君よ

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 彼の冷たくなった、その手の静かな感触を覚えている。  両親共に病気で早くに亡くしていて、親戚ももう見つからないという彼の遺骨を私が受け取った。もしもの時は、などという冗談での口約束が本当に遂行されることになるとは。あまり多くはないかもしれない遺品の、手帳の中に、前に見せてもらったことのある一枚の古ぼけた紙焼きの写真が挟まっていた。そこに写る学生服姿の少年はカメラに向かって眩しそうに目を細め、笑顔を見せている。「父親似らしい」と言っていた。……彼のことを思い出し、否、忘れる日などなく、日増しに重くのしかかってくる悲しみに押し潰されそうになる。こんな思いをするのなら、いっそのこと、彼に出会わなければよかったと思える。彼に出会い、一緒に過ごした日々の事実など、無くなってしまえばと。彼が、彼の存在が無かったことになれば、この空虚な胸に風が吹き荒ぶ痛みも消えるだろうか。  それなりに制約はあるが、合法的に時間トラベルが可能になってから数年経っており、ゴシップ紙の記者をしている友人の手伝いでとある機関の研究所に取材に行ったことがあった。少し古典的だが小説の題材としてもネタになるかもしれないと思っての同行だった。未来に飛ぶよりも過去に飛ぶ方が今を変えてしまう恐れがある、として更に細々とした規則があるが、その機関は詰む金額によって融通が利くとして密かに囁かれていた。取材に同行した時に研究所長だという見た目だけでは年齢不詳な女性に何故か気に入られたのか、「相談があったらまたいらしてください」と帰り際に小声で言われた。その話をした時に彼は少し不機嫌そうになって……と、油断するとすぐに彼との思い出に思考が繋がってしまう。 「あなたは運がいい、とても」  そう言った研究所長は私の過去へのトラベルをあっさり快諾してくれた。相変わらず年齢不詳な見た目で、数年も経っていないのに顔が変わっているようにさえ思える所長は、巨額な費用も一切必要ないと告げた。とんとん拍子に事が進んで良いことなのだが、さすがに都合が良すぎる……と訝し気にしていた私を宥めるように所長はゆっくりと事情を説明してくれた。簡単に言えば、研究対象の年代の幅を広げたせいでトラベルをする調査員の人手が足りなくなっている、と、そこへやってきた私が希望する年代が調査対象として丁度いい年代だったということだった。仕事を請け負ってくれるならトラベル費一切負担して、勿論滞在中の生活費や住居など全て研究所持ちになると。まぁ、それが嘘でも本当の話でも、とにかく過去へと飛べることが保証されるのなら、どっちでも構わないことだった。  トラベル当日、必要事項の再度確認のあと現在との連絡を可能にする端末を手渡された。所長は真面目ったらしい顔で言った。 「……過去は、未来は変えられませんよ」  それは一応の念押しであって、時代を変えるような行いはいけないという形式上の注意なのだろう。そんなこと分かっている。分かっているからこそ、変える為に行くのだから。  秋の現在から飛んだ先は、春だった。まだ目標ぴったりの年月日に飛ぶことは難しいらしく、希望先へ前後2、3年幅をつけてのトラベルだった。到着の連絡をしながら頭の中で年数を計算したが、計画にさほど影響がないぐらいだと思えた。前準備の段階で、実は探している人がいる、と神妙な顔で打ち明けると、「調査員にそういう人は良くいる」と所長は研究員を紹介してくれて過去の所在地など調べてくれた。写真の制服についている校章から学校を地域を、それに足して名前やだいたいの年頃で判明した少年の住む地域の中で、都合のよい調査員の住居を宛がってくれた。学校や住居が分かっていると言っても、その近辺で待ち構えるなどあからさまに不審な動きをしては、通報などされる可能性があるのと、そんなことになっては調査員仲間に報告されて元の時代にすぐ連れ戻されてしまうかもしれない。自分がどうこうなる危険性というよりも、目的が達成できないという事態を避けたかった。何の為にこんな所にまで来たのだと。  割り当てられた仕事は、新人には配慮されるのかそこまで難しいことはなく、以前飛んできた調査員の痕跡がどうなっているかの確認や、長期で滞在している調査員の現状確認などが主だった。あまり事を急いでは仕損じる、ととりあえずこの時代に馴染むことに専念する為に居住地あたりを散策することにした。私が生まれる少し前の年代なので、町中は懐かしい雰囲気が溢れていて、スーパーなどに行くと薄っすら記憶にあるようなパッケージのお菓子を見つけて思わず顔が緩んだ。昔流行っていた犬種の犬を散歩させる人が多くいる公園を抜けた先に、地域の図書館があったので入ってみることにした。新刊図書のコーナーにあるラインナップへの違和感を新鮮に思いながら奥へと進んでゆき、新聞や雑誌をいくつか読んで過ごした。ふと、学生服姿を多く館内で見かけるようになっていて、学校がとっくに終わっている時間なのだと気づいた。そろそろ帰ろうかと思ったが、せっかくなので何か借りて帰ろうか、と考えた時思い浮かんだものは、彼と話すようになったきっかけの本だった。 当時……いや今も本業の小説家としては大して売れていなく、同時にしていたバイト先の休憩時間、家にあった文庫本を暇つぶし用に適当に持ってきたものを読んでいた時だった。その本は昔から何度も重版されているような有名な本だったが、私は読んでいなくて、だからと言って買った覚えはないな……と数ページ読んでから気づいたのが、去年別れた彼女が置いていったものだった。つまり、あまりいい思い出のものではない……と、そこで読むのをやめようとした時、声をかけられた。 「それ、僕も好きなんだ」  顔を上げると目の前の席に、何か飲み物のプラスチックカップを手にしている彼が座っていた。咄嗟に何の話をしているのか分からなくて戸惑う私に、彼は何故か「ごめんね」と謝りながら笑った。その顔が少し泣きそうに見えて、どう返事すればいいのか分からなくて新たな戸惑いが芽生えた。シフトがあまり被らない同士なので、口を利くのはそれが初めてだった。後で聞いた話だが、あの時なんで誤ったのかというと、休憩を邪魔してしまったから……というのは酷く簡潔にした理由で、バイト先でも彼はある種の噂をされている人で、そんな奴が突然声をかけての“ごめんね”だったのだという。人の性的指向をどうこう言う趣味は特になかったのと、バイト先での慣れ合いが面倒くさいという理由で少し浮いていた私は何も彼に興味は無かった、その時までは。  彼と話すようになってからその本の思い出は上書きされて、彼との繋がりのあるものとなった。その本の初版年はもっと更に昔なので、この時代にも当然あるはずだ。持ち歩きやすい文庫サイズを、と文芸書の棚を辿り、下段に同じ作家の名前を見つけたのでしゃがみ込んだ時、そういえば借りるのに身分証が必要だよな……と支給された財布の中にそういうものが入っているのか先に確認する為に立ち上がろうとすると、「あっ!」と誰かの驚き声と同時に頭に何かがぶつかる衝撃があった。床に、ばさばさと文庫本が数冊落ちる。 「す、すみません!」  本を拾ってから中腰を伸ばしていくと、学生服姿の人物が自分の片肘をさすっているのが目に入った。確かに、本がぶつかった衝撃とは違うものだったな……と顔を上げると、目の前にあの少年がいた。写真の中とは違いブレザーの制服姿で、更に少し幼い印象だが、確かにあの少年……彼の父親であるSがそこにいた。  あの日Sと会ってから、何度か図書館で会い、Sは少しの罪悪感からか軽い挨拶などを返してくれるようになった。そして、私がいわゆる会社勤め人ではない風貌なのと、一応こちらの時代でも職業は小説家ということになっているので、この際何か書き溜めておこうかという心づもりも兼ねて図書館通いをしていたので、資料集めやプロットなどのその作業をしている様子に、Sは少しの不審感よりも好奇心が勝ったらしく、少しずつ近づいてきてくれた。好奇心が強いのは血筋だろうか、と私は密かに苦笑いを漏らした。隣の椅子に姿勢よく座りながら、勉強に勤しんでいるSは、現在中学3年生で受験生だった。あの写真は高校の制服を着ていたので今と違って詰襟姿で、それはSの第一志望校だと言っていた。じゃあ、今の努力が実ってちゃんと受かるんだな、と思った。生きていれさえすれば。……短く切りそろえた襟足からすんなりと伸びる首は、頼りなげに細い。簡単にへし折ってしまえそうだと思えるほどに。横顔が、手元を見る為に少し伏し目がちな瞼から伸びる睫毛のカール具合が、彼ととてもよく似ていた。彼の子供時代もこんな風だったのだろうか……彼は本当に、 「父親似だな」 「えっ?」  驚いた様にSはこちらを向いた。 「なんで、分かったの?」 「……いや、なんとなくね」  せっかく近づけたのに警戒させてしまったろうか、と一瞬焦ったが、Sはそこまで深くは気にしていないようだった。その純真な危うさに、罪悪感が湧く。 「実は……俺は、君のいない未来からやってきたんだ。君に会う為に」  再び視線を手元のノートに戻したSは、ふふっと小さく笑った。ほんのり耳がピンク色に染まっている。 「***さんもそういう冗談言うんだ」  こちらで過ごす間に使っている偽名をSには教えてある。 「……うん、嘘だよ。名前も嘘」 「名前?」 「***なんて名じゃない」  シャープペンシルの動きが、ぴたり止まった。 「どういう、意味?」 「本当の俺の名前、知りたい?」 「え……」 「知りたかったらこれから、うちにおいで」 「……知ったら、どうなる?」  少し青白い細い首は、私の両手で簡単に包めそうだ。折れる瞬間、どんな感触なのだろうか。目的が達成できると思うと、自然と口元が笑んでしまう。 「もっと仲良くなれる」  ふっ、と笑みを漏らした。瞬間、Sの首がじわじわと赤く、熱を持ったのが見て取れる色へと変わっていった。今では耳は真っ赤だった。あっ、と驚きに声が出てしまったが、すぐにSから目を逸らした。そこまでは考えていなかった。研究所で調べてもらったら簡単に判明したのだが、Sも彼と同じく早くに両親を亡くしていて学生時代は親戚の家に居候していたらしいことが分かっていた。あまり良い待遇を受けているとは言えない状況らしく、近づくなら少しでも子供時代の方が、容易いと考えていた。すぐに懐いてきたのは、周りにいない男兄弟や亡き父などの面影を思って、父性への憧れなどの勘違いが影響でもしているのだと思っていたが……これ以上彼に似てきてしまうと、やりにくくなってしまう。  どうしたものか、と悩んでいるのを誤魔化す為にテーブルの上に広げた本などを整理していて、無作為に手にしたのは今日買ってきたばかりの文庫本だった。図書館に初めて来た日に借りそびれていたあの本を、結局本屋で買うことにしたのだった。真新しい表紙を開いて、ぴんと張ったページを捲る。数ページ読み進めた所で声をかけられる。 「それ、面白い?」  少し驚いて顔を上げてそちらを見ると、Sも私のその反応に少し驚いた様子だった。まだうっすらと頬が桃色だった。 「……何度も読んだ本なんだけど、手放してしまってね、また買い直したんだ」 「へぇ、僕も今度読んでみよ」  Sは何故か少し泣きそうにも見える微笑みを浮かべた。読みかけの本を閉じ、Sの目の前に置く。衝動的なことだった。 「貸してあげる」  次にSが浮かべた笑顔は、もう泣きそうには見えなかった。  大丈夫だ、まだ機会はある。  友人に借りてきた、とSが学校帰りにポラロイドカメラを持って家にやってきた。もう二年生になり入学したてでもないのにどういうタイミングだ、と呆れながらも窓辺にいるSにカメラを向けると、私の方を真っ直ぐに向いて、涙袋を押し上げて少し目を細め、微笑んだ。  すぐに出てきた写真紙の表面にじわじわと絵が浮かんでくる前に裏返して、日付けとSの名前を走り書きした。そして再びひっくり返して見ると、私は驚きに思わず表情を硬くした。 「どうかした?」  不思議そうな顔をするSはひったくるように写真を私から取り上げて、まさか心霊写真でも写った? などと茶化した。写真に異常は何もない。これで、正しいのだろう。 「……いや、なんでもない。ちょっとした気のせいだ」  この時代でSと過ごす間に大事なことを忘れていた。  最初の半年ぐらいで調査員の仕事はほとんど声がかからなくなり、それとは別に小説家としてのマイナー誌への掲載などの仕事を研究所の関係からもらうようになり、すっかり、元の時代と同じような生活になっていた。Sの存在を抜かして。でもそれも……彼のいなくなった穴を、代わりに埋めていたのかもしれない。  彼と出会った事実を、彼という存在が生まれる事実を、消す為にやってきた。彼が生まれてしまっては、きっと、どうあっても彼と出会ってしまい、そして私は彼に恋をしてしまうだろう。だから彼が生まれてしまう前に、彼の父親を殺しに過去にやってきたのだ。  彼の母親は名前も顔も知らないが、父親は一枚の写真が残っていて、裏に名前が走り書きされていた。それをどうして……私が書いたのだ?  誤算だった。全てが。もう当初の目的を達成することなど無理だ。 「……もう帰ってくれないか」 「なにかあった?」 「君とさよならしなくてはいけない」 「……どうして」 「君を、」  私にとっては彼が全てで、それを永遠に失ってしまったという気持ちが残ったままでは、死んでも死にきれないと思っていた。また新しく誰かを愛することなど……手遅れな恋慕を抱いてしまうなど。 「意味がわからない」 「……体には気を付けて」 「何言ってるの?」 「くれぐれも、体には……」  そうすれば、また会えるかもしれない。  当たり前に突然のことに戸惑いと不安から、怒りを浮かべるSを無理やりに家から追い出した。暫くの間は扉の外に居る気配があったが、外がすっかり暗くなる頃にはいなくなっていた。  ささやかな忠告でも、Sの病死を防ぐことはできるかもしれない。そうすれば、私にとっての現在でもどこかでSは生きているかもしれない。そしてそれは、息子である彼の運命にも繋がっていて、未来を変えることになるかもしれないと思った。二人を亡き未来にしようと思って過去に行ったのに、結果二人とも生きている未来に変えてしまっていたらどんなに私は重犯罪者になるだろうか。それでも、彼らの未来が、少しでも幸せなものに変わっていたら、再び会うことが叶わなくても、私にとって幸せな結果だと思えるだろう。 「おかえりなさい」  感覚では数年前、その頃と私の肉体は変わらずのままだった。厳密に言えば、過去に飛んでから6時間だけ経っていた。 「……すみません、私はとんでもないことを、未来を変えて……」 「まさか、何も変わっていませんよ」  所長はにっこりと口元だけで微笑んだ。 「あなたが過去から戻ってから2年後、Sさんは自ら命を絶ちました」 「………え? 病死では? やはり変えてしまったのですか?」 「いえいえ、そのままですよ。聞こえが悪いから周りにはそう言っていたのでしょう」  何度目かの、彼の少ない遺品整理をしていて一冊の見覚えのある自分の持ち物の本が紛れていたことに気づいた。それを本棚に戻そうとすると、同じものが既に棚に収められていた。手に持ったままのその文庫本をようく見れば、やけに日に焼けていて、どうにもより年月を経た本のように見える。……忘れていた。そうだ、これは、過去に行った時に私が買ったものだ。まさか、残っていたとは……。ぱらぱらと何と無しに捲っていると、ひらり、何やら紙切れが床に落ちた。屈んで、それを拾い上げる前に書かれていた手書きの一文と目が合う。 『あなたのいないこの世は、やはり無意味です。』  研究所に電話をして、Sの死ぬ直前のことを知りたいと頼むと簡単に教えてくれた。結婚はしていなく、Sの子供を産んだ女性は遠縁の人で、妊娠が発覚後にSが自殺したことで女性が無理矢理に……したのではないかという噂が親戚の中で言われていたことがあったらしく、その女性は本当に病死で、当時まだ3歳ぐらいだった子供は以上の経緯で色々と親戚の中で扱いづらい子なのですぐに施設に預けられたそうだ。 「あなたが過去へ行くことも予め決まっていることでした」  研究所は前もって知っていても、全てを私に教えてくれていたわけではなかったのだ。 「過去は変えられないのですよ」  私が過去に行ったから、私と出会ってしまったから彼は死んでしまったのだ。私が彼らと共存する未来は、存在しない。  過去に私の手で撮ったSの写真は、時を越えてまた私の手元に戻ってきた。その四角い枠の中に収められたSの笑顔だけが、私への愛の証拠だった。  そして数日後、私はまたあの研究所へと向かった。 end.
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