別れ

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別れ

「ただいま」  玄関に入るとリビングから裕貴さんが出てきて、出迎えてくれた。 「おかえり。遅かったね」 「うん、ちょっとね」  心臓はドキドキしっぱなしだ。カラカラの口を動かす。 「あのさ、話があるんだけど」 「なに?」 「部屋で話すから」 「わかった」  不思議そうな顔をする裕貴さんとリビングに向かう。 「話って何?」  ソファに並んで座って問いかけられゴクリと生唾を飲み込んだ。 「……別れて欲しい」 「別れる? どうして? 俺の事嫌いになった?」  そんな訳ない。大好きだよ。でも…… 「それは……」 「俺は別れたくないんだけど」 「え? どうして? 別れたいでしょ?」 「そんな訳無いじゃん。何言ってるんだよ」  僕が別れを切り出してきてよかったと思ってるんじゃないの?遅かれ早かれ別れようって言おうとしていたんじゃないの?この期に及んで何を言ってるんだろう。 「だって結婚するんでしょ?」 「何言ってんの? 歩がいるのに結婚なんかするわけないじゃん」 「僕が何も知らないと思ってる?」 「待って、本当に何のことか分からない。俺が一生側にいたいと思うのも、ずっと愛してるのも歩だけだ」 「嘘つき」   「嘘じゃない。本当のことだよ」  どうして、そんな事言うの?じゃあ、僕が見たあの人は何なの? 「僕じゃダメじゃん。子供産めないし。でも、あの人は違うでしょ」 「歩、誰のことを言ってるんだ?」 「だって見たもん。それにお母さんにもお願いされたし」 「お母さん?」 「裕貴さんには約束された将来があるじゃん」 「俺は歩がいればいい。それ以外何もいらない。全部捨ててもいいから一緒にいたい」  どうしてそんな事言うの?あの人と結婚するんじゃないの?真実がどこにあるのか分からなくなってくる。 「僕は裕貴さんの将来に傷をつけたくないし、そんな事望んでない」 「歩」  たとえあの人が婚約者ではなかったとしても、裕貴さんにとって結婚は必須だろう。いつか来る別れに怯えながらこれからも過ごしていくなんて僕にはできない。 「もう一緒にはいられない……」    一緒にいてもお互いに幸せにはなれないのだから。 「歩……」 「ごめんね」 「本当にもう終わりなのか?」  黙って頷いた。涙が零れ落ちそうになるのを必死に堪える。 「……分かった」  顔を見ることができない。今、顔を上げたら縋りつきたくなる。やっぱり別れたくないと口走ってしまいそうになる。 「住むところないだろ? 決まるまではここにいていいから」 「ありがとう。なるべく早く出ていくから」 「決まったら連絡して」 「どういう事?」  思わず顔を上げると堪えていた涙が零れ落ちて、裕貴さんが困ったような顔をした。 「泣きたいのはこっちなんだけど」 「ごめん」  彼の手が伸びてきてそっと涙を拭われた。 「一緒には住みづらいだろうから、俺が出ていくよ」 「そんな……」  「俺はホテルにでも泊まるから。別に急がなくてもいいよ」 「僕が出ていかないといけないのに。最後まで甘えてしまってごめんね」 「最後まで甘えてくれて嬉しいよ」  優しく微笑んで立ち上がった。 「幸せになってね。今までありがとう」  そう告げると僕の頭にそっと触れて、彼は部屋を出ていった。追いかけたい。別れたくない。僕の知らないところで幸せにならないで。ずっと側にいて。口には出せない想いが涙とともに次から次へと溢れ出す。  しばらくして玄関の扉が閉まる音が聞こえた。本当にさよならをしてしまった。 「うぅっ……」  彼がいなくなった部屋で声を上げて泣いた。彼は最後まで優しくて、それが余計に悲しくさせた。これでよかったのかどうか分からない。すごく大好きな気持ちに変わらないから。ひとしきり泣いて、泣きつかれてしまった。シャワーを浴びようと浴室へ向かう。 「ひどい顔だ……」  鏡にうつった自分は、目がパンパンに腫れていてひどい顔をしていた。  少し熱めのお湯を出して全身を洗い流す。全部流れてしまったら楽なのに。シャワーを浴び終えて、当然眠れるはずもなくぼんやりとしたまま夜を明かした。  早く家を出なければいけないということが唯一の原動力になっていて、なんとか毎日を過ごしていた。髙木くんには別れた事と同じマンションに引っ越す事を報告した。「これからは本気出すかな」なんておちゃらけた事を言って和ませてくれようとしているのを感じた。榊原くんにも報告した。心配してくれる友達の有り難みをしみじみと感じた。  引っ越しの目処が立ち、家に帰ると荷造りと掃除に勤しんだ。どこもかしこも思い出がたくさんあって、掃除する度にそれが心の中に仕舞われていくような気がした。  ベッドで眠ることができなくて、服を取りに行くくらいしか足を踏み入れなかった寝室。最後にちゃんと片付けないといけない。そう思って寝室のドアを開ける。ここで数え切れないくらい体を重ねて一緒に眠りについた。感傷に浸っている場合じゃないだろ。  クローゼットを開いて服を取り出す。と言っても僕の服なんて少ししかないからすぐに終わった。彼の服が入っているキャビネットの引き出しが少し開いているのに気がついた。気になって開いてみる。服しかないかと閉じかけた手を止める。何か隠れてる?服を取り出すとベージュのリボンがついた小さな箱があった。なんだろう、これ。そうか、あの人へのプレゼントか。だから隠してあるんだ。何も見なかった事にしてそっともとに戻した。  そういえば、裕貴さんに何かをもらった事ってなかったかもしれない。でもそんなこと気にした事もなかった。たくさんの愛をもらう。それが僕の望んでいるものだったから。本当にたくさんもらった。本当に幸せだった。すぐに感傷に浸ってしまう。頭を振って片付けを終わらせるために手を動かした。  引っ越し当日――  ピーンポーン  引っ越しの手伝いをしてくれる榊原くんとお兄さんが来てくれた。「あれ、これだけ?」と困惑するふたりに「そうだよ」と笑って答える。ほとんど彼のものだから新しく買い揃えないといけない。少ない段ボールを運び出して、最後に部屋を見て回った。もう、これで最後なんだ……そう思うとまた涙が出そうになった。 「大丈夫か?」  心配そうな顔をする榊原くんに、笑って頷く。 「そろそろ行くか?」 「そうだね。行こう」  玄関の扉に鍵をかけて、そのままポストに鍵を落とした。コツンと小さな音が鳴って、僕と彼の関係は終わりを告げた。
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