる。返事をすることができず、栗花落は少しだけ頷いた。着信音は、もうやんでいた。  夏生は、目を伏せたまま部屋を出た。間を置かず足音はやみ、彼が廊下に座ったのが栗花落にも分かった。  重い体をどうにか起こし、栗花落は自分の携帯電話を掴んだ。痛む体を押して布団に戻り、横になったまま携帯電話を開く。着信は、驟からだった。栗花落はぼんやりとした頭のまま、リダイヤルを押す。二、三コールの後に、驟は電話に出た。 『やっと繋がった! 光兄さん、大変です!』 「……どうした?」  栗花落の声はかなり掠れていたが、驟はそれに構わず続けた。 『霖兄さんがいないんです! 僕が仮眠取ってる間にいなくなってて! もしかしたら、一人でそっちに行ったのかもしれません! ほんとに無理矢理連れ帰る気なのかも!』 「え……?」 『とにかく、僕もそっちに向かいます!』  それだけ言って、驟は電話を切る。呆然と、栗花落は携帯電話の画面を見つめた。 「兄さんが……来る?」  起きなければ、と心は叫ぶ。だが、栗花落の体は言うことを聞かない。せめてこのことを夏生に知らせようと、這うように寝室のドアへ向かった。激痛が栗花落の腰と尻に襲いかかる。 「夏生……、夏生、いるか?」  ドアを少しだけ開けて、栗花落は掠れた声のまま夏生を呼んだ。 「つーさん……、いますよ」  すぐ傍で、夏生の声が聞こえる。それだけで、栗花落の心は少し落ち着いた。体を凭せかけるようにして、ドアを開ける。 「兄さんが……、一人でこちらまで向かっているようなんだ」 「え……、今日、ですか?」 「ああ……。驟は、今気付いたらしい。さすがに、この状態で会うのは……」  立ち上がろうとして、栗花落はバランスを崩す。廊下にいた夏生は、慌てて肩を貸した。すぐ傍にある夏生の顔を見て、栗花落はまた泣きそうになった。 「……すまない。夏生……」  真っ赤に腫れた目と、噛み過ぎて赤くなった鼻をした夏生は、ゆっくり頭を振った。じわりと、その目に涙が浮かぶ。 「それ、俺の……台詞。ごめんなさい、無理、矢理……。怒った、よね?」 「……怒って、ない。俺は……また、お前を……」  切れ長な目から、零すまいと堪えていたはずの涙が零れ落ちた。夏生はその雫を見るのも耐えられず、目を背ける。 「……どうしてだよ……! なんで、俺を責めないんだよ……」 「お前は、なにも……っ」  散々叫んだ後の喉の掠れが、栗花落から言葉を奪う。夏生は静かに膝をついて、咳き込んだ栗花落を廊下の壁に凭せかけた。 「……つーさん、俺……、やっぱり帰ります」 「ま、待て……、夏生」  夏生はリビングに走った。自分の鞄を引ったくるように掴んで、足早に玄関へ向かう。 「一緒に、いない方がいい……。俺、霖さんの前で、あんたの恋人面、できないよ……」 「どうして、そうなる……? 夏生、お願いだから……」 「あんたを、こんなに傷つけたのに! どう言い訳したら、男の俺が恋人だなんて言って、納得してもらえるんだよ! もう、俺には……分かんないよ」  夏生はそれだけ言うと、靴を引っかけて逃げるように玄関のドアを開けた。音を立ててドアが閉まる。 「夏生……」  涙で視界が揺れる中、栗花落は足を奮い立たせ、よろめきながら立ち上がった。  エレベーターホールに降り立った夏生は、駆け抜けるように自動ドアを通った。外の空気を吸って、荒くなった息を落ち着かせる。曇り空を見上げて、夏生は溜息を吐いた。行為を終えた後から付きまとう強烈な罪悪感が、夏生の心を追い立てる。酷い自己嫌悪を感じながら、夏生は歩き出そうとした。  その横を、すらりとした長身が通り過ぎた。一瞬だけ見えたその顔は、夏生が狂おしいほど愛する男の面影を宿していた。まさかと思いながらも、夏生は思い当たる人物の名を、恐る恐る口にした。 「もしかして……、霖、さん?」  胡乱げに男が振り返ると、栗花落よりやや短めの髪がふわりと揺れた。栗花落以上に切れ長な目をした、やはり人形のように整った顔立ちをした男は、夏生をじろりと一瞥する。 「なぜ、私の名前を知っている」  氷のような声と視線が、夏生に突き刺さった。栗花落本人から睨まれているような感覚に陥り、夏生は立ち竦む。 「……質問に答えろ」  霖はゆっくりと夏生に近付く。栗花落とよく似た、しかし冷酷さを秘めた顔が、夏生を覗き込んでいた。夏生は冷たい手に心臓を掴まれたかのように、一歩も動けなかった。 「耳が聞こえないわけではないだろう。なぜ、私の名前を知っている」 「俺、は……」  ようやく夏生は口を開く。だが、彼が口にした言葉は、自動ドアが開く音に掻き消された。 「……兄さん……?」  霖は、素早く振り返る。弱々しく歩み寄る弟を見つけた霖に、初めて人間らしい感情が浮かんだ。 「光、どうした? 体調が悪いのか」  躊躇いなく弟に駆け寄り、霖は彼に手を貸した。寄り添う兄弟を、夏生は見ていられない。 「待て、夏生!」  脱兎の如く駆け出した夏生の背中に、栗花落の声が突き刺さる。だが、夏生は振り返らなかった。全速力で、家への道程を走り始める。  しかし、百メートルも行かない内に、夏生の肩は後ろから強く掴まれた。あまりの強さに、夏生は思わず苦痛の声を上げる。 「……待て」  夏生を止めたのは、霖だった。視線だけで射殺せそうなほどの強い目で、夏生を睨みつける。 「光が呼んでいる。なぜ逃げた」 「……ほっといてくれ。あんたには、関係ない」  目を逸らしたまま、ぶっきらぼうに言った夏生の肩を、霖は強く握った。 「弟に、なにをした? あれは、お前を呼んで泣いていた。答えろ!」  霖は、低い声で恫喝した。目を伏せて口を噤んだ夏生の腕を掴み、無理矢理に栗花落のマンションへ引っ張っていく。  数十メートルほど歩いたところで、足元の覚束ない栗花落が、二人の姿を見つけた。 「光、無理をするな」  僅かに柔らかな声で、霖は弟に声を掛ける。だが、栗花落は首を横に振った。 「……ありがとうございます、兄さん。……夏生、一緒に、帰ろう?」  優しく、穏やかな声が、夏生の耳をくすぐる。だが、夏生の胸は余計に苦しくなった。唇を引き結んで下を向く夏生の腕を、霖はまた強く握り締めた。 「ここでは埒が開かん。……光の部屋に行くぞ」  霖は夏生の腕を離さないまま、栗花落に肩を貸して歩き出した。奇妙な三人組は、ゆっくりとマンションへ戻っていく。自動ドアを通り、エレベーターに乗ってからも、三人はなにも喋らなかった。 「どういうことだ」  栗花落を布団に寝かせてから、霖は枕元で弟に訊ねた。夏生は少し離れた場所で、二人を見ている。 「あいつは、お前になにをした」 「……夏生は、なにも……悪くないんです。俺が、余計なことを言ったから……」 「詳しい状況を説明しろ。あれを擁護するのは、その後でいい」  冷たい目で夏生を一瞥し、霖は言い放った。栗花落は夏生と霖を交互に見てから、口を開く。 「兄さん、彼は……半田夏生は、俺の恋人です」 「……恋人? あれは、男ではないのか」 「男です。……正真正銘。でも、俺の恋人です」  夏生は耳を塞ぎたくなった。だが、夏生の様子に気付かず、栗花落は続ける。 「俺を慕ってくれていて、俺も彼を慕っています。どう思われようと、彼は俺の恋人です」 「くだらん。お前は情にほだされているだけだ。冷静になれ、光」 「俺は冷静です。あなたには、……母さんのことや歴史のことのように、理解ができないことかもしれませんが……」  眉を顰めて、霖は改めて夏生を見つめた。その視線に耐えられず、夏生は俯く。 「光になにを言ったかは知らないが……。これはあまり人付き合いが上手くない。くだらんことを吹き込むな」 「彼は悪くありません。夏生は……」 「……もういいよ、つーさん」  力ない声で、夏生はぽつりとそう言った。栗花落兄弟の視線が、夏生を痛いほど刺す。 「霖、さん。俺、……光、さんを、抱きました」 「……抱い、た?」 「無理矢理アナルセックスしたんですよ。だから、光さんの体にきつい負担が掛かったんです」  汚い物を見る目をしている霖を見て、心の底から夏生は安心した。 「霖さんは、光さんを連れ戻しに来たんですよね? ……家に、連れて帰ってあげてください。俺の傍にいたら、この人、何度もこんな風に寝込むことになる」 「夏生、なにを……」 「俺、もう満足なんで」  光のない目が、栗花落を見ていた。夏生は無表情のまま、立ち上がる。踵を返した夏生の背中に、霖は冷たい声を浴びせた。 「お前はそうやって、また逃げるのか?」 「……え?」 「お前はまた、光の呼ぶ声を無視して逃げ出すのかと聞いている」  夏生は振り返りもせず、頷いた。 「お前が光とどんな関係にあろうと、俺はどうでもいい。光の前からいなくなるのなら、それで構わん。だが、光はお前を呼んでいる。お前は、それをまた無視するつもりか」 「……俺、もういいんです。話すことだって……なにも」 「お前になくとも、光にはある」  栗花落は兄の顔を見上げた。常のように無機質な横顔が、夏生に氷の視線を投げつけている。 「これは精神面が弱い。このまま光を連れ帰っても、使い物にならん。これを連れ帰って欲しいなら、これの話を聞け」  霖は立ち上がり、夏生の腕を掴んだ。無理矢理、横たわった栗花落の枕元に連れて行き、座らせる。黙ったままの二人を見て、霖は部屋を出た。 「……夏生?」  細い声で、栗花落は優しく夏生を呼んだ。痣のある、上手く力の入らない腕がどうにか上がり、その指先が夏生の手に触れた。 「本当に……もう、満足なのか? 俺に、姫津に帰って欲しいのか?」  夏生は栗花落の白い指をそっと離して、ゆっくり頷いた。その目にはもう、感情らしい感情はない。  その冷たい目を見て、栗花落は一滴、二滴と涙を溢した。流れ出した涙は、彼の名のように輝いて、白い頬を伝っていく。 「俺は、帰りたくない。お前の傍にいたい。傷つけられたっていい、独りにしないでくれ……」  細く、掠れた声が、夏生の罪悪感をいっそう掻き立てる。夏生は、栗花落の顔をまともに見ることができなかった。 「……あんたは、それで良くても……! 俺は良くない。一緒にいたって、苦しいだけだ。あんたも俺も。……今日ので、よく分かったでしょ? 歴史の研究だって、つーさんならもう独学でできます。ここにいる必要なんて、ないですよ」  夏生の冷たい声は、栗花落の指先を震わせた。栗花落は僅かな距離にある夏生の手を、追い掛けることすらできない。 「あんた、俺を傷つけたくないって、言ってたよね? ……優し過ぎるよ。俺は、そんな風に優しくされるようなこと、あんたになんにもやってない。それどころか、あんたをこんなに傷つけてる。……もう、嫌になっていいんですよ?」  頭を振って、栗花落は縋るような目で夏生を見上げた。だが、夏生は固く目を閉じて、その視線から逃れた。 「嫌いになんて、なれない。……お前が、言っていたのと、同じだ。……好きになるのに、理由なんかない。……嫌いになれないことにも、理由なんて、ない」  白い頬に、幾筋もの涙の跡が光る。梅雨の雨のような涙が、栗花落の顔を濡らしていた。 「夏生……、素直に、なってくれ……。お願いだ。……俺は、お前の傍にいたい。お前はもう、俺の隣にいるのは嫌か?」  掠れた声で、いつかの夜のように栗花落は訊ねた。震える指先が、夏生の傍で彼の手を待っていた。人形のような栗花落の顔は、あの夜と同じく涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。瞼は赤く腫れ、眉は悲しげに歪んでいる。  か細く、夏生、と栗花落は呟いた。夏生には、返事ができない。 「……泣かないでくれ」  震える栗花落の声が、辛うじて堪えていた夏生の涙腺を崩壊させた。閉じた目から次々と零れ落ちる涙が、夏生のジーンズを濡らす。しゃくりを堪え、唇を震わせて、夏生は泣いていた。 「ほんっと、ずるいよ、つーさん……。嫌な……わけ、嫌いになれるわけ、ない……」  あの日の夜のように、夏生は声を振り絞った。胸が潰れそうなほどの罪悪感が、ようやく開けた夏生の目からぽろぽろと流れていった。 「あんたを、これ以上……、傷つけたくないんだよ! また今日みたいなことが起きて、我慢できなくなって、あんたをめちゃくちゃにするのが、恐いんだよ! だからもう、俺の傍にいないでくれよ……! これ以上、あんたを傷つけさせないで……!」  夏生の悲痛な叫びが、栗花落にぶつかる。零れ落ちる涙を拭いもせず、夏生は濡れる目で愛しい人を見つめていた。 「お願い……、もう、傷つこうとしないでよ……。全部、自分のせいにしないで……。俺のこと、怒っていい。嫌っていい。あんたこそ、素直になってよ……!」  最後はもう、ほとんど言葉にならなかった。嗚咽混じりの吐息が、夏生の喉から漏れる。震える夏生の手を握ってやりたいと、栗花落は心の底から思った。 「夏生、俺は……、いつだって」  必死に伸ばした栗花落の指先が、再び夏生の手に触れた。その手を握ろうとして、更に腕を伸ばした栗花落の腰に激痛が走る。思わず、栗花落は声を上げた。 「つーさん!」  苦痛で震える栗花落の手を、夏生は自然と握り締めていた。二人の手に、夏生の涙がぽたぽたと落ちていく。 「あんた、俺なんかのために、どれだけ無理すれば気が済むんだよ……!」  夏生は自分で付けた栗花落の腕の痣に額を擦り付けながら、懸命に嗚咽を堪えていた。栗花落はどうにか笑みを浮かべ、幼さの残る泣き顔を見つめる。 「……無理、じゃない。お前に、触れたいと思った。だから、触れた。……それだけ」  掠れてはいたが、力強い声で栗花落は言った。夏生は必死になって、頭を振る。 「なんだよ、それ……。答えになってないよ。そんなの……!」  夏生の手を握り返して、栗花落は強い光を秘めた目で愛する男を見上げる。夏生はもう、その視線から逃れようとはしなかった。 「俺は、お前の前では、いつだって、無理なんかしてない。……いつだって、やりたいようにやっている。……俺は、夏生を怒りたいとも、嫌いたいとも思ってない。それが、俺の……素直な気持ちだよ」  栗花落の笑顔が、夏生の心をゆっくりと解いていく。栗花落の目には既に、涙はなかった。  なにも言えず泣きじゃくる夏生の手に、栗花落はもう片方の手も重ねた。体勢を変えたため、再び激痛が走る。しかし、栗花落は懸命に痛みを堪えた。 「お前がいれば、耐えられる。昨夜、そう言ったよな? ……兄のこと、だけじゃない。体の痛みも、心の痛みも、お前が傍にいてくれたら、耐えられる」 「つーさん……、俺……、……どう……」  夏生は言葉が見つからず、うわごとのように単語を並べる。だが、しゃくりがひどく、声にならなかった。震える夏生の手を、栗花落は両手で大切そうに包んだ。 「夏生。今なら、心の底から言える」 「……つー、さん?」  揺るぎない瞳が、愛しい男をじっと見上げていた。一つの、決意を込めて。 「好きだよ。夏生。……傍にいてくれ」  寝室から夏生が出てきたのは、それからしばらく経った後だった。廊下で腕を組んでいた霖が、夏生を睨め付ける。 「……光は?」 「寝てますよ。疲れたみたいです」 「そうか。……で、話は済んだのか」  こくりと、夏生は躊躇いなく頷いた。真っ直ぐに、霖を見上げる。 「光、さんは、……帰らないって。俺も、あの人の傍にいたい」 「……やはりか」  呟いて、霖はリビングの方へ向かった。夏生もすらりとした後ろ姿を追い掛けて、歩き出す。 「……あれは、あんなに感情を露わにする男ではなかった」  リビングに着くなり、霖は独り言のように言った。 「もっと大人しくて従順な、思慮深い弟だった。父が、死ぬまでは」  霖は立ったまま、夕暮れ時の窓の外を見ていた。座るのが憚られて、夏生も立ったまま窓に映る霖を見つめる。 「父は、遺言状を私とは別にあれにも残していた。……それを読んでから、あれは変わった」  淡々と、事実を確認しているだけのような口調と表情だったが、霖の声は夏生にはどこか物寂しげに聞こえた。 「……あれ宛の父の遺言状には、母の預金を全て光の物にするとだけ書かれていた。父より十年も先に死んだあの人の預金など、あるはずがないと思っていた。だが……、あった。父の名義に代わっていたが、な。通帳には一行しか記帳されていなかった。……金額は、ちょうど四年制の大学の学費が払いきれる程度だった」 「……もしかして、それで大学に?」  霖は頷いた。蝋細工のように白い顔には、表情らしい表情がない。 「私には分からん。確かにあれはあの人が死ぬまで世話をしていたが、だからと言って母の代わりに大学に通って、それがなんになる。しかも、歴史の研究など……。所詮、道楽に過ぎん」  夏生には反論ができなかった。彼自身、栗花落ほどの情熱を持って歴史学と向き合っているわけではない。道楽と言われてしまえば、それまでであった。 「あれも、相当悩んでいるようではあった。社会人入学の知識もなかったし、なにより会社を辞めることになるからな。だが、結局は父が死んで数週間後に、あれもいなくなった。母方の叔母の家に転がり込んで、受験勉強をしていたらしい。最初はそれでも、短大で済ませるつもりだと言っていたが、結局まだ大学に通っている。  後は、お前の知る通りだ」  ふ、と霖は鼻で笑った。それから、夏生の方を振り返る。 「お前は、どのくらい光のことを知っている?」 「一通りは、聞きました。……霖、さんのことも」  栗花落とよく似た、しかし彼よりずっと冷たい目が、夏生をじっと見ていた。 「ならば、お前はあれの人が変わった理由が分かるか?」  少し悩んでから、夏生はこくりと頷いた。 「多分……、きっかけに過ぎないんだと思います。お父さんが亡くなったのも、お母さんの預金が出てきたのも」 「では、あれは放っておいても私の元から去ったと言うのか」  氷の瞳に、一瞬だけ激情が映る。怯むことなく、夏生は霖を見つめ返した。 「はい。光さんは、俺よりずっと熱心に勉強してます。知識量だって、半端ない。あれは、たった二年勉強したくらいじゃ、身に付けられないと思います。……多分、光さんはずっと前から勉強してた。……霖さんに言っても、分かってもらえないと思ってたから、あなたにはそんな素振りを見せなかったんじゃないですか?」 「……お前には、分かるのか?」  僅かに、霖の眼光が柔らかくなった。夏生は、安堵を隠しながらまた頷く。 「俺は、……自惚れかもしれないけど、あの人のそういう気持ち、少しは分かる。俺だって、一応歴史学科だし。それに、尊敬もしてます。いろんな物を捨てる覚悟で、自分のやりたいことをやるって決めたんだから……。俺なら、そんなことできない」 「……分からん」  そう吐き捨てて、霖は腰を下ろした。丁寧に正座をするのは、弟と同じだった。夏生も腰を下ろして、あぐらを掻く。 「分からんが、お前の方が私よりあれを理解しているのは分かった。あれは、お前の傍にいた方がいいのかもしれん」 「それじゃ……!」 「勘違いするな。今日のところは帰るが、卒業の時にもう一度来る。道楽も、その頃には飽きているかもしれんからな」  腕を組んで、霖はそっぽを向いた。拗ねているようなその横顔に、ぷっと夏生は吹き出す。 「……なにがおかしい」 「いえ、なんにも……」  睨みつける鋭い眼光から目を逸らしても、夏生の笑みは止まらない。 「あの、お腹、減ってませんか? 確か、肉じゃががあったはずです」 「私は構わん。光の様子を見てこい」  殊更居丈高に、霖は夏生に命じた。それが照れ隠しのように思えて、夏生はまた笑う。鋭い視線から逃れて、夏生はリビングを出ていった。  驟が到着したのは、日もすっかり落ちた頃だった。リビングに入るなり、霖に向かって叫ぶ。 「霖兄さん、どうして僕を置いてっちゃったんですかぁ! 探したんですよぉ!」 「あ、あの静かにしてください、つーさん寝てるんです」  困り顔の夏生を見て、驟は小さく「ごめんなさーい」と謝った。それから改めて、平然としている従兄を恨めしそうに睨む。 「仕事が終わったというのに、お前が寝ているからだ。睡眠なら、移動中にもできる」  素知らぬ顔で茶を啜りながら、霖は言い放った。 「だって、予定は明日だったじゃないですか。光兄さんの誕生日に合わせるって。せっかく新幹線の予約までしたのに、それもパアだし……」 「飛行機の方が早い。それに、一日早く来てよかった」  じろりと、霖は驟の分の茶を淹れている夏生を睨め付けた。少し呻いて、夏生は目を逸らす。 「到着が遅れたら、光が野垂れ死んでいたかもしれん」 「そんな、大げさな……」  驟は苦笑したが、霖は至極真面目な顔をして冷たい視線を夏生に突き刺す。 「ろくに動けん光を置いて逃げ出したのは、どこの誰だ。私があの場にいなければ、あれはお前を追い掛けようとしていたんだぞ。道端で倒れでもしたらどう責任を取るつもりだったんだ」 「め、面目ございません……」  全く言い返すことができない夏生は、小さくなって頭を下げる。 「へぇ~、僕のいない間に、そんなことがねぇ。光兄さん、見かけに寄らず情熱的ですねぇ」  当たり前のように状況を理解している驟に、夏生は首を傾げた。 「……驟さん、もしかして」 「聞きましたよ。光兄さんから。しかも今朝になって……」  溜息でも吐かんばかりの顔で、驟は肩をすくめた。だが、すぐに明るい笑みを浮かべる。 「でも、よく考えたら、光兄さんが別の人間になったわけでもないし、まぁいいかなーって」  あっけらかんと、驟は言い放った。 「霖兄さん、驚いたでしょ?」 「同性愛など……、非生産的だ。が、あれは歴史だの文学だの、非生産的な物に惹かれる傾向がある。……仕方あるまい」 「ふーん。なんか意外です。兄さんの口から、仕方ないなんて言葉が出てくるなんて」  わざわざ霖の口調を真似た驟を、当人が冷たい目で睨む。怯むことなく、驟は彼を見返した。 「どんなことしてでも、光兄さんを連れ帰るつもりだったのかと思ってたのに。なんだか、拍子抜けしちゃいました」 「……連れ帰るつもりだった。光に会うまでは、な」  ほんの少し、霖の目に優しい光が灯る。 「あんな姿の光を、無理に連れ戻す気にはなれん。……物の役にも立たんだろう」  照れ隠しのように付け加えた霖を見て、驟は目を丸める。 「僕は寝不足だろうと欲求不満だろうと空腹だろうと、なんの躊躇いなく扱き使うのに……。光兄さんにばっかり優しくして! 贔屓ですー!」 「あれは気が細い。お前は図太い。自ずと扱いが変わることくらい、お前にも分かるだろう」  しれっと言って、霖は茶を啜る。不満顔の驟にお茶を渡して、夏生は霖の横顔を見つめた。 「……お前なら、どんな場所でも順応できるだろう。だが、あれは違う。不器用で、人との付き合い方を分かっていない。他人と打ち解けられず、すぐに傷つく。すぐに悲しむ。どこに行っても、それは変わらなかった。だから、私は父に頼んで、大学卒業と同時にあれを秘書に付けてもらった。……私の傍に置いておけば、少なくともあれは孤独ではないからな」  霖は夏生を見つめた。 「夏生」  初めて、霖は夏生の名を呼ぶ。硬質な声だったが、弟とよく似ていた。 「あれが、傍にいてくれなどと言ったのは、私の知る限りではお前だけだ。二度とあれの前から逃げようとするな。もしまたお前があれの前から逃げ出したら、その時は問答無用であれを姫津に連れ戻す」 「……はい」  夏生は、力強く頷いた。霖はまた、夏生から目を逸らして茶を啜る。それ以上、二人の間に会話はなかった。 「なんだか、霖兄さんって娘を嫁にやるお父さんみたいですね」  無邪気に言い放つ驟を、霖はきつく睨みつけた。だが、素知らぬ顔で驟も茶を啜る。ぷ、と夏生が吹き出すと、霖は夏生にもきつい視線を投げつけた。 「お茶、淹れ直してきます……」  逃げ出すように台所へ向かう夏生の背中を見て、霖はそっと息を吐いた。そして、ほんの少しだけ、笑った。 「……兄さんは?」  夜遅くに目を覚ました栗花落は、寝ぼけた声で真っ先にそう訊いた。 「ホテルに帰りましたよ。驟さんも一緒です。お土産に、ままかり貰いました」 「そうか……」  呟いて、栗花落は目を伏せる。 「……次は、卒業の時に来るそうです。その時には、歴史にも飽きてるかもしれないからって」 「じゃあ……!」 「今のところは、そっとしといてくれるみたいです」  栗花落は満面の笑みを浮かべ、頷いた。夏生もつられて、笑みを浮かべる。 「あ、でも明日と明後日が暇だから、観光に連れて行けって驟さんが言ってましたよ。霖さんは興味なさそうでしたけど」 「そうか。……明日には、治っているといいのだが」  少し楽になったとはいえ、まだまだ痛みが残る体を思い、栗花落は溜息を吐く。 「寝てていいですよ。俺が案内してきます。……あんまり、観光地知らないけど。それより、お腹減ってません? マスターにお粥の作り方聞いたんで、やってみたんですよ」  こくり、と栗花落は素直に頷いた。朝、胃の中の物を吐いてから、もう十二時間以上経っている。熱が少し引いたこともあり、栗花落は空腹を覚えていた。栗花落が頷いたのを見て、嬉しそうに夏生は部屋を出た。さして間を置かず、お盆を持って栗花落の枕元に戻ってくる。 「ありがとう……」 「まだ駄目ですよ、起きちゃ!」  体を起こそうとした栗花落を、慌てて夏生が止めた。 「腰、辛いでしょ? 寝ててください」 「少し楽になった。大丈夫だ」 「駄目です。寝ててください。ほら、食わせてあげるから」 「い、いい。……さすがにそれは恥ずかしい」  無理に体を起こそうとして、栗花落の顔が苦痛に歪む。溜息を吐いて、夏生は栗花落の肩を優しく押した。大人しく横になった栗花落の口元に、夏生はゆっくりと粥が載ったさじを寄せる。赤い唇が開くのを見ても、今の夏生は落ち着いていた。 「霖さん、けっこう優しいんですね」 「……え?」 「あ、聞いてるだけでいいです。気管に入るから。……つーさんは、傷つきやすくて悲しみやすいから、自分の傍に置いといて、独りにしないようにした、って言ってました」  栗花落の目が、悲しげに揺れる。夏生は左手で、栗花落の髪を優しく梳いた。 「もしかして……、霖さんがつーさんに、何度も電話を掛けてたのも……、つーさんのこと、心配してたからかも」  栗花落は小さく頷いた。 「……次に俺がつーさんの前から逃げ出したら、今度はつーさんを無理矢理連れ帰るって」  目を見開いてから、栗花落はゆっくり瞬きした。夏生は驚いている栗花落に、笑みを見せる。 「大丈夫。もう、逃げないから。……こんなになってまで俺のこと好きでいてくれる人、ほっとけるわけないでしょ」  手を止めて、夏生は栗花落の額に優しく口づけた。熱と羞恥で温かくなった額は、桃色に染まっている。 「……なんかこういうの、恥ずかしいですね……」 「……ああ……」  二人は真っ赤に染まった顔を見合わせ、照れくさそうに笑った。  再び、夏生は手を動かし始める。さして間を置かず、茶碗は空になった。  それでも髪を梳く手を止めない夏生を見上げて、栗花落はぼんやりとしたまま口を開いた。 「……夏生、栗花落という言葉の意味を、知っているか?」 「へ? 確か、昔話の男とお姫様の、子孫の苗字でしょ?」 「いや、言葉自体の意味だ」  夏生は首を横に振る。遠い目をした栗花落は、語るように口を開いた。 「栗の花が落ちる時期というのは、ちょうど梅雨に入る頃のことだ。だから、栗花落というのは梅雨入りという意味なんだよ」 「へー。じゃ、ちょうど今くらいの季節のことなんですね。ちょっと早いけど」 「旧暦の六月の話だからな。それに、梅雨入りの時期は年によってかなり変わる。……では、半夏生は?」 「ハンゲショウ?」  夏生は聞き慣れない言葉に首を傾げた。 「半分の半に、夏、生きると書いて、半夏生。七十二節気の一つで、梅雨明けの頃のことだよ」 「へー。……え?」 「……お前の名前と、よく似ている」  栗花落は重たい腕を持ち上げて、夏生の頬を優しく撫でた。 「後から思ってみれば、だが……。どこか、運命的だな」 「……たまたま、ですよ。運命なんて、どうせみんな後付なんだから」  痛々しい痣が残る栗花落の腕に、夏生はそっと触れた。祈るように、赤黒い痣に口づける。 「つーさん……。大好きだよ」  少し震える声で、夏生は小さく呟いた。栗花落は穏やかな笑みを浮かべ、頷く。 「……ずっと、傍にいるよ」  そう呟いて、夏生はゆっくり、栗花落と唇を合わせた。  八月。栗花落と夏生は、旅行用のキャリーケースを持って、少し早い時間に〈西風〉を訪れていた。 「今から姫津? お土産よろしくね」 「ああ。適当に買ってくるよ」  のんびりコップを拭きながら、重永は寄り添う二人を眺める。仲睦まじい二人の姿は、〈西風〉ではすっかり見慣れた光景であった。  忍はおしぼりを作りながら、紅茶を啜る親友をちらりと見遣る。 「お前、栗花落さんに迷惑掛けんなよ」 「分かってるよ、うっせぇなぁ。お前俺の母親か?」 「お前みたいなデカいガキを持った覚えはねぇし、母親になった覚えもねぇ」  相変わらず口喧嘩のような会話をしながら、夏生は親友と笑い合った。重永は二人を少し眩しそうに眺めてから、遠くを見ていた幼馴染みの顔を覗く。 「……おばさんの、十三回忌……だっけ?」 「ああ。法事のついでに、しばらくこっちでゆっくりしろと言われた」 「ふーん。霖さんも、意外と過保護だねぇ」  重永は軽く肩をすくめた。 「あの人はどうやら、思った以上に心配性らしいからな」  紅茶を啜りながら、栗花落はくすりと笑う。霖からの電話は、彼の訪問以来いっそう回数が増えていた。戻ってこい、と言うことは減ったが、代わりに生活や夏生のことについて、なにかと口うるさくなっていた。 「……なぁ、寛弥。良かったらでいいんだが……」 「ん?」  いきなり改まって口を開いた幼馴染みを、重永は不思議そうに見つめた。栗花落は荷物の中から、装飾が施された古い木箱を取り出す。 「これ、使ってくれないか?」 「……おばさんのじゃないか。いいのか? 俺が使っても」  栗花落は躊躇いなく頷いた。重永は箱をそっと開く。優しい笑みを浮かべて、古いカップを取り出した。 「やっと、整理が付いた?」 「……ああ。母さんも、お前に使ってもらった方が喜ぶと思ってな。俺は、あまり紅茶に興味がなかったから」 「分かった。じゃあ、これはお前のマイカップにしとくよ。後、半田くんのにも、ね」  もう戻れない過去を思い出し、これからの未来を思って、二人は優しく笑い合う。少し羨ましげに、夏生は二人を眺めた。  その視線に気付き、栗花落は微笑んだ。立ち上がって、キャリーケースを持つ。 「そろそろ行こうか」 「……はい。マスター、お勘定、バイト代から天引きしといてください」 「いいよ。せっかくの門出だから、奢ってあげる。気を付けて行ってらっしゃい」  ひらひらと手を振って、重永は二人を見送る。忍も、二人の背中を見つめた。  軽やかな音を立てて、ドアベルが鳴る。眩しい夏の日差しを浴びながら、二
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